世界遺産の楽しみ方

世界遺産としての富士山を知るためのマメ知識4選

日本人のみならず世界中の人からも愛され、日本のシンボルとも言える日本一の山、富士山。
2013年に世界遺産に登録された富士山は、自然遺産ではなく文化遺産として登録されました。日本一の山としてその優雅で壮大な姿はもちろん、富士山が日本人に愛される理由はそれだけではありません。
なぜ富士山が日本人を魅了するのか、世界遺産に登録された理由とその内容からその理由を探っていきます!

「世界文化遺産」としての富士山

2013年に富士山が世界遺産として登録された際の登録名は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という登録名で、「世界文化遺産」として登録されました。

富士山は山ですし、なんといってもあの美しい山の姿や自然が世界遺産に選ばれたと思われている方がいらっしゃるかもしれませんが、世界遺産の三つの分類(世界文化遺産、世界自然遺産、複合遺産)のうち、世界文化遺産として選出されました。

簡単に言ってしまうと、富士山は古来より日本人の生活や信仰、芸術と密接に結びついており切っても切れない関係にあり、単なる自然以上の存在として受け止められてきた、という点において文化的な価値を認められたということです。

もちろん、豊かな自然を私たちに見せてくれている富士山は自然遺産としても登録されていてもおかしくないと思われるかもしれません。ですが、残念ながら観光資源として多くの観光客が訪れ、富士山に登ることによるゴミの問題や環境破壊、周辺の開発などで自然遺産としての登録はユネスコの世界遺産委員会では認められませんでした。

自然遺産では無いからといって、富士山の自然をないがしろにして良いわけではもちろんありません。これまで富士山が長い歴史の中で育んできた豊かな自然も大切にしたいものです。

それでは、世界文化遺産としての登録名に含まれている「信仰の対象」と「芸術の源泉」というのはどういうことでしょうか。富士山に対して日本人がどのように関わってきたのか、その歴史を振り返りながらその意味を紐解いていきましょう。

【世界遺産】歴史で見る信仰の対象としての富士山

富士山本宮浅間神社

富士山は日本人にとって、古来から単なる山ではなく「霊峰」として崇められてきました。霊峰とは、神様が宿っていると考えられている山のことです。

日本人は昔からいろいろなもの、特に自然に神が宿っているという考えが根底にありました。「八百万の神」といわれるぐらい、日本人はさまざまな神の存在を信じてきた一方で、仏教の信仰も厚く行われてきました。「神仏習合」という言葉のように、日本では仏教と神道が融合した独特の文化が根付いています。これは日本特有の文化ではないでしょうか。

そして、富士山に信仰を捧げる形も歴史と共に変化をしてきました。

噴火の多かった平安時代:遥拝

富士山は活火山であり、これまでも何度か噴火を繰り返し来ました。日本史として学ぶ紀元後では、平安時代あたり(西暦800年前後)から、直近では江戸時代(西暦1700年ごろ)にも噴火が起こっています。

特に平安時代ではたびたび噴火が起こっていたため、人々は富士山の神が怒っているのだと信じ、祈りをささげてその怒りを鎮めようとしました。富士山の火口の底に鎮座するとされている富士山の神、「浅間大神」を信仰してこの神を祀ることで富士山の沈静化を祈ったのです。

現在私たちが見ている富士山の姿は、約1万年ほど前から誕生したと考えられています。ということは、もちろん平安時代の人たちも私たちと同じように雄大な富士山の姿を目の当たりにしていたはずです。

平安時代、京の都、平安京が日本の中心地だったため、富士山はやや遠い場所にある存在でした。それでもやはりあの高さと大きさの存在感には、当時の人たちも一目を置いていたのでしょう。すでに平安時代以前から、「富士」という言葉は文学上でもたびたび登場していました。

このように、平安時代は遠くから富士山に祈りをささげる「遥拝」という信仰が一般的でした。

噴火が収まった鎌倉時代以降:修験道と登拝

平安時代後期から鎌倉時代になると、富士山の噴火はいったん収まりをみせます。すると、怒りを鎮めるための信仰から、霊力的な力を得ようと修験者が山に踏み入れるようになりました。ここから、このような修験者のたどる道として修験道が出来上がってきます。

