【世界遺産】平泉を100倍楽しむためのマメ知識(準備編①:平泉である理由)

2011年に世界遺産として登録された、岩手県平泉。

世界遺産の正式な登録名は、「平泉 ─仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」となっています。

奥州の都が平泉に置かれた理由、それは偶然ではなく重要ないくつもの理由があったのです。

今回は、平泉という地が選ばれた理由に迫ります!

 

平泉と藤原清衡をもっと知るために

平泉をより深く楽しむために、その創健者である奥州藤原氏の初代当主、藤原清衡の物語も合わせてご覧ください。

【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(前篇)
【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(後篇)

この記事は、上の2つの記事でご紹介している「後三年の役」後のお話から始まります。

後三年の役後の清衡

前九年の役(1051年-1063年)と後三年の役(1083年-1089年)を生き抜いた藤原清衡。

この2つの争いにより、安部氏、清原氏は滅ぶことになります。

前九年の役により、姓を清原に変えた清衡は、後三年の役を終えて再び姓を藤原に戻しました。

後三年の役の後、それまでの安部氏、清原氏が担っていた奥州六郡・山北三郡の俘因長を引継いだ清衡は、その後、京の藤原家との親密な関係を築き、着々と奥州での勢力を伸ばしていき、奥州の押領使に任命されます。

ここで、俘因長と押領使について簡単にご説明しますと、
・俘因長:朝廷の政権に従って、蝦夷の取りまとめを行うリーダーのようなポジション
・押領使:国府の隋兵を従えて、国内の治安や年貢の取りまとめ、運搬までにも携わるに役職(ここでの「国」は、奥州のこと。)

もともと正当な藤原氏と安部氏の血を引継ぐ清衡にとって、奥州で力を蓄えるためには、「清原」という姓よりも「藤原」のほうが都合が良かったように思います。

 

平泉に都を置いた理由とは?

 

現在の平泉駅前

さて、押領使に任命された清衡は、奥州の都の造営に乗り出します。

その場所に選んだのが、ここ平泉でした。

実は平泉を都の場所として選んだ背景には、いくつかの深い理由があったのです。

奥州の「中心」

平泉はまさに奥州の「中心」!(Google Map)

地図で平泉の位置を確認してみると、面白いことに気が付きます。

清衡の時代、陸奥国は、関所が置かれた白河の関から以北とされていました。

そこで、白河と青森県の外ヶ浜、その間にある平泉を繋いでみると・・・

なんと、平泉は白河と外ヶ浜のほぼ中心地に当たることが分かります。その距離も、約230kmとほぼ一致する、とても正確な場所です。

それもそのはず、清衡は奥州の整備に際して、白河の関を通じて東国へと続く奥大道を、北は外ヶ浜まで整備しました。その際、一町(106メートル)ごとに笠卒塔婆を建て、その表に金色の阿弥陀如来を図絵したと言われています。

そして、この道のちょうど真ん中に中尊寺の建立を計画したのです。

四神具足の地

平泉は、古代中国から伝わった風水の考えからも、とても縁起の良い場所であるとされていました。

その理由が、「四神具足の地」と考えられていたからです。

四神とは、青龍・白虎・朱雀・玄武を指しますが、それぞれの霊獣が特定の方角を司っていると考えられています。つまり、

青龍=東、白虎=西、朱雀=南、玄武=北

です。

ちなみに、平城京跡の朱雀門も、平城京の「南」の正門であることから、南を司る朱雀の名前が入っています。

平泉の上空図(Google Map)

さて、平泉の上空図を見てみましょう。地図真ん中が現在の平泉町になります。

風水では、東に流水、西に大道、南に池、北に岳がある場所が望ましいとされていました。

地図と照らし合わせてみると、東に北上川、西には昔、大奥道という東国への道が清衡によって整備されていました。そして、南には低湿地帯があり、北には関山(中尊寺の山号)があり、まさに風水上の条件と一致していることが分かります。

平泉造営に見える、清衡の意思

平泉駅

「平泉」という場所が持っている重要な意味について、2つご紹介してきましたが、ここで改めて当時の清衡の状況を考えてみます。

先ほど記載した通り、清衡は後三年の役の後、奥六郡・山北三郡の俘因長と陸奥国の押領使に任命されます。

この、「奥六郡・山北三郡」というのは、平泉の少し北にある衣川から北の領域(現在の秋田、青森県まで)でした。

中尊寺がある山号は「関山」と名づけられましたが、ここには当時奥六郡との境である関所があったことから、「関山」と名付けられたと言われています。

俘因長が蝦夷を取りまとめる役割だったとお話ししましたが、当時、奥六郡・山北三郡は蝦夷の地と考えられ、根強い差別の対象となっていました。

また、これを踏まえると、当時の清衡には、奥六郡の管轄外である平泉を治める権限は有していないことになります。

それではなぜ、清衡は敢えて自分の管轄外である平泉に、都の造営をこだわったのでしょうか。

蝦夷という「差別」との戦い

【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(前篇)
【世界遺産】平泉に込められた平和への願いの物語(後篇)

この2つの記事でもご紹介してきた通り、清衡はそれまでの人生で「蝦夷」という差別を何度も目の当たりにし、それによって争いが引き起こされてきたことも身を持って経験してきました。

そもそも「蝦夷」という差別は、当時の都、教徒から遠く離れた「みちのく」の地では、まともな文化も浸透しておらず、野蛮な人々が暮らしている、という偏見が生み出したものです。

清衡は、そんな偏見や差別に対抗するため、京の都にも負けない、立派な都をここ平泉に造ろうと考えました。そして、その拠り所としたのが、仏教という文化の力だったのです。

「力では争いを生むだけで、何も解決しない。人々が心の拠り所としている、仏教の力を体現した、京の都にも引けを取らない都を造れば、人々の見る目も変わり、差別も無くなるのではないか-。」

そんな思いを抱いていたのかもしれません。

清衡が、奥六郡からわずかに衣川を超えて平泉に都を造った理由。それは、まず「蝦夷の地」から一歩を踏み出すことだったのです。

物理的な距離はそれほど大きくありません。ですが、それが持つ意味は、当時の日本の状況を知ると、とても重要なことだったと分かります。

 

いかがでしたでしょうか。

第1回目は、「平泉」という場所が持つ大事な意味についてご紹介しました。

次回は、いよいよ世界遺産の構成資産となっているスポットをご紹介します!

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