世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】京都・高山寺の見どころ徹底ガイド(祝・金堂一般初公開)

世界遺産含めて多くの寺社がある日本の古都、京都。貴重な文化遺産の中には普段は非公開となっているものも多くありますが、期間限定の特別公開イベントで一般に公開されることもあります。
今回は2023年秋の特別公開で初めて世界遺産・高山寺の金堂が一般公開されたことに合わせて、その際の拝観レポート含めて高山寺の見どころを詳しくご紹介します!

【世界遺産】高山寺の概要・イントロダクション

金堂(国宝)

京都に17ある世界遺産の一つ、高山寺(こうさんじ)。京都の北側には栂尾(とがのお)、高雄(たかお)、槙尾(まきお)という三つの山が連なっており、これらは総称して「三尾(さんび)」と呼ばれています。

世界遺産の高山寺はこのうち、栂尾にある古刹(こさつ)のお寺で、その創建は奈良時代の774年までさかのぼります。

「高山寺」という名前が付いたのは、1206年、この地で修業を長年行っていた明恵上人(みょうえじょうにん)が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)よりこの地と「日出先照高山之寺」の勅額(ちょくがく)を賜ったことに由来しています。

明恵上人というお名前を聞いたことがある方は多いかもしれませんが、どのような僧だったのか、その人となりや教義についてまではあまり知られていないかもしれません。

明恵上人については高山寺の見どころと合わせてご紹介しますが、明恵上人は華厳宗と密教を融和した考えを持っていた僧でした。

高山寺にはあの有名な国宝、鳥獣戯画をはじめとする多くの貴重な文化財が保管されていますが、特に密教に関連した文化財も数多く保管されているのは明恵上人の教えと関係があるのかもしれません。

明恵上人が生きたのは鎌倉時代でしたが、この時代というのは浄土宗、浄土真宗や日蓮宗、禅宗といったいわゆる「鎌倉仏教」が勃興した時代で、実は明恵上人と親鸞は同じ年、1173年に生まれた同級生なんです。

鎌倉仏教というのはその分かりやすさ、実践のしやすさから一気に民衆の支持を得て広まりましたが、華厳宗という奈良仏教と密教を信仰した明恵上人というのはそのような当時の人気とは一線を画し、ある意味で「我が道」を生きぬいた仏教僧と言えると思います。

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ちなみに、「高山寺」の正式な呼び方は「こうさんじ」であることはご存じでしたか?一方、ユネスコに世界遺産として登録された名称は「Kozan-ji」となっており「こうざんじ」となっています。

なぜここで呼び方が変わったのかは謎です。。

【世界遺産】高山寺へのアクセスと拝観順路

高山寺の拝観順路について

高山寺には表参道と裏参道があり、バス停に近いのが裏参道側のため多くの拝観客は裏参道から石段を上がり、まず国宝の石水院を見学した後、さらに道を上がって開山堂、開山廟、金堂と巡って表参道側に下りてくる流れになります。

表参道側の入口は裏参道からそれほど離れていないため(150メートルほど)、バスを降りて表参道から入り金堂、開山廟、開山堂、石水院と回るのも良いでしょう。

入場のための拝観料は表参道、裏参道のどちらにも入口に窓口があるのでそこで払うことになります。

高山寺へのアクセスについて

高山寺は京都の市街地から北の山の中にあるため、アクセスは基本的にはバスとなります。

JRバスの高雄京北線か市営バスの8番路線が高山寺前まで行き、「栂尾高山寺前」が終着駅の便も多いのでバスに乗ってしまえば後は着くのを待つだけ。料金は片道230円です。

高雄山は紅葉の名所でもあり、高山寺も石水院の軒先から美しい紅葉を楽しむことが出来ます。このため、紅葉の時期はこの路線を利用する観光客が多いこともあり、週末は臨時便が増便されているようです。

【世界遺産】高山寺の見どころガイド

①金堂

金堂

金堂の構造

2023年秋の特別公開で初めて一般公開されたのがこちらの金堂です。

一般公開時は賽銭箱の石段のところで履物を脱いで上に上がり、中に入ることができました。

先ほど掲載した外観からも建物の形として方形(正方形)であることがお分かり頂けるかと思いますが、建築上の構造として桁行三間(けたゆき・さんげん)、梁行三間(はりゆき・さんげん)となっています。

三間というのは柱と柱の間の空間が3つある、ということなので柱は横、奥行きともに4本の構造ということになります。

桁行は真正面から見たヨコの長さ、梁行は奥行きの長さと置き換えてください。

屋根は銅板葺の一重入母屋造(いりもやづくり)となっていますが、こちらもこの記事の最初の写真をご覧いただくと屋根の横向きに三角の形になっており、このような屋根を入母屋造と呼びます。

金堂の内部はこうなっている!

