【世界遺産】原爆ドームを知るための6つの背景

1996年に世界遺産に登録された、広島の原爆ドーム。

「負の世界遺産」とも呼ばれており、他の世界遺産とは登録された意味合いが少し異なります。

広島に原爆が落とされた理由、それによって残された原爆ドームをより深く知るための手がかりとマメ知識をご紹介します。

 

1.原爆ドームの誕生

私たちが現在、「原爆ドーム」と呼んでいる建物は、1915年に誕生しました。

「広島県物産陳列館」として、広島県内の物産や、他県の物産品の収集、陳列、そのほか、商工業に関する調査や相談、取引紹介や関連図書、資料の閲覧ができる施設として、日本の近代化を推進する目的で建てられたのです。

その10年前、日露戦争に勝利し、日本全体が近代化に向かって大きく動いていた時でした。

建物は、今のチェコ(当初のオーストリア・ハンガリー帝国)の建築家、ヤン・レツル氏の設計で、「セセッション式」と呼ばれる革新的な設計デザインをしています。

セセッション式とは、それまでの正統派であった歴史主義的な建築様式からの離脱を試みた、革新派のスタイルで、正方形や格子模様を主とする幾何学的な形態が特徴です。

また、原爆ドームと言えば、その楕円形のドームが何といっても目立ちますが、これも、設計したヤン・レツル氏の得意とするデザインでした。

今見てもその楕円形のドームがひと際目を引くぐらいですので、大正・昭和時代の木造建築の街中では、そのヨーロッパ風の外観と楕円形のドームを見た広島の人々の驚きと感嘆は、相当のものだったはずです。

原爆により今の姿になる以前から、広島のシンボルだったのです。

2.原爆の日

広島市:平和記念公園

1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、人類史上初めて原子爆弾が広島市に投下されました。

原子爆弾の爆発で、瞬く間に地表の温度は数千度まで達し、その爆風は数キロにも及び、広島市の街は一瞬で灰の街へと姿を変えたのです。

その瞬間のままの姿で黒焦げで即死した人、爆風による激しい熱で全身の皮膚が焼けただれ、べろんと剥がれ落ち、彷徨い歩く人々、飛び込んだ後息絶えた人の死体で埋まる川。

戦時中とはいえ、活気のあった街が一瞬で地獄絵図に変わりました。

ほとんどの建物が倒壊する中、原爆ドームが奇跡的にその姿をとどめることが出来たのは、

爆心地が原爆ドームから北西にわずか150メートルという至近距離にあったため、爆風が上方からほぼ垂直に吹き、中央部分の倒壊を免れた

と考えられています。

広島市レストハウス(写真右側、橋の先にある建物)

なお、原爆ドームのほかにも原爆記念公園のすぐそばにある広島市レストハウスなど、原爆による完全倒壊を免れ、改修などを経て今もその姿を残している建物はいくつかあります。

ただ、世界遺産となった原爆ドームは、他の被ばく建物と違い、今後も「原爆当時の姿を維持する」ことが必要であること、そして、当時の姿を維持することが実は改修よりも困難な場合もある、ということは頭に入れておくべきだと思います。

なぜ、「広島」だったのか?

それではなぜ、原爆は広島に落とされたのでしょうか。

そこにはいくつかのアメリカ側の思惑がありました。

原子爆弾を世界で初めて開発したアメリカ。

その使用が決定された際、原爆がどの程度の効果をもたらすのか、それを測定する目的も含まれていました。

投下場所の候補となったのは、同じく原爆が投下された長崎、広島、京都、新潟、横浜など。

これらの都市は、それまでの空爆で大きな被害を出していなかった都市であること、そして比較的大都市であることが理由で候補となったのです。

特に広島は、市内を流れる多くの川が、空爆による炎の延焼を阻止するので、空爆が避けられていた場所でもありました。

1945年に入り、戦況がアメリカに優勢になってくると、アメリカは鹿児島沖へとその勢力を進めます。

ここで、鹿児島からも比較的近い場所にあった長崎と広島が原爆の目標となったのです。

特に広島市は、広い平野の地形をしており、原爆の爆風による効果を測定するのに適した地形だったと言われています。

 

