世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】フランスからの贈り物『自由の女神』の誕生ストーリー -エジプトの灯台との関係性-

アメリカのニューヨークといえば、世界遺産にもなっている自由の女神。

日本にもお台場に自由の女神があることから、ほとんどの方は一度は写真でも見た事があると思います。

緑色の大きい像で、自由の象徴になっている、ということはご存知の方も多いと思いますが、「さほどインパクトも大きくないしなぜ世界遺産に?」と思われる方もいらっしゃると思います。

この自由の女神、その誕生までのストーリーは意外とドラマチックでスケールの大きいものになっています。今回はそんな自由の女神の誕生ストーリーをご紹介します。これを読めば、自由の女神をより味わい深く、感動すること間違いなしです!

自由の女神の誕生ストーリー①フランスからアメリカへ贈られたもの

自由の女神
(出典:http://matome.naver.jp/odai/2142993917478828701/2142993928879043003)

自由の女神は、アメリカの独立100周年を記念して1876年にフランスからアメリカに寄贈されたものです。フランス革命100周年を記念して、とも言われています。

なぜフランスか?と言いますと、アメリカの独立というのはそれまでアメリカを支配していたイギリスからの独立でした。そしてフランスは、アメリカの独立に向けて支援を行っていたのです。

自由の女神の誕生ストーリー②自由の女神の父はフランス人

自由の女神2(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/edouard-de-laboulaye.htm)

自由の女神を造ろう!と最初にそのアイデアを生み出したのはフランス人の著名な政治思想家のエドワール・ド・ラブライエでした。彼がこのアイデアを最初に提案したのは1865年。

1865年といえばアメリカではとても重要な年です。そう、アメリカの南北戦争が終結した年でした。

もともとフランス革命に啓発され、民主主義、自由は誰もが生まれながらに持っている権利であるという考えを強く持っていたラブライエは、南北戦争の終結でアメリカが疲弊している時、まさに今民主主義と自由が求められている、と強く感じました。

さらに、南北戦争の終結によって奴隷制度が廃止されたことで、全ての人に正義と自由の象徴を創りだすことが可能になったと考えたのです。

ここからアメリカに自由の女神像が建つ1886年までの21年間をかけて、「自由と正義」の思想を強く信じて自由の女神を完成させようという強い信念を持った「一般人」によって自由の女神は完成しました。

それではその中心を担った人物と、完成までのストーリーをご紹介しましょう。

自由の女神の誕生ストーリー③自由の女神の作者はエジプト人-灯台との関係性-

自由の女神3
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/auguste-bartholdi.htm)

バルトルディは自由の女神を設計した人物です。もともと芸術の勉強をしていたバルトルディは、エジプトへの旅行で観たスフィンクスの像に感化されて、巨大なモニュメントや彫刻の作成を目指すようになりました。

自由の女神4
(出典:http://timecapsuletravel.web.fc2.com/Newyork/StatueofLiberty.htm)

自由の女神のデザインのもとになったのは、エジプトで募集していた灯台の設計に応募した際に考えたものだと思われます。エジプトでバルトルディが考えたコンセプトは「光を アジアにもたらす エジプト」というものでした。トーチを持った農婦の像を灯台として設計したのです。写真がその試作品です。しかしながら、この灯台は資金が集まらずに頓挫します。

その後、バルトルディはラブライエの自由の女神の構想に参画して1870年にデザインの設計を開始しました。

自由の女神がニューヨークに置かれているのも、バルトルディのアメリカへの渡航から始まったと言われています。当時アメリカを訪れたバルトルディは、ニューヨーク港に入港するときの景観に感銘を受け、ここに自由の女神を建てることを決めました。

自由の女神の誕生ストーリー④2人の内装設計者

自由の女神の内装は二人の設計者によって造られました。

ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク

自由の女神5
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/eugene-viollet-le-duc.htm)

当初ラブライエとバルトルディから依頼されたのはデュクという人でした。この人はパリのノートルダム大聖堂の修復に大きく貢献した人としても有名です。

自由の女神は、型に銅板を裏打ちして造られていますが、これをバルトルディに提言したのがデュクでした。

巨大な銅の像を支えるため、デュクは内装は砂を詰めた石膏の重さで支えることを考えていましたが、彼は製作の途中で死去します。あとを引き継いだのがあのエッフェル塔を設計したエッフェルでした。

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル

自由の女神6
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/alexandre-gustave-eiffel.htm)

エッフェルはデュクの設計を一部引き継いだものの、銅でできた像の重さを支えるための内装はデュクのアイデアを使用せず、その当時の建築技術に基づいたものに変更しました。

エッフェルはまず中にパイロンと呼ばれる28メートルにも及ぶ支柱を組み立て、支柱と像の各部分を金属のつなぎで固定しました。ニューヨークの港は強い雨風にさらされているため、支柱を振動させることでその力を分散することができる柔軟構造にしたのです。

