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【世界遺産】アンコール・ワット(アンコール王朝)はなぜ滅亡したのか?その謎に迫る!

カンボジアが世界に誇る世界遺産、アンコール・ワット(アンコール遺跡)。東南アジアにおいて、9世紀から約600年の間、大きな栄華を極めたクメール人のアンコール王朝は15世紀に幕を下ろしました。600年も続いた王朝はなぜ滅亡してしまったのでしょうか。「密林の遺跡」、世界遺産アンコール・ワットの謎に迫ります!

1.【世界遺産】アンコール・ワットとアンコール王朝の概要

日の出前のアンコール・ワット

現在のカンボジア、シェムリアップ州にかつて大帝国を築いたアンコール王朝。クメール人(カンボジア人)による初めての王朝が誕生したのは802年のこと。
JayavarmanⅡ(ジャヤヴァルマン2世)がそれまで真臘国(しんろうこく)として知られていた国内での権力争いを制し、プノン・クーレン丘陵にて王位を宣誓したことに始まりました。

ジャヤヴァルマン2世によりアンコール王朝が興った後も、決して600年間王朝が安泰だったわけでは無く、王位継承時の争奪を巡る争いや、隣国(現在のベトナム:チャンパ国やタイ:シャム国)との関係性がありながらも、それでもアンコール王朝は東南アジアにおいて勢力を拡大し、現在のベトナム、ラオスやタイの一部を支配下に治めるほどになったのです。

アンコール王朝の最盛期と言われているのが、12世紀から13世紀前半にかけての頃であり、この頃にアンコール遺跡の中でも最も有名で規模も大きいアンコール・ワットやアンコール・トム(バイヨン寺院)が造営されました。

圧倒的な存在感のアンコール・ワット

現在世界遺産に登録されているアンコール遺跡は、シェムリアップ州において主にトンレサップ湖西北岩一帯に残されている石造遺跡群一帯が登録の対象となっています。ですが、この世界遺産と言えばおそらく誰もが「アンコール・ワット」を真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。

カンボジアの国旗にも描かれており、カンボジア人にとっても心の拠り所でもあるアンコール・ワットは、1113年から1150年頃にアンコール王朝を治めたSuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)によって創建が始まり、おおよその完成まで30年以上を費やしたと言われています。

寺院は東西1,500メートル、南北1,300メートル、幅200メートルにも及ぶ環濠に囲まれ、その広さは200ヘクタール、東京ドーム約15個分にも及ぶ広さで、寺院の中央にそびえる、聖山須弥山を模した5つの尖塔の中で最も高い高さを誇る中央祠堂は65メートルにもなり、アンコール遺跡の中で最も高い塔堂となっています。

アンコール・ワットに限らず、ピラミッドや百舌鳥古墳群、タージ・マハルなど、規模が大きい遺跡というのはそれを造った時の権力者がいかに大きな権力と力を持っていたか、それを表す象徴でもあり、アンコール・ワットがアンコール王朝において最も勢いのあった時期に造られた事を示しています。

アンコール・ワットとアンコール遺跡についてこちらの記事でご紹介していますので、合わせてお読み頂くとよりこちらの記事をお楽しみいただけます。

2.【世界遺産】アンコール・ワット(アンコール王朝)滅亡の謎

アンコール王朝の滅亡とその謎

12世紀に造られたアンコール・ワットでしたが、そこから300年も経たない1431年、アンコール王朝は現在のタイで14世紀に興ったアユタヤ王朝の軍による侵攻で陥落し、600年続いたアンコール王朝は終わりを迎えることになりました。

アンコール王朝が802年に興ってからその後、隣国との関係が安定していたわけでは無く、何度かの争いを繰り返しながら時には領地を奪われ、また奪還を経て勢力を維持しながら拡大したことを考えれば、隣国のアユタヤ朝による侵攻によってアンコール王朝が陥落することも想像に難くありません。

ですが、日本の歴史を振り返ってみても、アンコール王朝が興った802年以降、600年も続いた時代は存在していません。

それを考えると、いかにアンコール王朝が盤石な勢力と支配を誇っていたかということであり、まただからこそ、隣国からの侵攻で陥落したというのも事実ではあると思うものの、それ以外にもアンコール王朝の滅亡につながった理由があるのではないか-。
アユタヤ王朝の侵攻による滅亡という通説以外にも、アンコール王朝の滅亡は多くの要素が複雑に絡み合って起こったものだと歴史学者たちは考えています。

