京都の世界遺産、金閣寺(鹿苑寺)。その外観は日本だけでなく、世界中の観光客を魅了し続けています。一方で、金閣は昭和時代、当時ここに住んでいた学生僧、林養賢の放火により焼失するという前代未聞の大事件が起こり、多くの日本人の記憶に残っています。
今回は、この世界遺産金閣寺(鹿苑寺)で起こった学生僧による放火・炎上事件をご紹介し、その真相に迫ります!
1.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)放火・炎上事件の概要
金閣寺放火・炎上の瞬間
太平洋戦争で日本が敗北し、天皇による敗戦による戦争終結の玉音放送が流れた1945年から僅か5年後の1950年。日本は敗戦から徐々に復興への道を歩み始めていたものの、まだまだ不安定だった時代でした。そして、この年の6月25日には、冷戦に端を発した朝鮮戦争が勃発します。
そのわずか1週間後、1950年7月2日の未明、午前3時頃、金閣寺(鹿苑寺)の金閣から火の手が上がりました。
火は瞬く間に大きな炎となり、金閣全体を焼き払います。
誰かが叫ぶ声で起きたのか、火の手が上がる明るさに目を覚ましたのか、金閣寺にいた僧侶や事務員たちはただ鏡湖池の向こうで燃え上がる金閣の姿の前に茫然と立ち尽くすほかありません。
たった一夜の出来事が、その後日本の昭和史に深く傷跡を残す大事件となったのです。
容疑者と事件直後の出来事
金閣が炎上して間もなく、消防と警察が金閣寺に駆け付けました。そして寺の関係者を当たっているうちに、住み込みで学生僧だった林養賢の姿が見えないことに気づきます。
また、焼失してしまった金閣の燃え後を見てみると、初層の足利義満像が置かれていたその前に、蚊帳やわら束、布団といった物の燃えカスが残されている-。これは明らかに人為的なもの、放火だと断定されるまで時間はかかりませんでした。
そして、その場で姿が確認されなかった林養賢の捜索がすぐに始まったのです。
やがて、林養賢の捜索隊の一人が、金閣寺の北、大文字焼が行われる北山の中腹でうずくまっている人影を発見しました。
「お前は林養賢か?」
・・・
「そうや。」
・・・
「お前が金閣に火を放ったんか?」
・・・
「そうや。」
この時、林養賢は大量のカルモチン(睡眠薬の一緒)を服用し、意識が朦朧としていたのです。そして胸元を見ると、血が滲み出ていました。
林養賢はカルモチンを大量に服用し、持っていた短剣で自分の腹を刺して自殺を図っていたのです。
結局自殺しきれなかった林養賢は逮捕され、病院にて手当の後刑務所に送られることになりました。
後味の悪い結末
金閣が学生僧の放火により炎上、焼失した事件は瞬く間に日本全国に知れ渡ることになります。
そして、その知らせを聞いた林養賢の母、志満子は弟に付き添われながら林養賢が収容されている警察署に駆け付け、息子との面会を希望しましたが、林養賢はこれを拒否したのです。
あくる日も母親の志満子は再度、息子との面会を希望しましたが改めて拒絶され、結局息子の顔を見ることはありませんでした。
息子との対面を果たせなかった志満子は、実家のある大江に引き返す山陰線の列車が保津峡に差し掛かった時、突然椅子から掛けあがり、車両から保津峡に身を投げて自殺。
弟が付き添っていたものの、おそらく一瞬目を離したわずかな合間の志満子のこの行動にはとっさに対応できなかったと思われます。
事件後、刑務所で過ごしていた林養賢も、ずっと患っていた結核に徐々に体がむしばまれて行きました。そして、その後刑務所から病院に身柄が移されたものの、1956年、26歳の若さで亡くなります。事件から僅か6年後のことでした。
金閣が人の手による放火により炎上、焼失したことはもちろんショッキングな事件であったことに変わりはありませんが、その犯人と断定された林養賢とその母親の最期も、とても後味の悪い悲しい結末を迎えたのです。
2.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)放火・炎上事件はなぜ起きたのか?