3.原爆ドームの存廃論争と世界遺産登録まで

「原爆ドーム」と呼ばれるまで

「広島県物産陳列館」は、原爆が落とされた当時は「広島県産業奨励館」と名前を変えていました。

その広島県産業奨励館が、やがて「原爆ドーム」と呼ばれるようになるのは1948年から1950年ごろです。

おそらく、最初は今も残っている楕円形のドームの姿を見た人々が自然に呼ぶようになったものと考えられますが、そのうちに海外メディアなどでもその言葉が使われるようになります。

原爆ドームの存廃を巡る声

戦後、時が経つにつれて原爆ドームの建物の損傷が進むと、その存廃を巡って市民の気持ちが揺らぎました。

1949年、広島市が実施した世論調査によると、

原爆ドームを残したい:62%
取り払いたい:35%
意見を控える:2.6%

という結果になり、保存の声がやや強くなりました。

保存派の理由としては、「記念のため」、「戦争への戒め」などが挙がり、取り払いたいという意見の理由は、「惨事を思い出したくない」とする理由が圧倒的でした。

2011年3月11日に発生した東日本大震災でも、その後、津波に襲われて損傷し校舎を残すか、取り壊すかで市民の意見が分かれたことがニュースになりましたが、強烈な体験をされた人々の心に大きな傷跡を残すことも、我々は考えるべきです。

 楮山ヒロ子さんの残した日記(1960年ごろ)

そんな中、原爆ドームの保存に向けて大きく動き出したきっかけとなったのが、原爆症により16歳で白血病で亡くなった、楮山ヒロ子さんの残した日記でした。

あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう

原爆が投下された時、まだ1歳だった梶山ヒロ子さんは1.5キロほどの場所で被爆しました。

おそらく、1歳だったヒロ子さんには原爆直後の風景や記憶は鮮明では無かったかもしれません。それでも、そんな時に被爆したことでたった16歳で生涯を終えることになったヒロ子さんの心の痛み、原爆への恐怖などは想像しても到底できるものではありません。

これにより、「広島折鶴の会」が、原爆ドームの保存に向けて活動を開始し、当時保存に消極的だった広島市は、一転、原爆の保存を決めたのです。

保存工事にかかる費用約4,000万円を集めるため、広島市は全国募金活動を開始。

これに対し、ノーベル物理学賞者、湯川秀樹氏などが組織する、「世界平和アピール七人委員会」や佐藤栄作首相などの寄付もあり、工事費を賄うだけの金額を無事集めることが出来ました。

2度目の永久保存工事

保存工事を行ったものの、再び原爆ドームに損壊の危機が訪れます。

1987年、再び原爆ドームの永久保存工事へ約2億円の工事費が必要になり、半額の1億円を市費で、残り1億円を募金により集めることを決議した広島市。

2度目の募金呼びかけということもあり、額も巨額であったこと、また戦後から時間も経っていることから、募金をしてもこれだけの金額は集まらないだろう、とやや悲観的なムードが漂っていました。

が、この時も、目標額を大きく超える、3億7085万円が集まりました。

この募金には日本だけでなく、世界の著名人からも寄付がされたことは、もはや日本だけでなく、原爆ドームが世界に対して「平和」の意義を問いかけるものであることの表れではないでしょうか。

世界遺産への登録

1992年、日本は世界遺産条約を受諾したことで、「原爆ドームを世界遺産へ」という声が高まりました。

ですが、ここでも登録までには大きな壁があったのです。

当初、日本政府は世界遺産への推薦に当たって、

・推薦の条件となる、日本の国内法での保護(文化遺産)対象となっていない
・推薦するには、歴史があまりに浅すぎる

という理由で、消極的でした。

それでも、広島市議会が声を挙げたことで、世界遺産登録への署名運動が活発になり、ついに政府を動かします。

当時の首相であった羽田孜首相は、

「条件に当てはまらないなら、登録への条件や要素を揃えよ。」

と、逆転の発想であるかのような指示を通達します。

この一声で、事態は一気に前進、世界遺産への登録へと繋がることになりました。

なお、世界遺産登録委員会における採決において、

アメリカは「戦争遺跡は世界遺産リストに含めるべきではない」と反対表明
中国は、「我々は、今回の採択から外れる」と意見表明を自ら拒否

した中での世界遺産登録となりました。

 

