【世界遺産】熊野古道を歩く前に知っておきたいマメ知識6選(前編)

日本の世界遺産の一つ、熊野古道。皆さんは熊野古道についてどのくらいご存知でしょうか。

古くから日本人にとって神聖な場所とされ、参道の聖地とも言うべき熊野古道。実際に歩いてみると、そのように言われる所以を感じとることができ、「さすが世界遺産!」と思われた方も多いかと思います。

そもそも熊野古道は日本人にとってどのような存在であり、場所だったのでしょうか。

これから熊野古道に行かれる予定の方は、これを読めば太古の昔から日本人が何を思って熊野古道の道を歩いてきたのか、その壮大なロマンを感じながら熊野古道を楽しめるようになります!

1.世界遺産、熊野古道

熊野古道は世界遺産ですが、正式には世界遺産の一部です。

「紀伊山地の霊場と参詣道」

それが正式な世界遺産の名称です。これには3つの霊場と参詣道が含まれます。%e7%86%8a%e9%87%8e%e5%8f%a4%e9%81%931

霊場 参詣道
吉野・大峰 大峯奥駈道
熊野三山 熊野参詣道
高野山 高野山町石道

 

 

(地図出典:http://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/sankei.html)

上の地図のように、熊野古道を含む世界遺産は、三重県、奈良県、和歌山県の3県にまたがるとても広大なエリアとなっています。今回はこの中の熊野古道にスポットを当ててみたいと思います。

なお、熊野古道を含む世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、世界「文化」遺産です。その豊かな自然と神聖な雰囲気から、自然が世界遺産かのように思えてしまいますが、富士山同様、このエリアに対する古代からの日本人の深い信仰と畏怖の念、そしてそれによって形成されたさまざまな文化遺産が世界遺産として登録されています。

2.熊野古道は一本道ではない!

 

%e7%86%8a%e9%87%8e%e5%8f%a4%e9%81%933(出典:Wikipedia)

熊野古道は現在では下記の5つの主要な参詣道から構成されています。

・紀伊路
・中辺路
・小辺路
・大辺路
・伊勢路

この内、中辺路は紀伊路の一部でもあります。つまり、大動脈となっているのは紀伊路と伊勢路であり、それと熊野三山を結ぶ道として小辺路、中辺路、大辺路があります。

このように、一口に熊野古道といってもそのルートは枝分かれしており、一本道ではありません。なぜでしょうか。

これは、熊野古道は主に平安時代からその参詣が始まり、江戸時代に至るまで時代が移るとともにその参詣者とルートが変遷していったことが挙げられます。この点、同じ世界遺産の富士山ととても似ていますよね。(富士山についてはこちらをご参照ください。)

それでは歴史とともに熊野古道が日本人にとってどのような場所であったのか、見ていきましょう。

3.熊野古道の歴史

熊野古道に対する信仰と世界観

%e7%86%8a%e9%87%8e%e5%8f%a4%e9%81%934(出典:higashikishu.org

熊野古道は現在では写真のように、真っ直ぐに伸びた木々の中にある山中の参詣道というイメージが強いかと思います。この写真からも荘厳な雰囲気が伝わってくるようです。

今ではスギやヒノキなどの木々が生い茂っている熊野古道ですが、昔はスギやヒノキではなく、ナラやカシ、ブナ、クスノキといった広葉・照葉樹林におおわれた場所だったと言われています。

「生い茂っている木が変わっただけでしょ?」とお思いの方、確かにその通りなのですが、生い茂る木が変わるだけでその雰囲気は一変します。

%e7%86%8a%e9%87%8e%e5%8f%a4%e9%81%935(ブナで覆われた森林 出典:muku-mokuzai.livedoor.biz

広葉樹林で曲がりくねった木に囲まれた深い山々。そこは、昼間でも日の光が届かない暗闇の世界だったかもしれません。

遥か昔、このような深い山々が続いていた紀州熊野は黄泉の国と言われ、死者が住むという異境の地でした。そんな異境の地に古代の人びとは、来世の再生に続く理想郷を求めました。

もともと日本に根付いていたアニミズム(全てのものに霊魂が宿っているという考えかた)と、早くから日本に伝承された仏教の浄土信仰が合わさって、熊野は古くから日本人にとって神仏混合の壮大な信仰世界だったのです。

