【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)を100倍楽しむためのマメ知識4選

京都の世界遺産の1つ、金閣寺(鹿苑寺)。金色に輝くその外観は、一度見ると忘れることができないほどの華やかさで、京都の観光スポットの中でも人気が高いのも頷けます。
・金閣寺の歴史
・金閣寺に秘められた足利義満の野望とは?
・日本を揺るがした大事件、「金閣寺炎上」
・金閣寺が世界遺産に登録された理由とは?

これを読めば、世界遺産、金閣寺の楽しみ方がさらに広がります!

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の歴史

もともとは別荘として建立された金閣寺(鹿苑寺)

金閣寺の正式名称は、鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。

今の金閣(舎利殿:しゃりでん)を含む鹿苑寺の前身である北山山荘(北山殿とも呼ばれています)が建立されたのは1397年。時の室町幕府三代目将軍、足利義満(あしかが よしみつ)による創建です。

実は金閣寺がある場所には、室町時代よりもさらに時代を遡った鎌倉幕府時代に、藤原公経(ふじわらのきんつね)(西園寺公経)が建立した西園寺(さいおんじ)というお寺がありました。

藤原公経は鎌倉時代に太政大臣(だいじょうだいじん)まで上り詰めるなど時の権力を握った公家でしたが、鎌倉幕府が滅び室町時代へと時代が移るにつれて権力は失われ、それに伴って西園寺も手入れがされないまま荒廃してしまいます。

そんな西園寺を譲り受け、自分の別荘として足利義満が再建したのが金閣寺の始まりです。

禅宗のお寺、金閣寺(鹿苑寺)の誕生

義満は自分の死後、北山山荘を禅宗の寺として改変するように遺言を残しました。

その遺言に従って、北山山荘は金閣「寺」という禅宗のお寺になり、今の姿につながることになります。

北山山荘を禅宗の金閣寺(鹿苑寺)として開山させたのは、あの有名な夢想礎石(むそうそせき)です。宗派としては臨済宗相国寺派(りんざいしゅう しょうこくじは)に属するお寺となります。

なぜ禅宗のお寺になったかと言えば、室町時代を開いた最初の将軍、足利尊氏が臨済禅のの信奉者だったことが挙げられます。

南北朝時代の終焉から5年後という時代背景

先ほどお話しした通り、金閣寺(鹿苑寺)は1397年、室町幕府の第3代将軍の足利義満により建立されました。

1397年というのは、2人の天皇が北朝と南朝に分かれて争っていた南北朝時代が、義満によって南北朝が統一された1392年からわずか5年後のことです。

南北朝時代というのはいったいどんな時代だったのでしょうか。

その前の時代の鎌倉時代は、それまで国内を実質的に支配する主役が天皇をトップとする公家(くげ)から、将軍を頂点とする武家に変わったわけですが、1221年に起こった後鳥羽上皇(朝廷側)の鎌倉幕府(武家)に対する抵抗(承久の乱)など、朝廷・公家と武家は融和していたわけではありません。

このような中、鎌倉幕府内でも北条家による独裁体制で幕府の体制に陰りが見え始めた時期、後醍醐天皇が反乱の兵を揚げます。

この反乱は失敗し、後醍醐天皇は1332年に隠岐に流されたものの、その皇子だった護良親王(もりよししんのう)が1333年、再び挙兵。

今度は鎌倉幕府内でも足利尊氏(あしかが たかうじ)が後醍醐天皇側に付いたことで、鎌倉幕府の体制は崩壊しました。

これで決着がついたかと思いきや、後醍醐天皇の新政(建武の新政)は長続きせず、最終的にこれに反旗を翻した足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は、逃げ延びた吉野で天皇を名乗る(南朝)一方、足利尊氏側も天皇を立て(北朝)、ここに南北朝時代の混乱の時代が幕をあけるわけです。

後醍醐天皇の挙兵に端を発した南北朝時は、単に朝廷と武家の争いを超えて、朝廷による律令体制と武家による幕府・封建体制の対立だったと言えるでしょう。

そして、この対立を終わらせたのが足利義満です。

義満は室町幕府の将軍としてのみならず、朝廷へも自らの権力と支配を徐々に認めさせ、最終的に太政大臣という天皇を除いた朝廷のトップに昇り詰めることで、公家社会でも強大な権力を手中に収め、南北朝統一に導きました。

