【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(後篇)

その地名が世界遺産となっている東北は岩手県、平泉の世界遺産。

特に有名なのは中尊寺金色堂ですが、世界遺産として認定された背景には平泉がある思想を見事に具現化した場所であることが挙げられます。

その思想は仏教に基づくものではありますが、その根底にあるのは「平和への願い」なのです。

今回は平泉が誕生するきっかけとなった、創健者の藤原清衡の波乱万丈の物語、後編をご紹介します!

 

前編と合わせてお読みいただくと、より深く世界遺産・平泉をお楽しみ頂けます!

前編の記事はこちら!

【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(前篇)

1.前九年の役のその後

安部氏が滅亡した前九年の役。

その頃わずか6歳だった清衡は、清原氏に武貞の嫡子として引き取られ、清衡の母は武貞の妻となります。

武貞にはもともと清衡の他にもう1人、真衡という嫡子がいました。

さらに、その後清衡の母との間に子どもが産まれ、家衡と名づけます。

このように清衡は、母親は同じく異父弟の家衡と、血のつながらない異系兄の真衡と、三人兄弟として育てられました。

2.同族の共同体から惣領制へ

清衡の異父兄であった真衡は、次第に一族の中でも頭角を現すようになります。

もともと、清原氏の本家を継いだ祖父の武則の直系の血筋ということもあり、自分が陸奥郡を収める清原氏の宗家であるとの自覚もあったのでしょう。

真衡はそれまでの一族全体のゆるい共同体から、宗家をピラミッドの頂点とする惣領制への移行を強引に推し進めるようになりました。

一族内の紛争のきっかけとなった事件

そんな中、真衡の養子であった成衡が常陸国から嫁を迎え入れることになりました。

めでたいことなので、続々と清原一族の者たちが祝いの品を持参して真衡の屋敷に訪れます。

真衡の伯父の吉彦秀武も出羽国から祝いの砂金を持参し、それを頭上に掲げて真衡の屋敷で待機していました。

ところが、真衡は奈良法師と大好きな囲碁に興じており、秀武が待っているのにそれを無視して囲碁を続けます。

「祝いの品を持参して待っているのに、なぜ真衡は出迎えない・・・!」

長時間にわたり、砂金を持って真衡の出迎えを待っていた秀武はとうとう我慢の限界を迎え、怒り爆発!

砂金を庭先にぶちまけて自分の国に帰ってしまいました。

これを聞いた真衡は秀武の行いに激怒、直ちに秀武を成敗するために出羽国に兵を進めたのです。

 

この話から推測する限り、完全に真衡は逆ギレをしているようにしか見えませんね。。

日本史を勉強していると、このような言いがかりから大きな紛争に発展する事件が多くあるように思います。今の政治外交の駆け引きのようなものですね。いつの時代も変わりません。

これが後三年の役の始まりでした。このとき清衡は27歳。前九年の役から実に21年後のことでした。

3.後三年の役

前半は真衡 vs. 清衡・家衡の争いに

勇んで秀武の討伐に向かった真衡。

ですが、秀武は一足先に清衡・家衡を自陣に誘い込み、味方につけます。

真衡が屋敷を開けている間に清衡・家衡は真衡の地元に襲撃をかけ、真衡の屋敷にも迫る勢いでした。もともと清衡と家衡も真衡の振る舞いに不満を持っていたものと思われます。

これに焦った真衡。

「自身の屋敷を占領されると身動きが取れなくなってしまうばかりか、挟み撃ちに-。」

慌てた真衡は、急いで清衡と家衡の征伐に向かいます。

清衡と家衡は真衡がこちらに矛先を変えたことに驚き、いったん真衡の地元から身を引きます。戦わずして身を引いてしまったのですが、それだけ真衡の勢力が強力だったのでしょうか。

