京都が誇る世界遺産の中でも、京都市の中心部からやや離れた場所にある世界遺産、醍醐寺。
今回はその広大な敷地面積と膨大な歴史的文化財を保有している醍醐寺の魅力に迫ります!
・醍醐寺と密教
・醍醐寺の歴史
・醍醐寺と世界遺産
・醍醐寺の価値
これを読めば、なぜ醍醐寺が世界遺産に数えられるのか、その理由だけでなく他の世界遺産には無い醍醐寺の素晴らしさが分かります!
1.【世界遺産】醍醐寺と密教
密教ってどんな教え?
醍醐寺は、真言宗に属するお寺になります。真言宗は大きな仏教のくくりで言うと、「密教」とも呼ばれており、皆さんご存知の空海(弘法大師)が唐から持ち帰った教えです。
密教とは、簡単に言ってしまえば大日如来を全宇宙の真理、法そのものと考えて、その大日如来の教えを極めるために様々な作法や所作を大切にする考え方です。
また、真言宗は「即身成仏」という考え方を持っており、悟りを開くことができれば現世(この世)においてもそのまま仏となることができると説いています。
これと対極にあるのが「顕教」と呼ばれており、大日如来の教えを聞く人に合わせて分かりやすく説く教えを言います。
日本で広まった宗派(真言宗、浄土宗や禅宗など)は数多くありますが、その中でも純粋な密教と呼べるのは真言宗だけ。
最澄(伝教大師)が日本で確立した天台宗は真言宗の「東密」に対し「台密」と呼ばれており、密教に数えられていますが厳密には密教と顕教が合わさった宗派と言えます。
ちなみに最澄が開いた比叡山延暦寺も同じ京都の世界遺産に数えられています。
皆さんは歴史で浄土宗や禅宗についてはよく耳にすることが多いと思いますが、これはこれらの教えが大衆にも分かりやすいためその時代で圧倒的な支持を集めたからです。
それに対し、密教である真言宗はその名の通り、教えや作法が秘「密」である部分が多く、それゆえ馴染みが薄い宗派とも言えます。
醍醐寺の魅力を知るために、まずは他の宗派とことなる真言宗の特徴をいくつかご説明しましょう。
密教の特徴
「師資継承」
真言宗の最大の特徴は、「師資継承」によってその教えを語り継ぐことにあると言えます。
簡単に言ってしまうと、一定の試験をクリアして師匠に認められた者しか、その教えを弟子に継承することができないということです。
まさに密教と呼ばれる所以ですね。
密教の相承は、師資間で口授、つまり口頭での問答によって秘法伝授がなされます。この口頭での問答を「口決」と言います。
問答は教えの真理に関する教義的なものも含まれますが、ここ醍醐寺にあってはそれよりもむしろ様々な修法や作法の方が重要視されていました。
修法や所作を重視
真言宗の修法には四種法があると言われており、それぞれ息災法、増益法、調伏法、敬愛法と言います。
簡単に言うと、息災法とは厄災や災害から解脱すること、増益法は能力や知恵、寿命を増幅させること、調伏法は邪心を抑制すること、敬愛法とは親睦やお互いの和合を求めることを目的としたものです。
この修法の違いによってそれぞれの修法空間を作るための荘厳の調え方も異なりますし、その手続きを行う役割を担っている大阿闍梨の所作も変わってきます。
このように、他の宗派と違って真言宗はそれを実践するために数々の複雑な修法と所作が定められており、それが重要視されています。
このことからも、「実践」が求められる真言宗は少し取っつきにくいイメージがありますよね。
現世利益を追求する教え
最後に、真言宗の特徴の1つとして、現世利益の追求が挙げられます。
「即身仏」の考え方にも通ずるものがあるかと思いますが、真言宗は先ほどご紹介した修法の効験として世俗社会において様々な現世利益に与ることができるとしています。
一方で浄土宗や浄土真宗はどちらかというと来世(浄土)に目を向けたものです。ひたすら祈ることで浄土への成仏ができると信じることで心も穏やかになり、そういった意味で今生きている現実も穏やかに過ごすことができる-。
現世利益的な観点も含まれていますが、真言宗ほど実践的で現実的な考え方ではありません。
醍醐寺を知るうえで、この真言宗の考え方や特徴はぜひ覚えておいてください。
2.【世界遺産】醍醐寺の歴史
創建
醍醐寺にある五重大塔は、京都で最古の建造物と言われていることからも、醍醐寺の歴史の長さを感じます。