当初の金堂は室町時代に焼失し、今の金堂は江戸時代の1634年に同じ京都の世界遺産、仁和寺(にんなじ)の古御堂を移築したものと伝わっています。

当初の金堂には運慶の作ったと言われる廬舎那仏(るしゃなぶつ)が安置されていたと言われています。廬舎那仏といえば、奈良の世界遺産・東大寺のご本尊様ですが、東大寺というのは華厳宗のお寺です。

先ほど明恵上人が華厳宗の僧であるとお話ししましたが、廬舎那仏が安置されていたという話は明恵上人のことを考えると納得できますよね。

現在の金堂内部には三つの仏像が安置されており、仏像が安置されいてる内陣と外側の外陣で明確にスペースが分かれています。

中央に置かれているのが釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)で、現在の高山寺の本尊となります。

普段は公開されていないのでその御姿を観ることは叶いませんが、螺髪(らほつ)で左足を上にして蓮の上で胡坐を組んだお姿をされています。

記憶が曖昧なのですが、その下には釈迦如来を支える獅子?の像があった気がします。

釈迦如来坐像の右側にはたくさんの小さな地蔵が、左側には宝冠釈迦如来坐像(ほうかんしゃかにょらいざぞう)と聖観音菩薩坐像(せいかんのんぼさつざぞう)が安置されています。

宝冠釈迦如来坐像はその御名前の通り、宝冠をかぶった釈迦如来であり、これは通常の釈迦如来のお姿とは違って特徴があります。また聖観音菩薩坐像は花弁が開いていない蓮華を左手に持たれている点が特徴です。

菩薩、というのは如来と違って悟りを開かれる前のお姿ですので、悟りを開くと同時に持たれている蓮華の花弁も開こうとされるお姿を表していると考えられます。

釈迦如来坐像のここに注目!

釈迦如来坐像をご覧になる機会があれば、ぜひお顔の右側をよくご覧になってください。

金堂を始め、山の中にある高山寺は平成三十年の台風による豪雨による倒木で大きな被害を受けました。

金堂も倒木により半壊するほどの大被害を被ったのですが、その際に雨漏りを受けて雨水が釈迦如来坐像にもかかってしまったそうです。その雨水で釈迦如来坐像のお顔の右側に跡が線のように残っており、まるで釈迦如来様が涙を流されたお姿をされているかのように見えた、という記事を読みました。

筆者は特別公開で中を見学した際に実際に釈迦如来坐像を拝んだのですが、特にライトアップなども無かったせいか、この跡には気が付きませんでした。

ちなみに、高山寺はこの台風の豪雨による被害からの復興費用の一部をクラウドファンディングで賄ったのですが、2023年の特別公開はこの復興に対する支援の御礼と、明恵上人のご誕生から850年というキリの良い年に当たることもあって実現したそうです。

内部見学の際には天井に注目!

釈迦如来坐像に加えて、内部の見学をする機会がある際にもう一つ注目頂きたいのが天井になります。

金堂の天井は外陣が格天井(ごうてんじょう)になり、本尊が安置されている内陣はさらに一段、天井が高くなっていて小組格天井(こぐみごうてんじょう)となっています。

格天井というのは格子状に組まれた天井で小組格天井はその格子をさらに細かく組んだ天井のこと。

このような天井の造りは特に地位の高い人物が利用する部屋で見られるもので、確かに本尊を祀っている間のため金堂の天井がこのような造りになっていることは理解できるのですが、お寺でこのような造りの天井は珍しいです。

なぜ高山寺の金堂の天井がこのようになっているかというと、先ほどご説明したようにこの金堂はもともと仁和寺にあったものだからです。

仁和寺というのは今でも「御室仁和寺(おむろにんなじ)」というバス停や駅名があるように、元々天皇家と関わりの深いお寺だったことを考えると、そこにあった古御堂の天井が格天井になっていることもうなずけますよね。