歴史を示す史料

アンコール・ワットの回廊壁画

これまで、アンコール王朝の実態やその時代の人々の暮らしぶり、社会を知る手がかりとなったものを2つご紹介しておきます。

アンコール遺跡その他東南アジアに残された石碑文

アンコール遺跡は石造遺跡群のため、アンコール王朝時代は石造建築が主流だったと思われる方も多いかと思いますが、石造で造られたものはあくまでも重要な寺院や王宮のみで、庶民の家は木造で建てられていました。このため、長い年月の中で木造建築物は腐敗してしまい、石造の遺跡だけが残ったというわけなんですが、当時を知る手がかりとして重要な情報源となったのは石で造られた碑文でした。

碑文は主にクメール人たちが日常生活で用いていたクメール語と、主に宗教信仰上の祭事や神々への奉納の記録として使われたサンスクリット語(インドから伝来)で記されています。

この他、アンコール・トムのバイヨン寺院の回廊壁画にも当時の庶民の暮らしを伝える彫刻が残されており、こちらも当時の様子を知る貴重な手がかりになっています。

周達観の「真臘風土記」

1296年、当時の中国(元)の使節団に同行してアンコール王朝を訪問した周達観によって記された「真臘風土記」は、当時のアンコール王朝での滞在時に見聞きした情報を詳細に記録したものであり、こちらも当時のアンコール王朝を知る重要な史料となっています。

 

日本の歴史は様々な史料に基づいてその詳細が明らかになっていますが、それに比べるとアンコール王朝を知る手がかりとなる史料は少ない印象を受けますよね。

また、石碑の碑文に関しても、明確に記された年が明記されているもので確認できているのはサンスクリット語で書かれたものが1295年、クメール語のものはバイヨン寺院で見つかった1327年のものとなっており、それ以降は石碑の数も減少し、また明確にどの時代の記録かが分からないものばかりとなっています。

それでは、最近の調査によって考えられたアンコール王朝滅亡の原因に関する仮設をご紹介しましょう。

3.【世界遺産】アンコール・ワット(アンコール王朝)の滅亡に関する近年の調査

バイヨン寺院

①ヒンドゥー教から仏教へ回帰したことによる影響

アンコール王朝においてアンコール・トムのバイヨン寺院を創建したのがJayavarmanⅦ(ジャヤヴァルマン7世)でした。ジャヤヴァルマン7世は、隣国のチャンパ王国にアンコール都城を占領されていた当時の状態からアンコール都城を奪還し、再びアンコール王朝を盛り上げた王であり、彼の治世においてアンコール王朝は最もピークを迎えます。

このジャヤヴァルマン7世がそれまでの歴代の王と大きく違っていたのは、ヒンドゥー教ではなく仏教を推進したこと。

これによりアンコール王朝において、ヒンドゥー教寺院から一変、仏教寺院の設置が進むわけですが、病院や宿所といった福利厚生制度を大規模に整備したのも、仏教的な思想に基づくものがあるのかもしれません。

それまでアンコール王朝は、歴代の王がヒンドゥー教の信仰をベースとして神々と交信し、現世を支配する言わば「現人神」たる存在として君臨することで人々の信仰を集めていました。つまり、ヒンドゥー教はアンコール王朝が存続するうえで欠かせない基盤だったのです。それが、仏教に様変わりしたことでおそらく王政やその支配体制にも少なからず変化があったものと考えられます。

例えば研究者の間では、それまで中央政権が地方のヒンドゥー教寺院の創設や維持に一定の援助をすることで地方支配体制を維持してきたのが、仏教の台頭によりそのような支配体制が成立しなくなり、各地域独自でパゴダ(仏塔)を造り仏教信仰が浸透したことで、徐々に中央集権から地方分離体制が進んでいき、盤石な王政に揺らぎが出始めたのではないかとの考えもあります。

そのほか、ジャヤヴァルマン7世が築き上げた政治体制を同等の力でコントロールできるほどの政治力を持った後継者が現れなかったことも衰退を加速させたかもしれません。

ジャヤヴァルマン7世の次に王に即位したJayavarmanⅧ(ジャヤヴァルマン8世)は、再びヒンドゥー教の推進を進め、それまで寺院に彫刻された仏彫刻を破壊するなど半ば強硬的な支配を行い、再びヒンドゥー教回帰を図りましたが、一度仏教に回帰したことで上座仏教が庶民の間に少なからず浸透し、その後のアンコール王朝の王政に影響を与えたのは間違いないでしょう。

