世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】旧グラバー邸を100倍楽しむために知っておきたいトーマス・グラバーと明治日本の物語

世界遺産、明治日本の産業革命遺産の構成遺産の一つ、旧グラバー邸。この邸宅の主だったトーマス・グラバーは、日本が明治維新の開国から欧米列強に肩を並べるまでの急成長に大きな影響を与えた人物です。吉田松陰が精神的な影響を与えた人物とすれば、グラバーは経済的な影響を与えた人物と言えるでしょう。
今回はあまり良く知られていない、グラバーと明治時代の日本の物語をご紹介します!

グラバーはなぜ日本にやって来た?

グラバーの出身地

トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)は1838年、スコットランドの北方の町、アバディーンの近くのフレーザーバラという漁村で生まれました。

アバディーンはスコットランドでも比較的大きな都市であり港町でもあった事から、貿易も盛んな街で、グラバーは造船や航海による貿易を身近に感じることができる環境で育つことになります。
これはグラバーが日本に来た後のビジネスにも大きな影響を与えています。

ちなみにグラバーは七男一女の大人数の兄妹の中で5番目の男の子として生まれました。

上海での下積み時代

青年になったグラバーは、当時からすでに貿易を通じて頭角を現していたジャーディン・マセソン商会で働くことになりますが、ここで着実に結果と実績を残す働きぶりを見せ、会社からも信頼を得ていました。
ビジネスマンとしての素質はすでに若いころから持っていたのでしょう。

当時、日本よりいち早く開国していた中国(当時は清)にイギリスやフランスといったヨーロッパ諸国が新たなビジネス取引を求め、欲望に満ち溢れ一攫千金を狙う血気盛んな実業家たちが多く上海に渡っていました。

その見込みを買われたグラバーは、1856年、18歳の時にジャーディン・マセソン商会の命を受けて上海に派遣され、そこで絹・茶・アヘンを主力商品とする自由貿易を推し進め、利益追求に明け暮れます。

グラバーと同じように英国から上海に自由貿易のビジネスチャンスを掴みにやってきた商人たちの一部は、自らもアヘンに身を染めていく者たちも多く、グラバーはお酒には溺れたもののアヘンには手を出しませんでした。
この辺り、グラバーの育ちの良さと自らを律する強さを持っていたことがうかがえます。

そんな中、上海の商人仲間の間で、上海のさらに東にまだ未開の国があるとのウワサが流れ、まだ見ぬ国に新たな商機を考えたグラバーはその話を徐々に真剣に考えるようになります。
この未開の国、というのはもちろん日本のこと。当時英国をはじめとするヨーロッパ諸国にとって、遥か極東の日本に関する情報はほとんど流れておらず、そこはまさに未知の国だったのです。

そして時は1858年、日本の江戸幕府は安政の五か国条約というアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの不平等条約の締結を余儀なくされ、ついに鎖国が終わりその門戸が海外に向けて開かれることになりました。

これにより翌1859年、グラバーは長崎へと足を踏み入れ、ここから彼はその人生の大半を日本で過ごすことになります。

 

このように、グラバーが日本の長崎にやって来た理由、それはとてもシンプルで、日本が開国したことによりやがて盛んになる自由貿易による利益の追求ということになります。
グラバーがその生涯をかけて行ったことは結果的に日本の開国と近代化を推し進める要因になり、確かにグラバーが日本に残した功績というものは測り知れないほど大きいのですが、彼が「日本のため」を常に考えて行動していたかというと、むしろビジネスによる実利を追い求めた結果という色合いが強い点は頭に入れておくとよいでしょう。

ですが、現在のビジネスでも将来に対する正しい大局観を持つことがその成否を分けるように、グラバーは明治維新の激動の時代の中で、その流れと趨勢を適切にくみ取り、上手くその波に乗ってビジネスを行う才を持っていたことは確かと言えます。それを順を追ってご紹介します。

グラバーの波乱万丈人生①:長崎でビジネスに大成功

1859年の日本はどんな時代?

