世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】沖縄の首里城やグスク、関連遺産群を楽しむために知っておきたい琉球王国の歴史と信仰

沖縄の見どころである首里城やグスクなどの世界遺産を訪れると、日本国内ということもあってつい日本の歴史として見てしまいそうですが、これらは19世紀後半まで存在していた琉球王国という日本とは異なる「国」の歴史遺産です。
今回は琉球王国の歴史と日本に組み込まれるまでの歩みをご紹介します。これを読めば日本の中にある「異国」の世界遺産として、見え方ががらっと変わってくるはずです。

沖縄の先史時代

沖縄にはいつから人がいたのか?

現在の沖縄県(沖縄本島と周辺の島々を含む)にいつ頃から人が生活していたのか、はっきりしたことは分かっていませんが、これまでの発掘調査では沖縄本島南部で「港川人」(みなとがわじん)の化石が発見されており、調査では約18,000年も前のものと推定されています。

日本の本土では縄文時代は約13,000年前から10,000年前に始まったと考えられているので、それよりもさらに前のことになります。

そして沖縄でも縄文土器の一種である爪型文土器(つめがたもんどき)が見つかっていることから、沖縄県にも日本と同じように縄文時代があったものと考えられています。

沖縄に弥生時代は存在していない!?

縄文時代の後、日本では稲作の広まりとともに弥生時代に入りますが、沖縄においても同じ時期に稲作が誕生していたかははっきり分かっていません。

弥生時代から古墳時代、さらに奈良時代にかけて沖縄では独自の文化や生活が発達していたのかというと、必ずしもそうではなく、例えば中国の戦国時代から唐の時代にかけて造られていた貨幣(明刀銭(めいとうせん):戦国時代、五銖銭(ごしゅせん):前漢の時代、開元通宝(かいげんつうほう):唐の時代など)が沖縄の遺跡から出土していることから、当時の中国との交流があったものと考えられています。

また、日本の国内でも、沖縄の一部を含む九州以南の島々からヤマト政権への挨拶や、ヤマト政権から位をもらうといった記録が日本書紀に残されています。

その後の遣唐使の時代には、なんとあの鑑真が日本への航海の途中753年に漂流したとされる「阿児奈波島(うちなわじま)」という島があるのですが、通説ではこの島は沖縄本島と考えられているのです。

このように何かと日本とのつながりや交流があったと考えられる沖縄ですが、例えば日本に朝鮮半島から稲作やいろいろな文化が伝えられたように沖縄にも日本や中国から何かしらの文化や技術などが伝えられたかと言うと、そこまでの影響は無く、縄文時代以降も引き続き変わらず、ラグーンなどで貝や魚を採取する貝塚時代(かいづかじだい)が続いていたと考えられています。

沖縄本島以外の島はどうだったのか?

今回ご紹介する琉球王国というのは、沖縄本島だけでなく北は奄美諸島から南は宮古島や石垣島、最盛期には尖閣諸島までも領地を広げていたと言われています。

ですが、沖縄本島以外の島でいうと、宮古・八重島群島の遺跡からは縄文土器も弥生土器もまったく出土していません。

その代わりに、土器の胴の部分に耳状の突起をつけた外耳土器やシャコ貝製の貝斧(ばいふ)など、日本ではなく東南アジアや南太平洋の文化につながる出土物が確認されています。

つまり、沖縄より南の島ではまた違った文化圏が確立されていたということになるわけですが、不思議なことに言語圏のくくりで言えば、宮古・八重島群島も沖縄の方言とともに琉球方言に属しているとされ、日本語の系統に含まれるというのです。

文化は東南アジアや南太平洋に属しながら、言葉は日本語圏に属する。どのようにしてこの体系が成立したのかは謎に包まれています。

グスク時代の到来と琉球王国の誕生

グスクの誕生(12世紀頃)

先ほど沖縄では弥生時代というものが存在していなかったのではないか、という話をしましたが、日本では弥生時代から古墳時代、そして奈良時代に進み、支配関係で言えば権力の差が無い血縁関係の集団から頭角を現す支配者が誕生し、それが緩やかに首長連合となり、律令国家という「国」の形になっていきます。

このような支配関係の形成プロセスは、沖縄でも同じように発生しています。

当初は縄文時代や貝塚時代での狩猟・採取文化で権力の差が無かった沖縄の人々も、やがて稲作により米や麦の栽培が始まり、農業の生産能力が高まるに連れて徐々に首長と呼ぶべきリーダーが現れ始めます。

