【世界遺産】スヴェティツホヴェリ大聖堂(ジョージア)を100倍楽しむためのマメ知識4選(準備編)

コーカサス三国の1つ、ジョージアの首都トビリシからほど近い、ムツヘタにある世界遺産、スヴェティツホヴェリ大聖堂。

「ムツヘタの歴史的建造物群」として登録されている世界遺産の、構成資産の1つです。

キリスト教のジョージアでは、国民の心の拠り所にもなっているこの大聖堂。

その偉大な魅力と価値のヒミツに迫ります!

 

1.スヴェティツホヴェリ大聖堂の成り立ち

ジョージアの首都、トビリシからバスで30分もかからない場所にあるムツヘタ。

スヴェティツホヴェリ大聖堂は、このムツヘタにあります。

現在のスヴェティツホヴェリ大聖堂は、11世紀ごろに大きく造営されたものがベースとなっており、この大聖堂が誕生したのは、4世紀まで時代を遡ることになります。

4世紀に初めて建てられた時、スヴェティツホヴェリ大聖堂は木造の小さな教会に過ぎませんでした。

ムツヘタとキリスト教

川によって3つに分断された陸地。ムツヘタは、写真右上の街。

1世紀ごろ、ジョージアの東にはイベリア王国、西にはコルキス王国がありました。

ムツヘタは、このイベリア王国の首都として約800年にも渡って栄えた場所です。

そんなムツヘタが、キリスト教の重要な聖地への一歩を踏み出したのが、4世紀。

この時、ミリアン国王によりイベリア王国は、正式にキリスト教を国の宗教として受け入れることを決定しました。

ちなみに、世界で初めて国としてキリスト教国を宣言したのは、同じコーカサス三国のアルメニアです。

それに続き、2番目のキリスト教国となったのが、イベリア王国、後のジョージアになります。

 

ジョージア最古の教会

キリスト教国となったことで、ムツヘタに初めて造られたのが、スヴェティツホヴェリ大聖堂でした。

つまり、スヴェティツホヴェリ大聖堂はジョージア最古の教会ということになります。

 

キリスト教の聖地となったムツヘタ

5世に入ると、それまでアンティオケア総主教庁に属していたジョージアの教会は、独立を果たします。

さらに、ムツヘタはジョージア(旧イベリア王国)のみならず、コーカサス地域全体にとっても、キリスト教の重要な聖地と見なされるようになりました。

木造の小さなスヴェティツホヴェリ大聖堂も、その役割の重要性の増加に伴い、規模を大きくしていくことになります。

ジョージアにおける11世紀の位置づけ

現在のスヴェティツホヴェリ大聖堂は、11世紀に再建されたものと最初にお話ししました。

11世紀というのは、ジョージアの歴史において、封建制の仕組みが最も高度に発達した時期であり、それまで諸国によって分断されていたジョージアの領土が、統一された時期でもあります。

この時代、文化や経済のみならず、美術や文学、建築技術も大きな発展を遂げました。

そして、そんな中、19年もの月日を費やして、スヴェティツホヴェリ大聖堂が再建されたのです。

この時の再建で、スヴェティツホヴェリ大聖堂は十字型の設計となりましたが、これは6世紀から7世紀の間に初めて十字型の教会として造られた、ジワリ修道院の影響によるものです。

このことからも、スヴェティツホヴェリ大聖堂の建物や内部に残されたフレスコ画の歴史的価値が、いかに高いかをお分かり頂けると思います。

2.誕生の伝説

ムツヘタとエルサレム

スヴェティツホヴェリ大聖堂の中には、小さな教会が置かれています。

これは、もともと外に建てられていたものを、保存目的で14~15世紀ごろに教会内に移管されたものです。

別名、「小さなエルサレム」と称されていたムツヘタ。

この小さな教会は、キリストが十字架に磔の刑に処されたエルサレムのゴルゴダの丘に、その後コンスタンティヌス1世により建てられた聖墳墓教会のミニチュア版として造られたものです。

こちらがその教会です。

聖墳墓教会を模しているとはいえ、その形やデザインは聖墳墓教会に忠実に造られているわけではありません。

「小さなエルサレム」と称されているムツヘタにおいて、スヴェティツホヴェリ大聖堂はまさに聖墳墓教会のように神聖視されている教会と言うことができるかと思います。

 

