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弘法大師・空海の生涯、最澄との関係を知るマメ知識3選

【世界遺産】高野山を開山した弘法大師、空海の生涯

室戸岬:御厨人窟

生い立ちと幼少期

弘法大師・空海は774年、讃岐国の多度の郡(現在の香川県善通寺市)で生まれました。父は佐伯(さえき)氏、母親は阿刀(あと)氏の出身で玉依御前という名前で、空海はこの両親の三男とした誕生します。

幼いころから泥で仏像を作って遊ぶなど、仏教やその教えを学ぶことには熱心な子どもだったのでしょう。それを示す伝説とも言えるエピソードを1つご紹介します。

物心ついた時から出家して仏法を探究する決意を持っていた空海は、ある時自分にその素質があるかを試すため、山の上から身を投げ出してそれを確認するという驚きの行動に出ます。

「もし自分が選ばれた素質ある者なら、必ず仏が救ってくださるはず、、!」

ということで讃岐の倭斬野山(わしのやま)(現在の我拝師山(がはいしさん))の山頂から谷底目がけて飛び降りたところ、天女(菩薩)が現れてこれを救ったそうです。空海はこれを三度も繰り返し、三度とも救われたと言われています。
このエピソードから倭斬野山は別名捨身ケ嶽(しゃしんがだけ)という名前がつきました。

京に上る

その後空海は、伯父の阿刀大足(あとのおおたり)や奈良・大安寺出身の勤操(ごんぞう)の熱心な指導の下で仏道の他、学問を学び、792年、18歳の時、都の大学にも入学しました。

この伯父は桓武天皇の皇子の教育係であったりなど、政権と無関係の家柄では無いものの、当時は奈良の平城京の腐敗から政治と仏教を切り離す方向に舵を切り始めた頃で、必ずしも空海は恵まれた環境ではありませんでした。
それでも早くから空海の才能を見抜いた指導者の存在と、それに応えようとする空海の必死の努力により、空海は道を切り拓き、その才能を開花させることができたのでしょう。

ですが空海は大学が身に合わず、わずか2年ほどしか在籍しませんでした。せっかくの伯父の阿刀氏のサポートがあっての大学での恵まれた環境を、空海は自ら放棄してしまったのです。

大学で空海が学んでいたのは、儒教や道教と言ったような礼節を軸とする学問であり、知識や今後日本の政治社会での立ち振る舞いを学ぶ上では有益であったものの、空海にはそこに価値を見出せなかったのでしょう。
後に空海が密教に心酔することからも、空海が探し求めていたのは単なる形式的な「ルール」ではなく「絶対的な真理」だったように思います。

空海は大学を飛び出してしまうわけですが、これでは伯父の顔が立ちません。そこに少しばかり気を遣ったのか、空海は後に24歳の時、
「大学での勉強に学び無し」
ということを直接言わず、たとえ話(戯曲)風にやんわりとそのことを阿刀氏に伝えました。
これが有名な「三教指帰」(さんごうしいき)です。

三教指帰とは

「三教指帰」(さんごうしいき)は、その名前にもあるように三つの教え(思想)を持つ架空の人物が登場します。

1人目は儒教の教えをふるう亀毛先生。ですが、ここに道教を支持する虚亡隠士が登場し、儒教の亀毛先生を論破してしまいます。
その後、この虚亡隠士をも仮名乞児という人物が登場して、仏教により論破してしまう、という流れで、儒教→道教→仏教と3つの思想を比較しながら最後には仏教こそが最も優れているとの主張をするわけです。

ちなみに、ここで登場する亀毛先生が伯父の阿刀氏、仮名乞児が空海を暗示しています。
このように戯曲風にさらりと思想比較書を書き上げてしまうあたり、空海の秀才ぶりと一種の遊び心が垣間見えますよね。

入唐まで、謎に包まれた空白の放浪期間

大学をわずか2年で飛び出し、その後は山林に入り修験者のように修験に明け暮れながら、空海は一方で独りで仏道の学びを蓄えていたと考えられます。

空海が仏教こそが自分の求めている「解」を示してくれる光であり、その中でも密教にこそ探していたものがある、という確信を持ったのはおそらく大学を飛び出してからその後、留学僧として唐に渡るまでの間での出来事でしょう。

空海の軸が出来上がったともいえる、この最も重要な時期の空海の足取りは、24歳で「三教指帰」を著してから31歳に唐に渡って長安にて青龍寺の恵果阿闍梨から胎蔵・金剛の灌頂(=正式に密教の教えを引き継ぐこと)を受けるまでの約7年間にわたってはっきり分かっておらず、残念ながら空白の時期となっています。