裏手にある閼伽井

右奥に見える閼伽井

せっかくなので金堂の建物の周りをぐるっと回ってみると、建物の形・姿が良く分かると思います。

また、その際には裏側の崖下にひっそりとたたずんでいる閼伽井(あかい)にも覗いてみてください。閼伽井というのは仏様に備える供花などに使われるお水を汲む井戸のことです。

閼伽井がここに残されていることは、まさにこの辺りにお寺のお堂が立ち並んでいたことを示していると言えます。それについては後ほど少しご紹介します。

特別公開時の見学について

今回、2023年秋の特別公開で一般に公開された金堂ですが、写真の通り普段は閉ざされている扉が開放されており、希望者は手前の入口で1,000円の拝観料を払えば中に上がることができました。

中ではガイドの方が金堂と明恵上人について簡単に説明をしてくださり(約10分~15分程度)、見学者は随時安置されている仏像を間近で楽しむことができます。

②春日明神

金堂のすぐ隣にひっそりとたたずんでいるのが春日明神です。

日本では古来から、神様は仏様が人々を救うために仮のお姿をされたものという「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の信仰が根付いていました。ですので、高山寺のようにお寺の中に神社があったり、神社の中にお寺のお堂があることは珍しいことではありません。

高山寺の中の神社が「春日明神」であるのは、明恵上人と深い関わりがあります。

というのも、明恵上人はたびたび春日大社を訪れて春日明神を信仰していただけでなく、元々仏教発祥の地へ赴いて修行をすることにとても思い入れがありました。

ですが、ある日夢で春日神から「インドに行くのではなく、日本にとどまってここで人々を救いなさい」という説法を受けたといい、これをきっかけに明恵上人はインドへ行くことを断念し、日本に残ったと言われているのです。

明恵上人が信仰した三神

春日神は明恵上人が最も身近で加護を感じていた神様と言われていますが、春日神以外にも明恵上人とゆかりのある神様を二柱ご紹介します。

まず最初の神様が白光神(びゃっこうしん)です。高山寺には今も高さ40センチほどの木彫像が残されていますが、白光神というのはその名の通り全体的に白く輝いているお姿が特徴の神様で、天竺(てんじく)における「雪山(せっせん)」の神、つまりはヒマラヤに住まうとされている神様です。

かないはしなかったものの、仏教発祥の地であるインドに強い思いれをもった明恵上人がこの神様を信仰されていたのは自然なことのように思います。

もうお一人の神様が善妙神(ぜんみょうしん)という女性神です。

この神様は華厳の教えを学びに来ていた新羅(しらぎ)の僧、義湘(ぎしょう)と出会い恋に落ちたのですが、義湘は僧の身分として善妙のアプローチを断り、仏道に励み、やがて新羅に帰ってしまいます。

善妙神はその時に海に身を投げて龍に姿をかえ、渡す予定だった供物を義湘の乗る舟に届け、その帰路を守護しました。さらに新羅に戻った義湘が華厳の教場を探していたところ、雑学の僧が多く良い場所が見つからなかったため、善妙が大きな石を置いて雑学の僧を追い払い、義湘を助けたという言い伝えがあります。

華厳宗を信仰していた明恵上人にとっては善妙神もゆかりのある神様ということだったのでしょう。

ちなみに、この三神の地位としては、インドの神である白光神が最も上位であり、続いて日本の春日神、最後に新羅の善妙神の順番になります。

金堂に安置されている釈迦如来坐像の両隣には春日明神などが描かれた掛け軸がかかっているのですが、湿度や風化の影響を受けてしまうため残念ながら一般公開時もこちらも掛け軸は閉じられたままとなっていました。

③宝塔

金堂の西側奥にひっそりと建つ宝塔

春日明神とは金堂を挟んで逆の西側奥は、柵があって進むことが出来ないのですが、よく見ると奥にひっそりと宝塔が立っているのが見えます。

実は当初は金堂の周りにはいくつかのお堂が建っていたことが、中世の「高山寺絵図」から分かっています。この絵図によれば金堂の左側、写真の宝塔が立っているエリアに塔、鐘楼(しょうろう)と鎮守社(ちんじゅしゃ)が、右側に阿弥陀堂(あみだどう)、羅漢堂(らかんどう)と経蔵(きょうぞう)が並んでいたようで、今もうっすらとその痕跡が残っているそうです。

金堂の周辺は平らで開けており、確かに昔に何か建物が建っていた雰囲気が残っているので、そのあたりもぜひ確かめてみてください。

④御廟(ごびょう)

