【世界遺産】シルクロードを旅したくなるマメ知識(準備編2:歴史から知る)

前回は地図からシルクロードの全貌に簡単に触れてみました。
(前回の記事:「【世界遺産】シルクロードを旅したくなるマメ知識(準備編1:地図から知る)」)

シルクロードは紀元前から今に至るまで、人類の歴史の舞台であり続けました。今回はシルクロードが持つその長い歴史をなるべく簡単にご紹介しながら、シルクロードが私たちにどれだけ多くの影響を与えているかを振り返ってみたいと思います。

 

1.シルクロードと古代文明

シルクロードv2(出典:http://kounin.sunnyday.jp/startup/text.php?a01=sekaishi)

世界史を見ると、古代において四大文明と呼ばれる文明が開化しました。

エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、そして黄河文明。この四大文明が生まれた共通点の一つに、どれも大きな河川のふもとで文明が発達した、ということが挙げられます。

そしてもう一点、これらの文明はすべてシルクロードに沿って生まれているという点です。

もともとユーラシア大陸は地球上でもっとも大きな大陸であり、そこで文明が生まれ、それが大陸の大動脈であるシルクロードを形成していくというのはある意味自然な成り行きだったのかもしれません。

2.最初のシルクロード:ステップルート

シルクロードはステップルート、オアシスルート、マリンルートの三つの主要な道から成るとお話ししましたが、一番最初にルートが確立されたのがステップルートです。

シルクロードv2-2 (出典:http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_191.html)

ステップルート(ロード、以下ルート)は紀元前8世紀ごろから東西を結ぶ交易の道として使われていたと言われています。

上記の地図でも分かる通り、ステップルートは一番北、ロシアの南を通る道となっています。

この道を使って紀元前8世紀から4世紀ごろにかけて栄えていたのが、遊牧民族と言われているスキタイ民族です。

ステップルートは別名草原の道と言われていますが、草原といっても緑豊かなものはなく、どちらかと荒野に近い道を言います。気候が厳しいこの地域では、緑が豊かに育つ環境ではありません。

そういった環境で、人はどのように生き延びていくか。シルクロードの歴史の大きなポイントの一つでもありますが、この土地で人類は大きく二つの方法で栄える道を模索してきました。

それが、遊牧民族と農耕民族です。

ステップルートのような環境では農耕民族には適しません。それが、このルートが遊牧民族によって開拓された理由かもしれません。

また、農耕民族に比べて遊牧民族は定住することが無いため、常に移動しています。この移動範囲の広さが、ステップルートがいち早く交易の道として栄えたのかもしれません。

万里の長城は漢民族と遊牧民族を決別させた

紀元前4世紀ごろからは、同じ遊牧民族の匈奴が南シベリアで勢力を伸ばします。

やがて今の中国では春秋戦国時代が終焉し、秦が誕生、秦の始皇帝が現在の中国を支配しました。

このころから、たびたび匈奴は秦に攻め入るようになります。これを防ぐために建てられたのが、世界遺産にもなっている万里の長城です。

この長城ができたことで、中華民族と遊牧民族はそれからさき、繁栄の道を別々にたどっていくことになります。

ステップルートは「毛皮、金、絹馬交易の道」

遊牧民によって栄えたステップルートでは、遊牧民が東西の交易を中継する役割を担いました。

そこでは毛皮や金、絹といったものが中国から西域の中央アジアなどに運ばれることになったのです。

3.オアシスルート

ステップルートに変わってその後栄えたのがオアシスルートです。

こちらのルートはなぜオアシスと呼ばれているか。それはその名の通り、不毛の砂漠や厳しい荒野の中で点々と栄え始めたオアシスの都市を中継点として徐々に交易の道が広がっていったからです。

遊牧民族と違い、農耕民族は雨も少なく砂漠の多い厳しい環境下で、ところどころにできた緑豊かなオアシスで農耕や灌漑技術を発展させて栄えてきました。やがて、そのようなオアシス都市を結ぶキャラバン(隊商)が交易をするようになります。これがオアシスルートが広がった一つの理由です。