修験道と言えば、同じく世界遺産に登録されている熊野古道などで有名な「紀伊山地の霊場と参詣道」も修験の場として有名です。
修験道は役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とし、山中に入って厳しい修行や鍛錬を行うものですが、富士山にも古くからこの役行者にまつわる伝説が残されています。それによると、役行者伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとか。

また、平安時代後期にはすでに日本で聖徳太子を神聖視する「聖徳太子信仰」という思想が広がっており、「聖徳太子絵伝」では黒い馬に乗って富士山を飛び越えていく聖徳太子の姿が描かれています。

熊野信仰同様、平安時代後期以降、神仏習合の思想が定着すると富士山自体が神のご神体とされ、その頂上は大日如来が浅間大神の姿をして現れる場所として認識されるようになります。

この信仰が広がると、修験道と共に富士山の頂上を目指して祈りをささげる「登拝」が広がりました。特に富士山での修験道を始めた人物として、末代上人(まつだいじょうにん)は何百回と富士山に登り、その頂上に大日寺を建立したとされています。

江戸時代以降、修験者から一般大衆へ:富士講と巡拝

さらに時代が進むにつれて、江戸時代に入り世の中が平和と安定を取り戻すと、富士山はより人々に身近な存在になっていきます。江戸の街からもその姿を見ることができた富士山は、庶民の間でも気軽に観光や巡礼を行える場所となりました。

17世紀後半、人穴に籠って修行を行い、宗教的な覚醒を得たと言われる長谷川角行(はせがわかくぎょう)は、富士山に対する信仰をより組織的な教えにまとめ上げる「富士講」という基盤を創り上げました。この富士講の始まりに伴い、より多くの人が富士山を訪れ、その巡礼地も整備されるようになったのです。

そして現在、私たちにとっても富士山に登ってご来光を拝むという行為はとても一般的なものとして広まっていますが、実はこのような行為は世界的にはとても珍しい慣習のようです。このように、富士山は時代ともに日本人にとってさまざまな信仰の対象として受け止められてきました。

【世界遺産】芸術の源泉としての富士山

三保松原

富士山が日本人にとって常に身近な存在であったことは、芸術や文学からも読み取ることができます。まずは文学に出てくる富士山をご紹介しましょう。

文学に登場する富士山

平安時代:直接見ることが難しく遠い存在であった富士山

新しい元号「令和」の誕生で脚光を浴びた日本最古の歌集といわれている万葉集。ここにも富士山が出てくる和歌がいくつか収められています。

田子の浦ゆうち出てみればましろにそ富士の高嶺に雪はふりける (山辺赤人)

雪化粧をした美しい富士山の姿に感動する様子がよく表れていますよね。

日本最古の物語とされている竹取物語にも、実は富士山が登場することはご存じでしょうか。物語の中で手紙と不治の薬を置いてかぐや姫は月に帰ってしまうのですが、この手紙と薬を焼く場所として帝が選んだのが富士山でした。

平安時代ごろまではやはり都から遠い場所にあった富士山を直接見ることは難しかったと思われます。そのため、どちらかというと半分空想上で神秘な存在としての位置づけで文学に登場することが多かったと考えられています。

中世:実際に目で見て愛でた富士山

鎌倉時代以降になると、もう少し富士山は身近な存在として多くの人が目にする存在となりました。鎌倉時代の僧でありながら歌人としても有名な西行の歌をご紹介しましょう。

風になびく富士のけぶりの空に消えてゆくへも知れぬわが思ひかな

富士山から立ち込める煙。小規模な噴火による煙なのか気象上の霧なのか定かではありませんが、あてもなく、そして頼りなくゆらゆらと薄くなり消えていく様と自分の秘めた思いを重ねるこの歌は、どこか切ない印象を受けます。

その他にも、三保松原を舞台とした能の「羽衣」では、天の羽衣を返してくれた漁師に対して、天女が優雅な舞を踊りながら富士山のはるか彼方に消えていく場面が有名です。

このように、中世の頃から富士山は日本人にとって心の拠り所であるとともに、ドラマの劇的な場面でも多用される、そしてやはりどこか神秘的な印象も持ったような存在感のある名所として親しまれていたことが分かりますね。

