世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】沖縄・勝連城跡を100倍楽しむ徹底ガイド4選

沖縄の世界遺産の一つ、勝連城跡。琉球王国が誕生したのは1429年のことですが、沖縄各地で13世紀から16世紀頃頃まで建築された「グスク」と呼ばれる建築物となります。
グスクとはどのような建築物なのか、また勝連城はどのような者によって統治されていたのか、勝連城の特徴や見どころはどこにあるのか、世界遺産の勝連城を詳しくガイドします!

【世界遺産】沖縄・勝連城跡徹底ガイド①:琉球王国とグスク

世界遺産:勝連城跡

グスクとは?

現在の沖縄県に人が住みだした時期は定かではありませんが、日本の本島における縄文時代よりもさらに前、18,000年前のものと思われる人類の化石(港川人)が沖縄県本島の南部から見つかっています。

そこから長い時間を経て日本で言う弥生時代から鎌倉時代に至るまで、他の島や日本の本島、朝鮮半島などとも交流があったものの、他の地域の文化が沖縄に琉球して色濃い影響を与えたということはありませんでした。

弥生時代以降、日本の本島では稲作が広がり、それにより集落の規模が拡大し、やがてヤマト政権という首長連合の誕生につながっていくわけですが、沖縄で弥生時代に相当する時代があったのかははっきりと分かっていません。

それでも11世紀から13世紀頃には沖縄でも米や麦の栽培が行われ農業技術が発達し、本島と同じように集落の規模も大きくなり、そこから按司(あじ)と呼ばれる首長のようなリーダーたちが生まれました。

このリーダーたちの中からさらに頭角を現した者は大按司(おおあじ)とも呼ばれ、グスクはこのような按司・大按司の居城とされた建築物を指します。

「居城」と記載しましたが、按司の間でも勢力争いが勃発し、それがやがて14世紀初頭になると南山・中山・北山の台頭によるいわゆる三山時代につながるように、グスクというのは按司の居住地であると同時に戦のための城としての性格を有するものでもあったのです。

琉球王国の誕生

14世紀初頭に三山時代に入ると、南山・中山・北山のそれぞれが他を出し抜こうと画策を行いますが、その中の一つが当時の中国、明との関係です。

中国で明王朝が誕生すると、明は周辺の地域に明への忠誠を誓わせる使者を出し、主従関係を求めました。これを朝貢関係(ちょうこうかんけい)または冊封体制(さくほうたいせい)と言います。

朝貢関係では周辺国は明に貢物を送る代わりに独立国家としての承認を受け、明との交易も許されることになります。

当時製鉄技術を持っていなかった沖縄では、明の冊封体制に入ることで明との交易を行うことで鉄を輸入し、それにより農具や武具を製造することで勢力の強化と増大を図ることが出来ました。

このため、14世紀後半にまず中山が他の二山に先駆けて明の冊封体制に入ったものの、ほどなくして北山・南山も同様に明との関係を構築したので、勢力争いはまた振り出し状態に。

そんな均衡を破ったのが、当時の南山の領地だった佐敷(さしき)の按司、思紹(ししょう)の息子だった尚巴志(しょうはし)です。

彼が次第に頭角を表すと、中山・北山に攻め込んでこれを陥落させ、ついに南山の他魯毎(たろまい)を討ったことで三山の統一を果たしました。その時1429年、ここに沖縄で初めての統一国家、琉球王国が誕生しました。

グスクの文化的な価値とは?

グスクと琉球王国について簡単にお話をしてきましたが、最後にグスクの文化的な価値について考えてみたいと思います。

まずグスクというのは領地を統治する按司の居城であったことから、この意味で軍事的な拠点であると同時に領地を治める政治の中心でもあったことが分かります。

軍事的な拠点であったことは、勝連城(かつれんじょう)跡の石垣の城壁をご覧いただければ一目瞭然です。

政治の中心であったことは、大きなグスクや首里城では政治を執り行う舎殿(しゃでん)と様々な儀式が行われる御庭(うなー)が置かれていたことから知ることができます。勝連城については後ほどご紹介します。