それではなぜ、林養賢は金閣に火を放って金閣を燃やそうとしたのでしょうか。
事件後に林養賢の事情聴取が行われており、林養賢本人からそれなりの話を聞いているものの、なぜ彼が金閣を放火するに至ったのか、その動機と理由についてはっきりしたことは分かっていません。
・金閣の「美しさ」に嫉妬した
・世間をあっと言わせたかった
・寺の関係者(師事していた僧侶や事務方の担当者)に対する怨恨
など、いくつかの言葉が口から出てきたものの、どれが本心なのか、今となっては分かるすべはありません。
さらに謎が深まるエピソードを3つご紹介します。
林養賢の人柄と犯人像の意外性
金閣を放火した林養賢がどういった人間だったのか、その人となりをすべて解明することは難しいものの、彼の生い立ちや家庭環境、周りの友人や村人、金閣寺の人たちとの人間関係を見てみるといくつか際立った特徴があります。
吃音
これはよく知られていることですが、林養賢は幼いころから吃音症だったことが分かっています。そして彼の場合、この吃音の症状は大人になるにつれても改善するどころか悪化していったそうです。
自分が吃音であることにどれだけの劣等感を持っていたかは分かりません。ですが、吃音症により他人とのコミュニケーションや人間関係で多少の苦労があったことは想像に難くないでしょう。
気性の荒さ
林養賢は吃音のせいか、あまり口数は多くなかったものの、その体格はどちらかというと大柄であったようです。
そして大きくなるにつれて、母親や周囲の人たちとの衝突が起こると、その気性の荒さも目立つようになります。
金閣を放火する少し前、林養賢は金閣に住み込みで働く雑用人の1人とトラブルになり、この雑用人の顔から流血するぐらいまで殴打する事件がありました。
このエピソードからも、林養賢は独特のこだわりを持っていたのか神経質な部分があったのかは分かりませんが、興奮して気持ちが昂ると手が付けられなくなる傾向はあったように思われます。
生まれつき、もしくはその性格上特筆する部分があった林養賢ですが、事件後に彼をよく知る人たちは、口をそろえて
「まさか彼に限ってそんなことをしでかすとは、、、」
と驚きや意外だったと話をしており、「やっぱり、、」という声は聞かれなかったようです。
周りの人たちは、吃音という悩みを抱えながらも真面目に仏道や修行に取り組む林養賢の姿を見ていたのでしょう。
犯行直前の不可解な行動
林養賢が金閣に火を放った夜、彼はその日金閣寺に訪れていた江上大量という和尚と囲碁を三局打っています。3戦の結果は江上大量が2勝、林養賢が1勝でした。
3局を打った後、二人は別れてそれぞれ就寝につくのですが、しばらくした午前3時過ぎ、江上大量は部屋に駆け込んできた息子の順雄(ちなみに、この順雄が林養賢の弟弟子だった。)に起こされて金閣炎上の一報を受けたのです。
林養賢と江上大量が囲碁を打ったのは、金閣寺の僧侶、慈海師が寝静まった後なのでそれなりの遅い時間だったと思われます。そう考えると、林養賢が金閣に火を放ったのは囲碁を打ち終わって江上大量と別れてからそう時間が経過していない時でしょう。
ですが、事件後に江上大量は、囲碁を打っている林養賢に特段不審な点は認められなかったと供述しています。
確かに林養賢が1勝していることからも、それなりに囲碁に集中していたものと思われますが、これから事件を起こす人間がどこまで冷静でいられるのか、林養賢がどのような心情で囲碁に興じていたのかは全く想像することができません。
計画されていた金閣の放火
金閣の放火直前、林養賢に特段いつもと違う変わった雰囲気が無かったということは、この放火は突発的なものだったのでしょうか。
実はこの答えも「NO」、つまり、林養賢は金閣の放火を事前に計画していたことが分かっています。
その後の調べて林養賢の足取りを追うと、金閣に放火する2週間ほど前、林養賢は身の回りの書物や衣類を質屋に納めてまとまったお金を手に入れていました。
この金を何に使っていたかというと、遊郭です。後の自供で、林養賢は3回遊郭に赴いたことを述べており、そこの遊女と初めて関係を持ったことも告白しています。
