【世界遺産】二条城を100倍楽しむためのマメ知識4選

京都の世界遺産の1つにも数えられている二条城は、文化的な意義はもちろん、日本の歴史の中でも特に政治的な側面を担った存在である点で他とは一線を画す存在でもあります。

・二条城が建てられた理由は?
・歴史を幾度も動かした、二条城での出来事とは?
・二条城にしかない文化的価値とは?
・日本の中心が東京に移ったきっかけは二条城にあり!?

これを読めば他にはない二条城の魅力と価値が分かります!

1.二条城創建の理由

時は1602年、徳川家康は西国の大名に二条城の造営を命じ、わずかその翌年、1603年に二条城が完成しました。

1602年と言えば、「天下分け目の戦い」と言われた関ヶ原の戦いの直後です。

豊臣秀吉が天下統一を果たしてようやく平和な世の中が訪れたと思われましたが、それもつかの間、秀吉の死後、五大老による集団的な運営が行き詰まり、再び覇権争いが繰り広げられました。

そして、この関ヶ原の戦いに勝利し、その覇権を決定的なものにしたのが徳川家康。

もともと東国、江戸を拠点としていた家康が京都に二条城を構えた理由は、容易に想像がつきそうです。

1つ目は当然、徳川家の強大な勢力と権力を世に知らしめること。

いかに強大な権力を有しているかは、目に見える形で示すのが一番!ということで立派なお城を造った、というわけです。

実はこのほかにももう1つ理由がありました。それは何でしょうか?

 

天皇、公家への圧力を見せつける

それは、他の諸大名だけでなく、天皇や公家にも自らのパワーを見せつけて威圧し、圧力をかけることです。

それまでの貴族中心だった時代から、武士の時代へと転換した鎌倉時代。

強い武力を武器に、天皇や公家の存在感は一気に薄れ、財力さえも乏しくなっていき、天皇がお住まいになる御所(内裏)を造営、整備するのにも十分な人手と財力が無くなっていきました。

そこに手を差し伸べたのが、時の将軍源頼朝。一見矛盾しているようにも見える、将軍から天皇・公家への手厚いサポートにはもちろん理由があります。

頼朝は、天皇や公家を支えることで、天皇をもしのぐ権力と財力があることを世の中にアピールしたのです。さらに、サポートをしてもらっている以上、あまり余計な口出しができなくなるということも見込んでいたのかもしれません。

これ以降、江戸時代に入るまで武家のトップである将軍が天皇や公家を支えることは一種の慣習のようにまでなりました。

徳川家康が二条城を構えたもう1つの理由も、この慣習を意識したもの、つまり天皇や公家に向けられたものと考えられます。天皇や公家に本当の権力者の存在を見せつけ、けん制する意味で二条城を京都に築いたのです。

その証拠に、二条城は京都のど真ん中、京都御所のすぐ西南、まるで天皇を見張っているかのような場所に建てられました。さらに、家康が造営した時の二条城には5層の天守閣があったと言われています。

朝廷(天皇)をはるかに凌駕する権力の象徴として、天皇だけでなく日本中ににらみを利かせるために二条城は建てられたのです。

 

2.歴史を幾度も動かした二条城

さて、そんな二条城は権力の象徴という飾りのためだけではなく、実際に日本の歴史を幾度となく動かすことになった日本の中心でもありました。

いくつか日本の歴史が動いた出来事をご紹介しましょう。

1603年:二条城にて征夷大将軍宣下の賀儀が執り行われ、徳川家康は征夷大将軍に

家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開き、ここに江戸時代の幕が上がることになります。

この出来事は日本史でも特に有名ですよね。

 

1611年:二条城にて家康と豊臣秀頼が対面

豊臣秀吉の死後、あまりに幼かった秀頼を支える名目で五大老がその実権を握っていましたが、その秀頼が成人して立派な大人になった際、二条城に赴いて家康との対面を果たします。

立派な成人になった秀頼を見て、家康は豊臣氏を徹底的に叩き、滅亡へと追いやる決意をしたと言われているエピソードをご存知の方も多いのではないでしょうか。

家康がこのような決断を下した理由はいろいろ考えられますが、成人した秀頼のカリスマ性に脅威を感じた、との考えも多いようです。

その後、大阪冬の陣、大阪夏の陣を経て豊臣氏は滅亡しますがこの時、二条城は徳川方の本陣が置かれた場所でもあります。

 

1867年:徳川15代将軍慶喜が大政奉還を発表

先ほどの大阪冬の陣、夏の陣からいきなり江戸時代の終わりに飛んでしまいますが、徳川最後の将軍慶喜が大政奉還を行ったのも、この二条城でした。

大政奉還とは、簡単に言ってしまえばそれまで日本を仕切っていた権限を朝廷、つまり天皇にお返しします、ということ。

これは日本の歴史のなかでも1、2を争うビッグイベントです。

というのも、これをもって鎌倉時代から続いた武家社会は終わりを告げ、ここから日本は近代化へ歩みだすことになるからです。

 

