「古都京都の文化遺産」の1つとして世界遺産に登録されている京都、栂尾山 高山寺。京都市内から少し離れた北の山中にひっそりと佇み、馴染みが薄いかもしれません。
高山寺と明恵上人、明恵上人の教え、貴重な国宝など、栂尾高山寺が世界遺産に登録された理由はもちろん、高山寺の魅力が詰まったマメ知識を3つご紹介します!
【世界遺産】登録された理由①:栂尾山 高山寺と明恵上人
京都市内から栂尾行きのバスに乗り、揺られること数十分ほどでしょうか。気づけばバスは山の中をどんどん進んでいき、さっきまで観光客で賑わっていた京都市内がうそのようです。
そんな山の中、右手に山中を流れる川を見ながら坂を下った場所でバス停を降り、すぐの場所に栂尾 高山寺はあります。
街中から離れた山奥で創建された栂尾 高山寺。ここで人生の半分弱ほどの時間を過ごし、庶民だけでなく皇族や公家、武士からも厚い信頼を寄せられていた仏教僧が明恵上人です。
高山寺は明恵上人により創建されたわけではありませんが、このお寺は明恵上人と寺であり、世界遺産に登録されている理由を考えてみても、明恵上人抜きに語ることはできません。
まずは高山寺で修行をしながら仏教の教えを説いた明恵上人についてご紹介しましょう。
明恵上人の生涯
明恵上人は、(和歌山)の在田(有田)郡石垣庄吉原村に生まれました。父は武士の平重国(たいらのしげくに)、母は在田郡一帯の豪族、湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の娘として、由緒ある出の両親の元に生を授かったわけです。
ところが、1180年、8歳の時に母と父を立て続けに失い、その翌年に母方の叔父の上覚(じょうがく)を頼って高尾(高雄)神護寺(じんごじ)に入山しました。すでにこの頃から明恵上人は、自分は仏道に入り身を捧げる決意をしていたというから驚きです。
その後、16歳にて東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて出家。この時に名前を成弁(じょうべん、後に高弁に改名)と名乗りました。
さらに21歳の時には、東大寺尊勝院(そんしょういん)にて華厳経をさらに盛りだたせるため出仕したものの、僧が派閥や地位をめぐって争っている姿に嫌気がさし、1年で飛び出してしまいます。その後は、高雄に戻らずに自分の生まれ故郷である紀州の白上の峰(しらかみ)に移り、長い修行生活に突入しました。
10年以上もの間、紀州にて修行生活に入り込んだ後、34歳の時、後鳥羽院より高尾の一院であった栂尾(とがのお)を賜り、高山寺と名を改め、以後も紀州などに赴きながらもこの高山寺が明恵上人の修行と生活の拠点となったのです。
一時期には東大寺の学頭も勤めていたことを考えると、明恵上人の秀才ぶりが想像できます。また、10年もの修行を紀州の山峰で行っており、ある意味隠遁生活を送っていたにも関わらず、後鳥羽院より高山寺を賜るなど皇族からも一目置かれるほどの存在だった明恵上人。
ここまでの話では、単に「頭が良くて秀才な仏僧だったんだな。」ぐらいの印象しか持たれないかもしれません。ですが、明恵上人の魅力は優秀な僧侶という点だけではなく、その人間性にあるのです。それをご紹介しましょう。
変わり者!?人間味あふれる明恵上人
度が過ぎたストイックさ
出家をすれば誰でも真面目に仏の教えを学び、その真理を探究し続けるとともに、それにより人々を救いへと導くと思います。
明恵上人ももちろん、人生をかけて仏道を極めようとしました。が、その姿勢はある意味尋常ではないぐらい気迫に満ちたものだったのです。いくつか有名なエピソードをご紹介しましょう。
自らの体をオオカミに差し出して「捨身飼虎」を実践しようとした
仏教の説話の1つに、「捨身飼虎」というお話があります。これは釈迦が生まれる前世で王子であった時のエピソードの1つなのですが、前世では王子だった釈迦が、飢えた虎とその7匹の子どもを救うため、自らの命を差し出して虎を救ったという内容です。
明恵上人は13歳の時、仏道を極めて少しでも釈迦に近づきたい思いが高じ、この説話のような捨身の思いにかられ、どうせ死ぬのなら仏が人々のために命を捨てたように、オオカミに喰われて死にたい!、そう思い立ち、墓地へ行き一夜を明かしました。
