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【天空の世界遺産】プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとカンボジアの国境問題徹底解説(国際司法裁判所による判決の全貌)

カンボジアにある天空の世界遺産、プレア・ヴィヒア寺院。タイとカンボジアの国境に位置するこの世界遺産を巡る両国の争いは、1959年にカンボジアが国際司法裁判所へ提訴による判決により一定の解決に至ったものの、2008年の世界遺産登録が新たな火種を生む結果となりました。

今回は、世界遺産プレア・ヴィヒア寺院と国境を巡る司法裁判所での闘争を解説します!

本記事をより楽しんで頂くために

この記事では、世界遺産プレア・ヴィヒア寺院と国境に絡む国際司法裁判所での争点についてご紹介します。この内容は、この問題の背景となっている歴史上の出来事を理解頂いた方がより楽しんで頂ける内容となっておりますので、まだお読みになっていない方は下記の記事を先にお読みいただくことをおすすめいたします。

【天空の世界遺産】プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとカンボジアの国境問題徹底解説(歴史の背景)

1950年代:国際司法裁判所への道のり

背景① タイとカンボジアの関係

第2次世界大戦が終焉し、世界が落ち着きを取り戻すことに合わせて、世界遺産プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとカンボジアの争いも落ち着くかと思いきや、両国間の亀裂はさらに深まることになります。

この問題の歴史的背景をご紹介した記事の最後にご紹介した通り、第2次世界大戦の終戦後、1946年にタイとフランスはワシントンで終戦に関する合意により、タイは1941年に侵攻して支配したインドシナ領をフランスに返還しました。ですが、プレア・ヴィヒア寺院の領有権に関しては明確な取り決めはなされず(それぞれが自国の領土を主張)、引き続きタイが実効的な支配を行い続けます。

これに当時のカンボジア、Sihanouk(シハヌーク)政権は強い不信感を抱きます。カンボジアからすると、1941年のタイ軍による当時フランスが支配していたカンボジアやインドシナ領への侵攻という悪夢を経験しているがゆえに、タイが再びカンボジアに侵攻するのではないか、という懸念が拭えないわけです。
このような背景もあり、カンボジアはプレア・ヴィヒア寺院がタイ軍により不当に占拠されており、タイは直ちに撤退することを求めました。

一方のタイ側も、第2次世界大戦後に始まった冷戦におけるカンボジアの姿勢に不満を抱いていました。冷戦当時の状況は後ほど詳しくご紹介しますが、タイの国民の多くもプレア・ヴィヒア寺院はタイに属するべきだという声が多く挙がっていた当時、プレア・ヴィヒア寺院はタイ・カンボジアの両国において政権が国民の支持を集める上で大きな存在となっていたのです。

背景② 冷戦(Cold War)が事態を複雑にした

第2次世界大戦が終焉した後、なおも世界は不透明な時代が続くことになります。それが冷戦(Cold War)の始まりでした。

冷戦は「戦い」ではありますが、戦争のような物理的な戦いが行われたわけでは無く、アメリカをはじめとする資本主義・自由主義と、当時のソ連をはじめとする共産主義・社会主義国家が世界の覇権を争った戦いです。
この冷戦が世界を巻き込むことになった背景として、当時アメリカの大統領だったアイゼンハワー大統領が唱えた「ドミノ理論」があります。この理論は、ある国が共産主義になるとその周辺国もそれに影響されて共産主義に変容していく、という考えです。

このドミノ理論も相まって、アメリカやソ連は自分たちの陣営に各国を引き込むべく様々な支援や介入を行うわけですが、これはタイやカンボジアも例外ではありませんでした。

東南アジアの中でタイはアメリカに同調、反共産主義の立場を取ります。このためタイはアメリカの影響を受け、軍隊を近代化することにもつながります。
一方のカンボジアは争いを嫌う和平的な姿勢を取り、中立的な立場を取るのですが、これが逆に資本主義、共産主義の両陣営から過度な介入と支援を受ける状況を生み出しました。

冷戦に巻き込まれたプレア・ヴィヒア寺院

こうした冷戦の中、カンボジアはプレア・ヴィヒア寺院の返還を求める中でアメリカに相談を持ち寄ります。タイがアメリカ陣営についたことから、アメリカに仲介役を頼もうというわけです。

ですが、アメリカはプレア・ヴィヒア寺院の問題に消極的でした。

アメリカからすれば、カンボジア側に付けばタイが自陣営から離れるし、タイ側に付けばカンボジアが共産主義国に近づいてしまう-。また、タイからするとアメリカが自陣営にカンボジアを引き込むため、積極的にカンボジアに武器などの提供を行っていたことも不満の種としてくすぶっていたのです。