この2つの性質に加え、グスクには「祈りの場」という位置づけもありました。これはまさに信仰の世界と言えるでしょう。

続いて沖縄における信仰の世界についても簡単に触れておきたいと思います。

【世界遺産】沖縄・勝連城跡徹底ガイド②:神人(かみんちゅ)・ノロ

沖縄の世界遺産、つまり琉球王国の世界遺産を楽しむ上で知っておきたいのが、琉球王国はもとより古くから沖縄に根付いていた信仰の世界です。

琉球で、神様は海の遥かかなたにある理想郷の「ニライカナイ」からやって来て、御嶽(うたき)という場所に天降りしたと信じられています。

そしてその霊力を受ける者を根神(ねがみ)と呼んでいたのですが、琉球で集落が形成されてくると、集落には主に行政を取り仕切る根屋(にーや)と、祭祀権を持った根神屋(ねがみや)と呼ばれる者がいました。

根神屋は神女(しんにょ)が務め、彼女たちは自分たちの願意(祈り)をニライカナイ大王に通す火の神を、根神屋のかまどや火の殿(とん)に祀っていました。

やがて集落の規模が拡大し、按司が登場すると、その按司がさらに勢力を延ばして大按司になっていくとそれは「おなり神」である根神の霊力によるものと考えられ、根神も按司の支配する全地域を統括する神女となりました。

これを神人(かみんちゅ)、またはノロと呼びます。

このように、按司が勢力を拡大することはノロの地位の向上を意味し、按司社会において公的な儀式などをノロが司るようになっていきます。その儀式と言うのは、御嶽を拝んで按司の繁栄や村落の平和、五穀豊穣や航海安全など多岐に渡っていたと言われています。

このように、琉球での行政は男性である按司が担い、一方で女性のノロも信仰の対象として大きな存在であったことから、グスクには御嶽が設けられていました。これは琉球王国が誕生した首里城も例外ではありません。

男性の国王と男性社会による行政と、女性による信仰と祭祀。

沖縄で首里城やグスクを訪れる際はぜひこの信仰を頭に入れておくとよりお楽しみ頂けるかと思います。

【世界遺産】沖縄・勝連城跡徹底ガイド③:勝連城の統治者の系譜と阿麻和利(あまわり)

あまわりパーク内の展示

勝連城の統治者の系譜

それでは今回ご紹介する世界遺産、勝連城(かつれんじょう)を統治していた人物に迫ってみましょう。

勝連城の初代城主だった勝連按司の名前ははっきり分かっていません。ですが出自(しゅつじ)としては英祖王(えいそおう)の2代目「大世王」の五男だった人物だと言われています。

いきなり難しい話になってきましたが、英祖王というのは尚巴志による統一国家である琉球王国が誕生する前に、琉球王国の歴史書等で存在していたとされている琉球の王朝のことです。

一部は伝説の域を出ませんが、今の沖縄県で最初の王朝は舜天(しゅんてん)という人物によって成立されたと言われています。この舜天の王朝の次に誕生したとされるのが英祖王による王朝で、そこから三山王朝へとつながります。

勝連城の最初の城主は、この英祖王の王朝の第2代目の「大成王」(たいせいおう:英祖の長男)と言われています。

はっきりとしたことは分かりませんが、いずれにしても勝連城を統治していたのは由緒ある王朝の血筋を引いた者だったということです。

そして勝連城の最後の城主が10代目、阿麻和利(あまわり)という人物です。実はこの人物、英雄でもあり逆賊でもある不思議な人物なのですが、次はこの最後の勝連城按司である阿麻和利についてご紹介したいと思います。

勝連城の最後の按司、阿麻和利(あまわり)

阿麻和利という人物は今の嘉手納町(かでなちょう)、北谷間切屋良(ちゃたんまぎりやら)で生まれました。

優れた才能の持ち主だった阿麻和利は当初は勝連按司に仕える身分でしたが、9代目城主・茂知附(もちつき)の悪政に対して民と立ち上がり、これを倒して10代目の勝連按司となり城主になりました。

城主になった阿麻和利は日本の本土を始めとする対外貿易に力を注ぎ、力を蓄え始めますが、これが尚巴志から続く第一尚氏王朝の第6代王・尚泰久(しょうたいきゅう:在位1454~1460年)の不信感を招いてしまいます。

阿麻和利の勢力を恐れた尚泰久王は、座喜味(ざきみ)グスクにいた護佐丸(ごさまる)という按司を対岸の中城(なかぐすく)グスクに居城させて阿麻和利への監視を強めました。