飛鳥・奈良時代~平安時代

熊野は飛鳥、奈良時代からも天皇が行幸した街道として使われていましたが、このころはそれほど熊野信仰というものは確立されていませんでした。それでも奈良時代の終わりごろから徐々に、修験の場としての認識が高まってきます。そして平安時代に入り、熊野詣は貴族によって一気に盛んに行われるようになりました。

平安時代には修験者の道として多くの貴族が数十日にも及ぶ時間をかけて、参詣に訪れました。

先ほど説明した熊野の深々とした山々に加え、当時日本の都が京都にあったため、熊野は京の都から近すぎず遠すぎず、でも京や大阪からはなおも辺境の地だったため、熊野は深い信仰の場所として根付くことになったのです。

この時代に熊野への参詣を特に多く行ったのが、後白河・後鳥羽上皇でした。二人ともその御利益にあずかるため、30回以上も熊野詣を行ったと言われています。

平安時代にはまだ貴族の間でしか熊野詣は行われていませんでした。なぜでしょうか。

それは、熊野詣を行うには長い時間と、それを行うだけの財力が必要だったからです。このようなことができたのは、当時の貴族だけでした。

平安時代の貴族たちの熊野への参詣ルートは紀伊路と中辺路でした。貴族のルートとはいえ、簡単に参詣できては御利益にもあずかれないと考えられていました。あくまで修験者としての参詣だったため、紀伊路は熊野古道の中でも難所が多く、難易度の高いルートとなっています。

%e7%86%8a%e9%87%8e%e5%8f%a4%e9%81%936(出典:www.wakayama-kanko.or.jp

また、この時代の貴族たちは参詣の間「王子」と呼ばれる休憩所で休憩がてら歌会を開き、和歌に興じたも言われています。上記の地図の中にもルートの節目節目に「王子」と名前の付いた場所がたくさんありますよね。皆さんも王子にたどり着いた際には、平安時代の貴族たちが歌会を開いていた姿を想像してみてください。

室町時代~江戸時代

平安時代の度重なる貴族たちの熊野詣により、熊野詣は広く日本に浸透していくことになります。

室町時代になると、貴族だけでなく広く庶民や武士による参詣が盛んになり、あまりに多くの人々が参詣に訪れることから、「蟻の熊野詣」という言葉が生まれたほどでした。

江戸時代に入り江戸が日本の中心になると、庶民のルートもそれまでの西からのルートから、東から入るルートへと変わっていきます。

ちょうど熊野の東には伊勢神宮があったことから、伊勢参りに合わせて熊野にも参詣する庶民が増えました。これによって開拓されたのが伊勢路です。

伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り

この言葉は江戸時代の作られた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場しますが、当時の庶民がいかに信仰深かったかをはかり知ることができます。

新幹線がある現代でも、東京から伊勢に行くことはそれなりに時間のかかる旅になります。ですが、新幹線も無かった江戸時代の庶民たちは、江戸から約450kmも離れた伊勢、そしてさらに遠い熊野までこれだけの回数を歩いて参詣していたのです。

それを考えるだけでも当時の日本人の信仰の深さというのは、我々の想像よりもはるかに強かったのではないかと思わずにはいられません。

身分の違いや貧富の差など自分ではどうしようもなかった厳しい時代の中で、信仰は人々に与えられた数少なかった権利だったのかもしれません(それでもキリスト教弾圧など、宗教の自由も満足に保証されていない時代です)。

そんな中で、大変ですが参詣をすればそれだけ救われる、という考えはどれだけ人々の支えになっていたことでしょうか。

伊勢路は庶民の参詣ルートであったことから、それまでの修験者の道の意味合いは薄れ、比較的平坦で歩きやすいルートとなっています。

熊野古道の概略をご紹介しましたが、後編ではもう少し詳細なお話として熊野三山についてご紹介したいと思います!

(参考:「古道巡礼」高桑信、東京新聞出版局 「日本の世界遺産を旅する」JTBキャンブックス 「地図で旅する日本の世界遺産 002」東京地図出版株式会社)

※一人旅応援アプリbocci:)(ボッチ)をAndroid版でリリースしました!みんなが投稿した一人旅を楽しむ情報がたくさん!あなたの一人旅を投稿して、誰かの一人旅につなげよう!!
(アプリ紹介ページはこちら

Google Play で手に入れよう

タグ: ,

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)