【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(前篇)

その地名が世界遺産となっている、岩手県の世界遺産、平泉。

特に有名なのは中尊寺金色堂ですが、世界遺産として認定された背景には平泉がある思想を見事に具現化した場所であることが挙げられます。

その思想は仏教に基づくものではありますが、その根底にあるのは「平和への強い願い」なのです。

今回は、平泉が誕生するきっかけとなった、創健者の藤原清衡の波乱万丈の物語をご紹介します。これを読めば、平泉を訪れたときに優しい気持ちに満たされると思います!

1.中世都市平泉の創健者、藤原清衡とは?

出典:Wikipedia

平泉の創健者、藤原清衡は陸奥国(現在の福島~岩手エリア)の豪族・藤原経清と、陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市から盛岡市あたり)を治めた安倍頼時の娘、有加一乃末陪の間の子として生まれました。

平安時代後期の1056年の生まれとなっています。

また、清衡には実衡という兄と家衡という弟がいました。

ですが、実衡というのは清衡の父、経清亡き後に母が嫁いだ清原武貞の嫡男であり、血は繋がっていません。弟の実衡も、母と武貞の間に生まれた子どものため、清衡とは父親が異なることになります。

なぜこのような複雑な関係になったのか、それは後ほどお話ししますが、この複雑な家の関係も、この後の清衡の人生に一大事をまき起こすことになるのです。

そして、現在の東北地方で生まれたことも清衡の人生に大きな影響を与えることになります。

順を追って見ていきましょう。

2.「みちのく」という”差別”

平泉を流れる北上川

今では普通に使われている「みちのく」という言葉。

もともと、「道の奥」という言葉から来ており、東北地方を指す時に使われる言葉です。

皆さんは「みちのく」という言葉にはどのような印象をお持ちでしょうか。

「道の奥の神秘的な場所」というイメージをお持ちの方が多いと思います。

平安時代、岩手県は陸奥国と呼ばれていました。これも「陸の奥」ということで、みちのくと同様、どこか都会から遠く離れた僻地というニュアンスがあります。

平安時代の都といえば、京都。そこから東北というのは、はるかに遠い場所でした。

そして、京の都から遠く離れた陸奥国に住む人々は「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、都に住む人々からは「野蛮な人々」という差別が定着していました。

陸奥国で生まれた清衡もこの差別を目の当たりに受けたことでしょう。

日本史でよく出てくる言葉、「征夷大将軍」。

文字を見てピンと来られた方もいるかと思いますが、もともとこの役職は、奈良時代から平安時代前期にかけて、陸奥国の蝦夷の争いを官軍が平定したことから、当時の官軍を率いていた坂上田村麻呂に与えられた役職です。

まさに(蝦”夷”を”征”伐)から征夷大将軍と名付けられました。

これ以降、陸奥国は遠い都からは常に差別と警戒の目で見られることになったのです。

そして、ついに悲劇が起ります。それが、前九年の役です。

3.前九年の役

清衡が生まれる少し前、1051年ごろ、陸奥国において、陸奥国奥六郡を治めていた豪族の安倍氏は、安定した勢力を保持していました。

清衡から見ると、母親のお父さんにあたるので、おじいちゃんになりますね。

この安倍氏の勢力拡大を恐れた国(当時の朝廷)が、口実を作り上げて(※諸説あり)その時の陸奥守(陸奥国(=蝦夷の地)を監視、監督する役職)であった藤原登任(ふじわらのなりとう)に征伐を命じました。

ですが、当時強い勢力を持っていた安倍氏(清衡のおじいちゃん)の前に藤原登任は敗れます。

その後、源氏の源頼義が藤原登任の後を継いで陸奥守の座に就き、いったんこの事件は終息します。

しかし、この源頼義が陸奥守の任期を終えて都に戻る直前だった1056年、配下だった藤原光貞と元貞が何者かに夜襲を掛けられる事件が発生しました。

藤原光貞はこれを安倍頼時(清衡のおじいちゃん)の仕業であると源頼義に訴えました。

その理由は、「安倍頼時の嫡子の安倍貞任が以前、光貞の妹を嫁に迎えたいと申し出たのを、『野蛮な蝦夷の安倍に妹はやれない』といって断った腹いせだ!」というのです。

こちらも諸説ありますが、陸奥守の任期中に何の手柄も立てられず、焦った源頼義が仕組んだ作り話だったという説もあります。

いずれにせよ、ここでも「野蛮な蝦夷」という差別が行われていたのです。

光貞の話に激怒した源頼義と安倍氏(清衡のおじいちゃん)の間で、再び争いが勃発しました。

ここで、清衡の父親である藤原経清のお話をしておきましょう。

すでにこの頃には安倍氏の娘を嫁にしていた藤原経清、実は当初、源頼義の配下でした。

しかし、この争いが勃発したのち、経清は安倍氏側に寝返ります。

大事な奥さんを守るためか、安倍氏の娘を嫁に持つ自分の身に危機を感じたのか、いずれにしても安倍氏と源氏の両挟みにあった経清は、苦しい決断をしたことと思います。

4.父経清の死と安倍氏滅亡

さて、再び争いが勃発した安倍氏と陸奥守の源氏。

その後も強い勢力を持っていた安倍氏は源氏との戦いを優勢に進めていたものの、1062年、当時の出羽国(秋田県)の豪族清原氏が源頼義側についたことで、一気に形成は逆転しました。

なんと、清原氏が源氏に加勢してからわずか1か月で安倍氏は敗北。

清衡の父経清と安倍頼時の嫡子貞任は処刑され、これにより安倍氏は滅亡しました。(清衡のおじいちゃん、頼時は戦時中に戦死しました。)

この時、清衡はわずか6歳。

蝦夷という立場から引き起こされた前九年の役によって、父親とおじいちゃんを亡くします。

この後、清衡は清原氏側に引き取られることになります。本来は敗北した側の遺児ということで処刑されてもおかしくない状況。

清原氏参戦後わずか1ヶ月での終焉と、清衡が清原氏に引き取られた裏には、安倍氏・経清と清原氏の間に何らかの密約があったのではとも考えられています。

自分の妻と子を守るために戦った父経清。その意志が清衡の命を守ったことは確かです。

そんな強い愛情を受けた清衡ですが、この後も彼の人生にはさらなる悲劇が待ち受けていました。(後編へ続く。)

(参考:「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」 大矢邦宣 河出書房新社)

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