世界遺産の楽しみ方

高野山はなぜ世界遺産に登録された?その魅力を知るマメ知識6選

「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている高野山。弘法大師、空海が開いた仏教の修行場であり、真言宗総本山、金剛峯寺(こんごうぶじ)がある聖峰(山)です。
少し近寄り難いイメージがありますが、空海が広めた真言宗は私たち庶民にも寄り添う身近な教えであり、高野山の魅力でもあります。
今回はそんな高野山の魅力を、高野山の歴史、見どころから紐解きます!

【世界遺産】高野山の概要

高野山を開いた空海

和歌山県にある高野山は、弘法大師・空海により真言密教の修禅の場として816年に開山しました。

若いころから必死に仏道に勤しんできた空海は、その中で「本当の真理とは何か?」という答えを見つけられずにいたのですが、そこに一筋の光を照らす存在だったのが真言密教です。

真言密教に可能性を見出した空海は、遣唐使船に乗り唐に渡り、真言密教の第七祖である恵果阿闍梨(けいか あじゃり)よりその教えを伝授され、わずか2年で真言密教を日本に広めるため、日本へと戻ってきました。

日本でしばらくの間、真言密教の布教活動を行った空海は、真言密教のさらなる布教にはその修禅の場を整えることが必要不可欠だ、という思いに至り、その場として「高野山を下賜願いたい」と上表文を政府に提出し、何かと庇護を受けていた嵯峨天皇より高野山を下賜されました。

高野山の地理的特徴

なぜ空海は高野山を選んだのでしょうか。後ほど別のエピソードをご紹介しますが、理由の1つは高野山の地理的な特徴にあります。

今の高野山・金剛峯寺があるエリアは山の中にあるのですが、周りをさらに高い山々に囲まれていることから、まるで山の中の盆地のような場所になっています。
周りを囲む山々の峰がと高野山がちょうど蓮の花を開いた形に見えることから、まさに浄土を表したような姿であり、真言密教の修禅の場としてもふさわしいというわけです。

これを高野の内八葉、外八葉と呼んでいます。それぞれの八葉に該当する山は以下の通りです。

内八葉:伝法院山・持明院山・中門前山・薬師院山・御社山・正智院山・真言堂山・勝蓮華院山
外八葉:弁天山・鉢伏山・宝珠峯・今来峯・転軸山・楊柳山・摩尼山・姑射山

【世界遺産】高野山と真言密教の思想

真言密教ってどんな教え?

空海が探し求めていた真理である真言密教とはどのような教えなのでしょうか。秘「密」の教え、密教とも言われる真言宗は、講義のように教えを聞けば会得できるものではないのですが、ここでは可能な限りシンプルにお話を進めたいと思います。

真言密教では宇宙の中心としての存在である大日如来が、宇宙・世界の真理を説いているとしていますが、大日如来は言葉だけで説法しているわけでは無く、この世に存在するあらゆるものが大日如来の説法の一部なのだ、と説きます。
つまり、世界、ひいては宇宙が大日如来の教えであり、真理であり、大日如来そのものである-。というわけです。

キーワード:「一体」

即身仏の思想

分かったようで分からない、そんな印象を受けたのではないでしょうか。真言密教の教えを理解する上でキーワードになるのが「一体」という思想です。

先ほどご紹介した通り、この世の全てが大日如来の教えであり、そのものであり、真実である。その中に私たち人間の存在があるわけですが、この思想に基づけば私たちもこの世界や宇宙と一体になることが出来る、ということでもあります。また、一体となることが出来ればそれは私たちも大日如来の一部になり得る、ということ。
この思想が「即身仏」という言葉です。

浄土宗は「来世」で浄土に往生できる、とする教えですが、即身仏を根本とする真言宗は「現世志向」の教えであると言えます。

表裏一体の思想

もともと真言密教の教義は、「金剛頂経」と「大日経」と2つの別々の教義を起源としていましたが、これらを一体化して1つの教義として昇華させたのが、先ほどご紹介した第七祖の恵果阿闍梨です。この教えを空海も引き継いでおり、真言密教でよく見かけるのが「両界曼荼羅」という図のような絵。

