【世界遺産】富岡製糸場を100倍楽しむためのマメ知識6選(準備編・前篇)

2014年6月、日本の近代化遺産として初めて世界遺産に登録された富岡製糸場。

すでに1,000件以上の登録がある世界遺産に加わるのは年々難しくなっている中、富岡製糸場の登録は選考委員の満場一致で可決され、登録の際にも重大な指摘が無いほど非の打ち所がない状態で登録されました。

それは富岡製糸場の持つ価値の大きさを表れでもあります。

見た目は地味ですが、実はすごい富岡製糸場、世界遺産にもなる納得の理由とすごさをご紹介します!

 

1.生糸産業の歴史がそのまま凝縮されている

生糸産業の概要

富岡製糸場は、その名の通り「製糸」工場として建設されました。

簡単に絹産業の流れをお話しすると、

富岡製糸場2①生糸の原料になる蚕の繭。養蚕農家が蚕を育てて繭を作らせる
②蚕は、実は一本の糸から繭を作っているのですが、繭をほぐして一本の糸にする
③一本の糸を何本かまとめて束ねるようにして丈夫にし、生糸を作る
④生糸を使って絹織物などが作られる

という流れになります。
(出典:http://www.pref.gunma.jp/07/p14710002.html)

富岡製糸場では②と③の工程を行い、生糸を作っていました。

富岡製糸場3(出典:http://www.tomioka-silk.jp/hp../rental/index.htm, 『画像提供 富岡市・富岡製糸場』)

富岡製糸場の歴史

富岡製糸場によく使われるキャッチフレーズとして、

「蚕の繭を原料に生糸を作る工程を、日本で初めて、官営で器械を使って大規模に行った工場」

と言われます。

少し複雑ですが、「官営」はつまり、日本政府の資金で建てられたということです。

そのうえで「器械を使って大規模に」行うことを目的として造られた工場は、富岡製糸場が初めてでした。

 

1872年に操業を開始した富岡製糸場は、その後民営化され(三井家→原三渓→株式会社富岡製糸所(片倉工業))、1987年2月に閉鎖されるまで操業を続けました。

これだけ長い間事業をしていれば、その内容が変わっても不思議ではありませんが、富岡製糸場は一貫して生糸の製造工場であり続けたのです。

その間、生糸の製造工程に用いられる器械も戦後は自動化されるなど、工業の発展とともに、富岡製糸場の工程や働いていた女工の方の関わりは変化していきました。

そして、閉鎖後も富岡製糸場は維持費をかけて、操業当時のままの姿をとどめています。

このように、富岡製糸場は生糸産業の歴史そのものを完全な姿で、今も私たちに見せてくれているのです。

2.開国後、欧米との文化交流が生まれた原点

富岡製糸場5女工館
(出典:http://www.tomioka-silk.jp/hp../rental/index.htm, 『画像提供 富岡市・富岡製糸場』)

富岡製糸場の建物のうち、首長館、検査人館及び女工館は洋風のコロニアル様式と言われています。

ベランダがあり、白い窓枠やレンガ造りといった洋風なデザインが特徴的です。

「官営」、つまり日本政府により発足した富岡製糸場。

なぜ建物の一部が洋風なのでしょうか。

その理由は、富岡製糸場が生まれた背景にあります。

富岡製糸場が造られた理由

当時、日本は開国直後で、産業革命が起こったフランスやイギリスに比べると、技術は大きく遅れていました。

このころすでに生糸産業は日本にあったのですが、その品質は悪く、輸出先である欧米からはすこぶる評判が悪かったのです。

一方のヨーロッパでは、蚕の微粒子病が蔓延して絹産業に大打撃を与えており、生糸を調達するルートの確保が緊急の課題でした。

そこで目を付けたのが開国したばかりの日本だったのです。

イギリスは日本政府と交渉し、日本の絹産業を育てるべく大規模な製糸工場の建設を提案しました。

その結果、造営されたのが富岡製糸場です。

建物に見えるヨーロッパの影響

富岡製糸場6検査人館
(出典:http://www.tomioka-silk.jp/hp../rental/index.htm, 『画像提供 富岡市・富岡製糸場』)

日本の製糸技術の向上を図るべく、富岡製糸場にはフランスから生糸の技術検査師であるポール・ブリュナが招かれ、操業が始まりました。

このように、富岡製糸場は幕末の開国後、日本とヨーロッパの間で初めて生まれた交流の場でもあったわけです。

その影響で、建物が洋風になっていたのですね。

建物の屋根には瓦が使われるなど、富岡製糸場全体での建築は和洋折衷となっており、ヨーロッパとの交流を表しているようです。

当時の日本の建築で、このように洋風建築を取り入れたものは無く、とても珍しい構造になっています。

3.日本の工業化の先駆け

先ほどご紹介した通り、富岡製糸場は日本で初めての「官営」で器械を使い大規模な製糸工程を行った工場で、戦後の閉鎖までその歴史は100年以上に及びます。

最初はフランスから検査技師を招いて製糸技術の向上を図り、器械作業も熟練工など人の手による影響が大きいものでした。

しかし、時代が進むにつれて戦後は機械による自動化が行われ、ほとんど人の手によることなく製糸工程を行うことが可能になったのです。

この技術の進歩や機械化の流れは、富岡製糸場が民営化された後の各経営者の経営努力のたまものであると思いますが、現在「モノづくりのニッポン」や「技術大国ニッポン」と呼ばれる原点が、この富岡製糸場から始まったのです。

4.日本の軍事的、経済的発展を支えた基盤

富岡製糸場はイギリスからの提案により発足し、フランスから製糸検査技術師が入るなど、ヨーロッパの関与をいろいろな形でみることができます。

それは、絹産業を支える生糸の生産ルートを確保する、というヨーロッパの思惑によるものというのは、これまでのお話の通りです。

実は当初、ヨーロッパは自分たちの資金(公債など)を使って、富岡製糸場の建設を進める思惑がありました。

そうすれば、富岡製糸場の操業によって得た利益も全部自分たちのものになる、と考えたからです。

しかし、日本政府はこの提案を退け、あくまでも日本政府の資本で富岡製糸場の立ち上げを行うことにこだわりました。

その理由として2つ挙げられます。

1.日本の絹産業全体の技術力を向上させること
2.絹産業を養殖産業として発展させて、外貨の獲得を狙い、国家財力を強化すること

この2つは、もしヨーロッパからの資本で富岡製糸場が造られていた場合、実現されなかったことでした。

ここに、富岡製糸場が「官営」で造られたことの意義があるのです。

もともと資源の少ない日本では、軍事製品や部品を国内で調達するのが困難で、海外からの輸入に頼る必要がありました。

輸入を行うためには当然外貨が必要です。その外貨を、富岡製糸場を起点とする生糸の輸出で賄っていたんですね。

このように、日本が20世紀に軍事大国にのし上がり、また経済大国になったきっかけを生み出したのがこの富岡製糸場だったのです。

 

いかがでしたか。これだけでも富岡製糸場が、いかに今の日本が築かれる上で重要だったかがよく分かりますよね。

次回は残り2つの富岡製糸場の物語をご紹介します。

 

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