【世界遺産】ダンブッラの黄金寺院を100倍楽しむためのマメ知識3選

スリランカの世界遺産の1つ、ダンブッラの黄金寺院。

他にスリランカの世界遺産になっているキャンディ、アヌラーダプラ、ポロンナルワはいずれも、その昔王都が置かれていた都市です。

それでは、なぜ王都でもないダンブッラに、たくさんの仏像や壁画が残された黄金寺院ができたのでしょうか。

今回は他のスリランカの世界遺産とは少し違った、ダンブッラの黄金寺院の魅力をご紹介します!

訪れる前にこれを読めば、ダンブッラの黄金寺院をさらに楽しむことができるようになります。

 

1.ダンブッラの黄金寺院ハイライト

洞窟の中に並べられた仏像

ダンブッラの黄金寺院は、Cave Temple、もしくは石窟寺院と呼ばれることもあるように、岩を掘って造られた洞窟の中にたくさんの仏像が納められており、洞内の天井は今でも色鮮やかな絵画が残されています。

現在中に入ることのできる洞窟は、全部で5つあり、納められている仏像は150にも上ります。

この黄金寺院の特徴として、これら5つの穴に残された仏像や壁画は、同時期に造られたものではない、ということです。

定説では、紀元前1世紀から18世紀後半まで、一部空白期間があったものの、1700年以上の長い時間をかけて、ずっとこの寺院は維持され続けてきました。

そのため、もともと置かれていた仏像や絵画にもその後何度も修復が重ねられ、現在では、最後に大掛かりな修復をしたキャンディ王国時代の18世紀ごろの特徴が多く残されています。

それではなぜ、ダンブッラの黄金寺院はこれほどの長期にわたって大切にされ、維持されてきたのでしょうか。

まずはその成り立ちを追ってみましょう。

2.ダンブッラの黄金寺院の歴史

右側の岩壁に沿って建てられた白い棟の中に、各洞窟への入口がある

ダンブッラの黄金寺院が、いつ頃創建され、どのような歴史を辿ってきたのか。

実は詳しい記録はそれほど多く残されていません。

ダンブッラは、古くはJambukola(ジャンブコラ)と呼ばれていたと考えられています。

ですが、スリランカの歴史書でもある、マハーワンサにこの名前が出てくるのは11世紀後半になってからのこと。

そのため、ダンブッラの歴史をひも解くために、この黄金寺院に残された碑文が最も重要な手掛かりとなっています。

ダンブッラの黄金寺院の敷地はとても広く、現在拝観が可能な5つの洞窟のほかにも、実に80近くもの洞窟が残されており、それぞれに重要な碑文や歴史的遺物が残されているのです。

碑文とマハーワンサからひも解くダンブッラの黄金寺院の成り立ち

それでは、ダンブッラの成り立ちをひも解くヒントとなる、碑文をご紹介しましょう。

Devanapiya-Maharajhasa Gamini-Tisasa Maha-lene agata-anagata catu-disa sagasa dine

(この洞穴は、神々の友でもある大いなるGamani Tissa王によるものである)

Damarakita-teraha lene agata-anagata catu-disa-sagasa dine Gamani-Abayasa rajhiyahi karate

(この洞穴は、Gamami Abhaya王の世にあって、Dhammarakkhitaによるものである)

最初の碑文に出てくる、”Gamani Tissa王”というのは、紀元前2世紀ごろにアヌラーダプラの王であったSadda Tissa王であると考えられています。

ここから、ダンブッラに造られた洞窟は紀元前から存在していたことが分かるのです。

続いて、2つ目の碑文に出てくる、”Gamami Abhaya王”というのは、アヌラーダプラを紀元前89年から77年にかけて治めていたVattagamani Abhaya王ではないかと考えられています。

Vattagamani Abaya王が建てた、アヌラーダプラのAbhayagiri Vihara

Vattagamani Abaya王は、アヌラーダプラのAbhayagiri Viharaを建てた王様としても有名で、スリランカでもよく知られた存在。

このVattagamani Abaya王について、マハーワンサで記されていることを大まかにご説明しましょう。

 

紀元前から1,000年以上も続いたシンハラ族による、古都アヌラーダプラの繁栄。

ずっと安泰であったかというと、そうではなく、幾度も南インド等、外敵からの侵攻と戦ってきたのです。

ちょうどVattagamani Abaya王の治世のころ、南インドから7人ものタミル族の王たちがアヌラーダプラに攻め込みました。

戦いの末、あえなくVattagamani Abaya王は敗戦。都アヌラーダプラを捨てて、山の中に逃げ落ちます。

たまたま、僧侶が住居としていた山の中の洞窟に辿りついたVattagamani Abaya王。

そこに住んでいた僧は王をかくまって、手厚いもてなしをします。

ここでVattagamani Abaya王は、実に14年もの歳月に渡って身を隠すことになるのです。

その間、アヌラーダプラを支配していたタミル族の王たちは、権力争いに明け暮れていました。

そして、14年後、再起を図ったVattagamani Abaya王は無事にアヌラーダプラの奪還に成功します。

 

さて、このダンブッラに残された碑文と、マハーワンサに記された内容を結び付けてみましょう。

すると、

Vattagamani Abaya王がタミル族から逃げ落ちて身を潜めていた場所、それがこのダンブッラの洞窟ではないか?

