【世界遺産】東大寺を100倍楽しむためのマメ知識(準備編)

奈良県が世界に誇る世界遺産の1つ、東大寺。

東大寺と言えば聖武天皇によって造られた、あの大きな大仏様はあまりにも有名ですよね。

今回は、そんな東大寺を100倍楽しむためのマメ知識をご紹介!

 

世界遺産を楽しんで頂くために

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1.東大寺と華厳宗

東大寺:南大門「大華厳寺」と書かれている。

東大寺は、正式には金光明四天王護国之寺と言い、華厳宗大本山の寺院になります。

東大寺を知るうえで、重要なのがこの「華厳宗」と呼ばれる仏教の思想です。

華厳宗も、皆さんがよくご存じの、真言宗や浄土宗といった仏教の宗派の1つに数えられます。

奈良時代に日本に伝えられた華厳宗は、日本の歴史の中でも、最も古い時代に伝わった仏教宗派の1つと言えるでしょう。

ちなみに、仏教は大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)に区別することができますが、華厳宗を含めて日本の仏教はおおよそ大乗仏教になります。

大乗仏教とは、ざっくり言ってしまえば、誰でもお釈迦様の教えを理解し、信じていれば救われる、というような、大衆の救いを理念とする仏教のこと。

お釈迦様の死後100年ほどが経った際、その教えを時代に合わせて解釈していこうとする、いわば改革派の信者によって生まれました。

一方の上座部仏教は、お釈迦様の教えは時が経とうとも、変わることのない普遍的な教えであると考える仏教です。

仏教の教えを文字通り忠実に守り、自分を厳しく律することができた者だけが悟りを得ることができる、というもの。タイやスリランカなどの仏教は、こちらに属します。

それでは、具体的に華厳宗の考え方を見ていきましょう。

広大な宇宙の中心に座す盧舎那仏

華厳経は、この世界はとてつもなく広大な宇宙のような場所であり、その中心に盧舎那仏がいらっしゃって、教えを説き、人々を救い続けているという、理想の世界(蓮華蔵世界)が存在する、という思想を持っています。

広大な宇宙を、「千の百億倍」というほどですので、この当時から一種の宇宙観があったことは少し驚きです。

ちなみに、盧舎那仏というのは、「十方世界をあまねく照らす仏、光り輝く仏」という意味です。

この広い世界を照らし出し、人々を救いへと導いてくださる、まさに太陽のような存在と考えられていたんですね。

この盧舎那仏は、お釈迦様の教えを具現化したものであり、その存在自体が「法」である、と考えられています。少し分かりにくいかもしれません。

そして、盧舎那仏は1000枚の花弁のある蓮華の台座に座って教えを説き続けているのですが、この花弁の1枚1枚に「千葉の大釈迦」が存在しています。

さらに、大釈迦が座している1000枚の花弁のある蓮華の台座も、同じように、花弁の1枚1枚に「千葉の小釈迦」がいらっしゃって、教えを説いています。

言ってみれば、宇宙の中心にいる盧舎那仏(法)から、その分身であるお釈迦様を無数に生み出され、各世界で教えを説いて人々を救済している、というイメージです。

東大寺大仏殿にある大仏蓮弁線刻図

東大寺大仏殿に入って左側に、この華厳経の世界観を表現した大仏蓮弁線刻図が展示されています。

間近で見なければ、絵を確認することは難しいですが、ぜひこちらもご覧になって、華厳経の世界をイメージしてみてください。

華厳経の世界を具現化しようとした聖武天皇

華厳経は736年に、唐の道璿(どうせん)により唐から日本に伝えられました。

聖武天皇も、どこかでこの華厳経の教えに触れる機会があったのでしょう。華厳経が説く理想の世界、蓮華蔵世界にすっかり魅了されることになります。

聖武天皇の時代は、飢饉や疫病が流行り、また争いも勃発するなど何かと不安定な状況にあった時代でした。

そんな時代に、華厳経の世界を実現することで、平和で安泰な世の中の到来を目指そうとして創建されたのが東大寺だったのです。

東大寺:盧舎那仏

盧舎那大仏造顕の詔(東大寺の大仏の造像のこと)は743年に発令されましたが、それに先立ち、聖武天皇は741年に国分寺・国分尼寺建立の詔を出し、各国に国分寺・国分尼寺の創設を命令します。

これらのお寺の造設費は、各国が負担しなければなりません。天皇がいらっしゃった都ならまだしも、全国の各国にそれだけの財力や労働力に余裕があるわけでもなく、早々に難航します。

そして、都直轄の事業として始まったのが東大寺大仏の造像です。

ちなみに、東大寺は言ってみれば各国の国分寺の総本山としての位置づけとなります。東大寺の正式名称、金光明四天王護国之寺は、国分寺の正式名称でもあるのです。

東大寺の大仏は、正式名称を「盧舎那仏」と言います。そして、各国の国分寺・国分尼寺には、釈迦如来が置かれました。

ここから、何か気がつきませんか?

