日本の原風景と言われ、その素朴ながらどこか可愛らしい姿が人気の世界遺産、白川郷・五箇山の合掌造り集落。
合掌造りの民家は日本の他の場所では見られない特徴的なものですが、今回はその外見だけではない合掌造りのスゴさと、集落で行われてきた人々の暮らしをご紹介します。
これを読めば、世界遺産、白川郷・五箇山の合掌造り集落の魅力をより感じることができます!
1.【世界遺産】白川郷・五箇山の合掌造り集落ってどんなところ?
皆さんは白川郷という名前は良く耳にされたことがあるかと思いますが、世界遺産として登録されている範囲は白川郷と五箇山という2つの地域にある合掌造り集落になります。
白川郷は岐阜県に位置し、五箇山は富山県に位置しているため、両者はそれほど近い場所にあるわけではありませんが、それでも20キロ~30キロという距離なので、車であれば2,30分ほどで行き来できてしまいます。
世界遺産として登録されている合掌造りの集落は、具体的には白川郷と五箇山の菅沼集落・相倉集落の3つの集落です。
また、「合掌造り」という名前は、その家屋の屋根の外観が手を合わせた形に似ていることが由来とされています。
なぜこの3つの集落が世界遺産に登録されているか、理由はいろいろ考えることができるとは思いますが、3カ所とも合掌造り集落である以外にいくつかの共通点があること、また村落の規模が大・中・小とそれぞれに違っていて、その点で多様性が認められたから、とも言われています。
ちなみに、3つの村落の中では白川郷が最も大きく、60棟近くの合掌造りが建てられており、その次に相倉集落が約20棟、一番小さいのが菅沼集落で、こちらは9棟という規模です。
3つの村落の共通点として、①合掌造りの家屋であること、②様々な民謡が伝わっていること、③浄土真宗信仰が根付いていること、④山村民としての生業の4つの点が挙げられますが、今回はこのうち①と④について後ほど詳しくご紹介します。
2.【世界遺産】白川郷・五箇山の合掌造り集落の歴史
訪れてみるとよく分かりますが、白川郷や五箇山の集落は山間に造られた集落であり、今でこそ車やバスで気軽に訪れることが可能ですが、周りを1,500メートル級の山々に囲まれたとてもへんぴな場所にあります。
この場所で人が生活を始めたのは、なんと遡ること縄文時代という昔。そして、いつごろから今の合掌造り集落の形となったのか、はっきりしたことは分かっていませんが、現在もこの地域に残されている合掌造りの中には、建てられてから200年以上経っているものもあり、江戸時代後期にはこのような姿が出来ていたと考えられています。
江戸時代に建てられたものが今も目の前に残されていると考えると、なんだかタイムスリップした気持ちになりますよね。
江戸時代より前からも人々が生活していたことが分かっていますが、一説によると源平の戦いで源氏に敗れた平家の落ち武者がこの地に辿りついたのがこの地域の村落の誕生、という「平家の落ち武者伝説」が今も残っています。
そんな隔離された場所でひっそりと人々の暮らしが営まれて来たわけですが、全く外部との交流が無かったかというとそうではありません。
江戸時代には、五箇山はあの前田利家が治めていた加賀藩の一部として、白川郷は江戸幕府直轄の管理下に置かれていました。
それでも都会から遠く離れた場所にあり、山間に造られた集落であったため、冬には深い雪に閉ざされて孤立してしまうことも。
そんな厳しい環境の中で生き抜いてきた人々の知恵から生まれたのが、あの合掌造りなのです。
それでは合掌造りのスゴいところをご紹介していくことにしましょう。
3.【世界遺産】白川郷・五箇山の合掌造りのスゴさとは?
建築様式
合掌造りの建築様式は一般的に、「切妻形式の茅葺き屋根を有する家屋」ということになります。
切妻式というのは、妻面に屋根がかかっていない形のことで、簡単に言うと真正面から見ると家屋の屋根が三角形の両辺の形をしているように見え、とてもシンプルな造りです。
合掌造りはこの切妻式であり、かつ屋根が茅葺きになっているのがそのユニークな点になるわけですが、さらに2つのユニークな点があります。
1つ目は、何といっても屋根が急こう配に造られていること。茅葺きである上に屋根が急こう配なので、近くで見るとなんだかとても迫力があります。
2つ目は、普通の家屋と違って屋根裏のスペースが確保できる作りになっているということ。
どちらも詳しくご紹介しましょう。
合掌造りのスゴいところ①:雪に強い!
先ほどご紹介した通り、白川郷や五箇山は冬になると雪がたくさん降る豪雪地帯です。
豪雪地帯に暮らす人たちが屋根に上って雪下ろしをしている映像がテレビなどでよく流れますが、雪がたくさん屋根に積もってしまうとその重みで家屋が潰れてしまうため、雪下ろしはそれを防ぐとても大事な作業なのです。
もうお分かりかと思いますが、合掌造りの家屋の屋根が急こう配になっているのは、なるべく雪が積もらずに下に落ちるようにするため。ただ、そうすることで雪が屋根に積もりにくいとは言え、雪があまりに多く降った場合には合掌造りであっても雪下ろしが必要になってきます。
>合掌造りのスゴいところ②:風にも強い!