グラバーの日本での活動をご紹介する前に、彼が日本・長崎にやって来た頃の日本の情勢を簡単にご説明しておきます。

先ほどご紹介した通り、前年の1858年に江戸幕府は安政の五か国条約を締結し、それまでの鎖国体制が瓦解して自由貿易を余儀なくされます。この流れはもちろん、1853年のペリーによる黒船来航から始まる一連の外圧に江戸幕府が屈した結果であり、200年以上ほとんど海外との関係を断ってきた日本は当時大混乱に陥っていたことでしょう。

この外国からの圧力によって露呈してしまったのは、日本の技術が西洋諸国に到底及ばないものであるという明らかな力の差だけでなく、当時日本の政府として機能していた徳川幕府の影響力の低下です。

徳川幕府の求心力の低下と突然現れた外国からの脅威で日本国内に急速に広がった考えの一つが、尊王攘夷思想です。これは簡単に言ってしまえば、対外強硬姿勢と言えます。
「我々の国、日本こそが最も優れた民族、国であり、外国からの支配や影響を排除しよう。」という考え方ですね。

複雑なのは、この尊王攘夷思想は決して一枚岩だったわけではなく、この考えを持つ人の中にも、反幕府体制、つまり倒幕を目指して政権交代を目指そうという思想を持った人と、あくまでも徳川幕府に味方する人との間でも激しい対立が生じていました。

ここから明治維新までの大まかな流れを簡単にまとめておくと、下記の通りです。

・尊王攘夷思想による対外徹底抗戦の広がり(ただし、反幕府派 vs 徳川幕府での対立あり)

・西洋諸国にコテンパンにやられ、その技術を積極的に取り入れようという開国への傾倒

・開国に向けて突き進みながらも、政権掌握を巡り徳川幕府と討幕派で衝突

・大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争を経て徳川幕府が滅び、明治天皇による新政府の樹立

これからご紹介するグラバーのお話は、この大きな流れを念頭にお読みいただくとよりご理解頂けるかと思います!

グラバー商会立ち上げ

グラバーは長崎に来てから、まずは一足先に長崎で事業を展開していたマッケンジーという同じジャーディン・マセソン商会の代理としてビジネスを行っていた人物の事務手伝いをしながら仕事を始めました。

このマッケンジーという人物は、安政の五か国条約によって長崎が正式にイギリスなどに門戸を開放する以前から長崎に入り込んでいた人物で、攘夷派の風潮も強まっていた当時に日本に乗り込むというのは相当勇気と覚悟がいるか、もしくは向こう見ずな性格でないとできることではありません。

グラバーも長崎に来てからしばらくは、侍を中心に交流を広げつつも、常に攘夷派からいつ襲撃されてもおかしくないという危険と隣り合わせだったため、適度な距離を保ちながらの活動を行っていました。

そんな中、マッケンジーが急遽上海に戻ることが決まり、グラバーは彼の後を引き継ぐ形で、日本におけるジャーディン・マセソン商会の代理人として独立して事業を行うようになります。1861年のことです。
そしてその後、正式にグラバー商会という会社を立ち上げました。

外国と攘夷派の衝突

グラバーを始めとして、長崎の出島に出来た外国人居留地には自由貿易を求めて多くの外国人が住むようになります。土地としても明確に区切られたエリアであったものの、海外から長崎にやって来た商人たちと攘夷派の武士たちは日常の中でも衝突することは珍しいことではありません。

攘夷派が外国人たちを煙たく思うのはその思想から来るものですが、一方の外国人たちも、グラバーが長崎にやって来た1859年ごろはまだ自由貿易というのにはほど遠く、日本国内の様々な法やルールのしがらみに縛られる状況の中で思うようにビジネスができず、不満がたまっていたのです。

ですが、突発的に起こった衝突が日本を揺るがす戦争の火種になった事件もいくつかありました。それをご紹介しましょう。

外国人排斥運動(1859年)

先ほどお話ししたように、自由貿易が何かと妨げられたいたことに不満を感じた外国商人たちは、英国など自国政府に訴えて日本の周りに配置していた戦艦からの威嚇砲撃を行いました。

これで大人しくなるかと思っていたところ、全くの逆効果になり、攘夷派の武士たちが大激怒。各地で西洋館や教会等への襲撃事件がエスカレートし、長崎の居留地にいた外国人たちもいつ襲撃されるかという恐怖に悩まされる結果になりました。

生麦事件(1862年)と薩英戦争(1863年)

こちらも些細なきっかけが大問題に発展した事件です。

薩摩藩の大名が江戸からの帰りに生麦村辺りに差し掛かったとき、馬に乗った英国の商人の一行と鉢合わせします。
当然大名行列に対する礼儀を知らない英国の商人たちは、馬に乗ったまま行列の中を逆行し、薩摩藩の家来たちから注意・威嚇を受けるも理解することができません。