琉球王国においてはこのような権力者の首長は按司(あじ)と呼ばれていました。按司はその権力を元に政治的集団を形成するのですが、この按司の居城として造られたのがグスクです。

このようにして12世紀になると沖縄のあちこちでグスクが築かれ、その存在がまさに按司の権力と勢力の象徴でもあったのです。

この頃の沖縄の人々の生活はどのようなものだったのか。

先ほど米や麦の栽培が始まっていたと記載しましたが、それ以外にも刀子(とうす)と呼ばれるナイフを主体とする鉄製の器機が出土していた頃から、鉄が少しずつ生活に入り込むようになっていたことが分かります。

その他、鹿児島県の徳之島で生産されたとみられる須恵器(須恵器)や中国の陶磁器、日本の滑石製石鍋(かっせきせいいしなべ)と呼ばれる平安時代から室町時代まで使われていた石鍋も出土しており、かなり外部との交流が盛んになっていたことがうかがえます。

そして、人々の住居は石灰岩台地や丘陵地といった高台へと移行していきました。

三山時代(14世紀)

沖縄の各地で按司が台頭すると、さらにその中から抜きんでた存在が登場するのですが、これがいわゆる三山時代の到来で、沖縄の北部に勢力を持つ北山(ほくざん)、中部に勢力を持つ中山(ちゅうざん)、そして南部に勢力を持つ南山(なんざん)の三つ巴の覇権争いが幕を開けました。

北山の勢力は今帰仁按司(なきじん・あじ)率いる勢力で、その居城は今帰仁グスク。
中山の勢力は浦添按司(うらそえ・あじ)率いる勢力で、その居城は浦添グスク。
南山の勢力は大里按司(おおざと・あじ)率いる勢力で、その居城は島尻大里グスク(しまじりおおざとグスク)。

今帰仁グスクは世界遺産にも登録されていることで有名ですよね。

この三山時代は14世紀から15世紀初頭まで続くのですが、ちょうど14世紀の中頃、1368年にお隣の中国では元に代わって明王朝が誕生しました。

明は誕生後、周辺諸国に使者を送って明への忠誠を誓わせようとしました。これを朝貢(ちょうこう)と言い、周辺国は明への服従の証に貢物を明に送り(進貢:しんこう)、そのお返しとして明は諸国に対して恩賜(おんし)を与えてその地位を保証する、という関係です。

この体制を冊封体制(さっぽうたいせい)とも呼びますが、明への忠誠を誓った周辺諸国は明との交易が許されることになるため、これはある種中国と周辺国との貿易の形でもあるわけです。

明は琉球にも楊載(ようさい)を団長とする使節団を1372年に派遣し、当時の中山の王であった察度(さっと)に明への進貢を要求します。
察度はこれに対して弟の泰期(たいき)を明に派遣することで冊封体制を成立させました。

察度が進んで明の冊封体制に取り入ったのは、三山の中でいち早く明に対して自分こそが琉球の正当な覇者であることを示すとともに、当時はまだそれほど流通していなかった鉄を明から輸入することで、北山と南山に先駆けて武力の強大化を図ったためです。

ですがこの目論見は上手くいきませんでした。というのも、南山と来た山も立て続けに明へ進貢を行い、明から恩賜を受けてそれぞれ1380年、1383年に朝貢関係を築いたためです。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、ここから沖縄を「琉球」という表記に変えています。これは「琉球」の文字がこの頃に編纂された「明実録」という書物で初めて登場したからです。

琉球王国の誕生(第一尚氏王朝)(15世紀)

三つ巴の三山時代が終焉を迎えたのは15世紀に入ってからのことでした。

南山の配下に佐敷按司(さしきあじ)の思紹(ししょう)と呼ばれる人物がいたのですが、その息子である尚巴志(しょうはし)は徐々にカリスマ性を発揮して頭角を現します。

彼は1406年に浦添グスクを攻め、察度の後継者であった武寧(ぶねい)を滅ぼして中山王となります。そしてこの時に中山の拠点を首里城への移転させました。

勢いはこれにとどまらず、1416年、尚巴志は今帰仁グスクに大軍を送り込んで当時の北山王であった攀安知(はんあんち)を滅ぼしたのです。

そしてその後の1429年、最後の南山攻撃を行い、南山王の他魯毎(たるみい)を攻め島尻大里グスクも滅ぼし、ここに初めて単独の王によって統治される国家、琉球王国が誕生しました。