これは真言密教の教えを分かりやすいように絵に表したものですが、金剛頂経に基づく「金剛界」と大日経の「胎蔵界」の「両界」が一体の存在であることを示しています。

考えてみると、私たちの身の回りにはついつい「対」で見てしまっているものがありませんか?「人間と仏」「人間と自然」「敵と味方」「貴族と平民」などなど。
真言密教はこのような目に見える違いを一切排除して一体のものとしてみます。これが「どんな身分、存在でも分け隔てなく接する」というある意味平等思想にも結び付くわけですが、このような思想を高野山でも見ることが出来ます。後ほどご紹介しましょう。

【世界遺産】高野山の歴史

高野山開山の伝説

空海がなぜ高野山を真言密教の修禅の場に選んだのか、有名なエピソードをご紹介しましょう。

空海が唐から日本に戻るとき、「日本で真言密教の教えを広めるのにふさわしい場所を教えてくれ」と言って、日本に向かって三鈷杵(さんこしょ:仏具)を投げました。
日本に戻り、空海はこの三鈷杵を探して歩き回っていると、ある時白と黒の犬を連れた狩人と出会います。狩人に「近くに三鈷杵を見かけませんでしたか?」と尋ねると、狩人は空海を山の中へと案内しました。
狩人に連れられて山の中を歩いていると、松の木の枝に引っかかっている三鈷杵を発見。空海はこの場所こそが、天が導いてくださった真言密教の修禅にふさわしい、と確信して道場を開くのですが、それが今の高野山というわけです。

金剛峯寺の伽藍には、この伝説に登場する松の木が今も残されており、「三鈷の松」という名で親しまれています。高野山を訪れた際にはぜひチェックしてみてください!

空海の入定後~平安時代後期

高野山開山後、空海のカリスマ性と懸命の布教活動もあり、高野山は真言密教の道場としてその地位を確立するとともに、多くの弟子たちが集まりました。
ですが835年に空海が入定すると、偉大な指導者を失った真言密教の勢いに陰りが出始め、求心力は下がっていきます。

高野山と東寺:「三十帖策子(三十帖冊子)」事件

弘法大師・空海が政府から下賜されたのは高野山だけではありません。京の都にあった東寺(こちらも世界遺産)も、823年に太政官府より空海に下賜され、こちらも真言密教の道場となります。

東寺は天皇のお膝元である京を中心に布教活動を広める拠点となり、高野山は自然の中で真言密教の修禅の道場とする-。
空海は東寺と高野山にそれぞれの役割、機能を持たせる思惑があったと思いますが、空海の入定後、残念ながら高野山と東寺である事件が起こりました。

空海の後、高野山の座主を継承した真然は、空海が恵果阿闍梨から教わった教義をまとめた「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から持ち出します。高野山の始祖である空海の書物を保有することで、高野山が正当に空海の意思を継ぐ存在だと示したかったのかもしれません。

東寺は「三十帖策子」の返還を求めますが、真然はこれに応じず、その後高野山の座主になった無空はなんと「三十帖策子」を持ち出して高野山を下山してしまいます。
これが東寺と高野山の紛争を招くとともに、高野山の衰退へとつながっていきました。

結局、東寺の座主が高野山の座主を兼任することで落ち着きますが、これによって高野山は東寺の下寺という存在が近世まで続くことになります。

末法思想による再興

再び復活のきっかけとなったのが、平安時代後期の末法思想からくる念仏信仰です。この流行で貴族たちがこぞって浄土信仰に基づくお寺の建立に走るわけですが、その中で藤原道長も高野山を訪れました。
時の権力者である道長が高野山詣を行ったことで一気に高野山の注目度も上昇。今でいうインフルエンサーの存在が、高野山が再び活性化するきっかけになったのです。

その後、天皇による高野詣も行われ、貴族たちもこぞって高野山を訪れます。これにより高野山もその庇護のもと、寺社荘園を拡大していき、豊かな経済基盤を築くにまで至りました。