ついに大名が乗っている籠に近づいた当たりで、さすがに英国人たちも何かまずい空気を察したのも時すでに遅し、薩摩藩の家来たちに切りかかられ、英国人の内一名は切り殺されてしまいました。
残りの英国人たちはとっさにその場から逃げ出し、領事館に助けを求めて駆け込みました。

この事件の一報を聞いた英国は大激怒。日本(徳川幕府)と薩摩藩に犯人の処刑と罰金の支払いを求めたものの、幕府・薩摩藩ともに明確な返事をせず、特に薩摩藩は対抗姿勢を見せたため、翌年に薩英戦争が勃発。
ちなみに、幕府と薩摩藩もこの時は腹の内を互いに探っているような状況で、お互いに罰金を支払うことであわよくば弱体化を狙える、という思惑もあったようです。それほで徳川幕府の威信というのが諸藩に通用しなくなり、影響力が弱まっていたということでもあります。

「戦争」と言っても、英国が軍艦から砲撃を浴びせ、薩摩藩もこれに対抗して砲撃を食らわせる応酬が続いた後、英国軍は沖に引いていきました。

この戦争により英国軍側に死者が出たものの、薩摩藩も大打撃を受けることになります。そしてこれにより、薩摩藩は西洋諸国との埋めがたい力の差を身を持って体験し、開国して西洋技術を学ぶ姿勢へと転換していくことになるのです。

下関戦争(1863年~1864年)

薩英戦争に続き、日本と外国の衝突が長州藩・下関でも勃発します。これは薩英戦争に危機感を抱いた長州藩が、尊王攘夷を決行に移すべく、下関を通過する外国船に対して砲撃を加えたことで勃発します。

こちらも最終的には長州藩の降伏によって終息し、長州藩には莫大な罰金が課せられることになりましたが、この戦争をもって長州藩も西欧列強との力の差を認識し、その技術の吸収をするした日本が生き残る道は無いと考え、開国へと舵を切ることになるのです。

グラバーのしたたかな立ち振る舞い

徳川幕府、尊王攘夷派の薩長と西欧列強。この三つ巴の思惑が交錯する中、グラバーはどのようにビジネスを展開していったのでしょうか。

先ほど少しお話ししたように、グラバーは長崎に到着した後、誰にも属さない適度な距離感を持ってまずは日本の実情を見極めようとします。そして、その中で徐々に尊王攘夷派の討幕派の志士たちとの距離を縮めていきました。

自由貿易を阻害されている立場として、徳川幕府に不満を有しているという点で討幕派とグラバーは同じ利害関係にあったからです。

もちろん、日本を変えるという熱い意志を持った幕末の志士たちに人として突き動かされた部分もあったかと思いますが、グラバーは彼らと接している中で、近い将来に現在の幕府体制が崩れて開国に傾く可能性を認識するようになります。
そして、日本の開国はより一層の自由貿易の拡大をも見込めるというビジネス上の実利もあるため、グラバーは開国に向けて動く勢力へのサポート・面倒を見るようにもなりました。
今のうちに将来有望な人物に投資をして、将来の日本政府の中枢になった時に大きな影響力を行使できる、という思惑もあったことでしょう。

具体的には浪人たちをかくまったり、西洋の機構体制を教えたり、薩摩や長州藩相手に戦艦の売却や武器の売却も行います。

立ち上げ当初は主に茶葉の生産で利益を得ていたグラバー商会ですが、徐々に利益獲得の多くを戦艦や武器の取引から得るようになっていました。

一方で初代首相の伊藤博文や外務大臣を務めた井上馨を含む「長州五人衆」や、五代友厚を含む19名の薩摩藩の使節団を英国に密出国することに関与するなど、西洋思想や技術の取込みにも協力しています。

ちなみに、薩摩藩と長州藩は後に薩長同盟を組み、ともに倒幕を目指すもののそれまでは敵対関係にありました。グラバーはこの薩摩、長州藩だけでなく徳川幕府にも武器や戦艦の売却を行っています。

一見すると敵対関係にある三者全員と取引を行っており、下手をするとその行為は「裏切り」ともとられかねず、とても危険の伴うものですが、絶妙な立ち位置を築けていたのはグラバーの処世術と人間性の賜物と言えるかもしれません。
だからこそ、グラバーは同じ外国商人の間でも一目置かれたリーダー的存在として見られていたのです。

