ひとり旅コラム

人が人を思うこと-心と言葉、個性と向き合うことってどういうことだろう

戦争による争いや、生きることから降りてしまった方々のニュースを目にするたびに、気持ちが揺れ動くのは私だけではないと思う。
そのようなニュースを見るたび、人を思いやる大切さを改めて考えさせられる。特に心と言葉、そして個性についていろいろと考えるところをまとめてみたい。

言葉の持つチカラを考える

言葉は道具ではない

当たり前の話ですが、人間が生きていくうえで「言葉」はなくてはならないもの。

そして言葉というのは地球上の動物の中で人間が最も複雑に、高度に使いこなしているものでもあると思います。

言葉はコミュニケーションの一つの「手段」であり、その意味で人と意思疎通をするための道具なわけですが、人間にとって言葉というのは本来はそれ以上の意味があるはずです。

人に気持ちを伝える、好意を伝える、人を勇気づける、人を励ます、、

言葉と言うのは時として人の心を動かし、その人の考え方やあり方までも変えてしまうものだと私は信じています。言葉が持つその力、可能性が今、とても見過ごされているような気がしています。

ネットやSNSの即時性によって言葉の持つチカラ・多様性が失われていないか

現代に生きる私たちはとても忙しい。

日々のちょっとしたやり取りはメールからLINE、そしてInstagramやTikTokなどSNSの進化によってますます指先だけで手軽に、しかもどこにいようとすぐに相手に届けることができます。

「既読スルー」という言葉もすっかり定着した今、この数十年で私たち人間はとてもせっかちになったように思います。

相手からの返信がすぐにこないとヤキモキしたり、不安になったり、嫌われてるんじゃないかと思ったり、その反面、画面上のちょっとしたやり取りの文面が人の気持ちを簡単に左右させてしまうこともありますよね。

気軽にやり取りできればできるほど、即時性が求められることになり、そのようなコミュニケーションでは単に「最低限の要件や考え、思いを伝える」ことだけが重要視されていて、相手の気持ちや心に言葉を届けることが後回しになっているような気がしています。

相手の気持ちや心に届く言葉を探そうとすると、実はいろいろ悩んだり言葉を選んだりで時間がかかってしまうことだってある。けれど、即レスが暗黙の内に求められる現代では、遅いレスというのは人間関係を悪化させてしまう可能性の方が怖いと思ってしまうことも。

結果、SNSやネット、画面上で交わされる言葉というのは表面的になり、単に意思を伝える「道具」としての存在になってしまい、相手の心や気持ちに響くチカラは失われてしまっているのではないでしょうか。

 

もう一つ。

単に言いたいことを簡潔に伝えるだけなら、難しい言葉を使う必要は無く、シンプルな言葉を選べばいいわけで、シンプルと言う意味の一つには、文字数が少ないということも含まれます。

ネットやSNSで飛び交っている多くの言葉は無害で、ポジティブなものが多いと信じたい。だけど、ネガティブな言葉については似たような言葉で、しかも昔、親や先生に使うことを注意されたような言葉ばかりが目に付く気がします。

「バカ」「あほ」「死ね」「キモい」などなど

そこには無味乾燥し、「刃」となって簡単に人を攻撃できる言葉だけが残っていることは言うまでもありません。

言葉が持つ人を動かす力・人を救う力を考える

言葉が持つ人の心を動かす力、人を救う力が発揮されるためには、その人の心に届かなければ意味がありません。

そして人の心に届く言葉と言うのは人それぞれに違います。

だからこそ、言葉を選んで、人の心に届けることが大事になってくるのではないでしょうか。

皆さん、人の心に届くことを願って言葉を紡いでいますか?私はそのことに気が回っていなかった気がしています。

人は心で生きている

心はやっかいなもの

よく「文明や技術が発達して社会は豊かになった」ということを耳にします。

けれど、「心が豊かになった」ということを聞いたことがありません。

資本主義社会の中で、日々進化する技術や新しい発見によって人々の生活や社会は豊かになっているのかもしれませんが、人の心が豊かにならないのはなぜでしょうか。

そもそも心を豊かにするってどういうことなんでしょうか。

人の心は目に見えない。

だけど、心は傷つきやすく、壊れやすい。一度傷ついて壊れてしまうと、治すのにも時間がかかるし、外科や内科と違って科学的に治す方法や時間が確立されているわけでもない。

心を傷つけたり壊したり、逆に強くするのも全て人との関わり合いによってです。それは人との触れ合いであったり、言葉であったり、音楽やスポーツなど人の活動など様々。

傷つきやすく壊れやすいだけでなく、心がやっかいなのは簡単には強く、そして豊かにならないということです。

スポーツや音楽、芸術やはたまた映画やドラマ・アニメで感動することはあっても、時間が経てばその感動は薄れてしまい、いつしか日常の中に消えてしまうことが多いのではないでしょうか。

また、罵詈雑言や悪口には敏感に反応して鵜呑みにしてしまうのに、励ましの言葉や好意的な言葉には慎重になってしまい繰り返し言われることでようやく心が受け入れるようになる。

そんな風に思いませんか?