以下は推測の域を出ませんが、唐に渡るまでの間に巻き起こった空海の主なターニングポイントをいくつかご紹介します。

「雑密」の出会い

空海が山林を渡り歩いていた時、(おそらく)私度僧(国に正式に認められていない僧)との出会いを通じて密教につながるヒントを得ています。
(見出しの「雑密」とは、空海が唐から正式な灌頂を受けて密教を日本に伝えるまでに日本に存在していた、いわば「未完」の状態の密教を指します。)

それが「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)という密教の一種の秘法です。
これは簡単に言えば、「真言」を100万回、誰にも見られずにひたすら唱え続けることで神秘の力に目覚めることができる、というもの。

空海はこの「虚空蔵求聞持法」を実際に四国、室戸岬の洞窟で実践しています。その洞窟は「御厨人窟」(みくろど)と呼ばれている洞窟で、実在の洞窟です。

この場所で秘法を実践した空海は、

心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す・・・(三教指帰より)

と、その時の超自然的な体験をしていることが分かります。これが空海の密教に対する興味と追究を一層強くしたと思われます。

それにしても、「三教指帰」のような思想論を著した空海が、「ただひたすら真言を唱える」という偶然出会った私度僧の話から信じ、はるばる四国の最果ての地にまで来て実践する、というのは少し驚きです。
一方、「何に対しても受け入れる」という空海の人柄と考えの現れと言えるのかもしれません。

ちなみに四国八十八か所のお遍路は、この空海の歩んだ経験から誕生したとも言われています。

密教との出会い

空海は修行の中で、自らが本当に信じることが出来る「真理」の教えを探し、「虚空蔵求聞持法」の実践により密教の存在と可能性に辿り着きます。

そんな中、奈良の久米寺(くめでら)で大日経の教えに出会い、ここに空海が探し求めている「答え」がある可能性を見出すのです。おそらくこの大日経へのつながりも、当時出入りしていた奈良大安寺出身の勤操の存在があるでしょう。

大日経が説く密教は、その教えを読むだけで理解できるものでは無く、だからこそ、それを追求することで答えにたどり着くはずだ、と空海は信じました。これが、空海の入唐に繋がることになります。

唐、青龍寺で密教の伝授(入唐求法)

西安:恵果空海記念堂

そんな時、ちょうど国から唐に遣唐使を派遣する話が浮上します。密教の本場、唐でその教えを学ぶ必要があると考えた空海は、803年、遣唐使船に乗り込んで唐へと旅立ちました。
この時空海はすでに三十一歳。10代、20代はひたすら真理を探す旅で暗闇の中にいた空海の人生は、ここから大きく広がっていきます。

ちなみに、先ほどご紹介した通りそれほど恵まれた家柄でもなかった空海が、なぜ国から選抜された遣唐使船に乗り込むことが出来たのか、その経緯ははっきり分かっていません。
また、この時の遣唐使船にはあの伝教大師・最澄も乗り合わせていることを考えると、この遣唐使船が日本の歴史を変える大きな役割を担っていたのですね。

唐に渡った空海が最後にたどり着いたのが青龍寺です。当時、唐においても密教が脚光を浴びていたのですが、真言第七祖に当たる恵果(けいか)阿闍梨が教えを説いていたお寺がこの青龍寺です。

空海が青龍寺を訪ねると、恵果阿闍梨は「あなたが来るのを待っていました。」と言って、空海に密教の全てを授けるのです。
当時恵果阿闍梨の元には何百人という弟子たちがいた中、それを差し置いて突然訪問してきた空海を最後の弟子とし、また真言宗の正当な後継者として伝授したのはもはや偉人の伝説のレベルと言えるほど、異例中の異例だったことは覚えておいてください。

全てを空海に叩き込んだ恵果阿闍梨はその後、ほどなくして入滅されました。そして空海には一刻も早く日本に戻り、その教えを広めるよう言い残したと言われています。
その教えの通り空海は、わずか二年の唐での滞在を終えて日本に戻りました。

真言宗の継承者として、空海は真言八祖の第八祖に数えられています。もともとインド、中国から日本に伝えられた仏教において、その祖の1人に日本人が数えられること、空海の偉大さがお分かりいただけるのではないでしょうか。