さらに自国の英国との関係でも、幕府以外の諸藩との取引は禁じられていたものを、グラバーは構わずこれを強行します。

英国からペナルティを受けるかと思いきや、グラバー商会の足元を揺るがすほどの大きな罰則は英国からは無く、黙認されていたようです。おそらく、英国も徳川幕府と関係を築きながらも、その関係が安泰なものではないものを感じ取っていたのかもしれません。

いずれにしても、英国とグラバーの立ち振る舞いはとてもしたたかと言わざるを得ません。結果的にグラバー商会は、日本や諸藩が開国に向かう中で渇望していた西洋の軍事技術をビジネスにすることで大成功を収めたのです。

ですが、この成功から一転、グラバー商会の命運はその後暗転することになります。

グラバーの波乱万丈人生②:明治維新で一転、破産

一気に膨らんだ債務

日本が開国と倒幕に向けて進む中で西洋の武器取引などで利益を得たグラバー。順調に見えた彼のビジネスも、明治維新により状況が一変すると一気に窮地に追いやられてしまうことになります。
なぜでしょうか。

まず徳川幕府が倒れ、新しい明治政府が発足して体制が整ってくると、ようやく国内の混乱も収まりを見せ始めます。そうすると、一気に武器の需要が落ち込むことに。

大量の武器在庫を抱えたグラバー商会は一気に不良在庫を抱えることになり、武器の価格も下落してしまいました。

さらに、諸藩に売却してした代金のツケの回収にも苦労します。それまで契約書のようなビジネス関係ではなく、信用という名のもとに行われていた取引ですから、代金の支払いを遅延したり踏み倒す藩が多かったのです。

また、新政府が発足するとそれまでの封建制度も終焉を迎え、諸藩の土地は明治政府が管理を行うことになりました。これによりあてにしていた不動産による回収も見込むことができず、また政治や経済の中心が東へ移ることにより、長崎の地価も下落、グラバーが保有していた不動産の価値も下がってしまいました。

まさにグラバー商会を取り巻くビジネス環境は一変。ですが、そんな中でもグラバーは弱気になるどころか武器取引に代わる新しい事業への投資に突き進みます。それが、高島炭鉱の開発でした。

高島炭鉱の成功を待たずに破産

グラバーが高島炭鉱の開発に乗り出したのには、当然そこにビジネスチャンスがあったからなのですが、主な理由としてはそれまで燃料となる石炭を海外に頼っており、その輸入コストが高くつくだけでなく、燃料効率も決して良くなかったことにあります。

グラバーは、高島炭鉱の開発により豊富な石炭を採掘することができれば、国内で燃料を調達することができるだけでなく、当時はまだ西洋に比べて安価だった日本人炭鉱夫の人件費を考えれば、石炭の輸出で大きな利益が得られると考えたのです。
実際、高島炭鉱から発掘された石炭は当時西欧で利用されていた石炭よりも質の良いもので、燃料効率もはるかに良いものでした。

ですが、資源開発というのはそう簡単に成功するものではありません。石炭を掘り当て、そこから採掘するとなると、多くの人手と時間を要します。当然それだけ資金も必要になってきます。

グラバーは、資金の調達に駆けずり回り、ジャーディン・マセソン商会やオランダ商会だけでなく、身内の兄弟からも融資を募って何とかこの事業を軌道に乗せようとしました。

ですが、思うように採掘が進まず、ついにグラバー商会はウソの事業報告を行い、月次当たりの採掘量があたかも順調に伸びているかのような報告を行うなど、徐々に窮地に追い込まれていきました。
期限が到来した債務返済の代わりに、とうとう炭鉱事業そのものも抵当に入れざるを得なくなるなど、後がなくなってくると債権者たちもついに事業が上手くいっていないことをかぎつけました。

そして、会計監査人をグラバー商会に送り込み、厳格な調査を行い、ついに債務超過に陥っている実態が明らかにされてしまいます。そしてグラバー商会は破産宣告をして破産手続きに入りました。

グラバーの波乱万丈人生③:実業家から自由な要人へ

破産手続きによりグラバーは高島炭鉱の経営からは外されたものの、引き続き一社員としてその事業に関わり続けました。

グラバー商会の後も高島炭鉱を巡ってはずさんな労働環境に置かれた炭鉱夫たちが暴動を起こすなど引き続き経営には困難が続きましたが、最終的には岩崎弥太郎率いる三菱財閥に買収され、事業も安定するようになります。

