短歌から探る!国宝・興福寺の阿修羅像が人を惹きつける理由

「阿修羅が指にともす銀の灯って何を意味している?」読者から世界遺産・興福寺の阿修羅像を詠んだ短歌に関するコメントが届きました。
そこで今回は、歌人たちが興福寺の阿修羅像に何を見てどこに惹かれたのか、短歌をご紹介しつつ、この疑問について考えてみたいと思います!

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イントロダクション:短歌に詠まれた興福寺の阿修羅像

歌人・永井陽子さんの「てまり唄」に出てくる阿修羅

興福寺の国宝・阿修羅像は、教科書や多くの雑誌・書籍、さらに過去には「国宝 阿修羅展」として東京国立博物館で特別展示がなされたこともあり、ご存じの方も多いことと思います。

そんな有名な興福寺の阿修羅像は、歌人たちの短歌にも登場します。その1つをご紹介しましょう。

天平の少女を抱くこともせず阿修羅が指にともす銀の灯

この短歌は、歌人の永井陽子さんが詠んだ歌で、歌集「てまり唄」の中の「阿修羅のサンダル」に収録されています。

「天平(てんぴょう)」というのは興福寺や東大寺が創建された奈良時代の年号でもあり、当時の文化は「天平文化(てんぴょうぶんか)」とも呼ばれています。

「阿修羅のサンダル」には他にも奈良の油坂や鹿、また、阿修羅像と同じく興福寺に安置されている迦楼羅(かるら)といった単語も出てくるため、この短歌の「阿修羅」は興福寺の阿修羅像を詠んだものと考えられます。

筆者がこの短歌を知ったのは、ある読者の方から届いたコメントからでした。

その方は短歌に出てくる「銀の灯」という言葉を理解するために、阿修羅像をご紹介した別記事を読んでくださったのですが、その記事ではお役に立てなかったようです。

そこで改めて、歌人たちは短歌を通じて興福寺の国宝・阿修羅像に何を見たのか、そこからこの阿修羅像が私たちを惹きつけてやまない理由を探りたいと思います。

短歌を楽しんで頂くため、この記事を読む上での注意事項

短歌に出てくる単語の意味は理解しておく必要があるものの、一方で短歌を読んで何を感じるか、どう解釈するかは人それぞれですし、読んだ時の状況によっても感じ方や解釈は異なってくると考えています。

ですので、この記事では阿修羅像など短歌に出てくる言葉の必要最低限の説明をするにとどめ、歴史的な背景や解釈については記載していません。

また、短歌のご紹介と合わせて筆者の解釈も記載していますが、あくまで短歌に無知な個人的によるものである旨、お断りしておきます。

【世界遺産】興福寺の国宝・阿修羅像ってどんな像?

阿修羅(あしゅら)と八部衆像(はちぶしゅうぞう)とは?

「阿修羅(あしゅら)」や「修羅(しゅら)」という言葉を聞いて、あなたはどのようなイメージを持たれるでしょうか。

きっと、鬼のような形相で怒りの顔つきをした像を思い浮かべるでしょう。

阿修羅というのは元はインドの神様で、同じくインドの神様であるインドラ(日本では帝釈天(たいしゃくてん)という名前)と戦いを繰り広げていたことから、戦闘神や悪神・鬼神とも呼ばれることもあります。