そして、その遊女にこのような話をしたのです。
「もうすぐ世の中がびっくりすることが起こる。その時にはワシを思い出してくれ。」
まるでこの後に起こした金閣の放火を予言するかのような言葉ですよね。
先ほどご紹介した囲碁の話と言い、この遊郭のエピソードと言い、林養賢は金閣の放火と自殺をこの時すでに覚悟していたことは確かなようです。
3.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)放火・炎上事件の真相を考えてみる
それでは最後に、林養賢が金閣を放火するに至った心理的な背景や動機はどこにあったのか、彼の人生で特に関係の深かった人たちとの関係性から探ってみたいと思います。
家庭環境による影響
林養賢の父、林道源は京都の成生(なりう)という小さな部落にある西徳寺の和尚でした。したがって、林養賢はれっきとした仏教僧の血を引く子どもだったわけです。
ですが、林道源は若くして結核で亡くなってしまいます。ここから林養賢の人生は少なからず紆余曲折を経るわけですが、とりわけ母親の志満子との関係は複雑なものでした。
未亡人となった志満子は得度(仏教において僧侶になるための儀式)や仏教の修行をしたわけでは無いので、西徳寺の住職にはとてもなれるものではありません。そうなると、寺に他の新しい住職を迎える必要があり、志満子と林養賢は寺を出て行かなくてはなりません。
ですが志満子は必死に西徳寺にしがみつきます。子どもを抱えていることもあり、村の人々も無理に追い出すことができなかったのでしょう。また、当時は太平洋戦争が激しさを増していた時代でもあり、住職となる僧侶も不足していました。そこで、特例として一定の期間、見習い修行を行った者であれば未亡人であっても寺の仕事をさせる制度があったのです。
林養賢が金閣寺の小僧になり、その後もしばらく母の志満子は西徳寺に居座り続けました。
幼いころから父、道源に仏教を厳しく教え込まれた林養賢にとっては、そんな母の姿がみっともなく、またろくに修行もしない身分の者が寺に残っていることが許せなかったのかもしれません。
母志満子にしてみれば、必死にわが子を守りたい、という思いがあってのことだったのでしょうが、うまく母子の思いが通じ合ったのかは微妙と思われます。
金閣寺での師、慈海和尚との関係
次に、金閣寺での師、慈海和尚との関係性を見ていきましょう。
この慈海和尚は、当時40歳を過ぎていましたが独身を貫いていました。禅宗のお寺の住職となり、禁欲的な生活を自らに課していたこともあったと思いますが、ここから慈海和尚のストイックな一面が見えてきます。
当時のお寺の住職で、しかも金閣寺のようにある程度羽振りの良いお寺の住職ともなると、女性関係が派手になる住職も多く、慈海師のようにそのような誘惑や欲に惑わされずにひたすら仏教の教えを追求する住職はむしろ珍しかったかもしれません。
もともと仏教の教えにまっすぐ向き合い、常に理想を追い求めてきた林養賢にしてみれば、このような師の姿にはある種尊敬の念を持っていたと思います。
ですが、一方で慈海師への反発が芽生えそうな出来事もありました。
当時の中国南京政府主席、陳公博の亡命
太平洋戦争で日本が降伏した直後、中国南京政府の首席だった陳公博が終戦直後の混乱した状況の中で身の危険を感じ、日本政府に亡命を依頼しました。
当時、日本はGHQの支配下に置かれており、このような亡命を手助けしたことがばれてしまうとただでは済まされません。処刑される可能性すらあります。
そんな危険な状況で、慈海師は陳氏を金閣寺にかくまったのです。
そして、かくまっている間、陳氏はなんとも贅沢な食事を振舞われたり、挙句の果てにはのんきに麻雀まで打っていたとのこと。事実かは定かではありませんが、陳氏に振舞うために池の鯉を釣り上げて食材として調理した、と当時の関係者が告白しています。
世界遺産の金閣寺でそのようなことが行われていたなんて、ちょっとびっくりですよね。
このような師の振る舞いに、林養賢は少なからず疑問、不満を抱いていたことでしょう。