石碑が13世紀以降少なくなるのも、上座仏教の浸透が1つの要因と考えられています。

②中国との交易(海路)が活発になったことによる地方経済力の発展

アンコール王朝が始まる以前から東南アジア地域では海路を利用した中国との交易が盛んに行われてきました。アンコール王朝時代でも、アンコール・ワットを創建したSuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)は積極的に当時の中国と交易を進めたことが知られています。

そして、中国とアンコール王朝の交易は14世紀後半、1371年から1419年にかけてピークを迎えるわけですが、海路を利用しての交易を行う上で、海から遠く離れた陸の平野に都城を構えていたアンコール王朝はアクセスが良いとはとても言えません。

アンコール王朝以前に東南アジアで興った扶南国(ふなんこく)において、港町であったオケオが栄えていたように、中国との交易においてより海に近い港町の経済的な重要性が増して、アンコール王朝の支配コントロールが難しくなった可能性が考えられます。

③大規模な気候変動

雨季(6月~10月)と乾季(11月~5月)がはっきり分かれるモンスーン気候が特徴の東南アジアでは、水の確保と稲作による安定的な食糧生産技術が国の存続に欠かせず、アンコール王朝も例外ではありません。

近年の水質気候調査により、アンコール王朝が衰退へと向かっていた14世紀後半から15世紀にかけて、大規模な干ばつが発生していたことが分かっています。この大干ばつは1345年から1374年にかけてと、1401年から1425年にかけて発生していたとみられています。異常気象による大干ばつが発生した一方でこれらの期間の間には異常なモンスーンが発生したと考えられます。

安定的な稲作や水源管理のために大規模な水路ネットワークを国中に敷いていたと考えられているアンコール王朝で、水源管理・灌漑の重要な役割を担っていたのが「バライ」と呼ばれる大きな貯水池です。
水質気候調査では、最も大きな西バライでは13世紀と14~15世紀にかけて、土砂の堆積が進んでいたことと、干ばつの痕跡が見つかっています。その一方で異常なモンスーンの発生時には川や池から水が氾濫し、人々の居住エリアにまで水が流れ込んでいたことも判明しており、このような異常気象によってアンコール王朝の灌漑、水源管理の機能が破綻し、王朝の衰退を招いたのではないかとも考えられています。

4.【世界遺産】アンコール・ワット(アンコール王朝)は滅亡していなかった!?

これまで、最終的に1431年のアユタヤ王朝による侵攻でアンコール王朝が陥落したと考えられている以外に、アンコール王朝の衰退を招いたいくつかの要因に関する仮設をご紹介しました。

最後に、もう1つ近年の調査で明らかになってきたことをご紹介します。それは、アユタヤ王朝による侵攻の跡も、アンコール・ワットは完全に陥落、放棄されたわけでは無い、ということです。

確かにアユタヤ朝による侵攻が行われた後、アンコール・トムは陥落し一時的に放棄されたものの、アンコール・ワットを含むそれ以外の領地では絶えることなく人々の生活の跡が残されていることが分かっています。アンコール・トムにおいても、もともとは11世紀に造られたBaphuon(バプーオン)も15世紀に仏教寺院としての機能を持たせるために、誰の指示のもと行われたかは不明なものの、一部改修が行われたことが分かっています。

このことから、アユタヤ朝はアンコール王朝を侵攻したものの、いわゆる植民地化や完全な支配関係を築いたのではなく、侵攻後もクメール人を重用し、彼らの文化や技術を尊重、融合する形で統一を図ったのではないかと考えられています。

もともとヒンドゥー教寺院として造られたアンコール・ワットも16世紀ごろには仏教寺院として生まれ変わっていることもあり、アンコール王朝陥落後もアユタヤ朝の仏教徒がここに居住を構え、大切に守り続けていたのではないでしょうか。

 

いかがでしたでしょうか。知れば知るほどアンコール王朝と、その衰退について興味を持っていただけると嬉しく思います。

実際にアンコール遺跡を訪れると、その広大な平野に残された石造遺跡に感動するでしょう。なかなかその広大な王国の跡の全体像が見えづらく、イメージがしにくい所もあるかと思いますが、今回ご紹介した内容を思い出しながらアンコール遺跡を巡ると、より楽しめると思います!

(参考:Carter, Alison & Stark, Miriam & Quintus, Seth & Zhuang, Yijie & Wang, Hong & Piphal, Heng & Rachna, Chhay. (2019). Temple occupation and the tempo of collapse at Angkor Wat, Cambodia Documentation of Angkor, Authority for the Protection and Management of Angkor and the Region of Siem Reap, Siem Reap, Cambodia. Proceedings of the National Academy of Sciences. 116. 10.1073/pnas.1821879116. )

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