「北斗の拳」という大人気漫画をご存じでしょうか。この漫画でも「修羅の国」という国が登場します。

この国に生まれた男子は12歳から15歳までの間に100回の死闘を行う通過儀礼が定められており、この国では常に戦いや争いが繰り広げられている―。

そんな状況で生きていたらどんな人だって顔は怒りで強張り、常に憤怒(ふんぬ)に支配されることになるでしょう。阿修羅像の形相はそれを表しています。

ちなみに、阿修羅は仏教の教えに帰依(きえ:仏教の教えに従うこと)した存在として、仏教においては釈迦如来(しゃかにょらい)を守る守護神としての存在になっています。

八部衆像(はちぶしゅうぞう)というのは釈迦如来を守護する八体の神様のことであり、阿修羅もこの八部衆像に含まれています。

興福寺の八部衆像と阿修羅像の特徴

興福寺の阿修羅像を詠んだ短歌をご紹介する前に、興福寺の八部衆像や阿修羅像の特徴を簡単にご紹介します。

実物を実際に見て頂くことが一番なのですが、まずは興福寺のホームページでぜひご確認ください。

少年のような顔つき

先ほどご紹介したように、阿修羅像というのは通常は憤怒(ふんぬ)の表情で描かれる神様なのですが、興福寺の阿修羅像に限っては全く異なります。

まず顔つきが少年のようであり、それゆえか3面ある顔の表情もそれぞれに違っているものの、明確な怒りや感情というものが感じられません。

怒りというより葛藤、もしくは強固な決意、といった方がふさわしい印象を受けます。

阿修羅像だけでなく、沙羯羅像も少年のような顔つきです。

なんとも言えない繊細な表情が、見る側の想像や感情をかきたててくるのでしょう。

か細い手足

顔つきが少年のようであり、また像の大きさも153.4センチと大きくないため、阿修羅像の六つの腕も、戦いにはふさわしくないほどか細いものになっています。

阿修羅像に限らず、他の像も150センチ前後と小さいため、八部衆像という仏様を守護する存在にしてはどこか心もとない印象です。

阿修羅像の一般的なイメージと、興福寺の阿修羅像が確認できたところで、いよいよ阿修羅像を詠んだ短歌を見ていきましょう。

歌人たちが詠んだ興福寺の阿修羅像

今回は、興福寺の阿修羅像を短歌に詠んだ歌人として、永井陽子(ながいようこ)さんと水原紫苑(みずはらしおん)さんの歌をご紹介します。

永井陽子が詠んだ興福寺の阿修羅像

まず一人目は永井陽子さんという歌人です。

この方は「てまり唄」という歌集の小題に、興福寺の阿修羅を題したものを二つ作られています。

この短歌が詠まれた背景や、筆者自身の解釈(素人目線)は後ほどご紹介しますので、まずは純粋に短歌を読んでみてください。

読まれる際には、実際に声に出して読んでみることをおすすめします。

六臂(ろっぴ)なるふしぎの腕の腕釧(わんせん)を鳴らして過ぎぬ五月の風が (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

青麦のやうな背すぢをもて拒む阿修羅に似たりかの少年も (てまり唄・阿修羅のサンダルより)

天平の少女を抱くこともせず阿修羅が指にともす銀の灯 (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

月の夜に雄鹿はねむり境内を歩く阿修羅の板金剛(サンダル)のおと (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

少年のままなる阿修羅見て帰り今日もあまじろき葱一把買ふ (「てまり唄・阿修羅のサンダル」より)

鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅 (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

一番最初の短歌にある「六臂(ろっぴ)」というのは、六本の腕を持っていることを意味します。つまり、阿修羅像ですね。

さらに、「腕釧(わんせん)」というのはブレスレットのような装飾品のこと。こちらも興福寺の阿修羅像が身に着けているものです。

その他の歌には「阿修羅」という言葉と「天平」「少年」「鹿」という言葉が出てくるので、ここで詠んでいる「阿修羅」というのは一般的な阿修羅像ではなく、興福寺の阿修羅像を指していることになります。

興福寺の阿修羅像以外の八部衆像についても、永井陽子さんは次のような短歌を詠まれています。

よく見れば左手首のない迦楼羅 朱雀大路に春は来たりて (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

畢婆迦羅は音楽の神 金堂へヒガラコガラも来鳴きてあそぶ (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

絹張りの弥生の空を天平尺で測りてみたき五部浄のゆめ (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

迦楼羅、五部浄、畢婆迦羅が詠まれています。

これらの短歌も「朱雀大路」、「金堂」、「天平尺」といった単語が出てくることで、奈良の寺社で詠んだものと考えることができます。

水原紫苑が詠んだ興福寺の阿修羅像

続いて、こちらも有名な歌人である水原紫苑(みずはら しおん)さんが興福寺の阿修羅像を詠んだ短歌を一つご紹介します。

興福寺少年阿修羅にかなしみを与へし仏師の背や広からむ (「びあんか」より)

この短歌では明確に「興福寺少年阿修羅」と詠んでいます。

永井陽子さんの短歌とはまた違った雰囲気のある短歌ですね。

水原紫苑さんの短歌にはこれ以外にも「阿修羅」という言葉が出てくる短歌がいくつかあるのですが、そのうちの一つをご紹介します。

まなじりの清き阿修羅が乗りて来る午後の電車に死にゆけるたれ (「あかるたへ」より)

