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【世界遺産】高野山・慈尊院を100倍楽しむためのマメ知識と見どころ

世界遺産、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産として高野山エリアで登録されている慈尊院。
弘法大師・空海の母親である玉依御前(たまよりごぜん)にゆかりのお寺として、以降特に女性の御利益を司る場所として親しまれています。
今回はそんな世界遺産の慈尊院の歴史や見どころ、高野山との関係についてご紹介します!

【世界遺産】高野山・慈尊院ってどんなお寺?

慈尊院へのアクセス

世界遺産に登録されている高野山へは、南海高野線の極楽橋駅からケーブルカーで高野山まで上り、そこからバスで気軽にアクセスすることが可能です。

ですが、この地を真言密教の聖地として開創した弘法大師・空海が生きていた時代には当然電車もケーブルカーも、それにバスもありません。

今回ご紹介する慈尊院は、電車やバスが無かった時代に人々が高野山に参詣する時の起点、入口となった場所です。

南海高野線で極楽橋駅まで行く途中にある「九度山(くどやま)」駅が最寄り駅となりますが、この駅で下車して徒歩20分くらいでしょうか。約2キロほど歩いた場所にあります。

南海高野線の九度山駅を出た場所から慈尊院や町石道への案内板が設置されているので、それに沿って進めば慈尊院にたどり着くことができます。

駅を出てすぐは少し迷われるかもしれませんので、あらかじめグーグルマップなどで駅から慈尊院への方向だけでも大まかに把握しておくと安心です。

慈尊院と弘法大師・空海の母、玉依御前

世界遺産・慈尊院は、もともと弘法大師・空海の御母公(母親)である玉依御前(たまよりごぜん)という方が滞在していた草庵が起源となっています。

弘法大師・空海の生まれは今の四国ですから、もとからこの場所に母親が住んでいたわけではなく、高野山を開創し、そこで修業と真言密教を広げるために籠っていた息子の空海に一目見ようと、834年、四国からはるばるこの地を訪ねてきたのです。

実は高野山はもともと女人禁制の地として、周囲七里四方は女性の立ち入りが禁止されていました。

別記事でご紹介した通り、高野山というのは弘法大師・空海が仏教の聖地として開創する前から神々が宿る場所として、地元の人々からも深く信仰の対象とされてきた場所です。

そうした歴史もあり、弘法大師・空海は真言密教の道場として高野山を開創した後も、女性の存在が仏教の修行の妨げになるものとして女人禁制としました。

そして、この規則はたとえ弘法大師・空海の母親であっても例外ではありません。

はるばる息子に会いにこの場所に訪れた玉依御前でしたが、そこから先、高野山への立ち入りは固く禁じられており、泣く泣くこの場所から息子を祈ることしかできなかったのです。

母親の深い愛情に感銘を受けた弘法大師・空海は、母親に会うために足しげく高野山から20キロ以上ある道のりを慈尊院まで通っていたと言われています。
その頻度は月に九度にも及んだというエピソードから、この地は「九度山」という名前が付いたと言われているのです。

慈尊院の役割

世界遺産・慈尊院は弘法大師・空海の母親の玉依御前の草案という以外にも、高野山が開創されて以降重要な役割を担っていました。

それが、高野山の政所(まんどころ)としての存在です。簡単に言うと、高野山の運営事務局のようなもので、例えば根本大塔の創設に当たって必要な木材の材料等の保管場所としても使われていました。

資材の保管場所だけでなく、高野山での生活に必要な物資もこの慈尊院に集められて高野山に運搬されたり、また弘法大師・空海の入定後、平安時代後期に藤原道長を始めとする貴族や皇族による高野詣(こうやもうで)が活発になると、参詣者の宿泊所としても機能したと言われています。

慈尊院の裏手にある世界遺産の丹生官省符神社の名前にもなっている「官省符」というのは、年貢など租税の免税が許された特別な扱いを意味しているのですが、貴族や皇族、その後は武士の庇護も受け、高野山は広い寺社荘園を有することになり、経済的なゆとりも生まれます。

この際にも慈尊院は寺社荘園の管理事務所として食糧の保管も行っていましたが、1540年の紀ノ川の氾濫をきっかけに、その機能は山上に移りました。

【世界遺産】高野山・慈尊院の見どころ

下乗石(げじょういし)

それでは世界遺産・慈尊院の見どころをいくつかご紹介していきます。

まずは表門の外側、左手にある小さな石の記念碑にご注目ください。この石は「下乗石(げじょういし)」と呼ばれています。

慈尊院は昔から高野山に参詣する際の表参道(町石道(ちょういしみち)と呼ばれ、現在も歩くことができる信仰の道です。)の出発地点として、ここから多くの参詣者が高野山に上っていきました。