唐から帰国後、したたかな活動

日本に戻った空海はさっそく真言宗の布教活動に取り組むわけですが、すぐに高野山に真言宗修禅の場を造ることが出来たわけではありません。

簡単にその後の足取りを見ていくと、
唐から帰国後、太宰府に数年間(806年~809年)

和泉国(現在の大阪南部)槇尾山寺(809年)

京都・和気氏の私寺であった高雄山寺(809年~)

乙訓寺の別当を務める(810年~811年)
という経歴を辿り、そこから嵯峨天皇の厚い信頼を受けた空海が816年、朝廷に対して「高野山を下賜願いたい」という上表文を提出し、ようやく嵯峨天皇から高野山を下賜されたのです。
さらに823年には東寺も下賜され、ここに日本における真言密教の二大道場が誕生しました。

実はこの間も日本の中央、朝廷ではとある事件が起きていたのですが、それも含めて当時の朝廷と空海の関係をお話ししましょう。

ルール違反の帰国

空海は唐での2年間の滞在を経て帰国しましたが、通常留学僧として唐に渡る場合、20年間の滞在が求められます。
それを勝手に2年間の滞在で切り上げてしまった空海は、朝廷のルールを破ったことになるのです。

帰国後、大宰府で数年間の滞在を余儀なくされた空海は、留学僧と言えども朝廷から正式に認められて唐に渡っているので、帰国後、朝廷の令無く勝手に移動することは認められません。
空海は自分がルール違反をしたことは自覚しており、詫び状を朝廷に送るわけですが、最終的に朝廷から赴任の知らせを受けるまでに数年間を要したのです。

時は密教フィーバー

空海がルール違反の帰国をしてからも、その足取りを見るに大きな飛躍を遂げていることは間違いありません。朝廷から目を付けられながらもこのような飛躍を成し遂げた背景には、密教が当時日本で一大旋風を巻き起こしていたからです。

実はこの密教旋風のきっかけになったのが、空海より一足先に帰国していた最澄。彼は空海と違い、還学生(げんがくしょう、短期留学生)という立場で唐に渡ったため、滞在期間も短期でした。
ちなみに、当時桓武天皇の厚い庇護の元にあった最澄は、これまた国から手厚い支援を受ける還学生としての立場で唐に渡っています。それもそのはず、最澄は桓武天皇の内供奉十禅師(天皇専属の僧)の一人だったからです。

最澄の入唐の目的は、天台山に上り天台宗の教義を日本に持ち帰ることでしたが、帰国の直前に密教の灌頂も受けていたのです。
最澄の帰国後、最澄が密教も持ち帰ってきたことを知った桓武天皇は、歓喜して最澄に高雄山神護寺で密教の灌頂を執り行うことを要請するのですが、これが日本における最初の灌頂となります。

灌頂を行ったものの、正当な密教を受け継いできた空海に比べて自分の密教が未熟であることを、最澄本人も自覚していましたし、空海の名前もその頃には、唐から正式な密教を受け継いだ者として少なからず名が知れていたでしょう。

ルール違反をものともしない空海の飛躍の要因は、一気に時代の寵児になった当時の状況にもあるのです。

「薬子の変」という政権スキャンダル

空海が帰国する直前、桓武天皇が崩御され、後を平城天皇が継ぎます。これにより桓武天皇の庇護を失った最澄はその後、苦難の道を歩むことになり、一方の空海はその後巻き起こる政権スキャンダルを経て政権と一気に距離を縮めることになりました。

そのスキャンダルが「薬子の変」。
当時平城天皇は、尚侍(ないしのかみ:朝廷に仕える女官)にあった藤原薬子を寵愛し、彼女が政権に混乱を招くわけですが、どちらかと言えば平城天皇とその弟、嵯峨天皇の争いです。

大病を患い、天皇の座を早々に嵯峨天皇に譲った平城天皇ですが、権力は手中に収めたいあまり、引退後移った奈良で権力をふるい、政府が京都(嵯峨天皇)と奈良(平城天皇)で二分化の危機を迎えます。

結局、嵯峨天皇の素早い動きで平城天皇と薬子は失脚するわけですが、この際も空海は嵯峨天皇のために高雄山寺で鎮護国家の祈祷を行っています。
嵯峨天皇は空海とともに「三筆」に数えられるほど、文芸の道にも優れた人物ですが、この才と空海の祈祷に恩義を感じ、以降空海と嵯峨天皇は親密な関係になるのです。