いかがでしょうか、やはり時の権力者の徳川氏により、政治の中心であった京都に建てられたということもあり、重要なイベントには必ず二条城が舞台となっていたのがよく分かりますよね。

 

存在感の無かった江戸時代

これだけ日本の歴史の中心であり続けた二条城ですが、実は江戸時代を通してみるとあまり使われていなかったのです。

家康の後、二代目秀忠、三代目家光が立て続けに改修を行い、1626年に後水尾天皇と中宮和子(秀忠の娘)が行幸を行うなど、華やかな時代もあったものの、その後1634年に家光が訪れて以来、次に将軍家が訪れたのはなんと14代将軍家茂の時代。

この間なんと約230年!

将軍家が訪れない間も、もちろん二条城を整備する役回りが与えられて維持はされていました。

日本の中心が江戸になったことで、京都の存在がいかに薄れていたかがよく分かりますよね。

 

3.二条城の文化的価値

二の丸御殿(国宝)

続いて、二条城の文化的な価値について見ていきましょう。

二条城の一番の見どころは、何といっても国宝に指定されている二の丸御殿です。

この二の丸御殿は、家康から家光が造営を行った江戸時代初期に造られたものがそのままの形で遺されたもので、御殿はいずれも武家屋敷の建築様式として室町時代に広がった書院造となっています。

大阪城や江戸城などの御殿はすでに失われていることから、このような場内の御殿群を当時の姿のまま観ることができるのはこの二条城だけでしょう。

これだけでも文化的な価値はかなり高いと言えますが、なんせ天下人が造り政治の中心であった場所がこのように現存していることでさらにその価値は跳ね上がります。

二の丸御殿の詳しいご紹介は別の記事で改めるとして、今回は簡単にその構成についてお話ししたいと思います。

 

二の丸御殿の構成

二の丸御殿の見取り図

遠侍(とおざむらい)

二の丸御殿の南側に設けられた入口から入った場所にあるのが、遠侍と呼ばれるスペースです。

この遠侍は二の丸御殿でも最大の建物となっており、八室から構成されており、諸大名の控えの間として使われていました。

部屋は上段と下段に分かれており、上段には違棚(ちがいだな)や帳台構(ちょうだいがまえ)が造られています。違棚とはその名の通り、二枚の棚を左右に食い違いになるように組まれた棚のことで、上と下の棚にそれぞれ装飾品などを置くために設けられています。

もともと違い棚に筆やすずりを置いたことから、この違棚を有する建築様式を書院造と呼ぶようになったのです。

帳台構とは、上段の横側の壁に造られたふすま、納戸などのことを言います。

ちなみに、この遠侍の一の間から三の間は「虎の間」と呼ばれており、虎が描かれた襖絵で有名です。虎が描かれている理由として、来客に権威を示すためと言われています。

 

式台(しきだい)

遠侍と大広間の間にあるのが式台と呼ばれる建物です。

ここは家臣のための部屋とされ、将軍に従って入洛した幕府の老中たちが詰めていた場所と言われています。

この建物の室内には見事に左右に枝を伸ばした松の木が描かれており、次の大広間へと続く空間を演出しています。

 

大広間(おおひろま)

ここが二の丸御殿のメインの建物と言えるでしょう。将軍が諸大名と対面する場となっています。

この大広間の室内にも見事な松が描かれていますが、これは常緑樹の松が政権の永続と繁栄を願う象徴として考えられていたためです。

さらに松のほかに錦鶏鳥(キンケイ)やクジャクといっためでたさを象徴する鳥が描かれ、華やかさを演出。
第四の間には猛禽類のタカやワシが描かれています。これは将軍の威厳を示すためで、同じ面に描かれている松のサイズと比較して実際よりも大きく描くことで、その威厳が強調されています。
さらに、家康は鷹狩りを好んだことからもタカが描かれたのではないかと言われています。

 

黒書院(くろしょいん)(小広間)

大広間の奥にあるのが小広間とも呼ばれている黒書院です。

こちらは将軍の内向きな対面所として使われ、私的な応接室としての機能を有していました。部屋の壁やふすまには松竹梅や桜、ボタンなどの植物も描かれており、親密な雰囲気の演出に一役買っているようです。

 

白書院(しろしょいん)

最も奥にあるのが白書院と呼ばれる、将軍の居間・寝所スペースです。

他の建物と異なり、白書院のみ室内は水墨画が描かれています。これは将軍の居間・寝所であるため、リラックスできる雰囲気を生み出すためと言われています。

 

いかがでしょうか。それぞれの建物ごとに違った特色があり、何より室内の天井や壁、ふすまに見事なまでに描かれた絵画は必見です。

 

二の丸御殿の造り

さて、先ほどの二の丸御殿の案内図を見て頂くと、なにやら建物全体が階段のように造られていることが分かります。このような形から、雁行形と呼ばれているのですが、なぜこのような形になっているかお判りでしょうか。