南北朝統一を果たした義満は、時の権力者であり、その存在はもはや武家や公家といった地位を超えたものだったと言えるでしょう。

金閣寺は、そんな義満の絶対的な地位と存在の象徴でもあるのです。それをご紹介しましょう。

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)に込められた足利義満の野望

足利義満の”公武統一”という思想

一説によれば、義満は自分の子ども義嗣を天皇にしようとし、自分は上皇としての地位を確立しようと目論んでいたといわれています。

これは義満の急死により実現しませんでしたが、仮に実現していたとすると天皇の万世一系というテーマが大きく変わっていたかもしれません。

先ほどお話ししたように、義満は武家としての頂点に立つだけでなく、公家としてもその頂点に立とうとしていたことが分かります。

なぜか。

それは武家のトップたる将軍として、朝廷や公家を力でねじ伏せる、つまり南朝を攻め滅ぼすのではなく、あくまでも「南北朝統一」を目指したからです。

力、武力でねじ伏せたところで農民も、そして守護たちも幕府に従うわけではありません。

いかに自分が正統な支配者たるかを示すこと、そしてそれを朝廷・公家にも認めさせることが南北朝統一への近道である、と義満は考えました。

このように武家のみならず、公家としての立場や権力も合わせて支配を確固たるものにしていくことを「公武統一」と呼びます。

実は金閣寺(鹿苑寺)には、この義満の「公武統一」という思想が表れているのです。それを順に見ていきましょう。

金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿が三層構造のワケ

金閣寺(鹿苑寺)の一番の見どころと言えば、金箔によって黄金に輝く舎利殿でしょう。

この舎利殿は三階建ての構造になっており、一階が寝殿造(法水院)(しんでんづくり/ほっすいいん)、二階が書院造(潮音洞)(しょいんづくり/ちょうおんどう)、三階が禅宗様仏堂風の造り(究竟頂)(くっきょうちょう)となっています。

寝殿造は平安時代に主に造られていた高貴な貴族の住宅様式、書院造は武家の書斎も兼ねた住宅様式です。

これまでの話を踏まえると、なぜ三層構造で、住宅様式が一階と二階に造られているのか想像がつくかと思います。

つまり、義満が武家の頂点でありながら、公家の頂点でもあることを誇示するためにこのような造りにしたのではないか、ということです。

一階に宝冠釈迦如来像と足利義満坐像の意味

金閣寺

(出典:http://www.uraken.net/rail/travel-urabe140.html)

一階の寝殿造には、宝冠釈迦如来像と足利義満坐像が並べて安置されています。

釈迦像というのは通常は何も装飾品をまとわないのが一般的だそうですが、この宝冠釈迦如来像は宝冠をまとっています。

宝冠をまとうのは通常は大日如来像なので、このような名前がついているのかもしれません。

つまり、この宝冠釈迦如来像は仏の世界を支配することを意味しています。

それに並んで義満像が安置されているということは、義満が仏の世界と合わせて現実の世界(日本)も支配していることを示すと考えられます。

まさに義満の権力、威光を示すものですね。

三階には仏舎利のみが安置?

三階にはもともと阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)が安置されていたという説があります。

これはもともと金閣寺を建立した土地が、西園寺氏の西園寺の領地を譲り受けたものだからです。

西園寺氏の本尊が阿弥陀如来像だったのですが、足利氏は先ほどお話しした通り禅宗での1つ、臨済宗を信仰していました。

臨済宗の特徴として、浄土宗などのように特定の本尊を立てない、ということが挙げられます。

例えば浄土真宗の本尊は阿弥陀如来立像ですが、臨済宗として、特定の本尊はありません。

このため、不要な阿弥陀如来像は持ち出されてしまったのではないかといわれています。

鏡湖池は日本を表している!?

金閣寺(鹿苑寺)といえば、その美しい姿が池の水面に移されている写真を見たことがある人は多いのではないでしょうか。

この池は鏡湖池(きょうこち)と呼ばれています。

鏡湖池には大小さまざまな島が配されているのですが、最も大きい島は蓬莱島(ほうらいじま)、別名「葦原島」(あしはらしま)と呼ばれています。

この葦原とは日本の本州のこと。この島が本州の形をしていたから命名されたといわれています。

実は本州に似た形の島だけでなく、富士山や淡路島の形をした島までこの鏡湖池にあるというから驚きです。

これらが意味するもの、それは義満が舎利殿から日本の形を模した池の島を見下ろすことで、日本を支配している実権を握っていることを示すためではないかと考えられています。

この島以外にも、各地の大名から献上されたその土地の貴重な石には、その大名の名前が付けられています。

例えば細川石や赤松石など。

これも義満の権力がいかに強かったかを物語っていますね。

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の焼失

今我々が観ている金閣寺(鹿苑寺)は、創建当時の姿ではなく実は建て直されたものです。

金閣寺(鹿苑寺)は1950年、金閣寺に勤めていた林養賢という小僧による放火で焼失してしまいました。

日本が世界に誇る金閣寺がまさか人の手により焼失してしまうという衝撃の事件は、当時の日本を揺るがすほどの大事件として今でも多くの人々の記憶に焼き付いています。

これだけ素晴らしい建築物が放火により焼失する、というのもすさまじい話ですが、放火した林養賢は放火の理由について

「美しさに嫉妬したから」

と答えています。彼がどのような意図でこのような言葉を発したのか、今ではその真意を知ることはできません。

実は放火前の金閣寺は、今のように外観が金色に輝くものではありませんでした

金箔はすでに剥がれ落ち、どちらかというと老朽が目立つ姿だったといわれています。

それでもその美しさゆえに放火され焼失した-。

この放火事件に触発されて三島由紀夫は「金閣寺」という小説を書いたことはとても有名な話です。

三島由紀夫の「金閣寺」は、金閣寺に火をつけたこの寺に住む僧の目線に立って、その幼少期から放火に至るまでの僧の内面をとても生々しく描いています。

小説では、吃音(きつおん)がゆえに内面に人一倍強い世界観を持つ僧が描かれています。(実際、林養賢も吃音障害があったと言われています。)