白川郷を高い場所から眺めるとよく分かりますが、すぐそばを庄川が流れ、山々の合間の部分に村落があります。このため、山間から強く風が吹き抜け、風にも倒れない強い家屋を建てる必要があります。
あの有名な童話、「三匹のこぶた」ではオオカミからの強烈な一吹きで藁の家や木の家は簡単に飛ばされてしまい、ガチガチに組み立てたレンガの家はびくともしない、というお話でしたが、合掌造りもこのレンガ造りのようにガチガチに組み立てられているかというと、実はその逆なんです。
良く力強い「剛」としなやかな「柔」の仕組みが比較されますが、合掌造りの構造としては後者「柔」の造りになっていると言えるでしょう。
合掌造りの屋根は「ネソ」と呼ばれる木々を縄で縛って固定したシンプルな構造になっているのですが、実はこの「ネソ」が風の圧力をしなやかに受け流すバネのような働きをすることで、風を柔らかく受け止める働きをして、結果風にも負けない家屋になっているのです。
>合掌造りのスゴいところ③:屋根裏スペースの有効利用ができる!
外から見ただけでは分からないのですが、実は合掌造りの家屋は一般的に1階が居住用、2階より上に屋根裏スペースが設けられています。
一般的な建築様式の場合、屋根とその下の天井の間には「束(つか)」という梁が通されており、屋根裏の空間ができません。一方、合掌造りの場合はこの「束(つか)」が無いため、屋根とその下の天井の間に空間を確保することができるのです。
「束」が無い分、合掌造りの方が構造的にもろいんじゃないか?と思われるかもしれません。実際、合掌造りは屋根とその下の居住スペースは完全に分離されていて、言ってみれば居住スペースの四角い「箱」の上に三角形の屋根が乗っかっているだけ、というシンプルなもの。
また、屋根と居住スペースを支えているのが「ウスバリ」と呼ばれる木材の梁ですが、そこの一部分がくぼんでいて、屋根がそのくぼみに差し込まれているだけ。
ではどうやってバランス的に支えられているのかというと、屋根の重さでのみ支えられている、というので何とも不思議な感じがしますよね。
ですが、この一見不安定にも見える構造が、先ほどもご紹介した通り、逆に少し動ける柔軟性を持つことを可能にしているため、強風が吹いても「ギシッ」と木材が多少動くことで風をいなすことができるというわけです。
この屋根裏スペースは風通しも良いことから、昔からこのスペースを利用して養蚕が行われてきました。この地域に暮らす人々にとっては、養蚕も生計を立てるための重要な収入源だったと言われています。
>合掌造りのスゴいところ④:ネジや釘は一切使われていない!
先ほども少しご紹介しましたが、合掌造りは木材を縄で組み、またその自らの重みによって支えられているので、釘やネジと言った金属が一切使われていないのも特徴です。
まさにここに生きる人々の知恵の結晶と言えるのが、この合掌造りなのです。
>4.【世界遺産】白川郷・五箇山の合掌造りの集落のヒミツ
集落のヒミツ①:白川郷の集落の家屋はどれもほぼ同じ方角を向いている!
さて、合掌造りのスゴさが分かったところで、次は集落全体のヒミツについても見て行きましょう。
まず1つ目は、白川郷を訪れた際に高台から村落の全貌を眺めて頂くとよく分かりますが、家屋のほとんどが同じ方向を向いています。
これは先ほどもご紹介した通り、山間に吹く風の抵抗を少しでも和らげるために考えられた工夫です。風の抵抗を受けないためには、風が吹いてくる方向と屋根の尾根を平行にすれば良いわけで、白川郷の家屋もそのように向きを考えて建てられています。
集落のヒミツ②:白川郷の集落の家屋は妻面が東西を向いている!
