【世界遺産】奈良・元興寺を100倍楽しむためのマメ知識4選

奈良の世界遺産の1つ、元興寺。他の奈良のお寺や世界遺産に比べると、少しこぢんまりとした境内に地味な印象を持たれるかもしれません。

ですが、世界遺産に数えられるだけあり、その由緒と歴史は奈良の世界遺産の中では最も貴重と言っても過言ではありません。

今回は、そんな元興寺の魅力をご紹介!
・日本で初めての本格的寺院
・実は広大だった元興寺
・五重小塔の謎
・元興寺の魅力

これを読めば、元興寺を参拝したくなること間違いなし!

1.日本で初めての本格的寺院

極楽堂(国宝)

元興寺は近鉄奈良駅のすぐ近く、再開発が進む「ならまち」を抜けた場所にあります。

同じ奈良市内にある東大寺や興福寺に比べると、その小さな境内にやや地味な印象を持たれる方も多いかもしれません。

ですが、元興寺の成り立ちは奈良の世界遺産の中でも最も古いものと言えるでしょう。順を追ってお話しします。

元興寺の成立

元興寺はこの場所で始めて誕生したわけではなく、その前身となるお寺の存在があります。

それが、日本で初めての本格的仏教寺院と言われる飛鳥寺です。この飛鳥寺は今も飛鳥の地にあり、参拝することができますが、元興寺はこの飛鳥寺の一部が奈良に遷されたもの。

飛鳥寺は588年、蘇我馬子の発願により飛鳥の地で建設が始まったことで誕生したお寺です。

その後710年に都が奈良に遷都されると、それに合わせて718年、飛鳥寺の金堂以外を解体して奈良の都に遷したとの記録が続日本紀に記されています。

この記録が正しいことは科学的根拠にも裏付けられており、元興寺の本堂の建築材を年代測定した結果、飛鳥寺の創建と一致する6世紀後半の木材であることが確認されています。

ちなみに、7世紀後半に入り天武天皇の時代に一度大きな修理が行われており、白鳳時代の部材も見つかっています。

 

このことからも、元興寺が世界最古の木造建築と言われる法隆寺にも匹敵するほど古い歴史を持ち、また由緒あるお寺であることがお分かり頂けるかと思います。

では、そんな歴史と由緒ある元興寺なのになぜその境内は小さいのでしょうか。

 

2.実は広大な敷地を有していた元興寺

現在その姿をとどめているのは実は元興寺の一部でしかありません。もともと元興寺は、今の「ならまち」の大部分を含む広大な敷地を有していた寺院だったのです。

当時の元興寺の境内図を上の地図に示してみました。これを見ると、元興寺は現在の興福寺よりもはるかに広大な敷地を有していたことが分かります。

赤線で囲った枠の中で、オレンジ色の部分が現在の元興寺の場所です。これを見ると、今ある元興寺は「東室僧房」だったことがお分かり頂けるかと思います。

実は今の極楽堂をぜひ訪れて頂きたいのですが、今残されている極楽堂はは室内中央に僧房時代の一房が取り込まれているのです。

元興寺の変遷

今残っている極楽堂と禅室以外の構造物は、長い歴史の中で焼失してしまいましたが、その痕跡を一部今でも見ることができます。

例えば、地図の「大塔」があった場所にはその塔の基盤に使われていたとされる礎石が残されています。

ここでよくよく考えてみると、1つの疑問が湧いてきます。

それは、なぜ今も残っているのが元興寺の中心であった金堂ではなく、僧房として使われていた場所だったのか。不思議だと思いませんか?

 

僧房というのは、その名の通り僧侶の居住施設です。ここでお寺に勤める僧侶たちが寝泊まりしていたのですね。

元興寺の僧房には、「智光曼荼羅」と呼ばれる極楽浄土を描いた絵画が置かれていました。時代の流れとともに日本中に浄土信仰が流行すると、極楽浄土を描いた曼荼羅が重要視されるようになり、徐々に荒廃していた元興寺の中でも曼荼羅があった僧房だけは最後まで残り続けたというわけです。

ちなみに、現在の極楽堂は1244年に改築されたもので、大塔は江戸時代末期の1859年に焼失してしまいました。

 

3.五重小塔の謎

元興寺を訪れると、仏像や曼荼羅など貴重な当時の物が多く展示されていますが、その中でもひと際目を引くのが五重小塔です。

一見すると当初あったとされる大塔のミニチュアか模型かと思われるかもしれませんが、実はこれ、国宝に指定されているとても貴重なものなんです。

なぜ国宝に指定されているかというと、使用されている木材が奈良時代の物であり、れっきとした「建造物」であると考えられているからです。

ですが、この小塔が造られた目的ははっきりしていません。

大塔の雛型説

当初、大塔を建立する際に模型として造られたものと考えられていましたが、今残されている大塔の跡地から大塔の寸法や構造を復元してみると、五重小塔とは全く違った姿であることが判明しました。