醍醐寺は聖宝導師により、874年に開創されました。
この聖宝導師は、弘法大師空海の高弟であった真雅阿闍梨の門下に入った人物で、ここ笠取山の山中で出会った翁(横尾明神)に導かれてたどり着いた場所から湧いていた水を飲んだところ、「醍醐味かな」とその美味しさを称えたと言われています。
この奇跡から、ここ笠取山に醍醐寺という寺を創建することになったのです。
平安時代~鎌倉時代
その後、907年に醍醐寺は醍醐天皇の御願寺となり、薬師堂が建立され、天皇の厚い庇護の下で活動を精力的に行われるようになりました。
鎌倉時代に入ると、後白河上皇の帰依を受けつつ、源頼朝の庇護を受けさらに勢力は拡大し、日本密教の中心として崇められました。
ちなみに醍醐寺のトップ、座主は聖宝導師の入滅後、聖宝導師と関わりの深かった東大寺東南院と関係を持つ僧侶が勤め、その後
第十一世より醍醐天皇の系統の皇族が座主となりました。
「事相」を重んじる醍醐寺
鎌倉時代までは、真言宗は主に論議を構成する「教相」と、修法を構成する「事相」が一体となって受け継がれていました。
ですが、南北朝時代に入ると、この教相と事相のいずれに重きを置くかによって、真言宗のお寺によっても違いが見られるようになりました。
醍醐寺は事相を中心とした教えを広めることになります。そして、修法という実践を中心とする事相を重んじたことで、それを実践する手続きにも次第に違いが見られるようになり、そこからいくつかの流派が誕生することになりました。
醍醐寺で誕生した主な流派が、三宝院流、理性院流と金剛院流の3つの流派です。
いくつかの流派が誕生したものの、当然、醍醐寺の座主の席は1つだけ。つまり、座主を握った流派がその勢力を拡大することになりますし、それぞれの流派が互いに自らの流派こそが正当な真言宗の本流であると主張しはじめたのです。
醍醐寺も分裂した南北朝時代
鎌倉時代から室町時代への変遷期にある南北朝時代は、天皇が北朝と南朝でそれぞれの主権を主張し、分裂した時代です。
この南北朝時代、醍醐寺も北朝側と南朝側へと内部で対立が起こったのです。
北朝に付き、足利尊氏と北朝を結び付けたのが三宝院の賢俊でした。一方で南朝側には、文観房弘真、報恩院道祐、金剛院実助、理性院顕円が組みしました。
この争いは最終的に北朝に軍配が上がることになりますが、これによって北朝側についた三宝院の醍醐寺での実権が決定的になりました。
現在も醍醐寺には三宝院という名前の建物が残されています。
この南北朝時代の争いは、三宝院・金剛院・理性院など醍醐寺の仏僧たちも、僧侶という身分を越えてそれぞれの立場で争いに加わることになりました。
彼らの考えは分かりませんが、それぞれが醍醐寺の命運を賭けるため、僧という身分を越えて命を賭して醍醐寺の未来を守り抜くための行動だったと思いたいですね。
室町時代~戦国時代
室町時代に入ると、足利義満の庇護の下で醍醐寺は安定した地位を保っていましたが、それも応仁の乱で一気に崩壊の危機を迎えます。応仁の乱で五重大塔以外、焼失してしまったのです。
後に歴史的にも有名となった豊臣秀吉が一族を招いて盛大に行った「醍醐の花見」は、この荒廃した醍醐寺を復興するための手厚いサポートだったと言われています。
ただし、それまで醍醐寺の経済的な基盤となっていた寺領荘園制度が廃止されたことで、醍醐寺の経済力は衰退することになりました。
この戦国時代から江戸時代にかけて、醍醐寺の復興と、その長い歴史の中で生み出されてきた膨大な資料や文化財の保管に尽力したのが義演という人物です。
この義演の功績により、醍醐寺が世界遺産として認定されたといっても過言ではないでしょう。
続いて、他の世界遺産との関係にも触れておきたいと思います。
3.醍醐寺と世界遺産
京都の世界遺産との関係
さて、醍醐寺と他の世界遺産の関係についても簡単にご紹介しておきましょう。
同じ京都の世界遺産の中で、比叡山延暦寺は伝教大師最澄が天台宗の教えを広めた場所として世界遺産に登録されています。
冒頭ご説明したように、天台宗と真言宗はともに密教に数えられますが、その教えは異なっており、延暦寺は法然、親鸞、一遍、日蓮、道元といったのちの宗派を確立したそうそうたる人物たちが一度は修行を行った場所として「日本仏教の母山」と呼ばれています。