2つ目のヒミツ、それは家屋の妻面(屋根の表面)が東西を向いている事。これは屋根の両側が均等に日光に当たるようにという狙いがあります。
豪雪地帯のこの地域では、雪が屋根に積もってその後に日光で徐々に解けるわけですが、この時に屋根の両側で雪の解けるスピードに違いが出てしまうと、屋根の両側で重みが変わってしまってバランスが崩れてしまいます。
先ほどご紹介した通り、合掌造りは絶妙なバランスで成り立っている家屋のため、少しのバランスの歪みで大きな影響を受けてしまうのです。とても繊細な造りとも言えますよね。
集落のヒミツ③:白川郷の集落に存在していた「結」制度
茅葺き屋根の合掌造りは、40年から50年に1度、茅葺き屋根を取り換える必要があります。自然の物を利用して屋根を作っているので、取り換えが定期的に必要になってくるのは当然かもしれません。
先ほど、合掌造りの屋根の部分と下の住居部分が完全に分離されているとお話ししましたが、これは屋根の部分を住民が自ら手入れできるようにという狙いもあります。
といっても、その巨大な茅葺きの屋根を住んでいる家族だけではとても1日で終わらせることはできません。そこで、白川郷では昔から「結」という制度に基づき、茅葺きを交換する時には村人が総出で手伝いをしていたそうです。
40年から50年に1度の張替えとはいえ、村全体で50棟近くも家屋があるわけですから、毎年どこかの家で張替えが行われていました。
「結」という制度は言ってみれば無償の手伝いです。それではなぜ無償の手伝いに皆が協力してくれるかと言えば、自分の家の張替えが来た時に、自分が手伝ったお返しとして手伝ってもらうためです。
張替えの日は、張替える家の人は手伝ってくれる人たちに食事などの世話をしたり、誰が手伝いに来てくれたかを細かく記録したりなど、1日中てんてこ舞いでまさに一家の大行事になっていたそう。
そんな茅葺き屋根の張替えが重労働だったことが、合掌造りの家屋がどんどん減っていった理由でもあります。また、近年では普通に業者に屋根の張替えを依頼することが一般的で、この「結」という制度は失われつつあるようです。
集落のヒミツ④:白川郷・五箇山で営まれていた産業とは?
最後に、白川郷や五箇山で暮らす人々がどのように生計を立てていたのかをご紹介します。
山間の地に造られた集落であるため、平地も少なく、農作も限られた量しか行うことができませんでした。そんな厳しい環境の中で、ここで暮らす人々は2つの産業が重要な収入源になっていたのです。
1つ目は、先ほどもご紹介した養蚕業。合掌造りの屋根裏スペースは、蚕を育てるのに格好の環境であったことから、このスペースを利用して養蚕業が行われてきました。
2つ目は、塩硝(えんしょう。五箇山での産業は「塩硝」と呼ばれており、以降この記事ではこの表記としています。)の産地であったこと。塩硝とは火薬の原料です。
戦国時代に鉄砲が日本に伝わってからというもの、各地の大名たちにとって鉄砲の原料である塩硝を確保することはとても重要な課題でした。
この塩硝の原料になる硝石は水に溶けやすい性質のため、雨の多い日本では自然に産出することが難しい原料です。
そこで、この地域の人たちは人工で硝石を作り出し、塩硝を製造していたのです。水に溶けやすい硝石を作り出すには雨を避ける場所が必要なわけですが、それが家屋の床下だったのです。
硝石ができるまでには長い年月を要するのですが、ここに住む人々は家屋の床下に硝石が自然に生成されるために必要な草木や人糞などを保存し、硝石を作っていました。
この地域で塩硝の産業が活発になったもう1つの理由として、都会から隔離された環境であったことがあります。火薬の生産は軍事戦略の一環ですから、他の国にその情報を漏らすわけにはいかない極秘事項です。地理的に隔離されたこの地域ではそういった軍事機密情報が外に漏れる危険性も低かったことが、塩硝の産業が大きく発展した理由の1つと考えられています。
五箇山の菅沼集落には「塩硝の館」という資料館があり、そこで流れているムービーでも紹介されていますが、出来上がった火薬は、村人が牛を引いて2,3日ほどかけて加賀藩の火薬庫である塩硝蔵に運んでいました。
また、白川郷で塩硝が生産されるようになったのは江戸時代後期のことですが、白川郷で生産された塩硝も五箇山で作られた塩硝に混ぜて一緒に運んでいたそうです。
【世界遺産】白川郷・五箇山の合掌造り集落のまとめ
白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録された理由
いかがでしたでしょうか。
白川郷と五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録された大きな理由の1つは、これらの地域には今も人々が生活をして暮らしているためなんです。
合掌造りの家屋も、「昔」の存在ではなく今もなおこの地域で生き続けている文化です。
日本の世界遺産の中で、白川郷と五箇山にしかない特徴があります。
それは、この世界遺産だけが、ここで生きてきた一般の名もなき人々の知恵や生活に基づくものということです。そのほかの日本の文化遺産は時の権力者であったり、偉人たちが作り出したものですが、この白川郷と五箇山に限っては、「普通の人々」が築き上げてきたのです。
世界遺産と現実
世界遺産に登録される前から、合掌造りの家屋の一部は国の重要文化財として登録されていたこともあり、今ではこの地域に暮らす人々にとって、「観光産業」が彼らの収入源の1つになっていることも事実です。
合掌造りやその原風景的な村落の伝統を守りつつも、そこに暮らす人々がいる以上、時代が変わることで変わっていくものもあるという現実を、皆さんもぜひその目で感じ取ってみてください!
(参考:「日本の世界遺産 秘められた知恵と力」NHK出版 河邑 厚徳、「知られざる白川郷」風媒社 馬路 泰藏、「世界遺産白川郷―視線の先にあるもの」筑波大学出版会 黒田 乃生)