「入定」伝説を生み出した空海の最期

高野山:奥の院

日本において真言密教の布教を精力的に進めた空海は、自分の死期が近いことも悟っており、周囲にそれを自分の入滅を予告しています。

空海の遺言を集めた「御遺告」という書物があるのですが、そこにはこのように書かれています。

兜率他天に往住して弥勒慈尊の御前に侍すべし(中略)微雲管より見て、信否を察すべし(御遺告より)

簡単に言えば、
「私はこれより先、往生して弥勒菩薩の元に向かう。ただし、心配する必要は無い。私は雲の間から常にあなたたちを見ている。そして、五十六億七千万年後に、弥勒菩薩とともに下生し、皆々を救うだろう。」
というような内容です。

この遺言から、今でも空海は高野山の奥の院で「入定」されており、その時を待っていると信じられています。

空海の「入定伝説」が信じられている理由はもう1つあり、「今昔物語」の中に、観賢僧正が入定した空海に会う場面が記されているのです。ちなみに観賢僧正は実在する真言密教の僧で、出身は空海と同じ讃岐国。ここにも何か意味があったのでしょうか。

弘法大師・空海と伝教大師・最澄

比叡山:延暦寺

日本の仏教は弘法大師・空海と伝教大師・最澄無くして現在の姿はありません。
今から1200年も前に生まれた二人の偉人が現在の私たちの生活にも影響を与えていることを考えると驚きを隠せません。

そんな空海と最澄は、何かと比較されることが多いかと思いますが、ここでも簡単に二人の人物を比較しながら見てみたいと思います。

最澄に関しては、下記の記事も合わせてお読みいただくとより身近に実感頂けると思います。

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”竹を割ったよう”に実直な最澄

最澄という人物を見ると、その性格はまっすぐでまるで竹を割ったように実直な人物だったのではないかと感じます。まっすぐな性格だからこそ、不器用な部分も多いとも言えます。

南都六宗と真っ向から対立

まずは奈良の南都六宗の否定です。最澄の出発地点としては、南都六宗との決別から始まるわけですが、その後も徹底して彼らと論争を巻き起こし、対峙する姿勢を取ります。
だからこそ敵も多かったのでしょう。一方でそのまっすぐで実直な性格ゆえに、味方になってくれる人が現れると力強い。最澄にとっては桓武天皇がそのような存在と言えます。

天台宗に向けて一直線

さらに、天台宗に可能性を見出した後は一直線にその道を進みます。還学生として唐に渡った後は、都の長安には見向きもせずにまっすぐに天台山に向かい、天台宗の教義を日本に持ち帰りました。この辺り、唐での滞在も最澄と空海では全く異なっており、人間性が出ています。

目的のためにはプライドもあっさり捨てる純粋さ

先ほど、日本における密教フィーバーについてお話ししましたが、自分に密教の理解が足らず、また求めている天台宗の体系に密教の要素も含まれていることから、密教の習得が必須と考えた最澄は、なんと空海に対して密教の教えを乞い、灌頂の要請を幾度となく手紙で送っています。

年齢でいえば最澄の方が7歳年上であり、しかも南都六宗には真っ向対立していた最澄が、すんなりと自分を卑下して空海に教えを乞う姿勢を見せるのも、最長の人柄と言えるでしょう。空海への手紙には自分を空海の弟子として表現さえしているのです。

このように、自分に足りないもので必要なことはプライドをかなぐり捨てて追い求めるその姿勢は、空海と通ずるものがありつつも最澄の人間性が見て取れます。

見苦しさも気にしない暑苦しさ

先ほど述べた空海に対する密教の灌頂で、最澄は幾度となく手紙を送っては密教の経典を借りてその習得に努めるのですが、これが最終的には二人の袂を分かつ原因の一端にもなりました。

さらに、最も信頼していた一番弟子の泰範が最澄の元を去り、空海の弟子になる話は有名であり、これは最澄の人生において最も辛い出来事の一つではないでしょうか。

もちろん最澄は幾度となく泰範にも手紙を送り、何とかして比叡山に戻ってきてほしいと懇願していますが、最終的には空海が泰範の代わりに筆を取って、最澄にとどめを差します。

この辺りも、最澄からは人間臭さが伝わってきます。

天才肌で表には出さず、内に熱さを秘める空海

一方の空海はなんといっても天才肌。先ほどご紹介した三筆や、幼いころから学問に頭角を現し、だからこそ伯父や勤操といった、その才能を見抜いた人による後ろ盾を得ることが出来たと言えます。
この点、空海は恵まれていました。