ドケチな慈海師
金閣寺は世界遺産に登録される前でも、すでに人気のお寺で観光客がそれなりに訪れていました。
ですので、寺の財源として観光収入はとても重要な収入源です。
そのような収入源があるにも関わらず、慈海師はお寺の財政にはとても細かかったと言われています。
当時林養賢は学生だったのですが、学校へ来ていく制服を買うお金すら持ち合わせていませんでした。そこで、慈海師に制服を買ってほしいと懇願します。
ところが慈海師は、新しい制服を買うどころか、自分のお古の制服を林養賢に渡し、
「これがまだ着ることができるから、これで我慢しろ」
とそっけない対応で終わってしまいました。
度が過ぎた締め付けにも見えますが、慈海師の人間性にも少し偏った部分があり、それが林養賢にも影響していた可能性がありそうです。
金閣寺の使用人たちとの関係
さらに林養賢は、金閣寺で働いていたガイドや会計係といった使用人たちにも不満を持っていたとみられています。
というのも、これらの使用人たちは仏教を会得したわけでは無い俗世の人間だからです。
林養賢にとって、禅宗寺というのは修行をして得度した僧侶によって運営され、守られるべきある意味神聖な場所という強い理想像があったものと思われますが、そうした強い思いを抱いていた林養賢にしてみれば、金閣寺が使用人や観光客に踏み荒らされるのは、自分が恥辱されたような感覚に陥ったのではないか、と考えられています。
4.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)放火・炎上事件のまとめ
これまでいろいろとお話してきましたが、林養賢が金閣を放火・炎上するに至った動機を筆者なりに結論付けてみたいと思います。
「あるべき理想」と「現実」のズレに対する強い葛藤と失望感
先ほど林養賢の家庭環境や金閣寺での人間関係についてご紹介してきましたが、これらに共通しているのは、林養賢が「あるべき理想」と、それが達成されない「現実」に対して強い葛藤と失望感を抱えていたのではないか、ということです。
例えば、母親の志満子との関係でいえば、もしかすると志満子の自分への愛情が痛いほど分かる一方で、仏教を追求する身として母親の行為は許されるものでは無い、という葛藤。
金閣寺の慈海師との関係でいえば、ストイックに仏道を信仰する一方で、観光や亡命者をかくまうなど、俗世とのつながりを平気で利用する師の振る舞いへの葛藤。
禅宗寺の神聖さを追求する一方で、観光客や使用人によって汚されている現実への葛藤。
結局のところ、いろいろな場面で仏道を求めれば求めるほど、抱く葛藤も強くなり、それに対して何も答えを持ち合わせていない、吃音障害によってうまく考えを表現できない自分に対する失望感。
それが限界を超えたとともに、生来持っていたカッとなると自分を抑えられない衝動、突発性が金閣の放火へと一気につながってしまったのではないか-。
自分の子どもを金閣寺の住職にしたい、という強い思いを持った母親、観光収入や俗世との関係をずるずる認める師、それに旨味を感じ、金閣寺を汚していく使用人たち。
「金閣寺」の存在が、自分を取りまく人たちをおかしな考えに走らせてしまっている。「金閣寺」さえなければ、こんな現実は起こりえない-。
金閣に放火した林養賢は、そんな歪んだ思い込みを持つようになってしまったのではないか?
筆者はそんな思いを抱きました。
いかがでしたでしょうか。
過去にそのような大事件があったとは想像もできないほど、今私たちの目の前にある金閣はその優美な姿をとどめています。
もし金閣寺を訪れることがあれば、鏡湖池のほとりに立ち、林養賢が起こした事件と、彼がどのような思いで金閣を眺めていたのか、そんな風に思いを巡らせてみると、また違った金閣寺が見えてくるかもしれません。
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(参考:「金閣寺炎上」水上 勉 新潮文庫、「金閣寺」三島由紀夫 新潮文庫、「心の貌 -昭和事件史発掘-」柳田邦男 文藝春秋)