結局一晩怖い思いをしながら過ごしても何事も起こらなかったのですが、実はこの行動は、1度ではなく2度も決行しているからさらに驚きです。
右耳を切り落とす
24歳、明恵上人は紀州の山峰に籠って修行の日々を送っていました。ここでも明恵上人は、自分をさらに追い込んで修行にのめりこみます。
出家しているので当然髪の毛を剃り、染衣を着ています。でもそんな僧侶は他にもたくさんいる。じゃあさらに姿をやつれさせ、人間の姿をもやめよう。
何やら危険なにおいがしますね・・
明恵はそこでこんな風に考えたのです。
眼をくり取れば聖教を読むことができなくなる、鼻を剃れば鼻水で聖教を汚す、手を切れば印が結べなくなる。耳なら無くても仏道に専念するうえで困ることはない。
そう考えた明恵上人は、何と右耳を切り落としてしまいます。耳を切り落とした後、血が勢いよく吹き出し、肌身離さず持っていた仏眼仏母という本尊にも血しぶきがかかったと記録には残されています。
40年以上にわたって「夢」を記録し続けた
出家をして正式に仏僧となった明恵上人ですが、19歳の時に、仏眼仏母を本尊として仏眼法を行い、このころから数々の不思議な夢を見るようになりました。それはまるで、明恵上人の心の中を見透かして、それに対して導きを与えてくれるかのような内容の夢だったのです。
それ以来、夢の内容を釈迦からの導きと考えるようになり、熱心に記録し続けました。明恵上人のすごいところは、何と夢の記録を生涯40年以上継続し続けたこと。この記録は「夢記」として重要文化財にも指定されています。
皆さんも必ず一度は夢を見たことがあるでしょう。ですが、その内容ってどこかぼんやりしていませんか?また、「夢には色が無い」ということも良く言われますよね。
ですが、明恵上人が記録した夢記は驚くほど具体的で、しかも色彩までも言及されているんです。
誰よりも純粋に、まっすぐに仏道を極めようとした明恵にとっては、夢での導きこそが真の教えだったのでしょう。彼にとって夢は単なる夢に終わらず、もう1つの人生だったように思えます。
実は交流関係の多かった明恵上人
先ほど、栂尾 高山寺は鳥羽院から賜ったとお話ししましたが、明恵上人は実は公家や武士、さらには有名な僧侶とも交流関係がありました。
有名な交流関係で1つご紹介すると、臨済宗の開祖と言われる栄西との交流です。
明恵上人の才能を認めていた栄西は、死後自分の跡継ぎとして明恵上人を指名するも、そのような宗派や派閥には興味のなかった明恵上人はそんな申し出には見向きもしませんでした。
実は高山寺には日本最古の茶畑があるのですが、これは栄西が宋より持ち帰った茶の実を明恵に送り、明恵が高山寺で育てたことに由来しています。
秀才で仏道の道を究めるあまり、とんでもない行動に出ることも多かった明恵上人。秀才ならではの確かな説法だけでなく、そのストイックであまりにもまっすぐ仏道に励む姿に、皇族をはじめ、多くの人々が慕って明恵上人の元に集まってきたことは間違いありません。
【世界遺産】登録された理由②:明恵上人が栂尾 高山寺で開いた教えとは?
ちょっと変わった、常人離れした明恵上人のエピソードをご紹介しましたが、明恵上人の教えとはどのようなものだったのでしょうか。ここにも栂尾 高山寺が世界遺産に登録される理由が隠されています。
明恵上人が生きた時代というのは、まさに平安の世が終わろうとして鎌倉時代に入る直前、仏教観でいうと末法思想が世に広がった時代でした。末法思想とは、簡単に言えばお釈迦様が入滅した後、長い年月が過ぎ、正しい教え(=正法)を知る者がいなくなって、悟りを開くことができなくなる世の中のことを言います。
平安時代後期はまさにこの末法思想が蔓延した時代で、誰もが不安を抱くようになっていました。そんな時に救世主のように、浄土宗をはじめとする様々な宗派が誕生したことは、皆さんも歴史の授業で学んだことと思います。
ですが、明恵上人の思想はちょっと違っていました。
阿留辺畿夜宇和(あるべきやうわ)
明恵上人の思想は、実はたった7文字で表すことができます。その言葉が「阿留辺畿夜宇和(あるべきやうわ)」です。
意味するものはその言葉の通り、「人それぞれにあるべき姿、生き方というものがあり、そのあるべき生き方を行うことを努力すれば、釈迦に近づくことができる」という考え方。
この考え方、今を生きる私たちが聞いても全く古臭さを感じず、すんなりと心に入ってくる気がしませんか?