アメリカがこのようにタイとカンボジア間で板挟みの状況にある1956年、カンボジアが国際司法裁判所への提訴を行うことを提案したものの、アメリカは反対の立場を取りました。二国間の問題を全世界に公表することになり、コトが大きくなってしまうことを危惧したわけです。

1950年代後半:国際司法裁判所に至るタイ、カンボジア最後の攻防

アメリカの仲介が期待できない中、カンボジア側は1957年、1907年にフランスが作成した地図が重要な証拠を握っているとして、当時バンコクの米国領事館を通じてタイにそのコピーを依頼したものの、タイはこれを拒否。
さらにカンボジアは1958年、国際司法裁判所への提訴を前に、最終解決を図るためバンコクに乗り込み、領地問題の議論が交わされました。その際の両国の主張を簡単にまとめると下記の通りです。

【カンボジア】
1907年にシャム国(タイ)とフランスの合意の元作成された地図によれば、プレア・ヴィヒア寺院はフランス(カンボジア領)に含まれており、法的にフランスの立場を引き継ぐカンボジアがプレア・ヴィヒア寺院の領有権を持つ。

【タイ】
もともとプレア・ヴィヒア寺院はタイが保有していた。フランス作成の地図については承知しているが、作成当初の状況を考えると、決して公正な立場で造られたものでは無い。
フランスのカンボジア植民地支配の時代は終わっている。当時の状況をそのまま持ち出すことは妥当ではない。

両国ともプレア・ヴィヒア寺院の保全と研究を共同で行うことには理解を示したものの、上記の通りその所有を巡っては一歩も譲らず、協議は決裂。1958年、カンボジアはタイとの国交を断絶しました。

さらに提訴の前、カンボジアはタイに対してプレア・ヴィヒア寺院の共同管理の申し出を行いましたが、タイからは3か月間何の返事もなかったため、ついにカンボジアは国際司法裁判所への提訴に踏み切ったのです。

プレア・ヴィヒア寺院に関する国際司法裁判所での争点と判決(1962年)

カンボジアによる国際司法裁判所への提訴内容

カンボジアがプレア・ヴィヒア寺院の所有に関して国際司法裁判所(International Court of Justice、以降「ICJ」と表記。)への提訴に踏み切ったのは1959年のことでした。

この時にカンボジアがICJに主張した内容は以下の2点。

①プレア・ヴィヒア寺院からタイ側の軍隊撤退
②プレア・ヴィヒア寺院がカンボジア領であることの確認

これが問題の全面的解決を遠ざけることになるのですが、それは後ほどお話しします。

国際司法裁判所での争点

カンボジアがICJへの提訴に踏み切ったことに対し、タイもICJの場で反論を行いました。ICJでの論争に際し、主に争点となった論点をご紹介します。

①歴史的な所有権の所在

まずはプレア・ヴィヒア寺院に関する所有権は歴史上どのようになっていたのか、です。これに対し、タイ側は19世紀以降、放置されていた寺院を主に管理していたのはタイであることを主張します。事実、タイ側から寺院へ至る道なども整備されていました。

一方カンボジア側は、プレア・ヴィヒア寺院はもともとクメール人(カンボジア人)によって創建された寺院であり、その起源はカンボジアにあると主張します。

歴史を振り返ってみるとプレア・ヴィヒア寺院はクメール人によって興され、またその後アンコール王朝においても重要な寺院として管理されていたことは分かっています。その後、アユタヤ王朝の侵攻によりアンコール王朝が滅亡してからのプレア・ヴィヒア寺院は、歴史の表舞台から遠ざかることになります。

②地図の妥当性

プレア・ヴィヒア寺院の所有に関する事の発端は、1904年にフランスとシャム国(タイ)が共同で国境を定めるプロジェクトを発足させ、その協議と1907年にフランスによって作成された地図にあると言えます。

タイからすれば、そもそも当時フランスの圧力を受けていた状況で、フランスとシャム国の共同事業だったとはいえ、公正な協議と取り決めが行われたことは疑問であるとの主張であり、カンボジアとすればフランスとシャム国の協議、さらにフランスが地図を作成することをシャム国も認めていたことから、1907年に作成された地図は妥当なものであるとの主張です。

③分水嶺はどこにあるのか

1904年のフランスとシャム国の協議では、分水嶺に沿って国境を定める方法をベースにしようとの話し合いがなされています。

タイとしては、分水嶺によって国境を定めるとすればプレア・ヴィヒア寺院はタイの領地に属するはずであり、フランスが1907年に作成した地図では意図的にプレア・ヴィヒア寺院がフランス(カンボジア)の領地となっていると主張しました。