目に見えなくてやっかいなもの。だけど人は心で生きている生き物だからこそ、大切にしなければならないんです。

心を豊かに

私は、心を豊かに保つことができれば、簡単に人を傷つけたり心無い言葉を投げかけたりすることも減るだろうし、不安や心配も和らぐんじゃないかと思っています。

では豊かな心というのはどのような心でしょうか。

私がイメージするのは、「鬼滅の刃」の主人公、炭治郎と「ドラえもん」ののび太です。

大ヒットした劇場版の「鬼滅の刃 無限列車編」では、「心の核」というものが出てきます。これは誰しも心を保って人であるために、心の中に核となるその人の根本のようなものを持っていて、それは人それぞれに違っているというもの。

炭治郎の心とその核がどのように描かれたかというと、どこまでも先に広がり、遮るもののない真っ青で真っ白な水平線です。

そう、どこまでも純粋で透明なんです。

それはどういうことかと言うと、憎しみや妬み、いわゆる「黒くて闇」な部分が一切ないということだと思います。

一方の「ドラえもん」に出てくるのび太は、「ドジでグズでのろま」と散々な言われようですが、しずかちゃんとの結婚式を控えた前夜、しずかちゃんのお父さんはのび太のことを次のように評しました。

あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。 それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね

私はこの言葉を聞いて、のび太と炭治郎に共通するものがあるように感じました。

豊かな心というのはつまり、一点の曇りもなく素直に感情を表現できる心ではないでしょうか。

のび太のように人の幸せを自分のことのように幸せに感じ、人の不幸を自分事のように悲しむ。

人が笑っていればそれを祝福し、人が泣いていればそっと寄り添ってそばにいる。

空一面に広がる星空を美しいと感じ、生命の誕生を喜び、死を悲しむ。

そんな当たり前のことが、私たちはいつから難しくなってしまったのでしょうか。

個性と向き合う

呼び名が生まれることによって個性ではなく分断になっていないか

ダイバーシティや多様性が叫ばれるようになってから、たくさんの呼称が変わったり生まれたりしています。

LGBTQという性的な傾向を示す言葉もあれば、モラハラ・パワハラ以外にも増える○○ハラスメントといった行為、繊細さん・陽キャ・隠キャなど性格を表す言葉など本当に多岐に渡ります。

このような言葉が生まれたことで、それまでなかなか認知されてこなかった、もしくは社会や他人からなかなか理解が得られなかった人たちの存在が陽の目を見ることができ、少なからず理解が進みつつあるということは大きな前進だと思います。

また、その人に近い言葉が無ければ、自分が持っている「他人や周りと少し違っている部分」がなかなか分かってもらえなかったり、そもそもそういった「人と違う」ことに悩んでしまうこともあるでしょう。

人の名前と同じように、新しい言葉というのはそのまま新しい「個性」の表れだと私は思っています。言葉の数だけ個性があるとも言えるでしょう。

ですが、一方でこのところの世界情勢やニュース、社会問題を見ていると多様性を叫ぶ声が大きくなる一方で、言葉そのものがそれに該当する人とそうでない人を分断する原因にもなっているんじゃないかという気がしてなりません。

どういうことか。何というか、今の風潮としてなんでも二元論(○○であるか、そうでないか)で捉える傾向が強いと感じています。

LGBTQや経済で言うグローバルサウスなど、その言葉があることで、自分はLGBTQであると思う人とそうでない人、グローバルサウスの国とそうでない国、LGBTQの中でもそれぞれのジェンダーであるか否か、といった感じで、「言葉が自分のことを表すか」どうかという側面でしか使われていない気がしています。

もちろん、自分の個性を表すという意味でこのような言葉はその一助になる事は間違いないのですが、そうではなくて、自分を表すかどうかに関係なく、言葉が生まれるたびに新しい価値観や個性が生まれている、ということに目を向けることが大事なのではないかと思うのです。

そうでないと、自分には関係ない、自分には該当しない、という視点で見てしまうと意識せずともそれが気付かないうちに分断に繋がっていく可能性があるのではないでしょうか。

自分にとっての「楽しさ」が相手にとっての「苦痛」になることだってある

個性というのは捉えようとすると本当に広いもので、例えば趣味一つにとっても料理が好きな人もいれば苦手な人もいる。音楽にしても邦楽が好きな人、K-POP好き、クラシック好きなど人によって好みも様々です。

このような「好き嫌い」もある意味では個性と呼べるでしょう。

個性を表現する上で難しいのが、自分にとっての楽しさが誰かにとっては苦痛になることがあるということ。

ただ、これを気にし過ぎると没個性や、他人や社会に気を遣い過ぎて疲労してしまうことにもなりかねません。気心の知れた仲間や家族ならともかく、最初から周りの人たちのことを全て知っているわけでは無いので、自分が楽しむことを大事にしつつ、頭の片隅で人の受け止め方は様々、ということも気に留めておくぐらいがちょうど良い気がします。