自由の女神の誕生ストーリー⑤ユニークかつ執念の資金集め@フランス

これだけ大掛かりな像を造るためには莫大な資金が必要です。その資金はどのようにして集められたのでしょうか。

財団の設立

ラブライエの友人でもあるバルトルディは、アメリカへの視察からパリに帰国後、ラブライエを支援するためにFranco-American Unionという財団を設立して400,000フランを集めました。もちろんこれだけの資金を集めるために、ラブライエとバルトルディがあちこちを駆け回って自由の女神のアイデア、思想を訴えて賛同を地道に得ていったことも忘れてはいけません。

一般市民からの寄付

1876年から1882年まで、自由の女神の一部、腕とトーチはアメリカのフィラデルフィアやマディソンスクウェアに展示されました。これに興味を持った市民からも、寄付という形で資金を調達することができました。

パリ万博での展示

自由の女神はパリで製作されましたが、像の組み立ては屋外で行われました。その建設過程を見て徐々に興味を持ったパリの市民からも資金を調達することができたのです。

SOLparkParis (出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E5%83%8F_(%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF))

頭部はパリ万博にも出展されました。

 

パリで完成した自由の女神は、200以上のパーツに分解してアメリカに送られました。1884年のことです。しかし、アメリカに渡った後も苦難の連続でした。

土台が無い!

アメリカに送られた後も苦難は続きます。女神像を建てる土台が無かったため、これを建設する必要が出てきました。

リチャード・モリス・ハント

自由の女神7
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/richard-morris-hunt.htm)

アメリカで自由の女神の土台を設計したのがハントでした。

自由の女神8
自由の女神9
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/richard-morris-hunt.htm)

バルトルディは当初、土台のイメージとして要塞のような造りをハントに依頼しましたが、のちにピラミッド型に変更しました。また、厳しい予算状況によりもともと予定していた34.8メートルの高さから27.4メートルの高さに変更しました。上の二枚の写真のうち、上が当初の設計、下が最終的な設計です。

自由の女神の誕生ストーリー⑥フランスからアメリカ寄贈後の困難

土台を造るにあたって、当然資金が要りますが、アメリカではその資金集めに苦労します。そんな中、名乗りを挙げたのがピュリッツァーでした。

ジョセフ・ピュリッツァー

自由の女神10
(出典:http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/joseph-pulitzer.htm)

1884年、自由の女神設立の資金が底をつきました。そんな状況に手を差し伸べたのが、当時新聞社を経営していたピュリッツァーでした。ピュリッツァー賞という名前を聞いたことがあるかもしれません。今や報道やジャーナリズムの分野の最高の名誉とされているピュリッツァー賞は、このジョセフ・ピュリッツァーの意志によりできました。

ピュリッツァーは資金を集めるために富裕層に声をかけて回りましたが、思うように資金を募ることができませんでした。そこで作戦を変えて、当時経営していたワールド誌に記事を書き、一般市民に訴えたのです。その記事がこちら。

We must raise the money! The World is the people's paper, and now it appeals to the people to come forward and raise the money. The $250,000 that the making of the Statue cost was paid in by the masses of the French people- by the working men, the tradesmen, the shop girls, the artisans- by all, irrespective of class or condition. Let us respond in like manner. Let us not wait for the millionaires to give us this money. It is not a gift from the millionaires of France to the millionaires of America, but a gift of the whole people of France to the whole people of America.
((http://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/joseph-pulitzer.htmより引用)

簡単に日本語訳をしてみますと、

「資金を求む!

我がワールド誌は一般市民のための新聞ですが、今回皆さんに資金提供のお願いをさせてください。
自由の女神を造るのにかかった費用25万ドルは、フランスの一般大衆の方々によってまかなわれました。サラリーマン、貿易商、ショップ店員の女性、芸術家、本当に階級や暮らしている環境に関係なく、すべての人からの力によるものでした。
この温かい行いに、我々も答えなければなりません!お金持ちがお金を出してくれるのを待っていてはいけないのです。
なぜならこの自由の女神は、フランスのお金持ちからアメリカのお金持ちへの贈り物ではなく、すべてのフランス人がすべてのアメリカ人に向けて贈ってくれたものなのですから。」

この記事の呼びかけで、無事土台を造るための資金を集めることができ、1886年、自由の女神は晴れて完成したのです。

 

自由の女神が語りかけていること

いかがでしたでしょうか。

自由の女神はその名の通り、自由の象徴です。

想像してみてください、100年以上も前の時代に多くの人が新天地を求めてアメリカに船で渡ってきたときの光景を。

きっと彼ら、彼女たちはニューヨークの港で出迎えてくれる自由の女神、その力強いふるまいとたたずまいに、希望と勇気をもらったに違いありません。

そんな自由の女神も、フランスとアメリカの「一般市民」が国に頼らず、「自由と正義」の信念を貫いて造られたものです。

自由の女神は、そのアイデアが生まれたときから完成したときに至るストーリーにも「自由の象徴」が現れていると思いませんか。

皆さんもニューヨークで自由の女神を観られるときは、ぜひこの話を思い出してください。

 

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