実はプレア・ヴィヒア寺院は切り立った崖の上に建てられた寺院であることから、分水嶺の把握が困難である点がこの争点をさらに難しくしています。

この分水嶺については、裁判の中で改めてオランダの政府機関であるInternational Training Center for Aerial Surevey(ITC)が調査を行いました。
すると、以下の2点の新事実が発覚しました。

・崖の東側に小さな「小丘」が見つかったこと。これにより、寺院より流れた雨水が東側に流れ落ちることの妨げになり、結果的に水は北側のタイへの流れ出ることになる。(地図では西側の方が東よりもやや高いとみられており、そのため水は東側を伝ってカンボジアに流れ出ると考えられていた。)

・1907年に作成された分水嶺だと水が標高の高い方へと流れていることになり、起こりえない。

この調査結果はタイ側に有利なものとなります。水が北側のタイに流れるということは、その支流はタイ側にあることになり、プレア・ヴィヒア寺院はタイの領地ということになるためです。

④タイは1907年作成の地図を「承認」したか

最後の争点として、タイ側は1907年にフランスによって作成された地図を「承認した」とする明確な証拠(文書等の記録)は残されていないことから、この地図が正式なものでは無いと主張しました。

一方、1907年の地図を今回の主張の拠り所としているカンボジアからすると、タイ側の主張は受け入れられないものということになります。

国際司法裁判所の判決

1962年、ICJは判決を下しました。結論から言うと、

・プレア・ヴィヒア寺院はカンボジアの領地である
・したがって、タイ軍はプレア・ヴィヒア寺院から撤退すること

という判決で、カンボジアの主張が認められた形になります。

ICJの判決の論拠を抜粋すると下記のとおりです。

・歴史的、物理的、人類学的な主張は法的な根拠とは認められない。つまり、近年の取り扱いが法的根拠となる。(争点①の歴史的な所有の正当性がタイ、カンボジアのいずれにあるかは問題ではない)

・分水嶺による国境の定め方があることは分かりつつも、必ずしもすべてそれに従う必要性はなく、分水嶺と異なる線引きがされていたとしても特段の問題はない。(争点③も判決に当たっての論拠とならない)

・1907年の地図は公的に出版、公表されたものであり正式なものであることは明らかであるものの、フランスと当時のシャム国の共通の作業、理解の上に作成されたものであるかは定かではない。ただし、プレア・ヴィヒア寺院を含む境界線を定めたことを踏まえるとこれは共通の理解によるものと考えるのが妥当。
その根拠として、フランスからシャム国に対して50もの地図が提供され、内15の地図に対してシャムからフランスに対して謝辞が述べられていること。さらに、何らの異議もなく15のコピーを依頼していることから、シャムはこの地図を承諾したものとみなせる。(法的な慣例に基づき、何らの主張、異議申し立ても無く沈黙をしていたものはその主張を受け入れたものとみなす。)

司法裁判所は当時のシャム国の高官等は少なくともこの地図の問題を認識していたにも関わらず、それを訂正しなかったこと、また、「地図が誤っている」という主張も何らされていないこと、さらに1925年と1937年の「Negotiations for the Friendship Treaties」(タイとフランスの友好協議)、1934年から35年にかけて行われた地図の調査、さらにその後もプレア・ヴィヒア寺院がカンボジア領になっている地図を発行し続け、第2次世界大戦後の3つの郡の返還の際にも一切の言及はなかったことから、タイはプレア・ヴィヒア寺院がフランス(カンボジア)領に属するものと実質的に認めていた点を判決の論拠としたのです。

これに対し、タイ側はもともとプレア・ヴィヒア寺院が自国の領地に属するものと認識していたので、そもそもそのような主張も不要で行わなかったと反論します。

この主張に対してもICJは「管理管轄権は地方もしくは郡の自治体によって行われるものであり、それは国の行為とは区別されるべきものである。」として退け、1930年にDamrong(ダムロン王子)がプレア・ヴィヒア寺院を訪れた際に受けたフランス側からの対応に関しても、何かしらの主張を行うべきだったが、謝辞の手紙を送るのみだったことを挙げ、この手紙の内容からもフランスがプレア・ヴィヒア寺院の管理国であることを認めているとしました。