おそらくこの歌に出てくる「阿修羅」というのは興福寺の阿修羅像ではなく、一般的に想起される阿修羅という意味で使われているのではないか、と筆者は考えています。

いかがでしょうか。

永井陽子さん、水原紫苑さんという歌人が詠まれた短歌を読んでどのような情景、感情が沸き上がってきたでしょうか。

歌人・永井陽子と水原紫苑

真っ白な状態で永井陽子さん、水原紫苑さんが詠まれた短歌をいくつか読んで頂きましたが、二人の歌人の短歌に対する向き合い方が少し垣間見えるお話をしましょう。

永井陽子

永井陽子さんは父の信一が五十歳、母のとしが四十歳の時に次女として生まれました。

生まれたときにはすでに両親がある程度歳を重ねていたことについて、幼いながらに

「頼れるものがなにもなく、若いエネルギーに飢えていた」

と記しており、そんな中で近所の神社にあった大きな樟(くす)の木のたくましい生命力と、それを特に感じられる新芽の季節には思い入れがあったようです。

興福寺の阿修羅像を詠んだ「てまり唄」については1995年に刊行されたものの、制作期間が1987年から1993年までと、制作が終わってから刊行まで2年の空白期間があります。

その理由について、「てまり唄」のあとがきを少しご紹介します。

終日家より離れることのない母は、初午だの火祭りだの土地に伝わる行事を毎年同じように繰り返しながら、てまり唄でもうたうように、少しずつ少しずつ老いていった。

高齢だった父を亡くし、母親の晩年を二人で過ごしていた永井陽子さんは、母親が老いていく姿を身近に感じながら生活をされており、ここで歌集の題名となった「てまり唄」という言葉が出てきます。

(略)
どちらかというと私性の強いこれらの作品を人目に曝すだけの決心がつかないまま、稿は手元にねむって二年を越した。
けれど、外側の変化は容赦なくやってくる。
(略)
ここに歌った空間や血縁関係は、旅の地を除き、もうどこをさがしてもない。そのことに気づいた時、ようやく『てまり唄』を出版しておきたい気持ちになった。

最初は私的な要素が強かった「てまり唄」の短歌を公表することに抵抗を感じていたものの、詠んだ場所、その時の風景、時間、気持ち、そして母親への思いなどを形として残しておきたい、という気持ちが強くなった、ということでしょうか。

さらに、興福寺の阿修羅像にたいしても次のように記しています。

いつもの年のようにさくらが咲き、やがて近辺がつややかな緑に包まれるまで、私はやはり母のけはいとともに暮らした。さびしくなると、時々、奈良興福寺にいるあの少年のような阿修羅像を思い出しながら。

水原紫苑

筆者が今回ご紹介した短歌を読んだとき、永井陽子さんの短歌はどちらかというと奈良の風景(外的)がそのまま浮かんでくるのに対し、水原紫苑さんは目の前の阿修羅像ではなく、「阿修羅像を彫った仏師」に思いを馳せており(内的)、対称的なところが面白く感じました。

水原紫苑さんの歌集「びあんか」に対する論評に次のようなものがあります(そのまま記載)。

「白の女」といふ言葉は、時間・空間の枠を超えて遊行する水原紫苑自身のまつさらの魂をイメージングしてゐるやうに思はれる。

「びあんか」という言葉はイタリア語で「白い女」という意味だそうで、これに対して水原紫苑さんは特に何か出典があるわけではなく、ご自身の感性からこの題名を決められたようです。

この論評のように、水原紫苑さんは時間や空間といったものを飛び越えて、ある種の空想的な世界で自由に短歌を詠んでいると思うような短歌が印象的な歌人です。

針と針すれちがふとき幽かなるためらひありて時計のたましひ (「びあんか」より)