そして1458年、阿麻和利は勢力拡大を目的として中城グスクに攻め込み、護佐丸を打ち取ります。ですが実はこれは護佐丸に王府に対する謀反(むほん)の疑いがあるかのように策略をかけて、王府の命により攻め入る口実を作るためだったと言われています。

その勢いのまま首里王府へと侵攻した阿麻和利でしたが、結果としては王府軍に敗れてしまい、ここに勝連城按司は滅びることになるのです。

先ほどご紹介したように、阿麻和利が勝連城の城主になった時というのは尚巴志による第一尚氏王朝(琉球王国)が誕生していた時代ですので、そういう意味では阿麻和利は王国への反逆を企てた逆臣だったということになります。

ですが、一方で阿麻和利の人物評は琉球最古の歌謡集「おもろそうし」によるとむしろ、勝連を繁栄に導いた英雄として讃えられているのです。

 

別記事でもご紹介していますが、尚巴志が琉球の統一を成し遂げたものの、その後しばらくは各地で起こる按司の反乱など必ずしも琉球王国の基盤というのは安定していませんでした。

阿麻和利の乱も、このような琉球王国統一後の間もない不安定な時期に起こった出来事でしたが、英雄視もされている阿麻和利がなぜ首里王府に刃を向けたのか、その理由は今となっては分からないものの、当時の複雑な事情があったのかもしれませんね。

その他の阿麻和利(あまわり)エピソード

阿麻和利の反逆は妻からの密告で事前にバレていた!?

先ほどご紹介した尚泰久、護佐丸、阿麻和利との間には複雑な関係がありました。

それは尚泰久の妻が護佐丸の娘であり、阿麻和利の妻だった百度踏揚(ももとふみあがり)は尚泰久と護佐丸の娘との間に出来た娘だったのです。

このため、阿麻和利が首里王府に反逆を起こすということは妻の百度踏揚にしてみれば、実の父を討たれることを意味します。

不安に駆られた百度踏揚は阿麻和利が王府に攻め込むことを事前に首里王府に密告をしました。これによって阿麻和利による反逆は王府に筒抜けとなり、結果として阿麻和利の敗北へとつながることになりました。

ちなみに、阿麻和利が王府によって討伐された後、百度踏揚は大城賢雄(おおしろけんゆう)という人物の妻となりますが、この人物こそが阿麻和利の反逆を事前に知らせるため、百度踏揚が首里王府に遣った従者でした。

戦国時代にもお市の方、淀の方、お江の方など大名の縁組みにより翻弄された女性がいましたが、琉球王国でも縁組みにより運命を握られた戦があった事はとても興味深いですよね。

現代に活きる「肝高の阿麻和利」

阿麻和利の激動の生涯は、沖縄に古くから伝わる芸能である組踊(くみおどり)を現代版にアレンジしたいわば「沖縄版のミュージカル」の題材になり公演されています。

その題名にもある「肝高(きもたか)」という言葉は、先ほどご紹介した沖縄最古の歌謡集である「おもろそうし」に謡われている「きむたか」という言葉から来ているもので、「心豊かで気高い」という意味になります。

興味のある方はこちらのページをご覧ください。

【世界遺産】沖縄・勝連城跡徹底ガイド④:勝連城の見どころガイド

それではいよいよ勝連城跡の見どころガイドに移りたいと思います!

残念ながら現在残っているのは少しの城壁跡と舎殿の基盤ぐらいしかないため、当時の面影を想像するのは至難の業と言えるでしょう。勝連城跡の公式ページでスマホによるバーチャルツアーの提供も行っているようなので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。

勝連城跡の図面

勝連城跡は小高い丘陵の上に造られたグスクのため、丘陵の斜面の平地(これを曲輪(くるわ)といいます。)を利用して階段状に設備が敷かれました。

感覚的にお分かりかと思いますが、やはり高い場所(一の曲輪)ほど重要な機能を有していたと考えられます。

一の曲輪は「玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)」と呼ばれる御嶽(うたき)、つまり祈りのための神聖な場所でかつては宝物殿のような建物があったことが分かっているので、やはり勝連城では最も重要な場所だったと考えられます。