このきっかけで、グラバーは岩崎弥太郎との交流が始まり、それまでのグラバーの事業手腕を高く評価した岩崎弥太郎は、グラバーに三菱財閥の相談役という安定した地位を約束しました。

破産後もグラバーは、1885年、後のキリンビールの前身であるジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立し、ビール事業を手掛け、最終的に1907年にこの会社を岩崎久弥を含む日本人投資家グループに売却することで大きな利益を得るなど、実業家としての活動を行うものの、徐々にビジネスの世界から離れ、自由なプライベート生活にシフトしていくようになります。

1890年代以降、日本は日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦へと帝国主義の道をまい進していくことになりますが、その姿をグラバーはどのように見ていたのでしょうか。

若き日のグラバーであれば、そこに再びビジネスの商機を見出して事業を行っていたかもしれませんが、すでに高齢になっていたグラバーはビジネスの世界からはある程度足を洗っていました。
一方で、政治家や外交の社交場である鹿鳴館のセクレタリーやポルトガル領時を担うなど、伊藤博文や井上馨といった要人とのパイプを有していたことから、引き続き外交や政治の面では一定程度の影響を持っていました。

その一つが、1902年に締結された日英同盟です。この頃、日本は西洋に負けず劣らずの技術力と軍事力を保有しており、西洋列強にその存在感を認めさせようと躍起になっていました。
そして日本は日露戦争に突き進んでいくわけですが、これはロシアに勝利した日本が英国をはじめとする西欧諸国にとっての脅威になる可能性を見通していたグラバーが英国に働きかけを行い、その同盟成立の立役者としての役割を果たしていたとも言われています。

起業家としてのグラバーの先見性

グラバーの足取りをざっと追いかけてきましたが、いかがでしたでしょうか。ただでさえ激動の時代、その中を紆余曲折ありながらもビジネスで乗り越え、それが日本の近代化に大きな影響を与えることになったことを実感頂けたら嬉しく思います。

グラバーがこのように後世に名を遺す人物足りえたのは、今の日本の礎とも言うべき産業を育てたことにあるからだと言えるでしょう。グラバーには天才的な先見性があったのです。

ここでは簡単にグラバーが関与した事業をいくつかご紹介します。

日本に初めて蒸気機関車を紹介

上海の展示会で目にした蒸気機関車に将来性を見出したグラバーは、1865年、長崎に約500メートルのレールを敷き、客車をつけた蒸気機関車を日本で初めて走らせたというエピソードが残されています。

小菅修船場(ソロバン・ドック)

当時のヨーロッパの船は西洋で建造され、中国海域で使用されていた中古船であったため、故障が絶えませんでした。また、当時西洋のような造船技術を持っていなかった日本には、当然船を修理する施設もありませんでした。

そこでグラバーは、日本国内で柔軟に船の修理等が行えるよう、小菅修船場を整備しました。

大阪造幣局開局にも尽力

明治維新により日本が新しい一歩を踏み出すと、政府が刷新されたことでそれまで国内で流通していた貨幣も新しく統一する必要性を感じたグラバーは、造幣事業に乗り出し、大阪造幣局開局にも尽力することになります。

ただこれは、日本のためというよりかは明治維新により武器取引に代わる新しい事業として、造幣機械の売却や、新しい通貨の流通に伴う為替業による利益を見込んでのものでした。

日本最初の灯台の建築を指揮

薩摩大隅半島の最南端にある佐多岬、にグラバーの指示で技師、T・ウォーターズによって日本で最初の灯台が造られました。

 

いかがでしたでしょうか。
今グラバーの生涯は、ビジネスに対する教養という観点からも一人の起業家・実業家として現在のビジネスの成功に通じる学びを得られる示唆に富んだ教材になることはもちろんですが、世界遺産としてグラバー邸が認められた背景として、日本の近代化を促進する石炭・造船事業の礎を築いたことはもちろん、それ以外にもビジネスという観点から後の日本を背負って立つ偉人達を支え、時には西洋の事情を積極的に吸収させるべく密出国に手を貸すなど、グラバーが日本に与えた影響はとてつもなく大きいことがお分かりいただけたかと思います。

グラバー邸を訪れる際は、ぜひグラバーが過ごした当時の面影を偲びながらお楽しみください!

 

(参照:「グラバー家の人々」ブライアン・パークガフニ 長崎文献社、「トマス・グラバーの生涯」マイケル・ガーデナ 岩波書店)

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