これ以降、沖縄の地は単独国家である「琉球王国」が治める国土となり、琉球王国は先ほどお話しした中国の冊封体制にしっかりと組み込まれていくことになります。

つまりこの時点で琉球王国というのは中国王朝に服従する諸国の一つであり、日本とは全く別の国であったことがお分かり頂けるかと思います。

さらに、単独国家になったことで琉球王国は日本と朝鮮半島、中国の航路において重要なアクセス地点となり、ますます諸国との外交も活発化していくことになるのです。

第二尚氏王朝の栄華と琉球王国の落日

尚真王による治世

琉球の地に初めて誕生した統一国家は、長くは続きませんでした。というのも、一応の統一は果たしたものの各地ではその後もたびたび反乱が起きていたためです。

各地で起こった反乱の中でも特に大きかったのが1458年、六代尚泰久王の時に起こった護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱です。阿麻和利は勝連グスクを拠点とした強大な勢力でしたが、勝連グスクは世界遺産にも登録されていることで有名です。

この乱は平定されたものの、今度は第七代尚徳の死後、王宮の中でクーデターが発生します。これにより王と子どもは殺害され、その一族も城を追放されてしまいます。

このクーデターを主導していたのが金丸(かなまる)という外交官で、後に琉球王国の王に即位し、名を尚円(しょうえん)と名乗りました。

ここに第二尚氏王朝が誕生するわけですが、この王朝の支配と基盤を盤石なものにしたのが三代目の尚真王(しょうしん・おう)の治世です。

まだまだ各地で反乱の分子がくすぶっていたこの時代、尚真王は地域の勢力を削ぐためにある政策を実行しました。

それが按司の首里集居策です。これは按司が地元で勢力を保持することを防ぐため、按司に首里での居住を義務付けるものです。

これにより地方は按司が不在となりますが、それを埋めるために地方には「按司掟」(あじおきて)と呼ばれる役人が派遣され、国王の意向が地方にも伝わるように配慮されました。

一方の首里城周辺には各地からの按司が集められ住み着くようになったため、城下町として栄えるようになります。

さらに、統一王国がある中で按司の存在というのはもはや王国の中の一つの家臣に過ぎません。各地で按司が反乱を起こすということは、按司の中に王とその臣という絶対的な上下関係が醸成されていないということになります。

このため、按司を完全に家臣として取り込むために尚真王は位階制を採用し、主従関係を明確にするとともに、頭に巻くターバン状の「帕(はく)」の色と髪に差す簪(かんざし)の材質で身分を示す制度を創設しました。

これによって按司は地方の支配者から王の家臣へとなり下がり、地方のグスクも廃城に追い込まれていくことになります。

このほか尚真王は1494年、首里城の隣に円覚寺を創建して琉球仏教界の拠点となる寺院として整備をしたり、王族の墓陵として玉陵(たまうどぅん)の造営も行いました。玉陵も世界遺産の1つに登録されています。

日本(徳川幕府)の従属王国に

琉球王国が尚真王による治世で平和を謳歌していた時、日本ではまさに戦国時代のさなかで、各地の大名が虎視眈々と天下統一の座を狙って戦に明け暮れていた時代でした。

やがて豊臣秀吉による天下統一がなされると、琉球王国は日本の外交圧力に翻弄されていくことになります。

その始まりは豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。朝鮮出兵をもくろんだ秀吉は、琉球王国に協力を要請し、7,000人の兵力に加えて10か月分の兵糧米(ひょうろうまい)の提供や、朝鮮出兵の際の前線基地として築かれた名護屋城の分担金の支払いを求めます。

日本の一部でもない琉球王国にとっては何の関係も無い話であり、もちろんこの要求をそのまま飲むこと無くほとんどを拒否します。

これに限らず、その後家康が天下統一をした後も琉球王国に何かと要求を突き付けてきますが、琉球王国はこれも拒否し続けました。

すると1609年、家康の意向を受ける形で薩摩藩の島津氏が、「長年の無礼」を名目に武力をもって琉球王国に3,000もの兵を送り込みます。

統一王国が誕生してから長らく戦から遠ざかっていた琉球王国と、長く続いた戦国時代を経験した日本では武力の差は説明するまでもありません。琉球王国は薩摩藩の支配下に強制的に敷かれることになったのです。

ただし、支配下に置かれたといっても琉球王国は存続し、ある程度の自主性が認められることになります。薩摩藩も琉球王国に攻め込んだものの、徳川幕府を頂点とする幕藩体制下においては幕府の意向下でした行動が出来ず、薩摩藩の手中に収めるまではいかなかったのです。

