2019年に世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」。
登録された当時は日本の歴史の中で最も古い時代(古墳時代)の遺産であり、京都や奈良に比べると少し馴染みも薄い古墳。
ですが、古墳時代は知れば知るほど面白く、日本の歴史上の重要な転換期でもありました。今回は百舌鳥・古市古墳群と古墳時代を詳しくご紹介します!
【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)の「古墳」(こふん)って何?
「古墳」って何?
世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」(もず・ふるいちこふんぐん)の詳しいお話しをする前に、「古墳」(こふん)について少しご説明します。
「古墳」というのは少し独特な言葉で、厳密には考古学上で使われている言葉になります。
皆さんは「墳墓」(ふんぼ)もしくは「墳丘」(ふんきゅう)という言葉を聞いたことはあるでしょうか。「墳墓」というのは「お墓」を意味するのですが、誰かを埋葬した後、その周りや上に土などを積み重ねて小高い丘のように仕立てたものを「墳丘」と言います。
「古墳」というのは「墳丘」の一種なのですが、日本の歴史上、古墳時代というのは3世紀から6世紀までの短期間で日本各地で数多くの大きさも異なる「墳丘」がたくさん造られた特殊な時代であり、この時代に造られた「墳丘」を考古学上は「古墳」と呼んでいます。
世界各地で見られる巨大な墳丘
世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」はその名の通り、たくさんの古墳「群」として登録されたものですが、日本で最も大きな古墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と二番目に大きな誉田御廟山古墳(応神天皇陵)が含まれていることがその特徴の一つと言えます。
時の権力者によって巨大なお墓が造られること自体は、実は日本に限らず世界の歴史においても世界各地で同様に見ることができます。
例えば、「世界三大墳墓」と呼ばれているのが、大仙陵古墳(日本)・秦の始皇帝陵(中国)・クフ王のピラミッド(エジプト)です。(ただし、厳密にクフ王のピラミッドが「王墓」であるかについてははっきりしていません。)
この三つの墳墓はそれぞれ全く異なる形をしており、体積では秦の始皇帝陵が、高さではクフ王のピラミッドが、全長では大仙陵古墳が最も大きく、まさに三大墳墓にふさわしいラインナップとなっています。
ちなみに、大仙陵古墳の全長は525メートルにも及びます。
大仙陵古墳は「仁徳天皇陵」と呼ばれていますが、これは宮内庁により定められた呼び名(「治定」(じじょう)と言います。)であり、考古学上は埋葬されているのが誰であるかははっきり分かっていません。
ですが、古墳時代に造られた古墳の中でも最も巨大な古墳であることから、当時の権力者(当時は倭国王と呼ばれていた)が埋葬されていることでは概ね見解が一致しています。
そう考えると、世界三大墳墓はそれぞれ時の最高位権力者によって造られたという点で共通しており、その目的の一つに強大な権力の誇示があったと言えるでしょう。
被埋葬者の謎
古墳はお墓ですので、誰かを埋葬するために造られたものです。ですが、「誰が埋葬されているか」というのが判明している古墳はほとんどなく、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群も同様です。
「大仙陵古墳は仁徳天皇陵と呼ばれているから、仁徳天皇が埋葬されているのでは?」
そう思われる方も多いかと思います。同様に誉田御廟山古墳は応神天皇陵と呼ばれているため、応神天皇のお墓だと。
ですが、これは宮内庁が歴史上の資料等に基づいて定めたものであり、考古学上埋葬者が証明されたわけではありません。
ここが複雑なところで、「大仙陵古墳」という名前の中には「陵」という天皇のお墓を意味する言葉と、「古墳」という不特定の人のお墓を指す言葉の両方含まれていますが、これは「証明されたわけでもないのに天皇の名前を付けると誤解される恐れがある」とする考古学的な立場と、「天皇のお墓として神聖な場所である」とする宮内庁の立場が混ざった玉虫色の結果になっています。
宮内庁が管理している古墳は自由に発掘調査等を行うことができません。ですが、日本一の大きさを誇る大仙陵古墳は誰のために造られたのか、近い将来に解明されることを期待します。
【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群の概要
百舌鳥・古市古墳群ってどんな古墳?