興教大師・覚鑁(かくばん)

高野山に再び勢いが戻ってきたと言っても、浄土信仰による念仏は真言密教とは異になるものです。気づくと真言密教の教義がおざなりになっていた当時、改めてその再興に努めたのが後に興教大師となる覚鑁(かくばん)でした。

覚鑁の熱心な教義復興は鳥羽上皇の後ろ盾を得ることになります。そこで覚鑁は高野山に大伝法院と小伝法院を開設し、大伝法会という真言密教討論の場を設けたのです。

この落慶を鳥羽上皇は高野山に御幸されて祝われ、荘園を寄進されましたが、これが思わぬ争いの火種を生むことになってしまいました。
というのも、寄進された荘園の中に、すでに高野山に寄進されていたものがあったためです。

これにより高野山内で従来の僧たちと覚鑁派に分裂し、紛争が勃発しました。この紛争は東寺の加勢もあり、覚鑁は高野山を追われ、以後は根来寺で没するまで活動を続けました。

鎌倉時代~室町時代

平安時代後期以降、浄土信仰の広がりとともに、高野山にて出家をする武士や貴族が増えていきました。
また、この頃から高野山の運営は「学侶(がくりょ)・行人(ぎょうにん)・聖(ひじり)」という3つの階級に分かれて維持されることになりました。
簡単にそれぞれの階級をご紹介しておきましょう。

学侶(がくりょ):高野山で密教哲学の研究や修法、法会を行う
行人(ぎょうにん):裏方。お寺の維持管理や食事、年貢の管理を行う管理集団
聖(ひじり):各地に赴いて布教活動を行う

高野山の認知度や、後にご紹介する弘法大師信仰が広まったのはやはり地道に各地で教えを説いて回った聖の存在が大きいと言えます。

一方で、年貢の管理をしていたのは行人だったため、徐々に高野山が荘園を拡大して経済基盤を作っていくと行人の権力が大きくなり、これが高野山の階級同士の争いにもつながっていくことになります。

戦国時代以降

そんな状況が一変するのが戦国時代以降です。
完全に武士の時代になってくると、荘園という豊かな経済基盤を持ち、自らも武装する寺社勢力を警戒する大名が現れました。それが織田信長、豊臣秀吉です。

戦国大名たちは寺社の力を奪うべく、強硬手段に出るわけですが、有名なのは信長による比叡山延暦寺への焼き討ちです。実は高野山も例外では無く、信長軍に取り囲まれている状態でしたが、本能寺の変により難を逃れることが出来ました。

ですが、その後の豊臣秀吉の天下統一、さらには徳川家による江戸幕府の成立後も幕府による強制的なコントロールの元、高野山は経済基盤をそぎ落とされ、与えられた裁量の中での運営を余儀なくされてきました。

【世界遺産】高野山の見どころ

それでは世界遺産、高野山の見どころを簡潔にご紹介します。詳しい見どころ解説はそれぞれ、別記事にまとめますのでそちらをご参照ください。

壇上伽藍

高野山は大きく「壇上伽藍」と「奥の院」という2つのエリアに分けることができます。まずは壇上伽藍ですが、こちらは一般のお寺と同様の伽藍のイメージで、様々な仏教寺院の建物が集まっているエリアです。

弘法大師・空海が入定する前には実はほとんどの伽藍はまだ無く、伽藍を整備したのは先ほどご紹介したその後を引き継いだ真然でした。

一番の見どころはやはり「根本大塔」と「西塔」。根本大塔の本尊は胎蔵大日如来、西塔の本尊は金剛界大日如来です。

これを見てあることに気づきませんか?そうです、先ほどご紹介した真言宗の両界曼荼羅です。

空海が説いた真言密教は金剛界と胎蔵界を一体のものとしてとらえています。これを基に考えると、根本大塔と西塔もそれぞれ独立しているのではなく、二基一対の存在なのです。