もう一つは国同士の争いが、交易を広げるきっかけにもなったのです。シルクロードが国同士の勢力争いで広がった二つの出来事をご紹介します。

アレクサンドロス大王によるアケメネス朝ペルシャの撃破

紀元前4世紀ごろ、マケドニアを支配していたアレクサンドロス大王がペルシア地方のアケメネス朝に攻め入り、勝利します。

ギリシャだけでなくペルシア地方も征服したアレクサンドロス大王は、征服によって異なる民族が一つになるようにという願いも込めて、理想国であるアレクサンドロス帝国を建国します。

シルクロードv2-3(出典:http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu07.html)

このアレクサンドロス帝国は、アレクサンドロス大王の死後に起こった権力闘争や、民族同士の不和もあってすぐに解体していくつかの国に分裂してしまいます。

ですが、上記の図にあるように、この帝国によってエジプトからトルコ、イランを経て現在のウズベキスタン辺りまでが統一されたことになります。これによって、ギリシャやエジプトの文化や物資が東方に広がるきっかけにもなりました。

そして、アレクサンドロスが紀元前4世紀ごろに東方遠征をしてインダス河付近にとどまった際に、部下の将がそこから東に侵攻したときに初めて絹織物に触れたと言われています。

張騫によるシルクロードの開拓

シルクロードv2-4(出典:http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n71920)

時は過ぎて紀元前1世紀、中国は秦の始皇帝亡き後に秦が滅び、のちに漢を築き高祖と呼ばれた劉邦が、項羽との闘争を制して漢が成立します。

漢はそのころ、現在のモンゴルをベースに勢力を拡大していた遊牧民族の匈奴に攻め込みますが、戦いに負けて劉邦はおずおずと逃げ帰ってしまいます。これは「平城の恥」と呼ばれ、この後漢は匈奴と屈辱的な和睦条約の締結を結ぶことになります。

この条約によって、匈奴は漢から貢物として絹を大量に手に入れ、それを西方に売ることでさらに強大な財力を手に入れます。

匈奴が中継したこの交易によっても、絹は広く西方のパルチアまで伝わることになりました。

さて、上の図によると西方に「大月氏」という勢力がありますが、この大月氏は匈奴との戦いに敗れて西方に勢力を追いやられてしまったのです。

この大月氏が匈奴に対して快く思っていないことを聞きつけた前漢の武帝は、張騫という使者を大月氏に派遣して、両者で挟み撃ちをして匈奴に攻める作戦に出ました。

大月氏に派遣された張騫は、その旅路の途中で匈奴につかまり、捕虜の身になります。そこから張騫の苦労は続くのですが、張騫は最後まで前漢への忠誠をなくすことなく、なんと13年かかって前漢に戻ってきました。

この間、張騫が旅をして得た様々な知見や見聞が、その後漢が西方との交易を始め、広げるきっかけになったのです。

図の張騫の旅のルートを見ると、まさに現在シルクロードと呼ばれているオアシスロードにつながっていますよね。

こうして張騫によって開拓されたオアシスルートは、のちに仏教がインドから中国、果ては日本まで伝来することに影響します。

シルクロードが無ければ、仏教が日本に伝来した時期はもっと遅かったと言われています。

4.マリンルート

最後に、紀元後に栄えたマリンルートについても少しご紹介します。

マリンルート、つまり海路での交易自体は紀元前後あたりからすでにあったと言われていて、エジプトを支配下に収めた古代ローマ帝国が海をつたって、インドまで香辛料を求めて交易をしていました。

マリンルートはその後、イスラム商人による勢力拡大などを経て、中国の宋の時代(10世紀ごろ)に一気に盛りあがりを見せます。

嵐などの気候で不安定な海路の優れた点は、一度に大量の物資を運ぶことができることです。

宋の時代には、中国の香辛料や絹のほかに、陶磁器も大量に西方に交易で伝わりました。

そのほか、日本史でも有名な元寇など、勢力拡大を求めて海路に出ることも、マリンルートが主要なルートとしてとってかわった理由の一つでもあると考えられます。

 

いかがでしたか。簡単ではありますが、シルクロードの歴史を少しひも解いてみました。

国同士の勢力争いや交易、仏教などの宗教、様々なものがシルクロードの舞台で繰り広げられていたことが少しお分かりいただけたかと思います。

これがシルクロードのロマンであり、シルクロードが多くの人を魅了してやまない理由だと思います。

(参考文献:「シルクロードのロマンと文明の興亡」児島建次郎編、雄山閣)

 

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