近世以降:より庶民に身近な存在から、あらゆるものの象徴へ

その後も、日本史上有名な文化人の多くの作品の中に富士山が登場します。西行、松尾芭蕉、夏目漱石などなど。

松尾芭蕉の俳句では、旅の途中でふらりと富士山を目にして詠んだ一句など、より身近な存在として富士山が捉えられるようになります。そこからさらに時代を経て近代文学に写ってくると、登場人物が様々な思いを持って富士山を引き合いに出す表現も見られるようになり、身近な存在、身近な自然からさらに何かを象徴する存在として文学上使われるようになりました。

皆さんももし古典文学などに接する機会があれば、「富士」という言葉と、それがどのような効果を持って使われているのかに注目してみてください。

富士山と芸術

富士山をテーマとした芸術の中でも有名なのが、江戸時代の絵画です。葛飾北斎と歌川広重は、それぞれ「富嶽三十六景」、「富士三十六景」とその作品にも富士の名前を入れている通り、富士山をメインとした絵画を造りました。

赤富士
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Red_Fuji_southern_wind_clear_morning.jpg)

この絵画は葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の一つです。

これを観て、「なんで富士山が赤いの?」と思われた方がいるかもしれません。これは、富士山の「赤富士」を描いたものです。赤富士とは、夏の終りから秋にかけて、早朝に朝日を浴びて富士山の斜面が赤く反射する現象です。

江戸時代からもこのように、富士山が自然の中で見せるさまざまな姿を楽しんでいたことが分かります。

この富嶽三十六景は、日本だけでなく、ゴッホなど海外の芸術家にも大きな影響を与えました。また、富嶽三十六景は青を基調とした作品が多いのですが、これも、北斎がそれまで一般的だった植物からつくられた藍色ではなく、化学顔料で造られた藍色を始めて取り入れたことにあります。この化学顔料によって、それまで難しかった藍色の濃淡をより鮮明に表現できるようになりました。

富士3
(出典:http://culgeo.i-portal.mie-u.ac.jp/kyodoshi/GIS/nishikie/prints/L_051.html)

こちらは富士山十六景の中の一つ、「伊勢二見浦」です。この絵を観ると、富士山は遠くの方に小さく描かれておりどちらかというと手前の岩島のほうがメインのようにも感じられます。しかし、富士山の斜面をずっと伸ばしていくと、手前の二つの岩島の輪郭に見事に一致します。これは、手前の岩島の輪郭を三角形にすることで、その視線を自然と上の富士山にもっていく効果があります。
また、これは伊勢の二見浦から描かれたものですが、伊勢といえば三重県。つまり、富士山は三重県からも遠くその存在を確認することができたということです。

富嶽三十六景や富士三十六景は、どちらも江戸時代当時の主要なルート、東海道や甲州道、中山道などさまざまな場所から描かれています。とくに、江戸の街からも普通に富士山を見ることができました。今では高いビルなどに阻まれて、見渡しの良い場所に行かなければ東京から富士山を見ることはできませんし、そのような場所もほとんどありません。これだけいろいろな場所から富士山の望むことができたということは、やはりそれだけ日本人にとって富士山が日常の風景の中にあったことを意味しています。江戸時代当時の街並みを想像しながら、当時の人たちがどのように富士山を毎日眺めていたのか、想像してみるだけでも素敵なことだと思います。

【世界遺産】富士山と構成遺産のつながり

人穴富士講遺跡

一言で「富士山」と呼んでいますが、世界遺産として登録されている富士山は富士山の中、近辺にある自然や湖、寺院などその構成案件は全部で25件あります。(厳密には富士山域はさらに9つに区分されています。)

なぜそれだけ多いかというと、これら全てが、これまでお話ししてきた「信仰」と「芸術」の存在を表す場所だからです。

それでは全25件がこれまでご紹介してきた内容とどのように関連するのか、一気にご紹介します!
(以下、構成遺産の前についている番号は公式に振られている構成遺産番号です。)