天才肌である一方、それをひけらかさず、また人にも隔たりを置かなかった、どこか愛着を持たせる人柄を有しているのが空海ではないでしょうか。

南都六宗とも適度な距離

先ほどご紹介した通り、空海も密教が最も優れた教えであるという点は全く他に譲らず、さらに明確に他の宗派との優劣も打ち出しています。
そんな空海ですが、不思議と最澄ほど南都六宗からは敵対されていません。

その理由の一つが、密教に近い思想を持つ東大寺の華厳経です。他の宗派を容赦なく論破する空海ですが、華厳経だけは少し違った姿勢を見せており、密教に至る通過点となる教えであるとしています。

このためもあってか、空海は東大寺の別当にも就任し、東大寺に真言院を建立しているのです。

この辺り、最澄と違い空海のしたたかさが見て取れますね。

全てから学ぶ密教の精神

最澄に比べると、空海の人生は何やら寄り道が多い人生と言えるかもしれません。ですが、その寄り道こそが密教の精神に他なりません。なぜなら、密教においてはこの世の全てが宇宙の真理を説く大日如来の言葉である、という思想だからです。

先ほどご紹介した空白の放浪期間の他にも、唐に入って空海はすぐに青龍寺を訪れていません。長安で様々な交流を図り、また密教を学んでいたのです。
さらに、日本に帰国後は四国の満濃池の整備や日本で初めての私立学校「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を創設するなど、その活動は多岐に渡ります。

最澄は自分の思想の実現に向けて他には目もくれない、そんな勢いがありますが、空海はあらゆるものを吸収し、それを自分の力にするしたたかさと好奇心を兼ね備えていたと言えるでしょう。

クールな中にも見せる大胆さ

先ほどご紹介した「三教指帰」にもあるように、空海は文才に長けていたことから、モノを真正面から言うよりも、一ひねり入れることを好んだようです。

当時、日本よりも文書社会が進んでいた唐では、その文面から人を評価する、という文化が根付いていました。
実は唐に入った後、すんなり長安に入れたわけでは無く、しばらく足止めを食らってしまいます。それは日本からの国使であることをなかなか認めてもらえなかったためです。
困った遣唐使の藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)は、空海に唐政府への嘆願書の作成をお願いするのですが、空海の見事な達筆ぶりと内容に唐の態度は一変。空海たちは厚遇の対応を受けることになります。

この辺り、空海のクールな秀才ぶりが伺えますが、これまでご紹介した通り空海は一方で大胆な行動に打って出ることも多々ありました。大学を飛び出し、無名の私度僧から急遽受戒して正式な僧になったうえで留学僧として唐に渡ったかと思いきや、2年で日本に帰国。

形は違えども、最澄同様、空海も自分の信ずる道を突き進むパワフルな人間だったことが分かります。

空海と最澄、決別

同じ時代を生きた空海と最澄。先ほど少しご紹介した通り、唐からの帰国後、二人にはそれなりの交流があったものの、最終的には決別することになります。

先述の通り、交流のきっかけは当時日本で流行の波を生んだ密教に関して、最澄が天台宗の系統の一つとして密教を取り入れるにあたり、十分な知識と修練に欠けていたため、空海に教えを乞い、灌頂を受けることを欲したことに始まりました。

また、決別しましたが、最澄は空海から高雄山寺において金剛・胎蔵の両方の灌頂を受けています。ただし、問題はこれが言ってみれば簡略化された灌頂であり、密教の全てを伝える厳密なものではなかったこと。
事実、最澄は単独では無く他の大勢に混じって集団で灌頂を受けたに過ぎないのです。

最澄自身も、これが望んだものでは無かったことは認識しており、その後も幾度となく空海に密教の経典の借用を求めました。空海はそのたび、経典を最澄に貸し出していたのですが、内心は穏やかではなかったはずです。

なぜなら、密教の教えはこれまで空海が歩んできた通り、単に経典を読んだだけでは到底会得できるものではないからです。そのため、空海は最澄に対して少なくとも3年は自身の元で修行に励むよう求めますが、多忙な最澄にはこれを受け入れる余裕はありませんでした。
最澄自身、密教はあくまで天台の一部であり、完全に会得することまでを求めていなかった、ということもあったでしょう。