私たちが必要としているもの

正論や批判ではなく、人の心に届く言葉

最近では正論や道徳的な価値観が大衆の支持を集めている印象を受けます。

もちろんロジック的に筋が通っていることや道徳的に見て好ましい考え方というのは非が打ちづらいということもあり、すんなり受け入れやすいのも事実だと思います。

ですが、ロジックとして、または根拠を示して説得力があるからといってそれが結果として正しいとはなりません。

ビジネスでも、もちろんお客様や取引先を納得させる上では客観的で説得力のある実績やデータというのが重要ことはもちろんですが、それで事業が成功するかは別問題です。

なぜなら、未来のことなど誰にも分からないからです。いくら緻密に計画を練ったとしても想定外のことはいくらでも起こるし、データが示しているからと言ってその通りに物事が動くとも限りません。

道徳的な価値観も同じで、社会通念上や住んでいる場所、国によって望ましい考え方や価値観はあると思いますが、それは時代や場所と共に移り変わるもので絶対ではありません。

なのに、正論で筋が通っていないもの、今の時代の道徳観からして少しズレているものに対する風当たりが今の社会は容赦がない。

おそらく今後、正論というのはChat GPTに始まる生成AIがいくらでも生成してくれるでしょう。それよりも人の心に届く言葉を紡ぐことが今の私たちには求められているのではないでしょうか。

本当に強い心は、声を上げて批判・批評することよりも、相手を赦し、認めること

最近ふと、昔観ていたドラマが懐かしくなって観返していると「本当に強い人間はどんな人間か?」ということを教師が生徒に説くシーンがありました。

その教師はこんな言葉を生徒に投げかけていました。

本当に強い人間ってのは、人が出来ないことができる人間だ。

”人を赦す”って本当に難しいよな。

私たちは異質なものに対して、ついつい攻撃的になったり批判したりしてしまいます。これはある種の動物的な防御本能である程度は仕方のないことなのかもしれません。

ですが、批判することは「違う」と言えば済む話で行うことは簡単です。

それよりも、相手の心に届く言葉で相手を諭すことはもっと難しく、そして自分を攻撃してきた相手を「赦す」ことはさらに難しいことです。

最近は回転ずしチェーン店での行き過ぎた行為で十代の青年とその家族が、取り返しのつかない事態に直面してしまうことになったのは記憶に新しいと思います。

社会として、彼らが取った行動を「赦す」ということは難しいと思います。ですが、人間として私たちが彼らの心に届く言葉で諭し、将来を思って「赦す」ことは可能なのではないでしょうか。

社会として許されない事態に厳正に対応することが必要でも、それに乗じて個々人の人間が同調して批判したりそっぽを向くのではなく、社会が許すことが出来ないからこそ、人として人を赦す風潮が生まれれば、どれだけ素敵な社会になるだろう。

 

他人の「個性」についても、それを否定することはとても簡単ですし、どうしても好きになれないものを受け入れる必要もないと思います。

相手の個性を受入れ、認めることが出来なくても私は構わないと思います。

そうではなくて、違う個性が存在することを認めて、そこに「違い」があることを認めるだけで十分なんです。相手の価値観や個性に迎合する必要はありません。ただ、自分とは違うことを認識して、違うことで批判や否定、攻撃することは間違っていると思います。

違ったままで、そのままで人と接することが大事なのではないでしょうか。

ふっと真っ黒な気持ちやわだかまりが溶ける瞬間

よっぽど出来た人ではないと、他人に対する妬みや嫉妬、憎しみや毛嫌いする感情から無関係でいられることはとても難しく思います。

自分にはないもの、自分には出来ないことを誰かが出来ているとき、「自分は我慢しているのに。。」とか、「きっと本性は違うはず」というマイナスな気持ちになってしまうこともあると思います。

そのような「真っ黒」な気持ちが残っていると、相手の幸せそうな笑顔さえも余計にネガティブに捉えてしまうもの。

そしてそのような黒い気持ちは、相手が不幸に陥ることや悲しみ、涙に暮れている姿を見るまで無くならないとするなら、それはとても悲しいことです。相手の笑顔や幸せを奪っていることに気付かないのですから。

ネガティブで真っ黒な気持ちというのは案外ちょっとした勘違いや言葉、気持ちのすれ違いを確認することで驚くほどすっとほどけていくものでもあると思います。

ちょうど子どもの頃にケンカをして口も聞かなくなった友達と、「ごめんね」の一言でそれまでのことがウソのように仲直りした経験は誰しも持っているのではないでしょうか。

相手の笑顔や幸せを奪って解消するのではなく、自分の中に溜まったどす黒い感情をすっと溶かしていく、その感覚をイメージすることが私たちには必要なのではないでしょうか。

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