金堂から石水院へ向かう途中の高台に築かれているのが明恵上人の御廟です。柵の奥にひっそりと建てられていますが、奥まで入ることはできません。

この地で修業をされ、公家や武将を問わず多くの人から慕われた明恵上人に思いを馳せて手を合わせましょう。

写真に二つの石碑が写っていますが、それぞれに刻まれている文字は下記の通りです。

「山のはにわれも入りなむ月も入れ夜な夜なごとにまた友とせむ」(手前の石碑)

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」(奥の石碑)

手前の石碑に刻まれているのは明恵上人が謳われたとされる和歌が、奥の石碑には明恵上人の教えが刻まれています。

和歌の内容は定かではありませんが、ひっそりと山の中にたたずむお寺に住まわれて毎晩のように昇っては沈みゆく月を眺めていると、その存在がいつしかわが友のように身近なものに感じられ、色々と語りかけてしまうものだな、という感じでしょうか。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」というのは明恵上人の教えを端的に表す言葉と言えるでしょう。

生きとし生けるものにはそれぞれ、「あるべき姿・なすべき生き方」というものがあり、各々がその実践を日々努力して行っていればお釈迦様に近づくことができる、という考え方です。

仏教は宗派によってそれぞれに教えが異なるものの、不思議と現代を生きる私たちにも通じるものがあります。仏教がどこか哲学的で実学的と言われる所以でしょう。

ですが、先ほどもご紹介した通り、明恵上人が生きた時代というのは鎌倉仏教勃興の時代で、当時はもっと分かりやすく極楽往生を説く宗派が主流でした。それを考えると、明恵上人の孤高の存在が目に浮かんできませんか?

⑤開山堂

明恵上人の御廟から石水院に下る途中にあるのがこちらの開山堂です。

こちらには明恵上人坐像(みょうえじょうにんざぞう)が安置されており、この像は等身大の木像です。普段は公開されていませんが、法要などが執り行われる際はこの開山堂で行われます。

⑥日本最古の茶園

今も毎年茶摘みが行われている

石水院の向かい側にあるのが茶園なのですが、こちらは日本最古の茶園として知られています。

なぜ高山寺というお寺に茶園が?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、この茶園は禅宗で知られる臨済宗を開いた栄西との関わりで生まれたものです。

京都の山に籠っていた明恵上人ですが、高僧で公家・武士問わず多くの人々から慕われていたこともあって、公家の九条兼実(くじょうかねざね)や北条泰時(ほうじょう やすとき)(大河ドラマにもなった『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時(ほうじょう よしとき)の長男)とも交流がありました。

広い交流の中には栄西も含まれており、臨済宗の創始者である栄西は明恵上人を自分の跡継ぎとして見込んだほどその人柄、才能を買っていたそうです。

そんな栄西が宋から日本に帰国した時に茶の実を持ち帰り、それを明恵上人に送り、明恵上人が高山寺で育てたことが茶園の始まりなのだとか。

マジメで律儀な明恵上人が垣間見れるエピソードですね。

今では京都でお茶といえば宇治が人気ですが、実は高山寺で育てられた茶種が宇治でも植えられ、それが今の宇治茶の発祥となっています。さらに明恵上人は宇治に赴いて、「馬を歩かせてその足跡に茶を植えたらよい」と茶種の植え方を教えたそうです。

高山寺の茶園では毎年五月に茶摘みが行われ、11月8日に開山堂で献茶式が行われています。

「高山寺のお茶以外は茶に非ず(非茶)」と言われた最高品質のお茶、一度は堪能してみたいですね。

ちなみに、今ではコーヒーやお茶など私たちはカフェイン慣れしていますが、明恵上人が生きていた当時はそのような飲み物はありません。コーヒーならずとも、お茶を飲んだだけでもカフェインに慣れていない当時の人からすると眠気覚ましに効果てき面だったようで、お経や修行中の眠気覚ましとしても重宝されていたのだそう。

⑦石水院(国宝)

それでは最後にメインの見どころ、国宝にも登録されている石水院をご紹介します。

この石水院は高山寺の中でも唯一、当時の姿をとどめている大変貴重な遺構であり、そのため国宝にも登録されています。

もともとは東経蔵(ひがし きょうぞう)であったそうで、建っていた場所も今とは別の場所にありましたが、時代と共にその役割と場所を変えて今に伝えられています。

経蔵というのは仏教の教えを記録した経典やその他仏教に関する書物などを保管しておく建物ですが、それが明恵上人の活動の中心となった石水院として今に伝えられているのは、まさにマジメでとことん仏道を探求した明恵上人ならでは、学問を中心として重んじた高山寺ならではと言えるでしょう。