ですが、明恵上人が生きた時代にあっては少し異端だったかもしれません。というのも、浄土宗や一向宗が爆発的に庶民に広まったのは、「念仏を唱えるだけで誰でも極楽浄土に行ける」と信じられたから。これはつまり、「みんな同じように救われる」ことでもあり、明恵上人の思想とは正反対とも言えます。
「あるべきやうわ」を体現した明恵上人
何事も身をもって体現してきた明恵上人。「あるべきやうわ」を体現していた明恵上人のエピソードを2つご紹介しましょう。
僧侶なのに気軽に歌を詠む
実は明恵上人は、親しかった者との交流や著書などで多くの歌(和歌)を書き記しています。そこにはある特徴があるのですが、明恵上人らしさを最も端的に表している有名な歌をご紹介します。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
パッと見るととてもふざけたような歌ですよね。
和歌といっても明恵上人は、技法や優劣にこだわらず、単に感じたこと、見たままをそのまま歌に詠んだ人でした。
上記の歌は、月が燃えるように明るく輝いている月夜に詠ったのでしょう。明恵上人の歌には、月を題材にしたものが多く、自然を愛でるものが多いことが分かっています。
「あるべきやうわ」の象徴ともいえる自然を大事にし、感受性が豊かな明恵上人ならではと言えると思います。
無駄な殺生をしない
2つ目のエピソードとして、明恵上人は決して無駄な殺生をせず、生き物に大切に接したと言われています。生き物といっても鳥や犬といった身近な動物だけでなく、昆虫や草花までも大事にした明恵上人。
山中にぽつねんと建っている高山寺だからこそ、明恵上人は長年そこで兼修に励むことができたのかもしれませんね。
明恵上人の仏教観
さて、明恵上人のキャラクターが見えてきたところで少し真面目な話に戻しましょう。
浄土宗、日蓮宗、臨済宗など新しい宗派が生まれたこの時代、明恵上人はどの宗派に属するのでしょうか。
あえて言うならば、「無所属」といったところです。先ほどの「あるべきやうわ」の思想を考えてみると良く分かりますが、人、自然、動物、それぞれが「あるべきやうわ」な生き方をすべきと説いた明恵上人にとって、特定の宗派や教えを強要することは性に合わなかったのでしょう。
ですが、数ある仏教の考えの中で、特に明恵上人が傾倒していたのが華厳宗と密教でした。華厳宗で有名なお寺と言えば、同じく奈良の世界遺産になっている東大寺です。
(華厳経の話や世界遺産 東大寺はこちらの記事でご紹介しています。)
東大寺で具足戒を受け、また一時期東大の学頭に就いていたことからも、華厳宗は明恵上人の拠り所の1つでした。
もう1つ、先ほど「仏眼仏母」という言葉をご紹介しましたが、こちらは密教に関する尊格の1つで、その名の通り「仏の眼」を人格化したものになります。
密教と言えば弘法大師、空海が日本で布教した教えになりますが、華厳宗と密教に共通するのが、会得の難解さです。華厳宗は大乗仏教の中でもどちらかというと難解な教えであり、密教も仏教の真理は言葉だけで伝わるものでは無く、様々な修練を通じて見に着くものである、という考えに立ち、一般庶民には少し取っ付きにくいものでした。
ですが、明恵上人の生き様から考えると、この2つの教えは明恵上人そのものであるように見えてきませんか?