また、江戸時代に行われた大塔修理の際に造られた構造図も発見されましたが、やはりその姿は五重小塔とは異なるものでした。

西大塔の本尊説

もともと元興寺には2つの大塔があり、そのうち西側に建てられた大塔の本尊としてこの五重小塔が供えられていたのでは、という説もあります。

ですが、平安時代の「七大寺巡礼私記」によると、称徳天皇が百万塔を西大塔に納めたという記録があり、それが正しいとすれば五重小塔は西大塔の本尊ではないことになります。

 

いずれにしてもはっきりと解明されていない五重小塔。ぜひ一度その目で確かめてみてください!

 

4.元興寺の魅力

それでは最後に、古い歴史をもつ元興寺ならではの魅力をいくつかご紹介しましょう。

 

本尊は「智光曼荼羅」

通常、お寺の本尊は仏像であることがほとんどかと思いますが、元興寺の本尊は先ほどご紹介した智光曼荼羅です。

この智光曼荼羅が作られた言い伝えを簡単にご紹介します。

その昔、ここ元興寺で智光と共に修行をしていた礼光がある日、無言のまま、気づいたときには死んでいました。
するとその後、智光が眠りについたとき、その夢に礼光が現れ、「無言だったのは観想念仏をしていたためだった。」と話を始めます。
その後、礼光は極楽浄土に住んでいると言い、智光を阿弥陀仏の前に連れて行きました。そこで智光は阿弥陀仏より極楽浄土がどんな場所か、その様子を示して頂きます。
夢から覚めた智光は、阿弥陀仏の示された極楽浄土の様子を絵に描きました。これが智光曼荼羅と言われています。

また、智光曼荼羅は当麻曼荼羅、清海曼荼羅と合わせて浄土三曼荼羅の1つに数えられていることからも、その価値がお分かり頂けるかと思います。

 

ちなみに、曼荼羅は密教と深い関わりがありますが、元興寺は真言律宗に属しており、今も多くの空海(弘法大師)の姿を描いた貴重な木造などが残されています。

 

歴史を映す、屋根の瓦

元興寺を訪れた時に、必ず観て頂きたいのが極楽堂と全室の屋根の瓦です。

よく見るとカラフルなモザイクのように見えますが、これはもちろん当時から使われていた瓦がそのまま使われている部分があり、まさに長い歴史を物語っている象徴と言えます。

また、禅室の屋根をよく見ると、瓦の張り方にも違いがあることが分かります。

上の写真の右側の瓦は、瓦の一部が重なって張られているため段のように見えますよね。これは「行基葺き」よ呼ばれる瓦の張り方で、瓦が重なる部分にくぼみが作られていないため、このように段重ねの形になります。

一方、左側の瓦を見ると、右側とは異なって瓦がぴったり並べられています。これは重なる部分にくぼみを造ることで、重なる部分が上手くくぼみにはまり、高さをそろえることができる手法で、後の時代の技術です。

 

元興寺に伝わる鬼「ガゴゼ」

元興寺に伝わる伝説として、「ガゴゼ」と呼ばれる鬼のお話しがあります。

昔々、落雷とともに地上に降り立った雷神は子どもに姿を変えますが、落雷に居合わせた農夫に杖で殺されそうになります。
そこで命乞いをした雷神は、もし見逃してくれたら特別に雷神のように強い子どもを授けると約束しました。

やがて農夫に子どもが授かると、雷神の言った通り力強い子どもに育ち、子どもの頃にも大人顔負けの力とパワーを持つようになりました。
後にこの子どもは元興寺の童子になり、ある時、元興寺の童子たちが毎晩のように変死体で見つかる事件が起こります。村では鬼の仕業に違いないという話が出回り、子どもは鬼退治に乗り出しました。夜に元興寺で待ち伏せをし、現れた鬼を捕まえ、髪の毛を引きずり回して懲らしめたものの、最後の最後で鬼は逃げてしまいます。
夜が明けて鬼の血が残った跡を追っていくと、昔元興寺で働いていた下男の墓に辿りつきました。この鬼はこの下男の霊が鬼になったものだったのです。

ここから、「ガゴゼ」という鬼の名前が言い伝えられ、今でも元興寺の周辺では鬼と言えばガゴゼという名前が根付いています。

元興寺という名前にはこのガゴゼという鬼の名前が付いていることも知っておくと面白いでしょう。

 

いかがでしたでしょうか。

古い歴史を持つからこそ、元興寺にしかない魅力や貴重な物がたくさんあることがお分かり頂けたかと思います。ぜひ奈良を訪れた際には、元興寺も訪れてみてください!

 

(参考:「わかる!元興寺」元興寺, ナカニシヤ出版)

 

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