石水院は紅葉の時など、庭園から美しい眺めを楽しむことができるほか、レプリカにはなりますが貴重な文化財も展示されています。

建物内部は撮影禁止のため、ここでは展示されている文化財を簡単にご紹介していきたいと思います。これまで明恵上人や高山寺のエピソードをお話してきましたので、ここまで読み進めてくださった方ならすっと入ってくる内容かと思います。

善財童子像(ぜんざいどうじぞう)

石水院を入り、渡り廊下を渡った先の広いスペースの中央にぽつんと置かれているのが善財童子像(ぜんざいどうじぞう)です。

善財童子というのは華厳経の経典に出てくる人物で、菩薩行の理想の姿として最後に悟りを開くまでを描かれています。明恵上人はこの善財童子をとても敬愛していたそうです。

なお、善財童子像が置かれているスペースはもともとは春日・住吉両明神の拝殿だった場所です。金堂や石水院などにも神仏習合の面影が残っている所も見どころですね。

仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)(縮小写)(国宝)

庭園を眺められる軒下に掲げられているのがこちらの仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)。国宝です。

こちら、別記事でもご紹介した明恵上人が右耳を切り落としたエピソードに深く関係のあるもので、幼少期(8歳の時)に両親を亡くした明恵上人はこの仏眼仏母を母のように慕っていたそうです。

この絵の余白部分には「耳法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)」という明恵上人の直筆が残されています。ここでいう「みみなしほうし」というのは、右耳を切り落とした明恵上人のことです。

後鳥羽院の勅額(実物)

南面の欄干には後鳥羽上皇が高山寺を明恵上人に賜下された際に書かれたという「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」の額が掲げられています。

白光観音尊

3つに区切られた部屋の内、順路で見ると一番手前に飾られているのが白光観音尊(びゃっこうかんのんそん)です。

詳細は不明ですが、先ほどご紹介した白光神の観音様でのお姿を表したものでしょうか、真っ白い像であまり古くないものと推察されます。神仏習合の日本ならではと言えます。

明恵上人樹上座禅像(国宝・複製)

明恵上人の人となりまでもが伝わってくるような、木の上で静かに瞑想を行っている明恵上人を描いたもので、弟子である恵日房成忍(えにちぼうじょうにん)という画僧の作品と言われています。

ぜひじっくり見て頂きたいのですが、良く見てみるとリスや脱ぎ捨てられた草履なども描かれていて、自然と一体となり静かに瞑想を行う明恵上人の姿は何度見ても新しい発見があることでしょう。

鳥獣戯画(国宝・レプリカ)

高山寺の国宝として石水院と並び有名なのが「鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)」です。

その名の通り、カエルやウサギといった動物たちが戯れている様子を描いた巻物になります。詳細は別記事でご紹介していますので、ご興味のある方はこちらもご一読ください。

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⑧高山寺と動物

最後に、高山寺と動物とのかかわりについて触れておきたいと思います。

高山寺を一度訪れた方であれば、高山寺は何かと動物とかかわりがあるお寺だな、という印象を持たれた方も多いのではないでしょうか。

例えば、

・石水院に飾られている子犬の像
・鳥獣戯画に描かれた表情豊かな動物たち
・明恵上人樹上座禅像に描かれた小鳥とリス

この他にも高山寺のホームページでは

・狛犬
・神鹿

なども保管されていると紹介されています。

子犬は明恵上人が日ごろから愛玩(あいがん)していたものと伝えられていますし、神鹿も明恵上人が何度も足を運んだと言われている春日大社での神の使いであり、やはり明恵上人にとってゆかりのあるものばかりと言えます。

「あるべきようわ」の教えで本来行うべき、あるべき生き方や命との向き合い方を生涯に渡って突き詰め続け、山の中で自然と一体となる中での修行を好んだ明恵上人にとっては動物も人も隔たりなく接すべき愛しい命に変わりはない。

高山寺を訪れると、そのように明恵上人が私たちに語り掛けているように思わずにはいられませんでした。

 

いかがでしたでしょうか。京都の市街地から少し離れた場所にありますが、ぜひ一度は世界遺産・高山寺を訪れ、そこでしか味わうことのできない雰囲気と明恵上人の生き様・教えに触れてみてはいかがでしょうか。

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