世界遺産として登録されている、「古都京都の文化財」。
この世界遺産の1つに数えられえているのが、賀茂別雷神社(以下、上賀茂神社)と賀茂御祖神社(以下、下鴨神社)です。上賀茂神社と下鴨神社は、日本で初めて世界遺産に登録された神社でもあり、その歴史はとても古くまで遡ります。
今回は、もともとは1つの神社と考えられている上賀茂神社、下鴨神社について、あまり知られていない魅力をご紹介します!
1.【世界遺産】上賀茂神社・下鴨神社の成り立ち
今では、日本全国に約1,200社あるカモ神社(加茂、鴨など)の総本社である上賀茂神社と下鴨神社。
その成り立ちはかなり古く、6世紀ごろからカモ神の祭礼が行われていたと言われており、「カモ」という言葉は、古事記や日本書にも出てきます。
上賀茂神社・下鴨神社の祭神
下鴨神社に祀られている神様は、東殿に玉依媛命(又は、玉依比売命。たまよりひめのみこと)様が、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)様です。
その昔、玉依媛命が今の賀茂川の上流で身を清めていたところ、上流から1本の丹塗りの矢が流れてきました。不思議に思った玉依媛命は、その矢を持ち帰り丁重に扱って床の間に祀っていたところ、矢の不思議な力によってご懐妊され、立派な御子を御産みになられました。
これが、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)です。つまり、賀茂別雷命は玉依媛命を母とする神様になります。
そして、賀茂別雷命は、神武天皇の東征の際に中洲へ向かおうとした際、八咫烏となって神武天皇を導いたと言われる神様。
その功績から、「葛野」の地域を与えられ、そこから代々カモ神を祀り、奉仕を行うカモ県主が始まったと言われています。
上賀茂神社・下鴨神社がある京都に都が置かれるのは8世紀後半の平安京以降のことになりますが、それよりも前の時代から、京都の地に暮らす人々はカモ神に対する信仰を持ち、祭事を行っていたことが、「山背国風土記」や「本朝月令」に記載されています。
カモ(加茂と鴨)
すでにお気づきかもしれませんが、上賀茂神社と下鴨神社は同じ「カモ」という名前が付くにも関わらず、それぞれ違う漢字が使われています。
理由は定かではありませんが、京都の地図を良く見てみると、京都の街中を流れている「鴨川」はちょうど下鴨神社で2つの川が合わさったものになっていることが分かります。
そのうちの1つの川が「賀茂川」です。つまり、上流の「賀茂川」が下鴨神社で高野川とぶつかって「鴨川」となっているのです。
川の名前が先か、神社の名前が先かは分かりませんが、「賀茂川」沿いにあるため「上賀茂」神社、「鴨川」の始点にあるので「下鴨」神社とそれぞれ漢字が使われているのかもしれません。
2.【世界遺産】上賀茂神社・下鴨神社の歴史的価値とは
長岡京、平安京遷都
上賀茂神社・下鴨神社が主に京都の人々から深い崇敬を受けていた時代から、さらに重要な信仰の場所へと変わっていくきっかけとなったのが、京都への都の遷都でした。
都の遷都に当たっては、丸ごと国の中心都市が他の場所へ移るわけですから、民衆には大きな不安と動揺が広がります。
その動揺を鎮め、都の遷都を国のさらなる発展へと成功に導くため、神の力を借りることを目的として行われたのが奉幣という儀式。
長岡京の遷都に当たって、奉幣が行われたのが、この上賀茂神社と下鴨神社でした。
長岡の地からは近くはない、上賀茂・下鴨神社でわざわざ奉幣が行われたことは、この神社が当時から広く民衆の信仰を集めた神社として、国の天皇が認めたことを意味します。
さらに、平安京の遷都の際には、皇祖神を祀る伊勢神宮よりも先に、この上賀茂・下鴨神社で奉幣が行われたのです。
国をも動かした、民衆のパワー
国もその存在の大きさを認めた上賀茂・下鴨神社。それは、まさにそこに集う民衆のパワーの大きさが、凄まじかったことでもあります。
もともと、上賀茂・下鴨神社での祭事は旧暦の4月に行われていました。
その目的は、「カモ神の祟り」を鎮め、長引く風雨を止めることで農作物が豊穣に実ることを祈る、農業に関連する祈祷が始まりとされています。
それが、時代を経るにつれて、
「民衆が馬に乗り弓を掲げて矢を射たり、矛などを使った賑やかな祭り」
という、激しいものになり、祭事が行われる地域も京都から広がっていきました。その余りの賑わいと弓矢や馬を使った危険な祭りに、京都以外の地域では禁止令が出るほど。