筆者の印象に特に残っているのがこちらの短歌です。

「モノ」である時計の針の動きに「魂」を見出し、ためらうようにすれ違う、という表現が何となく愛らしいなあと感じました。

よくよく考えると時計の針は長針も短針も同じ方向に回るので、すれ違うことはないのですが、これもいろいろ空想してみると面白いです。

水原紫苑さんは性やジェンダー、戦争を詠んだ歌も多いのですが、先ほどご紹介した興福寺・阿修羅像を詠んだ短歌は官能的なものを感じさせます。

短歌に見る、興福寺・阿修羅像

モチーフとしての興福寺・阿修羅像

永井陽子さんと水原紫苑さんの短歌で共通しているのは、どちらの短歌でも興福寺・阿修羅像を「少年」として見ていることです。

これはあの阿修羅像の表情や華奢な六本の腕を見れば、だれもがそう捉えるのではないかというぐらいで説明もいらない。

ではなぜそんな阿修羅像をモチーフとしたのか。

1つの理由としては、冒頭でお話ししたように興福寺の阿修羅像は我々が一般的に想起する阿修羅のイメージとかけ離れている、そのギャップにあるように思います。

このギャップという点で、二人の短歌をもう一度見てみます。

すると、水原紫苑さんの短歌では「かなしみ」という言葉が出てきますね。

一方の永井陽子さんの短歌では「おやすみ阿修羅」という言葉が出てきます。

この言葉はまるでなかなか寝付けない子どもに対して、言い聞かせるように安心させるような場面を思い出しませんか。

寝付けない=何か不安や悩みがある

そう考えると、永井陽子さんも水原紫苑さんも、子どもながらに大きなかなしみや迷い、悩みを抱えた姿を興福寺の阿修羅像に見たのではないでしょうか。

子どものような「小さな」体なのに、その表情には子どもらしからぬ「大きな」かなしみや迷いを抱えている―。

二人の短歌からはそのようなギャップが感じられます。

永井陽子さんが興福寺の阿修羅像について記したエッセイの一部を見てみましょう。

阿修羅は私にとって、たいへん華奢な少年像であった。現実の少年は必ず成人する前提のもとに少年たり得るわけだが、あの哀しそうな像だけは、永遠の少年として私のこころに在ってほしかった。

永井陽子さんにとって、興福寺の阿修羅は永遠の少年「だった」。ということが分かります。

が、「在ってほしかった」と過去形になっているのは、このエッセイの中で阿修羅像に髭があることを知ったからです。

このように永井陽子さんは純粋な少年像を興福寺の阿修羅に見ていたのに対し、水原紫苑さんは悲しみを背負ったある意味大人びた少年を阿修羅像に見出だし、それを生み出した大人の仏師に思いを馳せていることから、同じ「少年」でも二人が阿修羅像から感じたものは違うように思います。

阿修羅が指にともす「銀の灯」とは?

それでは、冒頭でご紹介した永井陽子さんの短歌に出てくる「指にともす銀の灯」の意味するところを考えてみたいと思います。

天平の少女を抱くこともせず阿修羅が指にともす銀の灯 (「てまり唄・おやすみ、阿修羅」より)

まず、興福寺の阿修羅像は「銀の灯」と呼ばれるようなものは持っていません。

「銀」の意味

短歌ではいろいろな色がよく用いられますが、銀も例外ではありません。

今回ご紹介した水原紫苑さんも、「銀」という言葉を使った短歌をいくつか詠まれているので見てみましょう。

朱を過ぎて銀に至れる憤怒あり一生なべての男を生かす (「びあんか」より)

阿修羅像もそうですが、怒りはよく赤で表現されることが多いと思いませんか。

この短歌では「朱を過ぎて銀に至る」となっているので、「銀」はさらに強烈な憤怒を表していると考えられます。

なぜ銀なのか。

これは筆者の推測ですが、赤や憤怒は炎をイメージさせ、炎はゆらゆらと揺れるものです。

この揺れを感情の波とすると、銀はまったく揺れの無い、より固いイメージがありませんか。

さらに言えば、炎はエネルギーを感じることができますが、銀は無機質なので、感情が無くより容赦ない印象を受けます。

にんにくと夕焼 創りたまへれば神の手うすく銀の毛そよぐ (「びあんか」より)

星々のかがやきいづるはつか前 鳴りてやみぬるフルートの銀 (「びあんか」より)