高野山への参詣に身分は関係ありません。先ほど申し上げた通り、貴族・皇族もこの場所から高野山に上っていったわけですが、この下乗石で、貴族たちが馬や籠を降りて、御歩きになったのです。

ちなみに、高野山の表参道である町石道も参詣道として世界遺産に登録されており、別記事で詳しくご紹介していますが、先ほどお話しした通り、この道は弘法大師・空海が母親に会うために通った道でもあります。

築地塀

慈尊院への入り口では、まず慈尊院の周りに巡らされた築地塀にぜひ注目してみてください。

写真の通りとても古いもので、砂を含めた粘土を積み上げて築かれたとても珍しいものです。後述する16世紀の紀ノ川の氾濫が起こった時にはすでにあったものとされています。

多宝塔

慈尊院の中にあるのがこちらの多宝塔。高野山の根本大塔に比べると一回り小さなサイズになっていますが、真言宗のお寺の象徴でもあります。

こちらの多宝塔は室町時代に建設が行われ、最終的に完成したのは100年以上先の江戸時代、1624年のことと考えられています。

完成までやけに長い年月がかかっていますが、その理由は定かではありません。室町時代から江戸時代までは戦国の世だったので、建設がいったん中断してしまったのか、それ以外の理由によるものか。

ですが、近年の発掘調査で面白いことが判明しています。それは、室町時代に着工した当初は多宝塔ではなく三重塔として設計がなされていた、ということ。

当初三重塔として計画され、初重、つまり一階部分まで完成したところでいったん作業がストップしていたようで、その後再開する際に出来上がっていた初重部分を多宝塔の下の基壇として利用し、多宝塔として完成させたそうです。

鬼子母神

多宝塔の隣に小さく佇んでいるのが鬼子母神を祀る御堂で、ご利益は子育て、安産、子供いじめの解消、子供安全となっています。

慈尊院が玉依御前という女性に捧げられたお寺であることから、同じ母親の神として鬼子母神も祀られているのでしょうか。

鬼子母神は千人とも言われる子どもがいましたが、子どもを育てるために他人の子どもをさらってはそれを食べていました。

子どもをさらわれた母親たちは悲しみのあまり、お釈迦様に相談したところ、お釈迦さまは鬼子母神の子どものうち一人を隠してしまわれます。

自分の子どもがいなくなった悲しみに打ちひしがれた鬼子母神は、子どもを失う悲しみを知り、以後は子供をさらうことはしなくなった代わりに、子どもと同じ味がすると言われるザクロの実を食べたと言われています。

少し不気味な話ではありますが、このため秋にはザクロがお供えされ、鬼子母神は右手にはザクロを持ち、左手に子どもを抱いた天女の姿をされています。

弥勒堂と弥勒菩薩(国宝)

世界遺産・慈尊院の一番の見どころが、ご本尊である国宝の弥勒菩薩(弥勒仏坐像)が安置されている弥勒堂です。

このお寺も、弥勒菩薩の別名である「慈尊」という名前から付けられたものです。

生前に弥勒菩薩を厚く信仰していた母・玉依御前を弔うため、弘法大師・空海が弥勒堂を建てたと言われており、このためご本尊の弥勒仏は玉依御前の化身とも言われています。玉依御前は835年に入滅されました。

ちなみに、弥勒菩薩というのはお釈迦様の入滅後、56億7千万年後、仏の教えが世界に行き届かなくなり、廃れた世界を救済するために地上に現れる未来仏。

そして高野山には弘法大師・空海の入定信仰があり、空海は現在も奥之院の御廟にて人々の救済のために瞑想されており、弥勒菩薩と共に遠い未来にこの世に現れるものと信じられています。

国宝にも指定されている弥勒仏坐像は秘仏のため、残念ながら直接拝むことはできません。ですが、弥勒堂の前に置かれているみろく石を片手で撫でることで、ご本尊の弥勒仏と縁結びを行うことができます。

乳房型の絵馬

世界遺産・慈尊院の特徴の一つが、お寺を訪れた参詣者が掲げていった乳房型の絵馬がたくさん飾られていること。

これは、いつの頃から行われているか不明ですが、自分の乳房と同じ大きさの乳房を布で手作りで作り、それを絵馬として奉納する風習に基づくものです。

この寺が玉依御前という母親の女性のために建てられたこと、そして、玉依御前に限らず、明治時代に入るまで女人禁制だった高野山を、男性と同じように参詣したい女性が高野山に入山できない代わりに、この慈尊院を訪れてここから祈りを捧げたことによるものでしょう。