こうして琉球王国は、中国の明との冊封・朝貢関係を保持しながらも、薩摩と徳川将軍家の権力の従属王国として、「幕藩制の日本の中の異国」として独特な立ち位置で存続することになります。

幕末から明治維新そして琉球処分

中国で明王朝が滅んで清が誕生しても、琉球王国は引き続き清国と冊封体制を取りつつ、日本とも従属関係が続きました。

ですが幕末を迎え、ペリーの来航など列強の手が日本に伸びてくると、ここから日本だけでなく清も激動の時代を迎えることになります。

イギリスが仕掛けたアヘン戦争が1840年に勃発し、これにより清はイギリスの侵略を許すことになり大きな混乱をきたす結果となりました。

これを目の当たりにした日本は次は我々が狙われる番になると強い危機感を持つとともに、列強からの圧力を前に日本全体が大きな動揺を受けたことは皆さんもご存じの通りかと思います。

清と日本という、2つの大国と渡り合ってきた琉球王国も列強の圧力から無関係でいることは叶いませんでした。

皆さんはあのペリーが琉球王国にも寄港していたことをご存じでしょうか。

琉球王国は最終的にアメリカと琉米修好条約を1854年に締結していますが、これは日本が米国と結んだ日米和親条約よりも後になります。

なぜペリーは琉球も訪れたのか。その目的はおそらくアジア進出における足場となる基地の確保として、日本の他に琉球王国も候補地と捉えていたからでしょう。

ペリーが日本に開国を求めたのも、アメリカから太平洋を横断してアジアに勢力を延ばすに当たって、当時の移動手段の船では燃料の補給基地の確保が必須となります。

アメリカから見ると、中国をはじめとするアジアへの足掛かりとして日本は格好の場所にあるのです。そしてこれは日本に限ったことでは無く、小笠原諸島や琉球王国もアメリカにとっては魅力的な寄港地に映ったのでしょう。

結局、日米和親条約にて日本が開国を選択したことで琉球が開港地としてアメリカの支配下に置かれることは無くなりました。

開国とともに列強と不平等条約の締結を迫られた日本はその後、ものすごい勢いで西欧化を進め、列強の仲間入りを果たします。その過程で明治維新が起こり、明治政府が誕生。

その流れの中で廃藩置県が行われ、江戸幕府の藩は新たな制度の下で県に組み替えられます。そして1879年、ついに日本は琉球王国を強制的に日本の枠組みに組み入れる処分を行いました。これを琉球処分と言います。

琉球処分により琉球王国は解体され、廃藩置県の下で沖縄県として日本に組み入れられることになり、ここに450年続いた琉球王国は幕を下ろしました。

知っておきたい琉球王国の信仰

女性(オナリ)は霊力が高いという信仰

琉球で、神様は海の遥かかなたにある理想郷の「ニライカナイ」からやって来て、御嶽(うたき)という場所に天降りしたと信じられています。

そしてその霊力を受ける者を根神(ねがみ)と呼んでいたのですが、琉球で集落が形成されてくると、集落には主に行政を取り仕切る根屋(にーや)と、祭祀権を持った根神屋(ねがみや)と呼ばれる者がいました。

根神屋は神女(しんにょ)が務め、彼女たちは自分たちの願意(祈り)をニライカナイ大王に通す火の神を、根神屋のかまどや火の殿(とん)に祀っていました。

やがて集落の規模が拡大し、按司が登場すると、その按司がさらに勢力を延ばして大按司になっていくとそれは「おなり神」である根神の霊力によるものと考えられ、根神も按司の支配する全地域を統括する神女となりました。

これをノロと呼びます。

このように、按司が勢力を拡大することはノロの地位の向上を意味し、按司社会において公的な儀式などをノロが司るようになっていきます。その儀式と言うのは、御嶽を拝んで按司の繁栄や村落の平和、五穀豊穣や航海安全など多岐に渡っていたと言われています。

そしてノロにも階級がありました。

例えば、ノロの上位の神役として設置された存在が大阿母(おおあも)や大アムシラレという職位で、それらを全て統括する最高職位として聞得大君(きこえおおきみ)の職が置かれました。

最初の聞得大君は尚真王の妹の音智殿茂金(オトチトノモイカネ)が就き、やがてこの職は王族の女性が任命されるようになります。

このように、琉球での行政は男性である按司が担い、一方で女性のノロも信仰の対象として大きな存在であったことから、グスクには御嶽が設けられていました。これは琉球王国が誕生した首里城も例外ではありません。