この二つの短歌で出てくる「銀」は、また違った印象を受けます。

一つ目の「銀の毛」からは、何となく年老いた人物の白くなった髪の毛が夕日の光に反射して銀のようにきらめいている場面を想像しました。

仮にそうだとして、ここで髪の毛を「白」ではなく「銀」としたのは、その前の説に出てくる「神の手」というどこか神々しいものからつながっているからでしょうか。

いずれにしても、単に年老いた姿ではなくそこに長い時間を生きた人間のある種の神々しさが表現されており、それを「銀」という言葉で表したのではないか、と感じます。

二つ目の句でも、おそらく月がまだ昇っていない夜空できらきらと輝きだした星と、おそらく手元か目に見える場所にあって音色は止んだフルートの銀、という二つの対象が面白いです。

さらにこの短歌では「フルートの銀」で終わっており、より銀の印象が残る歌になっています。

鳴りやんだフルートと夜空の星はとても静寂な場面を想像させますし、星とフルートの銀を重ねることでどこか悠久の時を感じるような壮大な歌のように感じました。

「銀の灯」の短歌を改めて読む

「銀」の意味をいろいろと考えてみたところで、改めて先ほどの短歌を読んでみます。

少年の姿に重ねた興福寺の阿修羅像ですが、「天平の少女を抱くこともせず」という一文からは、まだ無垢な少年像とも、逆に多感ゆえに「少女」には目もくれず何かに囚われている少年の姿とも想像できます。

そして最後の「指にともす銀の灯」

指にともしているので、その灯は小さいものでしょう。

ですが、「銀の灯」ですから、小さいながらも強固で永遠に変わることの無い意思や感情ということになります。

さらに阿修羅像は神様ですので、神々しさも当然にあるわけですが、少年と銀という一見似つかわしくない言葉を組み合わせることで、逆に銀の意味がより印象に残る気もします。

いずれにしてもこの句からは、

「永遠の時の中で不変、不滅の強い意思や感情を背負う覚悟を持った少年像」

というものが見えてきました。

これはあの阿修羅像の表情を見ればより感じるものの、それが怒りなのか、決意なのか、迷いなのかは分かりません。

興福寺・阿修羅像はなぜ私たちを惹きつけるのか

いかがでしたでしょうか。

世界遺産、興福寺の阿修羅像に少しでもあなた自身が感じた発見や気づきがあれば幸いです。

これほどまでに私たちを惹きつける興福寺の阿修羅像。

筆者が思うに、興福寺の阿修羅像が私たちを魅了してやまない理由は三つあると感じています。

矛盾するテーマ

一つ目はアンマッチなテーマにあります。

戦いの神である阿修羅なのに華奢な少年。

少年なのにどこかに憂いを帯びた表情。

普段我々がイメージする組み合わせと違うアンマッチなものを見ると、ついつい「なんでなんだろう?」と思ってしまいませんか。

しかも1,000年以上も前に彫られた仏像であればなおさらです。

無限の解釈ができる(答えがない)

二つ目の理由は、人によっていろいろな解釈ができるということ。

あの三面の阿修羅像はもちろん三面とも少しずつ表情が違っており、しかも特定の感情が表されたものではありません。

それゆえに、見る角度や光と影の加減などで繊細に表情が違って見え、見る時々でいろいろな顔を見つけることができます。

作者も遠い昔の人なので、どのような意図で表情を作ったのかを聞くこともできません。

答えが分からないからこそ、いかようにも解釈できる楽しさがあるとも言えますよね。

現在を生きる私たちにも感じる親近感

先ほども申し上げた通り、阿修羅像は神様なので親近感を覚えるといえば畏れ多いのですが、同じように感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

少年のような顔つきだからか、阿修羅像は日本史でたくさん見てきた過去の偉人たちの肖像画や彫刻よりも、何となく今を生きている私たちの顔に近い気がします。

今も昔も、生きるうえで誰しもがいろいろな思いを抱えながら生きているわけですが、あの阿修羅像の表情は繊細だからこそ、どんな思いにも寄り添える不思議な力があるのではないか、と思ってしまいます。

今回は短歌を通じて興福寺の阿修羅像について考えてみましたが、短歌は阿修羅像について何かを教えてくれるわけではありません。

ですが、いろいろな解釈や感じ方ができる阿修羅像だからこそ、自由に想像ができる短歌に詠むことで新しい気づきを楽しむことができます。

今回ご紹介した短歌から、あなたはどんな阿修羅像が見えましたか。

ぜひ教えてください!

(参考:「永井陽子 全歌集」 青幻舎、「水原紫苑の世界」深夜叢書社)