それは、どの建物からも外にある庭園を眺めることができるようにするためです。また、室内に多く描かれている松が、扉の向こうに広がる庭園と一体感をなす演出も考えられています。

ここまでの演出を考えての造りには、さすがという他ありません。

当時は庭の正面に能舞台が設けられたとも言われています。

 

二の丸御殿を彩る狩野派の障壁画

二の丸御殿の貴重な価値は、何といっても3000面以上にも及ぶと言われている障壁画でしょう。このうち1016面が重要文化財に指定されており、これらの障壁画は後水尾天皇の行幸に際して狩野探幽をリーダーとする狩野派によって製作されたものです。

まさに狩野派の作品の宝庫ともいえる二の丸御殿。

その生き生きとして生命力の力強さすら感じる障壁画をぜひご自身の目で楽しんでみてください。

 

4.二条城が伝える幕府と朝廷(天皇)の関係

この記事の最初に、二条城は徳川将軍が天皇をもしのぐ圧倒的な権力を世に知らしめるために建てられたとお話ししましたが、最後に幕府と朝廷(天皇)の関係について、二条城が私たちに伝えてくれるものをご紹介しましょう。

 

まず、朝廷を凌駕する権力を持ちながらも、それを前面に押し出していたわけではありません。

例えば、二条城の入口は東側に設けられていますが、これは通常南側に入口を設ける朝廷(天子南面)に配慮したものと言われています。

ここからも、朝廷をある部分では尊重する幕府の姿が見えてきます。

 

朝廷と幕府の関係を決定づけた禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

先ほど歴史を動かしてきた二条城での出来事をご紹介しましたが、1615年に2代目将軍秀忠がこの二条城で禁中並公家諸法度を発布しました。

この法令は、誤解を恐れずに言うと幕府と朝廷の役割を明確にしたもので、朝廷や公家は勉学に励むのが仕事、一方で国の政は幕府が行うことがはっきり示されたのです。

これも実は日本の歴史上では結構インパクトのある出来事で、これで江戸幕府は堂々と日本の統治を行う権限を世に知らしめたのです。

 

なぜ秀忠、家光は二条城を改修したか

石垣も家康の造営と家光の造営では築き方が異なる

現在の二条城に天守閣は残されていませんが、一番最初に家康が築いたときに五層の天守閣が造られたことはお話ししました。この時の天守閣は望楼型と言われる形をしていました。

一方で、秀忠・家光が改修した天守閣は層塔型と言われる、五重塔のように上に行くほど小さくなる形をしていたと言われています。

同じ世界遺産の東照宮の記事でご紹介しました通り、神格化された家康が造ったものを秀忠・家光は一度壊して造り替えた、というのは少しびっくりしますよね。

なぜそれほどまでして新しい形を作る必要があったのか。

これこそ、二条城が時代を象徴する建物だったと言えるでしょう。つまり、秀忠・家光は二条城を生まれ変わらせることで、改めて新しい時代の到来や幕府の権力を演出したかったのではないでしょうか。

 

大政奉還後の二条城

1867年に大政奉還が行われた後、明治天皇が初めての行幸として訪れたのもやはり二条城でした。そして、二条城で明治天皇は倒幕、徳川慶喜親征の詔を発せられました。

時代は変わったことを世に知らしめるためにも、明治天皇は二条城に赴いて詔を発する必要があったのです。

その後二条城には太政官が一時的に置かれましたが、この後明治天皇は京都から離れることを決意し、江戸へと身を移しました。ここにも「新しい時代の到来」の演出があったのではないでしょうか。

つまり、代々徳川家が権力の象徴として利用していた二条城に天皇が居座ったとあっては、単に日本のトップが変わっただけで、時代そのものが変わったとなかなか実感することはできません。

それを払しょくするためにも、二条城を捨てて天皇は江戸へと移ったのです。

 

最終的に二条城は二条離宮として、宮内省の管轄下に置かれました。

 

菊と葵の紋章

二条城:唐門

最後に、幕府と朝廷の関係を象徴するお話を。

徳川家と言えば葵の紋章、そして日本政府の紋章といえば菊ですよね。

大政奉還後、政府は二条城の葵の紋章を菊の紋章に上塗りしました。

唐門をご覧いただくと、立派な菊の紋章を観ることができますが、二の丸御殿には今も徳川家を象徴する葵の紋章が残されています。

紋章からも徳川幕府と政府の関係と歴史を見ることができるのです。

 

いかがでしたでしょうか。

京都の世界遺産の中でも、日本の歴史の変わり目や政治的な側面も感じることができる二条城。

ぜひ一度訪れて、歴史のロマンに思いを馳せてみてはいかがでしょうか!

 

(参考:「元離宮 二条城」京都新聞出版センター、「二条城展」東京江戸東京博物館他、光村印刷)

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