信仰の対象:噴火と遥拝に関連する構成遺産

2:富士山本宮浅間大社
1-6:北口本宮冨士浅間神社
3:山宮浅間神社
1-7:西湖
1-8:精進湖
7:河口浅間神社

富士山本宮浅間大社、北口本宮冨士神社、山宮浅間神社はそれぞれ富士山を信仰し、「遥拝」していた場所です。
西湖、精進湖はそれぞれ、9世紀後半に起こった富士山の噴火により溶岩が流れ込んで出来た湖で、頻繁に噴火が起こっていた富士山の火山活動を示すものです。河口浅間神社はこの噴火をきっかけに祀られるようになった神社と言われています。

信仰の対象:修験道と登拝に関連する構成遺産

4:村山浅間神社
1-2:大宮・村山口登山道
8:冨士御室浅間神社
1-1:山頂の信仰遺跡群
5:須山浅間神社
1-3:須山口登山道
6:冨士浅間神社
1-4:須走口登山道
1-5:吉田口登山道

こちらに挙げた構成遺産はいずれも富士山の山頂に向かう「登拝」のルートとなった登山道や、その起点となった神社です。そして山頂の信仰遺跡群は、まさにこれらの「登拝」による信仰が行われていた証となるものでしょう。

信仰の対象:富士講と巡拝に関連する構成遺産

9:御師住宅(おしじゅうたく)(旧外川家住宅)
10:御師住宅(小佐野家住宅)
11:山中湖
12:河口湖
13:忍野八海(おしのはっかい)(出口池)
14:忍野八海(お釜池)
15:忍野八海(底抜池)(そこなしいけ)
16:忍野八海(銚子池)
17:忍野八海(湧池)
18:忍野八海(濁池)(にごりいけ)
19:忍野八海(鏡池)
20:忍野八海(菖蒲池)
21:船津胎内樹型
22:吉田胎内樹型
23:人穴富士構遺跡
24:白糸の滝

こちらに挙げたのは、長谷川角行により始まった「富士講」と巡礼に関連する構成遺産です。「御師住宅」というのは、登拝に訪れた人たちの世話をする「御師」と呼ばれた人たちの住居のこと。巡礼者に寝泊まりをする場所や、登拝の参拝ルートの案内を提供してくれた人たちのことを「御師」と呼んでいました。

人穴富士講遺跡、山中湖、河口湖や忍野八海、胎内樹型、白糸の滝は巡拝のルートで回った場所であり、長谷川角行が修行を行った場所とされています。

芸術の源泉に関連する構成遺産

1:富士山
1-9:本栖湖
25:三保松原

富士山はもはや芸術の源泉だけでなく信仰の対象にももちろん関連する存在です。本栖湖は、その絶景から絵画などの題材にされることが多く、三保松原は先ほどご紹介した通り、能の題材にもなった「羽衣」でも登場したり和歌の題材として数多く登場するなど、芸術の舞台として広く親しまれています。

まとめ:富士山が世界遺産に登録された理由

いかがでしたでしょうか。ここまでお読みいただければ、富士山が世界遺産に「文化遺産」として登録された理由も十分に分かって頂けたのではないでしょうか。

元々は自然に対する信仰や神仏習合、という日本人独特の思想から山岳信仰が生まれ、それが富士山と結びついたことから、古来より日本人の信仰の対象とされてきた富士山。

世界的に見ても、「単なる山」に対してここまで深く、そして長く信仰の対象として文化を形成することは極めて独特なものと言えます。

このように日本人にとっては心の拠り所としての存在だった富士山ですが、芸術でもご紹介したように、その姿は世界の多くの芸術家をも魅了してきました。日本のような信仰や思想を持っていないと思われる海外の人たちにも、富士山が特別な存在として受け入れられることも、とても珍しいことだと思います。
日本人だけでなく世界の人々をも魅了し、何か特別な思いや感受性をもたらしてくれる富士山は、世界遺産に登録されたこと以上の存在であるのです。

ぜひあなたも富士山を訪れてそれぞれの構成遺産を観光される時は、この記事を思い出してより楽しんでください!

 

(参考:「世界遺産 富士山の魅力を生かす」五十嵐 敬喜 他、株式会社ブックエンド)

 

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