一方の真言宗ですが、醍醐寺の他、京都の世界遺産に数えられている東寺、仁和寺も真言宗に属するお寺です。
それぞれの違いを簡単にお話ししておきますと、東寺が真言宗の中でも教相のお寺に属するのに対し、醍醐寺と仁和寺は事相のお寺に属しています。
さらに、醍醐寺と仁和寺も事相の中でもそれぞれ小野流、広沢流という異なる流派に属しており、この2つの流派はさらに6つの流派に区分されています。
また、事相と教相の違いがあったからと言って醍醐寺と東寺が全く交流が無かったわけではありません。
事相の口決においても当然教義的な要素は含まれており、醍醐寺は東寺僧との交流によって教相の教えも事相に取り込んでいたと言われています。
その証拠として、義演も教相聖教を積極的に書写していることが分かっています。
また空海が開いたお寺として最も有名なのが、高野山の金剛峯寺ではないでしょうか。
この高野山も世界遺産に登録されています。
高野山は仏教修行者のための修禅の道場としての役割を担っている一方、京都の東寺は実践の場としての役割を担っていると言われています。
熊野信仰と醍醐寺
同じく世界遺産に登録されている熊野三山と醍醐寺にも実は関連性があります。
(熊野三山について知りたい方は、こちらの記事をご覧ください!)
熊野三山は、修験道の聖地として今でも厚い信仰が寄せられていますが、この修験道とは平たく言ってしまえば、山の中に入って修行を行うことです。
この山林修行を重んじる僧侶たちは、世界遺産になっている大峯山、吉野山、熊野に集結するようになります。もともとこの修験道の開祖とされるのが、役小角(えんのおづの)という人物で、この修験道を重んじる考えを本山派と呼びます。
一方で、修行は行うものの、本山派ほどストイックに行うのではなく、大和の諸寺に属しながら修行を行う修験者もいました。この者たちは、当山派と呼ばれています。
この当山派の僧侶たちが開祖として信仰していたのが、醍醐寺を開いた聖宝導師だったのです。この聖宝信仰が醍醐寺と結びつき、醍醐寺は当山派の中心として存在感を強めていくことになります。
4.【世界遺産】醍醐寺の価値
広大な敷地と膨大な歴史的資料、文化財の宝庫
醍醐寺の総面積は200万坪以上にも及ぶとされ、さらに保存されている文化財としては国宝75,522点を含む絵画や書類など15万点にも及ぶとされています。
敷地面積については京都の世界遺産の中でも延暦寺と並んで圧倒的な広さを有しており、保存されている文化財の量に至っては他の世界遺産の比ではありません。
まず広大な敷地面積を有する理由として、これまでお話ししてきたように醍醐寺の歴史が1,000年以上の長きに渡って続いていること、そして修験・修法を重んじる真言宗でも総本山として中心となる存在であることが挙げられるでしょう。
さらに、膨大な文化財は、師資継承という真言宗独特の継承の中で;
・記録としてその資料が丁寧に保管され続けてきたこと
・事相を重んじる中で、曼荼羅や絵画など、その下絵や設計図も含めていくつものパターンや文化財が数多く誕生してきたこと
・さらに異なる流派が生まれたことで、それぞれで独自に文化財が生み出され、守られ、保管されてきたこと
の現れではないでしょうか。
代々伝えられる教えを文書に残したものを「聖教」と呼んでいますが、醍醐寺は真言宗をもたらした弘法大師空海から、それを継承するために日本の寺院社会の中で固有の環境が生み出され、その結果として世界に類をみない個性的な社会組織と聖教を生み出した、その中心だったのです。
この聖教は「醍醐寺文書聖教」として国宝に指定されています。
貴重な資料が展示されている霊宝館
その膨大な文化財は敷地内にある霊宝館で一部展示されています。
仏像や文書、絵画など展示されている文化財の種類も豊富で、有名な豊臣秀吉の自画絵も展示されており、こちらもぜひ一度は見学してほしい場所です。
いかがでしたでしょうか。
その広大な敷地面積のため、「上醍醐」まで訪れるとそれなりの時間が必要ですが、京都を訪れた際にはぜひ訪ねてみてください!
(参考:「古都巡礼 6 醍醐寺」麻生文雄/ 永井 路子 淡交社、「醍醐寺のすべて」奈良国立博物館 日本経済新聞社、「醍醐寺の歴史と文化財」永村眞 勉誠出版)