ですが、その民衆のパワーを抑えきれず、最後に国は、「乱闘者を出さない限りは許可をする。」と譲歩せざるを得なかった、と「続日本紀」に記されています。
いかがでしょうか。上賀茂神社・下鴨神社は日本で最も古くから、一般の人々によって厚い信仰を受け祀られてきた神社であり、その民衆の信仰の拠り所は国にも一目を置かれて認められた存在なのです。そのように聞くと、我々にとって最も身近であり、誇りに思える世界遺産と言えるでしょう。
3.【世界遺産】上賀茂神社・下鴨神社と葵祭
京都三大祭りの1つ、葵祭はこの世界遺産、上賀茂神社と下鴨神社で行われるお祭りです。
葵祭は先ほどご紹介した、6世紀に始まった風雨や嵐を鎮め五穀豊穣を祈る祭事が起源とされており、京都三大祭りの中でも最も歴史の古い祭りとなっています。
斎院の始まり
葵祭には、斎王・斎王代と呼ばれる役割があります。斎王とは、神に奉仕する「未婚」の内親王もしくは女王のこと。
上賀茂神社・下鴨神社では、伊勢神宮と区別するために「斎院」と呼ばれる制度がかつてありましたが、その始まりは平安時代まで遡ります。
薬子の変(810年)
平安時代初期、平城上皇と嵯峨天皇とが対立する事態が勃発し、朝廷が2つに分かれる危機が訪れました。
この危機に嵯峨天皇は、カモ神に対し、
『我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げる』
と祈願をかけたところ、見事この危機(薬子の変)に勝利したのです。
祈願の約束どおり、嵯峨天皇はその後、娘の有智子内親王を斎院として上賀茂・下鴨神社に奉仕させました。
この「斎院」の制度があったのは、「斎宮」を置く伊勢神宮だけでしたが、上賀茂・下鴨神社にもそれと同様の制度が置かれたことは、伊勢神宮に次ぐ厚遇です。
そして、819年、賀茂祭は、伊勢神宮の神嘗祭と同格の中祀の格付けを付与されました。
日本では別格の存在とされる神宮と同格の格付けを得られたことが、どれだけすごいことか。このことからも上賀茂神社・下鴨神社が世界遺産に登録される理由がお分かり頂けるかと思います。
4.【世界遺産】上賀茂神社と下鴨神社の共通点・相違点
世界遺産の上賀茂神社と下鴨神社は、もともとは1つの神社だったと言われていることもあり、多くの共通点があります。
これまでお話ししてきたカモ信仰や葵祭はまさにそ共通点と言えますが、それ以外の共通点と相違点についても見ていきましょう。
上賀茂神社と下鴨神社の共通点
やはりもともとは1つの神社だったと言われていることもあり、上賀茂神社と下鴨神社の社殿の造りは共通しています。
上賀茂神社、下鴨神社ともに社殿は同じ形、大きさでその造りは流造、檜皮葺の屋根です。さらに、現在の社殿も1863年と同じ時に建てられたものになります。
そのほか、上賀茂神社と下鴨神社のどちらにも、「橋殿」「細殿」「ならの小川」といった同じ名称の社殿や川が流れています。
上賀茂神社と下鴨神社の相違点
それでは次に、上賀茂神社と下鴨神社の相違点を見てみましょう。
上賀茂神社の立砂
まず何といっても上賀茂神社のパワースポットとも言われている立砂は、下鴨神社には無いものです。
この立砂は、上賀茂神社の御神体でもある北の神山の形になぞらえて造られたもので、鬼門・厄除けのために置かれています。そして、これが鬼門にまく清め砂の起源とされています。
社殿の配置形式
上賀茂神社と下鴨神社の社殿の配置形式を見てみると、下鴨神社はおおむね左右対称に社殿が並んでいるのに対し、上賀茂神社はそのような配置は見られません。
これはそれぞれの神社の立地条件によるところが大きいとされています。
下鴨神社は、糺の森が境内に広がっているなど、敷地はある程度平面で十分な広さがある一方、上賀茂神社はちょうど2つの川が交差する場所にあり、三角州のような限られた敷地内に社殿が建てられています。
このことから、上賀茂神社はその立地条件上、必要な社殿を置くことが優先され、その配置形式までを考慮することがかなわなかったのではないかと考えられています。
さらに、どちらの神社にも「橋殿」と「細殿」はありますが、上賀茂神社は楼門の外側に造られているのに対し、下鴨神社では楼門の内側に建てられています。
本殿
下鴨神社には東本殿と西本殿という2つの本殿があります。これは最初にお話しした通り、下鴨神社が玉依媛命(又は、玉依比売命。たまよりひめのみこと)様と、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)様の2人の神様を祀っていることにあります。