二の曲輪には舎殿の基盤がのこされていることから、こちらが政治を執り行う中心だったのでしょう。

三の曲輪は古い時代には掘立柱(ほったてばしら)の建物が立ち並んでいたと考えられていますが、時代を経るにつれて二の曲輪とセットで、二の曲輪が舎殿、三の曲輪は儀式を行う広場としての役割に変化していったようです。

四の曲輪まで下ると、上の模型図のように集落が広がっていたことが分かります。

このように一の曲輪から四の曲輪まで、神聖な場所⇒政治の場所⇒御庭(儀式の場所)⇒庶民の場所へと高さと共に明確に区別をつけて管理されていたのは面白いですよね。

天然の要塞!そのヒミツに迫る

地形を利用した城塞

勝連城周辺の地形

こちらは勝連城跡を含む周辺の地形を立体的に表した模型になります。

実際に訪れると良く分かりますが、勝連城跡の入口までに行くまでには小高い丘陵を登る道が続いています。

この丘陵は標高が60~100メートルほどのもので、勝連城は上手くその地形を利用して一番高い北西部分(上の模型では右側)を頂点として、そこから階段状に低くなる造りをしていることが分かります。そして反対側の南東部分(上の模型では左側)でまた少し高くなっています。

地図をご覧いただくと良く分かりますが、城の南側にはすぐ海が広がっており、昔は海外貿易の拠点となる港がありました。一方城の北側には湿地帯が広がっており、水田などの農地が広がっていたと言われています。

日本の本島でもそうですが、海外貿易で栄えた琉球ではやはり交易の拠点となる港を含む領地を有している方が圧倒的に有利だったので、海に近い勝連城を居城にしていた阿麻和利が勢力を拡大したのもうなずけます。

上図の模型をご覧頂くと、グスクはぐるりと城壁に囲まれており、最も高い地点を背としているので背後からの奇襲を心配する必要はなさそうです。また周辺も急な崖になっていることから、まさに天然の要塞と言えるでしょう。

先ほどご紹介した通り、敵が侵入するには東の曲輪から順番に一の曲輪に向かって攻め込むしかありません。侵入される方向が限定的であれば、そこを集中して守れば良いので、勝連城はきっと防御力の高いグスクだったのでしょう。

侵入者を寄せ付けない湿地帯

防御田跡

かつて勝連城跡の付近一帯は「底なしの沼」と呼ばれるほど水量が豊富な湿地帯だったそうです。

このため、平時であれば農地として城の財政を支える一方、争いが絶えなかった時代には湿地帯で足を取られることから、侵入者が容易に城に近づけない作りになっていたのだとか。こちらも自然を上手く利用した防御策ですよね。

侵入者の勢いを止める階段

一の曲輪階段

一番上の「一の曲輪」(いちのくるわ)と呼ばれるエリアに上がるには、こちらの石段を駆け上がる必要があります。

写真を良く見て頂くと分かりますが、こちらの階段は上に行くほど幅が狭くなっています。これは敵が一気に攻めて来れないよう、その勢いを殺すと同時にここで詰まった敵を上の側面から急襲することで最後の防御ラインとしての役目をはたしていたそうです。

城外の外堀

城の中心から遠い東の曲輪の城外には、敵に東側から尾根伝いに攻め込まれないように、深さ2~3メートルという深い掘が掘られていました。

この掘があることで外敵者は容易に城外から城に侵入することが困難だったと考えられています。

信仰と祈りの場所

先ほど、グスクは軍事的、政治的な性質を有していることに加えて信仰の中心でもあったというお話をしました。これは世界遺産の勝連城跡でも例外ではありません。

当時の姿とは違いますが、勝連城跡に残る信仰と祈りの場所をご紹介します。

玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)

勝連城を守護する大きな霊石が御神体

先ほども少しご紹介しましたが、勝連城の最も高い部分にある一の曲輪にあるのが、写真の玉ノミウヂ御嶽(たまのみうぢうたき)です。

「御嶽」(うたき)というのは聖なる場所、という意味でまさに勝連城において最も聖なる場所であり信仰の中心であった場所ということになります。

霊石が御神体とのことですが、ここには当時宝物殿のようなものが建っていたことが判明しており、その建物の基礎に使われていたようです。

写真写っている岩場の奥と右側は少し穴が開いているのですが、この洞穴が二の曲輪にあるウシヌジガマと繋がっており、有事の際には避難路として使用されていた、との伝説が残されています。