このため、慈尊院は「女人高野(にょにんこうや)」とも呼ばれています。

高野山の案内犬・ゴン

この慈尊院には不思議な出来事がありました。

昭和の終わりごろ、どこからともなく一匹の白い犬が慈尊院に住み着くようになりました。訪れる参詣者から「ゴン」という名前で親しまれるようになります。

このゴン、不思議なことに、いつの頃からか自然に、高野山にお参りする参詣者が道に迷わないようにと、大門まで案内するかのように参詣者と一緒に山を上り、その後はまた慈尊院に戻ってくるようになったのです。

慈尊院から大門まで、片道20キロ近くある道のりです。それを往復するだけでどれだけ大変か、参詣道である町石道を歩かれた方ならお分かり頂けるかと思います。

実は高野山の開創にまつわるエピソードでも、この地を訪れた弘法大師・空海に対して高野山に鎮座する神で狩人に姿を変えて白黒二匹の犬を連れた高野明神が、高野山を案内したと言い伝えられており、「犬」は高野山信仰におけるキーワードでもあるのです。

その犬が、参詣者を高野山に案内するのはまるで、かつて高野明神が弘法大師・空海に対して行ったそれと考えると、とても不思議ですよね。

この案内犬・ゴンは2002年6月5日、天寿を全うするわけですが、奇しくも5日というのは玉依御前の月命日でもある日。このことから、ゴンは玉依御前が生まれ変わり、高野山を訪れる人々の手助けをしていたのでは、と言われています。

慈尊院の奥にある弘法大師象の隣には、案内健・ゴンの石造も建てられているので、是非合わせてお参りしてください。

慈尊院が世界遺産に登録された理由~高野山とのつながり~

慈尊院と高野山のつながり

慈尊院の中には、上の写真のような蓮の花のモニュメントが置かれています。仏様と言えば蓮の上で瞑想をされているイメージがあると思いますが、仏教と蓮は深いつながりがあります。

ですが、高野山において「蓮」というのはもう一つの意味を持っています。それは、高野山が「八葉の峰」と呼ばれていること。

高野山というのは周りを1,000メートル級の高い山々に囲まれている中にある平地になった場所です。そのため、まるで蓮の花が開いたような姿から、このような呼び名がつきました。

こちらは、蓮の花のモニュメントの横に置かれた看板です。何やら蓮の花の絵が描かれていますが、これは何を意味しているのでしょうか。

よく見ると、上部左側には「慈尊院」の文字があり、真ん中に「大塔」という文字と蓮の大きな花が、そして右側には「奥院」とさらに蓮の花が伸びています。

そうです、これは慈尊院・根本大塔・奥の院を含む高野山全体を表しているのです。そして、それぞれをつなぐ「茎」の部分になっているのが、先ほどご紹介した表参道の町石道を示しています。

これについては別記事で詳しくご紹介していますが、弘法大師・空海は高野山の開創に当たって、この世に真言密教の世界を創り出す壮大な計画を持っていました。

真言密教の世界というのは、両界曼荼羅に表される金剛界と胎蔵界、そしてその中心におられる大日如来のこと。

そして上の写真は、慈尊院を含む高野山が金剛界と胎蔵界からなる真言密教の世界であり、この世の浄土であることを説明した図になっているのです。

慈尊院が世界遺産に登録された理由

いかがでしたでしょうか。

慈尊院が世界遺産に登録された理由。筆者はそこには二つの理由があると考えています。(ご本尊である弥勒菩薩が国宝に登録されており、歴史文化上貴重な財産である点以外で考えています。)

一つ目は、慈尊院が聖地・高野山の入口であり、先ほどご紹介した真言密教の世界の一部分を担っていること。

高野山の聖域というのは慈尊院から始まるのであり、その仏教の聖域に対する人々の信仰として、長い歴史の中で出来上がった信仰の道である町石道の起点となっています。

また社会・経済的な役割としても高野山の政所として、歴史上重要な役割を担っていた高野山の拠点でもあります。まさに今に至るまで高野山を支えてきた屋台骨とも言える存在と言えますよね。

二つ目は、慈尊院に根付いている女人高野の信仰を今に伝える存在であること。

女人禁制で高野山に入山することが出来なかった女性にとって、高野詣の対象となったのはこの慈尊院だったことはすでにお話ししました。

もともと弘法大師・空海の母親である玉依御前ゆかりのお寺ということもあり、女性の拠り所として乳房型の絵馬に見られるように独特の風習が根付いています。

これは、女人禁制という高野山信仰が生み出した独特な文化慣習であり、また、女性にとっての高野山信仰の全容をを今に伝える上では欠かせないものであると思います。

 

高野山のふもとにあるものの、少しアクセスしにくい場所にある世界遺産の慈尊院ですが、ぜひ高野山を訪れた際にはこちらも合わせて訪れてみてください!

 

(参考:「空海と高野山」中村 本然 青春出版社、「世界遺産マスターが語る高野山」尾上 恵治 新評論、「古社名刹 巡拝の旅 高野山」集英社)

 

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