この僧が初めて金閣寺を訪れたとき、想像していた美しさとかけ離れた姿に一度は落胆するものの、次第にその絶対的な美しさに魅了されていき、次第に彼の心はそれに支配されていきます。

この小説を読まれていない方も、そのように人の心まで虜にする「放火するほどまでに嫉妬するぐらいの美しさ」を持つ金閣寺の姿(外観だけでなく、内面やその思想、細かい作りに至るまで)をじっくりと味わってみてはいかがでしょう。

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の放火・炎上事件の真相を探る

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)が世界遺産に登録された理由

最後に、金閣寺(鹿苑寺)が世界遺産に登録された理由について簡単に触れておきたいと思います。

実は「国宝」には登録されていない金閣寺(鹿苑寺)

世界遺産に登録されているぐらいですから、日本の文化財の中でも最高峰の価値を有する「国宝」にも登録されているのかと思いきや、金閣寺(舎利殿)は国宝に登録されていません。

先ほどお話しした金閣寺の焼失が関係しているのですが、実は焼失前に金閣寺は1929年に国宝に登録されています。

ですが、1950年の焼失によりそれまで創建当時の姿をとどめていた舎利殿が無くなってしまったことで解除されてしまいました。

「国宝」に登録されていないのに、金閣寺が世界遺産に登録された理由はどこにあるのでしょうか。

金閣寺(鹿苑寺)が世界遺産に登録された理由

①金閣寺(舎利殿)の建築様式

先ほどご説明したように、金閣寺(舎利殿)の建築構造は義満の公武合体の思想を色濃く反映したユニークな特徴を有したものになっています。

このようにある時代の特定の思想や文化を今に伝えるものとして、金閣寺(舎利殿)の唯一無二の存在は一度焼失したとはいえ、貴重なものと言えるでしょう。

また、世界遺産に登録されたということは、この舎利殿が創建当時の姿を正確に示すものとして認めた、ということでもあります。

②足利義満のたぐいまれなる芸術性

金閣寺舎利殿もそうですが、金閣寺の庭園も特別史跡・特別名勝指定地に登録されていることから分かるように、とても価値のある名園として知られています。

さらに、足利義満は庭園や建築だけでなく芸能に関しても天性の才能を持っていたこともあり、芸能を手厚く保護した将軍としても有名。

特に、観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子が大成させた能や狂言など、今につながる日本伝統が生まれたことは特筆すべき内容でしょう。

③北山文化を現代に伝える

皆さん、日本史の授業で学んだかと思いますが、足利義満の全盛期に花開いた文化を「北山文化」と言います。

もちろんこの北山文化という名前は、北山山荘、つまり金閣寺(鹿苑寺)がある北山から来ています。

建築は芸術に関しては先ほどご紹介した通りですが、そのほか足利義満が始めた政策として有名なのが、「勘合貿易」(かんごうぼうえき)です。

それまで貿易を中断していた中国(当時は「明」)との貿易が再び活発になったのは、義満の手腕によるところが大きいでしょう。

この勘合貿易により、中国から様々な文化や技術、特産物が日本に流れてきたのも事実です。

実は鏡湖池にも、明から運ばれてきたと言われている「九山八海石」(くせんはっかいせき)が置かれています。

いかがでしたでしょうか。
金閣寺(鹿苑寺)の成り立ちと出来た時代背景、さらに創健者の足利義満の思い、そしてそれにまつわるエピソードを知ることで金閣寺を見る目が変わるのではないでしょうか。

是非一度訪れたことがある方もそうでない方も、金閣寺のすばらしさを堪能してください!

参考:
「私の古寺巡礼 京都(上)」淡文社、梅原猛監修
http://www5.synapse.ne.jp/~todoroki/siryou/kaiso.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA#.E8.88.8E.E5.88.A9.E6.AE.BF.EF.BC.88.E9.87.91.E9.96.A3.EF.BC.89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3

【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の見どころガイドー庭と建築に隠された義満の野望
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[…] 先ほどご紹介したように、義政は応仁の乱が落ち着いた後、実権を子どもに譲って自らは隠居の身となりました。金閣寺の記事でもご紹介した通り、金閣寺を建てた義満は最後まで自分が権力を持とうとしていたのに対し、義政はそれをあっさりと子どもに譲ってしまった―。 […]

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