さらに面白いのが、根本大塔、西塔ともその内部は曼荼羅の世界を表現した「立体曼荼羅」の世界となっているのですが、根本大塔の本尊を囲んでいるのは胎蔵界ではなく金剛四仏、逆に西塔では金剛界大日如来を胎蔵四仏が囲んでいます。

つまり、それぞれの建物でも金剛界と胎蔵界の両界一体の思想を表現しているのです。

奥の院

高野山のもう1つのエリアが奥の院エリアです。奥の院へと続く道には多くの墓石が立ち並び、それゆえに高野山は「天下の総菩提所」と呼ばれています。

奥の院には空海の御廟があるのですが、奥の院は「弘法大師信仰」が根付くエリアとして知られています。
「天下の総菩提所」と「弘法大師信仰」については後ほど簡単にご説明しますが、ここには日本の歴史上名を馳せた多くの武士、偉人たちの墓が眠っています。

壇上伽藍と奥の院、2つのエリアから成る高野山は、世界最古の木造伽藍である西院と聖徳太子信仰を表す東院から成る法隆寺と共通していると言えるでしょう。

慈尊院

慈尊院は高野山のふもとにあるお寺で、その昔空海の母、玉依御前が息子の姿を一目見ようと高野山にお参りに来た時に滞在していたとされる草庵を起源とします。

実は高野山は20世紀に入るまで女人禁制の地であったため、女性の入山が禁じられていました。そのため、玉依御前はこの場所から先に進むことが出来なかったわけですが、母親思いの空海はひと月の間に数十キロ離れたこの場所に9度も母の姿を見に通ったと言われています。
このことから、この辺りは九度山と呼ばれています。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

皆さんは先ほどご紹介した高野山開山のエピソードを覚えておられますでしょうか。狩人が三鈷杵がかけられた松の木に空海を案内した、という話です。

実はこの狩人、この吉野山の地の神である丹生明神の御子神と言われています。

このため、高野山を開山するに当たってまず空海は、御社を建てて丹生明神である丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)を勧請し、次にその子どもである狩人の高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)を勧請してこの場所に祀ったと言われています。

ちなみに丹生都比売大神は、天照大御神の妹神である「稚日女命」と同一神であるとも言われています。

参詣道

高野山には「高野七口」と呼ばれる、紀伊の各地から高野山への繋がる参詣道があるのですが、この一部も世界遺産に登録されています。

信仰の道として、参詣道の中でも最も中心的な存在と言えるのが、先ほどご紹介した慈尊院と高野山の入口、大門、さらにそこから壇上伽藍の根本大塔を通り、奥之院へと続いている「町石道(ちょういしみち)」です。

高野山を訪れる際はぜひこれらの参詣道も歩いて頂くと、より弘法大師・空海の歩んだ世界が身近に感じられるはずです。

【世界遺産】高野山の魅力

日本唯一の山内町

高野山は真言密教の道場ですが、そのイメージを持ったまま高野山を初めて訪れると少し印象が違って見えるかもしれません。

というのも、高野山は金剛峯寺と呼ばれるようにそのエリア一帯にお寺だけが密集している、というわけではなく、普通の街並みが広がっているためです。

これは空海の抱いていた思想と真言密教の思想を思い出して頂ければ腑に落ちるかもしれません。

高野山は真言密教の修禅の道場として開かれた場所であり、自然と一体となることでその先の宇宙、大日如来と一体なることを思想とする真言密教にはうってつけの場所であると言えます。ですが、一方で高野山や真言密教は世俗を排除したわけでもありません。この記事でもご紹介している通り、世俗や仏道関係なく、すべてが一体と考えるのが真言密教だからです。