スヴェティツホヴェリ大聖堂の誕生

キリストがエルサレムのゴルゴダの丘で、磔に処されたその日、エリオズという男性がその処刑の立ち会いの場に参加しました。

エリオズはその後、キリストが身につけられていた外衣をムツヘタに持ち帰り、姉のシドニアに託します。

シドニアは、キリストの外衣を大切に胸に抱きしめると、その場でキリストへの思いのあまり、死んでしまいました。

シドニアはその後、手にキリストの外衣を抱いたまま、王宮の庭に埋葬されます。

すると、その場所からレバノンの木が誕生し、後にイベリア王国がキリスト教国を宣言した際、この木を切り落としてシドニアのお墓に教会が建てられたのです。

レバノンの木は、教会の7本の柱として使われましたが、その内の1本は、聖ニノが一晩祈りを捧げたところ、瞬く間に空中まで伸び、教会の台座を支える土台になったと言われています。

そして、この柱からは聖油が染み出し、それを手に取ると瞬く間に人々の病気が治りました。

この逸話から、この教会に「生命の柱」、「スヴェティツホヴェリ」という名前がついたのです。

シドニアの墓も大聖堂内に置かれており、今でもこの下にはキリストの外衣が埋まっていると信じられています。

3.外壁に見るキリスト教、建築上の価値

それぞれに違う外壁の面白さ

その十字架型の建物にも特徴がありますが、スヴェティツホヴェリ大聖堂は外壁も面白い造りになっています。

どこが面白いかというと、4方面の外壁すべてに異なるデザインがなされていること。

例えば、東側の外壁は左右対称に造られていますが、南側の外壁は左右非対称です。

また、北側の外壁にはうっすらと色味がかった部分を見ることが出来ます。

デザインだけでなくその色合いも微妙に変えることで、1日を通して陽の光や明るさにより、異なる姿を私たちに見せてくれるのです。

装飾に見えるキリスト教上の意味

4方面の外壁には違った装飾が施されています。

例えば、写真は東側の外壁に造られた装飾ですが、この装飾にもキリスト教上の意味が込められています。

写真中央の円から、上方に向かって半円形に放出されている12の光のような放射物。

これは、キリストの12使徒を表しています。

スヴェティツホヴェリ大聖堂は、12使徒のために建てられたことの表れでもあります。

4.ジョージアの人々にとってのスヴェティツホヴェリ大聖堂

伝統と格式の高さ

スヴェティツホヴェリ大聖堂が、キリスト教において、そして建築・美術上もいかに高い価値を有しているか、これまでのお話でご理解いただけたのではないかと思います。

それだけでなく、スヴェティツホヴェリ大聖堂は、ジョージア歴代の王族による婚礼の儀式が行われる場でもあり、王族が洗礼を受ける場でもあり、そして、代々の王が埋葬される場所でもありました。

代々10以上の王の墓があったと言われていますが、現在残されているのは3つほど。

長い間、王族の重要な儀式の場であったスヴェティツホヴェリ大聖堂ですが、何も王族によってだけ大切にされてきたわけではありません。

ムツヘタやジョージアに住む人々にとっても、スヴェティツホヴェリ大聖堂は特別な存在なのです。

民衆にとってのスヴェティツホヴェリ大聖堂

11世紀の大改修により、今の姿になったスヴェティツホヴェリ大聖堂。

11世紀から現在に至るまで、ずっと安泰であったかというと、そうではなく、その間に幾度かの地震と、度重なる外敵からの侵攻の危機にさらされました。

13世紀末に起こった大地震と、ティムール族の侵攻により、少なくとも2度、大聖堂のドームは崩壊しました。

ティムール族のジョージア侵攻に至っては、8度も繰り返されたと言われています。

その都度、大聖堂の一部が破壊されることはあっても、大聖堂全体が崩壊することはありませんでした。

そして、破壊された部分や損傷した部分は改修を繰り返します。

外敵との戦いの際にはスヴェティツホヴェリ大聖堂が民の避難場所になったり、また、大聖堂の改修の際には民衆からも多大な寄附が行われてきました。

民衆からの寄付は、お金だけでなく、パンやワイン、衣服など現物も多くありました。

スヴェティツホヴェリ大聖堂が今あるのは、過去の先人たちの絶え間ない苦労と努力の結晶に他なりません。

そんなスヴェティツホヴェリ大聖堂は、ジョージアの人々にとって、不屈の精神とたくましさの象徴でもあり、誇りなのです。

 

いかがでしたでしょうか。

歴史、宗教、建築そして美術。そのいずれにおいても高い価値を有しているスヴェティツホヴェリ大聖堂。

それだけでなく、ジョージアの人々にとって心の拠り所にもなっているこの教会に、ぜひ訪れてその空気を感じてみてください!

 

(参考:「Svetitskhoveli」)

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