明恵上人は、この華厳宗と密教をミックスさせた「華厳密教」という新しい仏教観を生み出した人でもあるのです。先ほど「無所属派」という言葉を使いましたが、まさに特定の宗派にこだわらず、独自に仏道を極めた明恵上人だからこそ行き着いた境地と言えるでしょう。
【世界遺産】登録された理由③:栂尾 高山寺に残るユニークな国宝
これまで明恵上人を中心にお話をしてきましたが、独特な感性と思想をもって生涯を生き抜いた明恵上人の元には、これまた今では貴重な資料や文化財が自然と多く集まってきました。明恵上人が人々から慕われ、また仏僧としても一流と認められていた証でもあると思います。
栂尾 高山寺に残された一味違った数々の国宝もまた、世界遺産に登録された理由の一端を担っていると言えるでしょう。明恵上人の入滅後に高山寺に持ち込まれたものもありますが、そんな高山寺の国宝の一部を簡単にご紹介しておきます。
よりお楽しみ頂くために、これらはぜひ写真とともに見てください!
美術・芸術
明恵上人樹上坐禅像(国宝)
その名の通り、明恵上人の肖像画でもあるのですが、ユニークなのは何と木々の間で坐禅を組んでいる明恵上人の姿が描かれていること。
通常、肖像画だと装束などを着て背景は無いか、もしくは屏風のようなものというイメージがありますが、この明恵上人樹上坐禅像は自然の中で明恵上人が瞑想している姿が描かれています。
よく見ると、周りにはリスや小鳥といった小動物も描かれていたり、明恵上人のそばには脱ぎ捨てられた下駄や枝にかかった数珠も。
まさに「あるべきようわ」な構図です。
仏眼仏母像(国宝)
明恵上人が19歳の時に、勧修寺の興然から仏眼法を伝授され、その後これを本尊として常に持っていたと言われています。幼くして両親を亡くした明恵上人にとっては、まさに母親のような存在であったと言われており、心の拠り所だったものです。
右耳を切った際にもこの仏眼仏母像の前で必死に華厳経を唱えていたことから、血しぶきがかかったと記録されており、また明恵上人の走り書きも残されています。その中には「无耳法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)」という言葉も残されています。
鳥獣戯画(国宝)
栂尾 高山寺と言えば鳥獣戯画のお寺、という人も多いのではないでしょうか。必ず歴史の授業では登場し、その可愛らしい絵が印象的な鳥獣戯画。
ですが、これが高山寺に持ち込まれたのは明恵上人の入滅後と考えられています。
鳥獣戯画は甲・乙・丙・丁巻から成っており、最も有名な甲巻の作者は、鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)という平安時代後期の天台僧と言われています。ですがこちらも定かでは無く、その他の巻も作者ははっきりしません。
さらに、鳥獣戯画が何の目的、意図をもって作成されたものなのかもまだ謎に包まれたままなんです。
動物を擬人化して描いたこの鳥獣戯画は、「日本最古の漫画」と言われることもあり、その存在自体が非常に珍しいと言えます。
無駄な殺生をせず、動物や自然を愛した明恵上人だからこそ、このような貴重な文化財が自然と多く集められたのかもしれません。
建築物
石水院(国宝)
栂尾 高山寺は度重なる火災(兵火)だけでなく、山中にあることから水害によっても、明恵上人が住んでいた当時の建物の多くが失われてしまっています。
ですが、石水院はその姿をとどめており、国宝として登録されている貴重な当時の建物です。
実はこの石水院は、明恵上人が高山寺の中でも多くの時間を過ごした言わば居住空間のような場所だったのですが、機能としてはもともと経蔵として建てられたものなんです。
経蔵とは、仏教寺院の中で書物や資料を保管しておく建物のこと。この経蔵が明恵上人の活動の中心となった石水院として伝えられているのは、まさに明恵上人の生き様そのものであり、高山寺ならではと言えるでしょう。
いかがでしたでしょうか。栂尾 高山寺が世界遺産に登録された理由もお分かり頂けたのではないでしょうか。
明恵上人という一人の人間の生き様と記録、そこから生まれた仏教の新しい教えや思想、さらに保管されている貴重な国宝の数々。
京都の世界遺産の中でもひと際異彩を放つ、栂尾 高山寺。ぜひ一度訪れてみてください!
(参考:「明恵の夢と高山寺」 中之島香雪美術館、「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」 東京国立博物館、朝日新聞社)