一方の上賀茂神社は、下鴨神社と同じ本殿の造りをしていますが、本殿が2つあるのではなく、本殿と権殿という別の社殿になります。
上賀茂神社が祀る神様は賀茂別雷命のお一人のため、本殿と権殿は言ってみれば伊勢神宮の式年遷宮で神様がお引越しをされる新正殿と既存の正殿の2つが並び立つ姿が恒常化したものと考えられています。
5.【世界遺産】下鴨神社の境内に広がる糺の森(ただすのもり)
世界遺産、下鴨神社の境内には、「糺の森(ただすのもり)」と呼ばれている広大な自然が広がっています。
こちらの糺の森、人の手によって造られたものではなく、下鴨神社が創建された当時からこの場所にあった原生林で、樹齢200年~600年の樹木が約600本も生い茂っています。
その広さは約124,000平方メートル、東京ドームの約3倍という大きさで、昔はさらに広域までこの原生林が及んでいたと言われています。
京都市は、政令指定都市にも含まれている、日本有数の大都市。そんな大都市の中に、今でもまだこれだけの大きさの原生林が残されているというのは、世界でも極めて稀で、とても貴重な存在です。
多くの偉人たちを魅了
平安京が京都に置かれてから、京都は明治時代に至るまでの長きに渡って日本の都であり、中心であり続けました。
そんな都で、糺の森は多くの人々を魅了し続けました。皆さんもよく知る偉人達も例外ではありません。
紫式部:「源氏物語」
清少納言:「枕草子」
尾形光琳:「紅白梅図屏風」
横山大観:「糺の森 秋雨」
夏目漱石:「京に着ける夕」
糺の森は、これだけの作品の中に出てくるのです。
下鴨神社が民衆たちの深い崇敬を受けていたのと同様、糺の森も偉人たちにとっても身近な存在であったかがよく分かりますよね。
糺の森に伝わる七不思議
古くからこの地の原生林として生きてきた糺の森と、世界遺産の下鴨神社にはまことしやかに伝わっている七不思議があることをご存知でしょうか。
七不思議の詳細は別の記事でご紹介するとして、ここでは1つだけご紹介しておきます。
下鴨神社には井戸の上に建てられた井上社という小さな神社があり、別名を御手洗社と言います。この神社の前にあるのが御手洗池なのですが、この池、毎年夏の土用の丑の日の前後(7月下旬ごろ)にこの池から水泡を伴って水が湧き出てくるという何とも不思議な池なんです。
そして、この水泡をかたどったのがみたらし団子の始まりと言われています。
6.【世界遺産】下鴨神社と鴨長明
最後に、世界遺産の下鴨神社とゆかりの深い歴史上の有名人をご紹介します。
皆さん、古文の授業で必ず一度はこの有名な出だしを習うのではないでしょうか。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
そう、鴨長明の「方丈記」です。「枕草子」、「徒然草」と並んで日本三大随筆と呼ばれている名著です。
「方丈」とは一辺が約3メートルの小さな広さを言いますが、世間から離れ、欲を捨ててそのぐらいの小さな小屋で人生の後半を過ごした鴨長明の人生観が描かれた作品です。
この方丈と同じ大きさで作られた「方丈庵」が糺の森の一角にある下鴨神社摂社の河合神社に展示されています。
鴨長明にも「カモ」が付くことから想像頂けるかと思いますが、この人物はもともと下鴨神社の神事を行う家系に生まれた人です。
すでに天皇からも認められていた重要な神社であった下鴨神社を管理する家系の出と言うこともあり、ある意味恵まれた環境で育ち、また当時の貴族でもあった鴨長明。
そんな鴨長明、簡単に言ってしまえば、人生で挫折を味わい、世間を離れる決意をし、世間から離れた方丈の庵のような小さな小屋で暮らしたわけですが、そんな状況で執筆したのがこの方丈記です。
冒頭の出だしはあまりにも有名で、その無常観が印象的ですが、方丈記はこの無常観がとうとうと語られているわけではなく、そこには生身の人間で世間や人間、人生への執着に悩み続ける姿が見えてきて、実はとても人間くさい作品では無いかと筆者は考えています。
ぜひ下鴨神社を訪れる際は、この方丈の庵もチェックしてみてください!
いかがでしたでしょうか。
他の京都の世界遺産に比べると、あまり存在感も無く、地味な印象の上賀茂神社と下鴨神社ですが、実は他の世界遺産には無い、日本と日本人のルーツがそこにはあるのです。
神社という有形の存在だけでなく、葵祭のような無形の姿でも1500年近く前から脈々と今に生き続けている上賀茂神社と下鴨神社。
私たち日本人に最も身近な存在であるとともに、その誇りとパワーをきっと感じて頂けることと思いますので、ぜひ皆さんも一度は訪れてみてください!