清衡と家衡の撤退を知った真衡は、再び秀武の討伐に向かい、当時陸奥国守の任命を受けていた源義家に協力を要請し、義家はこれに呼応します。

これに勢いづいた真衡でしたが、不運なことにこの争いの中で真衡は病死してしまいます。

これでいったん一族内の争いは終結したかに見えました。

後半は清衡 vs. 家衡の争いに

真衡亡き後、陸奥守の源義家は、陸奥六郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えました。

一見公平な扱いに見えたこの土地の分配が、さらなる紛争の火種を生むことになります。

陸奥北三郡を分け与えられた家衡は、この扱いに不満を持ちます。というのも、北三郡は南三郡と比べると、生産性が低い土地だったのです。

もう一度清原氏の系譜を見てみましょう。

家衡は当時、真衡・清衡の三兄弟の中で清原氏の正当な血筋を受け継いだ唯一の存在でした。
(真衡は嫡子だったので、清原氏の血筋は引いていません。)

その思いもあったのでしょう。なぜ正当な血筋を受け継いだ自分がこのような不当な扱いを受けなければならないのか-。と。

そしてついに家衡はこれを行動に移します。清衡の宿所を襲い、清衡の妻子を殺害してしまったのです。

間一髪でこの難を逃れた清衡は、義家の元に駆け込み、義家・清衡 vs. 家衡の争いへと発展します。

最後は源氏 vs. 清原氏の争い、そして清原氏の滅亡。

ここで義家がなぜ清衡と手を組んだのかは分かりません。ですが、清衡の父は正当な藤原氏の出であり、清衡も藤原の血を持っていることになります。

この藤原の家系が一因になったのかは分かりません。ですが、これまでお話ししてきたように蝦夷への根深い差別と家柄が重視される時代では、考えられないこともありません。

最終的に家衡はこの争いに敗れ、これによって清原氏は滅亡します。そして、清衡は父の姓を受け継ぎ、ここに奥州藤原氏が誕生したのです。

4.後三年の役のその後

ところで、この争いで功績をあげたかった源義家ですが、都の朝廷よりこの戦いは私戦、つまり義家が勝手に始めた戦であるとみなされ、報奨は一切もらうことができませんでした。

ちなみに前九年の役では安部氏と源氏の戦いは公戦であると認められています。

私戦とみなされてしまった義家の落胆ぶりは想像に難くありません。ですが、ここが義家のすごいところ。

報奨が無くても、この戦で戦ってくれた武士の労をねぎらうため、自分の持っていた土地や財産を分け与えたのです。

これに武士たちはひどく感銘を受け、義家を慕って続々と義家の元に集結します。そして、源氏は東国で「武士の棟梁」と呼ばれるほど勢いをつけることになりました。

もともと朝廷が公戦と認めなかった背景には、源氏がこれ以上力をつけるのを抑えたかったという思惑があると思いますが、それがかえって源氏の勢いを加速させてしまうことにつながるのです。

5.奥州の都、平泉の誕生

平泉駅前

後三年の役の後、藤原に姓を戻した清衡はここ平泉を奥州の中心と位置づけ、一大都市を築きます。

これまでの2度の争いで、父と妻子を失った清衡が望んだもの。それは「争いの無い平和な場所」に他なりません。

ではどうやって争いの無い平和な世界を創ればよいのか。

清衡は武力ではなく、仏、つまり仏教に救いを求めたのです。

もともと奥州蝦夷と呼ばれ、差別を目の当たりにして育った清衡にとって、

「この差別が争いの元になる。なぜ差別が生まれてしまうのだろう。」

と悩んだことでしょう。

武力を持ったところで差別は解決しません。そればかりか、余計に対立や争いを大きくしてしまいます。

そこで、清衡が目をつけたのが文化・仏教の力。

「都から遠く離れていても、ここには素晴らしい仏教の世界がある。それを知ってもらえれば、蝦夷の差別も争いも無くなるのではないか-。」

 

清衡が平泉を選んだのにも当然理由があります。そして、平泉はとことん仏教の理想郷の実現を目指して綿密に造られた都市でした。そのお話はまた次回にしたいと思います。

(参考:「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」 大矢邦宣 河出書房新社)

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