この二人の温度差は次第に大きなものになっていきます。そして、ついにそれが決定的になったきっかけが、「理趣釈経」の借覧を最澄が求めたこと。
この「理趣釈経」は密教の最も重要な根底を支える経典の一つであり、空海の要求を受け入れず、単に「読むだけ」でこの経典も会得しようとした最澄に、ついに空海がぶち切れてしまい、貸し出しを拒否。

「単に経典に目を通すだけでは密教の真髄を身に付ける事は出来ない。」

空海は、最澄のやり方が根本的に間違っていることをはっきりと手紙に記し、ここで二人の溝が埋まらないことが決定的になりました。

それでも交流の形跡があった二人が徹底的に決別したのは、最澄の弟子であった泰範が空海の元に身を寄せたこと。何とか自分が最もかわいがっていた弟子を取り返したい最澄は泰範に幾度となく戻ってくるよう懇願しましたが、最後は空海が泰範の代わりに泰範の名前を借りて決別の手紙を書いたことで決着します。

考え方の違いだけでなく、弟子の造反という事態が空海と最澄を決別させたわけですが、偉業を成し遂げた偉人たちがやがて決別の道を歩む、というのは以降の日本、世界でも見られた光景で、この二人もその例に漏れなかったのです。

弘法大師・空海の生き様から見る思想

長くなりましたが、最後に弘法大師・空海が何を考え、どのように生きたのか、まとめてみたいと思います。

この記事では省いていますが、密教の思想も関係してくるため、まだお読みで無い方はこちらの記事も合わせてお読みください。

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これまでご紹介してきた通り、空海の生涯というのは多分に漏れずそれなりの波乱万丈な人生であったと思います。
ですが、当の本人はそこまでの意識は無いかもしれません。というのも、空海の人生を考える上で
「生まれながらの天才」
「恵まれたご縁」
というキーワードがあるからです。

まずもって何事もたやすくこなすことが出来た空海にとって、普通の人なら苦労することも難なく乗り越えたはずで、そこに凡人の認識はありません。そもそも「苦労」という意識もなかったのではないでしょうか。

もう1つは、やはり「人」に恵まれた幸運は大きいでしょう。まず無名の彼をそれなりの場所に押し上げた伯父の阿刀氏や勤操、そこからはたぐいまれなる才能で自然と空海の名は広がったと思われるものの、嵯峨天皇や最澄、同じ遣唐使船に乗ったもう一人の三筆、橘逸勢など。
ただ、この「人運」もある程度空海の非凡な才能に引き寄せられたという部分を考えると、空海は「自ら道を切り開いてきた」というよりは「自然と道が現れて、それを進んでいった」というイメージの方が合う気がします。

その中で空海が自身の「芯」であり、思想でもあった密教という存在が、空海を形作ったことも言えるでしょう。
それはこれまでご紹介してきた通り、真言密教の布教以外に空海が行った事業であったり、人や宗派との接し方に表れています。
思うに、空海には「拒否する」ということが無かったのではないでしょうか。なぜなら自然も人間も、あらゆるものが大日如来の教えであり、それとの一体によって即身成仏の境地に至ることができるからです。

唐で灌頂を受け、真言密教の伝承を受けた空海は、帰国後間違いなく一種の境地に達していたでしょう。そんな空海の前では天皇も庶民も自然も何ら違いはなく、その意味で同様に接していたのではないでしょうか。つまり、あるがまま、流れのままに受け入れながら道を歩んで行ったということ。

ただ、やはり真言密教の布教という点で朝廷や経済的な基盤は必要であり、高野山の開山含めて支援者の獲得や経済基盤の保全に少なからず苦労はしたと思います。

今でも日本各地に空海の伝説が残されていますが、これは高野聖たちの各地での布教の成果でもあり、実際に空海が日本中を渡り歩いたこと、そして誰に対しても何に対しても分け隔てなく接してきたことの証拠ではないでしょうか。
よく、「空海は捉えがたい人物」という印象を聞きますが、これこそ、万物、つまりは宇宙の真理であり大日如来との一体を目指した空海からすれば、褒め言葉だと思うのです。

捉えたと思ったら捉え損ねた、そんなふわっとしたぼんやりとした生き様と人物像が、空海その人なのです。

 

参考:「高野山」松長 有慶 岩波新書, 「高野山を知る108のキーワード」高野山インサイトガイド制作委員会 講談社, 「世界遺産マスターが語る高野山」 尾上 恵治 新評論、「空海の風景(上)(下)」司馬遼太郎 中公文庫、「謎の空海」三田誠広 河出書房新社)

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