4.小説「黒い雨」

戦争や原爆を題材とした映画や小説は、多数出版されています。

今回は、井伏鱒二の「黒い雨」という小説をご紹介します。

「黒い雨」とは、原爆が投下された直後、放射物質を含んだキノコ雲を巻き込んで降った黒い雨のこと。

小説は、原爆が投下された1945年8月6日から、終戦の8月15日までの出来事、体験を、1人の主人公:閑間重松の目線から、「被ばく日記」という手記の形で進んで行きます。

主人公以外の多くの登場人物から語られる、原爆投下の瞬間とその後数日の体験は、地獄と化した広島市の様子を克明に、残酷なほど真っ直ぐに描いています。

また、主人公を含め、主要な登場人物はみな原爆病に苦しめられている中、大きな火傷も負わず原爆から生き延びたはずの姪、矢須子が、黒い雨に打たれ、広島市を彷徨った際に負ったかすり傷で原爆病に蝕まれていくストーリーは、原爆の悲惨さを物語っています。

 

物語を通して印象的なのが、誰もが投下された爆弾が「原子爆弾」で、それがどのような影響を人体に与えるか、知らないこと。

人類史上初めて投下されたものなので、当然と言えば当然ですが、小説内では「ピカドン」と呼ばれる原子爆弾を、人々は新手の毒ガス爆弾や菌をばらまく爆弾ではないか、と推測しています。

5.原爆がもたらしたもの

原爆が人類にもたらしたもの、それは何だったのでしょうか。

筆者が先ほどの「黒い雨」を読み、原爆ドーム、広島平和記念資料館を訪れて感じたのは、原爆によって、人々は戦争以上の恐怖があることを体感したのではないか?ということ。

戦争によって、多くの人々が命を落とし、国を懸けた争いが行われる。

実際に戦争が起こり、それを目の当たりにしても戦争はすぐに終わるわけではありません。そこには、戦争下を生きる人々が、それぞれに、例えそれが過ちであっても、「戦争をする」ことに対する大義や正義を見出そうとしていたからではないでしょうか。

ですが、原爆がもたらしたものは、戦争が行われる国であり、世界、地球をも破壊し、この世を地獄に変える力が存在する、ということを知らしめた事。

その単なる「モノ」は、一瞬で国を、世界を、そこに懸けていた人々の営みを破壊しつくしてしまうのです。

 

6.原爆ドームが世界遺産になった意味

2016年、オバマ大統領が広島を訪れた際に記したメッセージ

最後に、原爆ドームが世界遺産となった意味について考えてみたいと思います。

他の日本の世界遺産は、日本が生み出した文化や自然、伝統の世界的な価値が認められたことで登録されたものです。

つまり、それは日本が誇るべき、継承すべき大切な資産でもあります。

それに対して、原爆ドームはどうでしょうか。

筆者が思うに、原爆ドームは日本だけでなく、世界が生み出した遺産です。

そして、その遺産が伝えているメッセージもまた、世界に向けられているのです。

「平和」の意味を問いかける負の世界遺産、原爆ドーム。

それは、人類が犯した「過ち」を今も私たちに見せつけているのであり、「戦争」以上の悲劇がこの世に存在することを表しているように思います。

 

皆さんも、原爆ドームが我々に伝えているものについて、ぜひ広島を訪れて考えてみてください!

 

(参考:「原爆ドーム 21世紀への証人」中国新聞社 編、「黒い雨」井伏鱒二 新潮文庫)

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