普通の街並みや人々の暮らしと、修繕の道場が同じ空間にあるというのは、まさに真言密教の一体のキーワードの現れなのです。

皆さんが良くご存じの「高野豆腐」や、「高野紙」など、日常生活でも高野山を起源とするものが多いのもこのような高野山独特の成り立ちから来ているのかもしれません。

宿坊

高野山と言えば、宿坊での滞在体験も人気の1つです。ではなぜ、高野山にはこれほど多くの宿坊があるのでしょうか。

先ほど少し触れた「天下の菩提所」とも言われる高野山では、多くの武士や貴族たちが自分たちの墓を建てましたが、その際に高野山の寺と檀家の関係を結びました。あの徳川家の菩提寺もこの高野山にああり、「徳川家霊台」は有名です。

このため、武士や大名、貴族たちが次々に高野山のお寺と檀家関係を結び、宿坊が整備されていったのです。

ではなぜ多くの武士や貴族がこの高野山にお墓を建てようとしたのでしょうか。それはこの次にご紹介する弘法大師信仰でご説明します。
一方、高野山としても戦国時代以降、荘園制度が崩壊して経済的に貧窮した中、何とか生き残りの道をかけて各大名に近づいたとも考えられています。

弘法大師信仰

すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、この記事では弘法大師・空海は「入定」したという表現を用いています。「入滅」ではありません。
これが弘法大師信仰の1つでもあるのですが、高野山の奥の院で弘法大師・空海は今も生きておられて、私たちの救いのために瞑想されている、という思想が広く浸透しています。

なぜこのような信仰があるのか、発端は定かではありませんが、先ほどご紹介した藤原道長や「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られた際、勅使が座主とともに奥の院にお参りされた際に、生きた弘法大師・空海のお姿を見られた、という記録が残されているためです。

空海は入定される際、「これより先は弥勒菩薩のもとで、衆生救済のために祈り続けよう」という言葉を遺したと言われています。

これらのエピソードが、空海は今も我々のために祈りを捧げられており、56億数千万年後の末法の世が明けるまで待機されている、という弘法大師信仰を生んだと考えられています。そして、それを広く民衆に浸透させたのが聖たちだと思われます。

「天下の菩提所」

先ほどご紹介した通り、奥の院への参道には数多くの墓石が立ち並んでおり、それが高野山を「天下の菩提所」と言わしめている所以でもあります。

なぜこれほどまでにお墓が増えたのでしょうか。筆者が考える理由は3つ。

1つ目は先ほどご紹介した檀家制度によるものです。これにより当然お墓が多く建てられるわけですが、実は高野山には様々な名のお墓があるのです。
キリスト教など異教の墓、朝鮮侵攻により亡くなった朝鮮人と弔うための墓、先ほどご紹介した覚鑁の墓もあるそうです。
高野山と敵対、もしくは相容れないはずの墓もあるのはなぜでしょうか。

2つ目の理由が、弘法大師信仰によるものです。今も弘法大師・空海は生きておられて、我々を見守ってくださっている。ならば、なるべく近い場所で眠りたい-。と信じる人も多いでしょう。

最後の理由が、この記事でずっとご紹介してきた真言密教の思想です。弘法大師・空海も真言密教も、何も分け隔てなく一体と考える思想でした。
であれば、敵味方や異教の違い、思想の違いも広く受け入れるのが真言密教であると言えるでしょう。そのような懐の広さ、また誰もを分け隔てなく受け入れる真言密教の「温かさ」がここにはあるのではないでしょうか。

高野山が世界遺産に登録された理由

いかがでしたでしょうか。

高野山が多くの魅力にあふれていることはすでにお分かり頂けたかと思います。最後に、世界遺産に登録された理由を簡潔に記しておきたいと思います。

・日本に真言密教を浸透させた真言密教の修禅の場としての高野山の存在
・弘法大師信仰や丹生都比売神社など、日本人固有の信仰を表すものの存在
・参詣道が登録されているように、高野山の自然そのものが真言密教の思想と合わさってこの地に固有の信仰や文化を創り上げた

ぜひ皆さんも高野山を訪れ、その思想や文化に触れてみてください!

 

(参考:「高野山」松長 有慶 岩波新書, 「高野山を知る108のキーワード」高野山インサイトガイド制作委員会 講談社, 「世界遺産マスターが語る高野山」 尾上 恵治 新評論)

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