 

そうです。東大寺の「盧舎那仏」と国分寺・国分尼寺の「釈迦如来」。これはまさに、華厳経の蓮華蔵世界に他なりません。

聖武天皇は、国の中心である都に盧舎那仏を置き、それと各国の国分寺・国分尼寺の釈迦如来を繋ぐことで、盧遮那仏による救済が各国にも行き届くネットワーク、蓮華蔵世界を築き上げようとしたのです。

これによって、世界に安泰と救済がもたらされる-。と。

2.民衆の力で実現した東大寺と大仏

東大寺大仏殿

歴史の教科書でも必ず登場する、東大寺と聖武天皇。

そこには、「かつてない規模の大仏の建立で、多くの労働力が投入され、民衆は疲弊しきっていた。」というような記述を目にします。

743年に大仏造顕の詔が発令され、752年の開眼供養まで実に10年近くも費やした大仏の造像。民衆の負担も、想像をはるかに超えたものだったのでしょう。

これらの国策は、仏教に深く帰依していた聖武天皇の信心の深さから来たものだと思いますが、それでもそこには、国の安泰と平和を純粋に願う天皇の姿があったのです。

勧進で造られた東大寺と盧舎那仏

その天皇の純粋な願いが見て取れるのが、大仏の造像に際して、広く民衆に協力を呼び掛けたことにあります。

協力を呼び掛ける、とははっきり言えば、寄付を募ることです。布教をしながら寄付を募って回ることを勧進と言いますが、当時民衆から深く信頼のあった行基に、勧進の白羽の矢が立ったのにも、民衆の協力を切に願っていたからだと思われます。

というのも、行基は民衆からは支持がありましたが、当時の朝廷からは疎ましい存在だったからです。

聖武天皇が発した、大仏造顕の詔にはこんな事が記されています。

「そもそも天下の富と権力のすべてを手中に収めているのは私である。その財力と権力をもってすれば、大仏をお造りすることはいとも簡単に実現できる。しかし、それでは造像の真意が成就されたとは言い難い。」

「もし、たとえ一枝の草、一握りの土という、わずかなものであっても、すすんで造像に協力しようとする者があればみな許そう。国司、郡司などの役人は、この事業を理由に、民衆の財産を強奪したり、租税を収奪したりしてはならない。このことを国内にあまねく布告して、私の意図を広く民衆に伝えるように。」

これを読む限り、大仏の造像には貴族や国だけでなく、民衆の協力が必要不可欠であったことが分かります。

2度の焼失を乗り越え、勧進により復興した東大寺

東大寺:二月堂

東大寺の大仏殿はこれまで、2度に渡って焼失の難を受けてきました。1度目は平安時代後期、2度目は戦国時代になります。

どちらも戦の時代の中での出来事でした。

ですが、いつの時代も、焼失して荒れ果てた東大寺や雨露にさらされた大仏様に涙を流し、復興に全身全霊をかける者がいたのです。

1度目の焼失後は重源上人が、2度目の焼失後は公慶上人が東大寺の復興に立ち上がりました。

重源は源頼朝、公慶は江戸幕府のバックアップを得ることができたのも幸いだったと思いますが、どちらにも共通しているのが、2人とも勧進によって民衆から広く協力を集めたことです。

江戸時代になると、ある程度栄えている都市とそうでない都市が出始めていたため、公慶は江戸や大坂などの大都市で重点的に勧進を行いました。

一方、重源が復興を成し遂げた鎌倉時代、重源は文字通り全国各地を、勧進をして歩き回ったと言われています。

いずれの時代も、当然今のようなクラウドファンディングやネットも無い時代。

自分の足で各地を回って寄付を集めることが、どれだけ困難なことか、おそらく今の私たちでは想像することも難しいでしょう。

東大寺がこのようなアツい思いを持った人たちと、民衆の力で今も目の前に存在している、ということを忘れないでください。

 

(参考:「東大寺」東大寺、「古寺をゆく⑤」小学館編集部 小学館101ビジュアル新書、「奈良世界遺産散歩」 小川光三 新潮社)

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