ウシヌシガマ

奥に洞穴(ガマ)が見える

先ほど話に出たウシヌシガマは二の曲輪にあり、写真の中央に映っている洞穴(ガマ)のことです。

戦争や天災の際にはこの洞穴(ガマ)に身を隠して難を逃れていたとのことですが、これはここに造られた穴でここから外部へとつながる抜け道のようなものは発見されていません。

ウミチムン(火の神)

ウミチムンとは「三個のかまど石」のこと

こちらはウミチムンと呼ばれる、火の神を祀っていたかまどの跡で、城の台所とも言うべき場所になります。写真中央にコの字型の石造りが残されていますが、当時はこれに屋根がかけられ、中のかまどで火を起こしていたと考えられています。

この記事でもご紹介したように、沖縄(琉球)では古くから遥か海のかなたのニライカナイにおられる神さまに対して、火の神を通じて願いを捧げていました。

このため、家でも火を扱う台所は神聖な場所とされていたのです。

当時はこの場所から藪地島など6つの場所に対して火の神を通して祈りを捧げていたと言われています。

トゥヌムトゥ

トゥヌムトゥとは神人(かみんちゅ)の腰掛けのこと

写真に写っている四角に並べられた石は、「トゥヌムトゥ」と呼ばれ、旧暦の2月と5月に行われる祭祀(うまちー)の際に神人(ノロ)達が腰掛けるものだったそうです。

いつ置かれるようになったのかは定かではありませんが、勝連城でも信仰の儀式がとても重要なものであったことが分かります。

命の源の場所

勝連城は小高い丘陵地の地形を利用して造られた要塞ということもあって、敵に攻め込まれた場合など水の確保はとても重要なことでした。

そのため、勝連城跡にはいくつもの泉(ガーもしくはカー)の跡が残されています。

門口(じょうぐち)のカー

訪問者が手足を清めるために使用していた泉

こちらは「門口(じょうぐち)のカー」と呼ばれた泉(カー)ですが、大きな川が少ない沖縄ではこのような泉が人々の生活を支える貴重な水源になっていたそうです。

門口というのは、この辺りが城内に入る西原御門(にしはらうじょう)と呼ばれていた門だったことからその名前が付いています。

こちらは西原御門を通って城内に入る人たちが手足を清めるために使用していたと考えられていますが、港や集落とは反対側にあるので比較的身分の低い人たちのためのものだったのではないかと言われています。

マチダ・ナケージガ-

以前は「ヌールガー」と呼ばれていた祈りを捧げる泉

こちらは御嶽の中でも「琉球国由来記」(りゅうきゅうこくゆらいき)という王府編纂の地誌にゆかりを持つ特別な場所となっています。

王国時代から、神々と繋がる泉(カー)として少なくとも300年以上の歴史を持った祈りの場所であると考えられているそうで、現在でも地域の信仰の対象になっています。

仲間ヌウカー(カンジャガー)

四の曲輪のほぼ中央に位置する井戸跡

「カンジャー」と言うのは鍛冶屋のこと。

12世紀から15世紀にかけて、この地域に暮らしていた鍛冶屋の仲間衆で利用されていた井戸であることからこの名前が付けられています。

ですが、周辺の発掘調査で鍛冶屋の跡は見つかっていません。

ウタミシガー

「ウタミシ」とは「お試し」の意味

これは「ウタミシガー」と呼ばれる、一年間の豊作を占うための泉です。

旧暦の元旦の初祈りの際にこのウタミシガーの水の量を確認し、一年の豊作・凶作を占っていたそうです。

ちなみに水の量が多い時は不作の年、逆に少ない時は豊作の年だったと言われています。

さらに雨乞いの祈祷もこの泉で行われていたそうです。

ミートゥガー

縁結びのカーとして伝わっている

この泉は昔、男女が密かに逢瀬(おうせ)を重ねる場であったという伝説が残されている、いわゆる「縁結びのカー」です。

昔は女性の自由が制限されていたことから、ちょっとした水汲みで外に出る時間が男性と会う貴重な時間だったのかもしれません。自由が当たり前の今では少し考えられませんが、制限があるからこそ燃え上がるのが男女の仲とも言えますね。

ただ、「この泉のそばで恋の話をするな」という言い伝えが残されており、ここで恋が成就したカップルは永遠に結ばれ、失恋をすると男女のどちらかが死別すると言われていたのだとか。まさに命がけですね。。