判決後も残る火種

この判決でプレア・ヴィヒア寺院がカンボジアに属するものであることは確定しました。また、これに伴いタイもプレア・ヴィヒア寺院から軍を撤退させています。

ですが、確定したのは「プレア・ヴィヒア寺院がカンボジアに属するもの」という点だけであり、1907年の地図に記載されている国境線に関して、ICJは何の判決や意見も下していません。

このため、プレア・ヴィヒア寺院の周辺は引き続き「グレーゾーン」となり、タイ側は軍隊を引き続き配備しました。

この裁判中、カンボジアは国境線に関しても追加でICJへ主張を提出していますが、ICJはこの受け入れを却下し、あくまでも1959年にカンボジアが当初提出した主張に対してのみ判決が行われたのです。

プレア・ヴィヒア寺院の世界遺産登録と新たな争い(2000年代)

世界遺産登録による新たな争い

国際司法裁判所の判決でいったんは落ち着いたプレア・ヴィヒア寺院を巡る問題。
ですが、2000年代に入りカンボジアではプレア・ヴィヒア寺院への観光客が増えるとともに、出店や周辺に住民が住み始め、タイ軍の居留地にも侵入するなどトラブルが増加しました。

これに対し、タイとカンボジアは共同でプレア・ヴィヒア寺院の管理維持協力を行うことで同意に至ったことで沈静化を図りますが、ある出来事で両国の関係に再び緊張が走ることになります。

それがプレア・ヴィヒア寺院の世界遺産への登録申請でした。カンボジアはプレア・ヴィヒア寺院を世界遺産に登録すべく、国として申請することを決定。タイ側も外相がこれに協力を表明したものの、これがタイの国民感情を逆なでする結果となり、タイ国内から強い反発を受けて失脚します。
タイの国民からすると、プレア・ヴィヒア寺院はタイのものである、という強い認識があるのです。

その後、プレア・ヴィヒア寺院の世界遺産登録が2008年に決定するとプレア・ヴィヒア寺院でタイ軍とカンボジア軍が衝突。数名の犠牲者が出る深刻な事態に陥りました。

国際司法裁判所、再び

この衝突は、プレア・ヴィヒア寺院の周辺地域がいまだにグレーゾーンとなっており、タイ・カンボジアのいずれの領地かはっきりしていないことに起因しています。

結局カンボジアは再び国際司法裁判所に、このグレーゾーンも明確にカンボジア領地とするべく提訴に踏み切りました。

これに対する国際司法裁判所の判決は、やはりカンボジアに有利な内容でした。
グレーゾーンもプレア・ヴィヒア寺院のバッファーゾーンと考えるのが妥当であり、タイ軍はそのエリアから軍隊を撤退するようICJは指示を発表。

これで完全解決と思われるかもしれませんが、実はこの判決は完全にカンボジアの主張を飲んだものではありません。というのも、カンボジアとしては1907年に作成された地図の通りの領地を主張した一方、ICJの判決として出たプレア・ヴィヒア寺院のバッファー・ゾーンの北限は1907年の地図で定められたラインまでとすることは認められましたが、カンボジアが当初希望した4.6キロ平米のグレーゾーン全域までは認められなかったためです。

いずれにしてもICJによる2度の判決を経て、プレア・ヴィヒア寺院と国境を巡る問題は2021年現在は落ち着きを取り戻しています。

プレア・ヴィヒア寺院の世界遺産登録に残る問題の影

2008年、カンボジアによりプレア・ヴィヒア寺院が世界遺産登録として登録されました。この時、世界文化遺産の諮問機関であるICOMOSはプレア・ヴィヒア寺院の調査の結果として、登録基準(ⅰ)、(ⅲ)、(ⅳ)の3つの価値を認めています。

ですが、世界遺産委員会で登録が決定したものの、その価値として認められたのは(ⅰ)のみでした。これは、残る(ⅲ)、(ⅳ)はタイ側の領地の保全がなされない限り達成されないと判断されたためです。

世界遺産の登録は1つの国のみで行う以外にも、複数の国にまたがって登録される「トランス・バウンダリー・サイト」として登録されることも珍しくありません。日本の世界遺産の中では2016年に登録された国立西洋美術館(登録名:「ル・コルビュジエの建築作品:近代建築運動への顕著な貢献」)がこれに該当します。

本来世界遺産は世界平和の大切さを認識する目的で制定されたものです。それが、逆に国同士の争いを生む原因となることは世界遺産や、旅を楽しむ私たちからするととても悲しい事だと思いませんか。

世界遺産プレア・ヴィヒア寺院は、改めて歴史の複雑さと平和の大切さ、それがいかに難しいことかを私たちに教えてくれているのです。

 

(参考:「Temple in the Clouds」John Burgess, River books)

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