ということが見えてきました。

これは推測の域を出ませんが、定説としてはこのVattagamani Abaya王が、もともと僧侶の住居として使われていたこのダンブッラの洞窟を、仏教寺院として発展させたと言われています。

 

3.ダンブッラの黄金寺院に多くの仏像と壁画が残されているワケ

天井一面に描かれた、色鮮やかな壁画

ダンブッラの成り立ちが分かったところで、次の疑問について考えてみましょう。

・なぜ、これほどまでに多くの仏像と壁画が造られたのか
・なぜ、今も壁画や多くの仏像がきれいに残されているのか

 

まず、先ほどの成り立ちでもお話しした通り、この場所が古都アヌラーダプラのVattagamani Abaya王が匿われていたかもしれない、そしてそのVattagamani Abaya王によって創建された寺院というだけでも、由緒ある、そして格式の高い寺院として信仰を集めていた、と考えることができます。

ですが、300年~2,000年という長い時間に渡って、これだけ多くの仏像や壁画が残され、そして貴重に守られていた例は、世界中を探しても他に例がありません。

ダンブッラの黄金寺院が世界遺産たる所以の1つは、ここにあるのですが、それではどうしてこのような事がスリランカでは起こったのでしょうか。

シンハラ族と仏教

ダンブッラの黄金寺院:第2洞窟にある、聖なる水滴

スリランカの古代シンハラ族王朝である、アヌラーダプラとポロンナルワ。

どちらの都市も、市民が食に不自由することなく栄えるため、高度に発達した灌漑技術を持っていました。

灌漑技術と畑、水田を開墾することで、自給自足の生活が行えるようになるからです。

衣食住に不自由が無くなると、シンハラ国が次に取り組んだのは、長きにわたって続く平和と、市民の幸せでした。

この平和と幸せを実現するために、国が重要視したのが仏教だったのです。

これは、日本の奈良時代に見られた護国仏教の考えと似ていますよね。

 

仏教がスリランカに伝わり、国が繁栄すると、俗世から離れ、精神的な解放を求めるために孤独に山奥の洞穴に住みながら修行をする仏教僧に対し、国は手厚い対応をするようなりました。

具体的には、僧が住んでいた洞穴の近くに仏教寺院を建てたり、国の所有地の一部を仏教寺院に寄附したりなど。

ヴィハーラとサンガ

ダンブッラの黄金寺院:第2洞窟で最も重要な仏像

こうして、各地で国からの寄贈による仏教寺院が建てられるようになり、そこに勤める僧たちも寺院に住みながら、寺院の管理と布教活動などを行い、人々の心の拠り所となりました。

バックに国がついている寺院だと、当然規模や格式も高く、それだけ仏教寺院の規模も大きくなり、そこに勤める僧の数も多くなります。

ダンブッラの黄金寺院は、一時期途切れることはあったにせよ、代々国王からの援助を受けていた最高峰の寺院でした。

このような仏教寺院をヴィハーラと呼び、ヴィハーラを中心として生まれた一種のコミュニティーをサンガと言います。

コミュニティーとはどういうことかというと、寺院を維持、管理するためには、当然定期的に修繕を行ったり、何よりそこに勤める僧の衣食住も賄える必要があります。

そのためには、修理に必要な木材や銅といった資源を確保できる土地や、修繕を行う人員、また日々の食料を栽培する畑や、農業を営む人手も必要です。

こうして、ヴィハーラを中心として、一種の経済圏とコミュニティが出来上がるわけです。

 

国の手厚い保護、ヴィハーラ、そしてサンガ。

この3者によって、仏教寺院はその規模を拡大するとともに、常に維持、管理をされていたのです。

ダンブッラの黄金寺院の仏像や壁画の多くが、最も新しく修繕されたキャンディ王国時代の特徴を数多く残している、というのは、つまりその頃まで継続して仏教寺院の管理、維持がなされたことを示すことに他なりません。(所説によると、一部、空白の時期あり。)

仏教保護に対する国の太っ腹政策

ダンブッラの黄金寺院:第3洞窟に並べられた仏像

もともとは仏教寺院に対して、国は土地を与えていましたが、時代を経るにつれ、その範囲はさらに広がります。

キャンディ王国時代に残された銅版の碑文によると、寺院だけでなく、寺院の修復や寺院への食糧、献花などを(サービスとして)提供する者に対しても土地が付与されたことが記されています。

もう何でもありな様相を呈してきましたね。。

このことから、仏教寺院の修繕や増築、仏像の建立が頻繁に行われてきたことが想像できます。

ダンブッラの黄金寺院はその最たる例で、なんと18,000エーカー(1エーカー:4,000㎡)!もの土地を授かっていたと言われています。

ダンブッラの地理的意味

最後に、ダンブッラの地理的な意味合いについても考えてみましょう。

スリランカの文化三角地帯と言えば、世界遺産のキャンディ、アヌラーダプラ、そしてポロンナルワを結ぶエリアです。

ダンブッラはちょうどこれらの3都市のほぼ中央に位置していることが分かります。

古都アヌラーダプラから、ポロンナルワ、そしてキャンディへとシンハラ国の王都は遷移していくことになりますが、いずれの王都も外敵からの侵攻により滅んでしまいます。

もしダンブッラがこれらの王都の近くにあったならば、外敵からの侵攻と共に破壊されていたかもしれません。

いずれの王都からも一定の距離を離れた場所に築かれた黄金寺院だからこそ、現在私たちはそこに残された多くの仏像と壁画を観ることができるのかもしれません。

 

いかがでしたでしょうか。

スリランカの歴代の国王から手厚く保護され、長い時間の中で変わらない厚い信仰の対象となっていたダンブッラの黄金寺院。

是非訪れた時には、色々な時代に造られた仏像の違いにも注目しながら、シンハラ仏教の歴史を感じてみてください!

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