 

いかがでしたでしょうか。泉(カー)と言ってもそれぞれで違った目的、利用方法があって面白いと思いませんか。

政治の場所

舎殿跡(二の曲輪)

忘れてはならないのがこちらの二の曲輪に残されている舎殿跡です。

ここには正面約17メートル、奥行き約14メートルの大きな舎殿が建っていたと考えられています。

その姿を見ることが出来ないのが残念ですが、建物の屋根は板または草葺き(くさぶき)であったと考えられているものの、周辺から大和系瓦(やまとけい・かわら)も発見されていることから、一部瓦葺き(かわらぶき)だった可能性もあるそうです。

この場所が政治の表舞台だったと考えられています。

城門と石垣、その他の建築

最後に世界遺産・勝連城跡の建築上の見どころをいくつかご紹介したいと思います。

三の曲輪城門

四脚門(しきゃくもん)があったと考えられる城門跡

四の曲輪から続く石畳の道を上がったさきにあったのが、こちらの三の曲輪城門です。

この門は四脚門、または藥医門(やくいもん)と呼ばれるタイプの門があったと考えられています。というのも、写真の上部、左右の石垣に4つのくぼみがあることが分かるでしょうか。

こちらの写真の方が分かりやすいかもしれません。こちらのくぼみに柱が4つ建てられ、屋根を支えていたと考えられているため四脚門だったのではないかということです。

ちなみにこの四脚門、または薬医門は東京大学の「赤門」が同じ構造の門になります。

一の曲輪城門

こちらの城門はアーチ形だったと考えられている

一の曲輪の入口に敷かれた城門跡がこちら。

こちらも残念ながら城門の両脇の基盤しか残されていませんが、当時はこちらの城門はアーチ形をしていたのではないかと考えられています。

このような細い入口を考えると、先ほどのような門がまえは難しいと思われ、両脇の石垣を積み上げて上部が半円になるようなアーチ形になっていたということです。

先ほどご紹介した舎殿の屋根には瓦、そして三の曲輪の門は薬医門、さらに一の曲輪の門は西欧風のアーチ形と、いろいろな要素がミックスされたのは日本のみならず朝鮮半島や中国、アジアの国との交易による影響だったのでしょうか。

布積みの石垣

二の曲輪の基壇

こちらは二の曲輪の基壇(きだん)になります。基壇とは、建物の基礎になる石や、土地で一段高く築いた場所のことを言います。

こちらの基壇は長方形にカットされた石灰岩を敷き詰めて造られていますが、これを切り石積み(布積み)と呼びます。この場所はグスクにおいて数少ないオリジナルの石積みが残されている部分として貴重であるため、ぜひご覧になってください。

美しい曲線美

曲線美が美しい勝連城跡

勝連城跡の外観についても注目して見たいと思います。

何といっても印象的なのはその穏やかな曲線美で造られた城壁ではないでしょうか。この曲線で造られた城壁は、日本の各地に残るお城と比べても何というか優雅で女性的、またどこか柔和なイメージを持ちます。

沖縄や琉球のどこかのんびりとした雰囲気や空気感であったり、これまでご紹介してきた通り女性が信仰の世界を司っていたということも影響しているのかもしれません。

勝連城跡から望む絶景

一の曲輪からの展望

世界遺産、勝連城跡は小高い丘陵の上に造られていることは何度もご説明しましたが、だからこそ勝連城跡から望む絶景も見どころの一つと言えます。

あまり多くを掲載すると実際に訪れる楽しみが減ってしまうので、ここでは勝連城跡の一番高い一の曲輪から撮影した展望を載せております。

眼下には沖縄の美しいコバルトブルーの海と、その先には中城跡が残るエリアがかすかに見えています。

上まで登るのはそれなりに大変ですが、登った時の爽快感と風の心地よさ、沖縄の海と街並みを見下ろすことができる絶景はぜひご覧になってください。

 

いかがでしたでしょうか。

残念ながら当時の面影があまり残されていない勝連城跡ですが、この記事を読んで頂ければ当時の生活や政治、信仰の場面を思い出しながら楽しくこの世界遺産を楽しむことができるのではないでしょうか。

ぜひ沖縄を訪れた際には足を運んでみてください!

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