男性の国王と男性社会による行政と、女性の聞得大君による信仰と祭祀、この2つの世界が首里城の中には存在していたのです。

琉球王国の祖

先ほど、沖縄で初めての統一王国である琉球王国の誕生についてご紹介しましたが、統一王国である第一尚氏王朝よりも前に初めて按司を束ねて、大世の主、つまり王を宣言した者がいました。

この王の名を舜天(しゅんてん)といい、この人物が琉球王国の開祖であり初代王であると信じられています。

舜天は源為朝(みなもとのためとも)の子とされており、為朝が保元の乱(1156年)に敗れて伊豆大島に流された後、島から脱出して鬼ヶ島行くところ、潮に流されて沖縄北部の運天港(うんてんこう)という場所に漂流し、ここを支配していた大里按司の妹を娶って、舜天が生まれたと伝えられています。

これは伝説の域を出ない説ですが、なぜこのような言い伝えがあるのかというと、琉球王国の祖が由緒ある出自(しゅつじ)であることを示すためです。

源為朝は清和天皇の孫である源経基(みなもとのつねもと)の子孫ですので、その子どもである舜天も天皇家の血筋を引き継いでいるというわけです。

由緒ある血筋というのは、明と冊封体制を取る琉球王国にとっても重要な意味合いを持っていました。なぜなら、それが正当な王を主張する根拠になったからです。

このため、第二尚氏王朝を築いた金丸という人物が尚円と名を変えて「尚」の字を引き継いだのは由緒ある家系であることを示すためでしょう。

琉球王国のロマンあふれる名著「テンペスト」

最後に、琉球王国の在りし日の姿を活き活きと伝えてくれる歴史小説「テンペスト」をご紹介します。

舞台は幕末から明治維新、さらには廃藩置県とその後に琉球王国が解体されて沖縄県として日本に組み入れられるまでの時期の琉球王国。

物語は第一尚氏の末裔とされる兄妹の物語です。

妹の寧温(ねいおん)は女性として生まれたものの、その美貌と500年に一度とも言われる聡明さを兼ね備えた人物であり、父から尚氏の再興を託されます。

しかし、その頭脳を活用する場が当時の男性社会であった琉球王国にはなく、寧温は素性を隠して自らは男性として最難関の科挙を突破し、時の王の頭脳となって首里城に仕えるまで登り詰めます。

一方、兄の嗣勇(しゆう)はその頭脳が足りていないことから科挙突破による宮仕えは断念し、夢を妹の寧温に託すもその美貌から女形の踊り子として宮中に潜り込むことに成功。

王宮内での権力争いや、自らの性を隠して生きることの葛藤、そして琉球王国と清、日本国や列強の勢力図に翻弄されながらも力強く生きる兄弟の姿と琉球王国の行く末を描いた本作品は、琉球王国の姿や信仰、社会を知ることができるだけでなく、「国」や「人」の在り方を私たちに問いかけています。

また、大国間で生き残る道を探る琉球王国が、日本や明、そしてアメリカと対等に外交を繰り広げる頭脳戦は読んでいてもとてもハラハラして興奮します。

この小説では冒頭、そして最後に「龍」の声が登場しますが、これは先ほどご紹介した琉球王国における信仰の世界を表現したものと思います。

琉球王国が滅ぶ際、そこに暮らしていた人々や最後まで王国に仕えた人たちの気持ち、感情がどのようなものだったのか、想像することしか出来ません。ですが、この小説では琉球王国の消滅を決して暗いものとして描かず、むしろ未来への希望を託す形で表現していることにも感動を覚えました。

角川文庫から出版されている文庫本は全四巻ですが、あっという間に読み終えてしまえますので、ぜひ一度お読みになってみてください。

 

いかがでしたでしょうか。

首里城やグスクなど、沖縄県に今も残る世界遺産はついつい日本の歴史の中で捉えてしまいがちですが、この世界遺産を楽しむためには、この地に存在していた「琉球王国」という日本とは異なる国の存在を知り、そこに思いを馳せる必要があると感じます。

琉球王国を知ることで、沖縄の世界遺産がより価値のあるものに感じられるだけでなく、沖縄の魅力をさらに深く知ることにもつながるのではないでしょうか。

 

(参考:「琉球の歴史」宮城 栄昌 吉川弘文館、「琉球王国」高良 倉吉 岩波新書、「テンペスト」池上永一 角川文庫)

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