それでは世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」(もず・ふるいちこふんぐん)について概要をご説明します。
「百舌鳥・古市」とセットになっていますが、厳密にはそれぞれ異なる古墳群になっており、堺市の百舌鳥と羽曳野市及び藤井寺市の古市の二つのまとまりに分かれながら、内容的には一体性を持った古墳群であるために合わせて世界遺産に登録されました。
日本の古墳時代というのはおおよそ3世紀から6世紀頃まで、古墳が活発に造られていた時代を言うのですが、この二つの古墳群が造られたのは最も活発であると考えられている古墳時代中期(4世紀後半から6世紀前半)にかけてと考えられています。
当初この二つの古墳群だけでも200以上の古墳が造営されたと考えられていますが、現在残されているのは89基のみ。その中でも世界遺産に登録されているのは45件、49基となっています。
登録件数と古墳の数が合わないのは、「陪冢」(ばいづか)と呼ばれる、大型古墳の一部を構成する小型古墳が含まれているためです。
百舌鳥古墳群には日本で最大規模の大仙陵古墳が、古市古墳群には二番目に巨大な誉田御廟山古墳がありますが、これらを含めて、墳丘の長さが200メートルを超える古墳が11基も含まれています。
「倭の五王」の謎
百舌鳥・古市古墳群は世界遺産に登録されるだけあり、巨大な古墳が多く含まれていますが、上記の通り200メートルを超える古墳の多くが宮内庁の登録では天皇陵となっていることが分かります。
日本において文字が利用されるようになったのは古墳時代からと言われているため、当時の状況を知る歴史的な資料というのは8世紀頃に作られた「古事記」や「日本書紀」しかありません。
ですが、中国の「宋書」において当時の日本(倭国:わのくに)から使節が送られていたという記載が残されており、それによると少なくとも倭国の5人の王の名前が記載されています。
それぞれ、讃・珍・済・興・武という名前で、「倭の五王」とも言われるのですが、それぞれが具体的に上記の古墳一覧に定めているどの天皇に当たるのかははっきりしません。
唯一、武王が雄略天皇であることは古事記や日本書紀の記載内容と整合が見られることからほぼ間違いないとされています。
宋は420年に中国で興った国ですが、宋書では早速その翌年の421年に日本(倭国)より讃と呼ばれる国王の使節が来たと記されています。これと古墳の出来た時代を考えると、倭の五王というのはおおよそ応神天皇から雄略天皇に至るまでの天皇だったのではないか、と考えられています。
さらに、讃と珍は兄弟、済と興・武は親子関係とする記載があり、これが正しいとすると倭の五王は上記のようにそれぞれの天皇に当てはめることができるのですが、特に讃と珍に関しては論争も多く、定かではありません。
なぜ百舌鳥・古市古墳群だけが世界遺産に登録された?
古墳時代というのは、大阪や奈良といった当時日本の中枢であったと考えられる畿内だけでなく、関東から九州に至るまで日本全国で大小さまざまな古墳が造られた時代で、実に16万基以上もの古墳がこの時代に造られたと考えられています。
もちろん、現在も残っている古墳は限られていますが、その中で百舌鳥・古市古墳群だけが世界遺産に登録されたのはなぜでしょうか。
先ほどもお話しした通り、百舌鳥・古市古墳群は古墳時代の最盛期に造られた古墳と考えられています。その理由の一つが、最大規模の大仙陵古墳と、二番目の大きさを誇る誉田御廟山古墳が含まれていること。
200メートルを超える墳丘を持つ古墳は全部で11基も含まれており、間違いなく古墳時代において日本で最も活発で巨大な古墳が造られたエリアと言えます。そして、これは同時にこのエリア(一説には奈良の大和地域という説もありますが)が、当時日本で最も強大な権力を持ち、日本の中心だったことでもあります。
古墳の大きさだけでなく、この二つの古墳群には前方後円墳・帆立貝形古墳・円墳・方墳の4つの古墳が含まれていますが、これは当時日本各地で造営された古墳の形式を網羅しています。
このことからも、百舌鳥・古市古墳群を押さえておけば古墳時代の特徴は概ね掴める、というわけで、まさに古墳時代の象徴であり、典型例を今に示すものとして世界遺産に登録されました。
実務的にはすべての古墳を世界遺産として登録、管理することは不可能ですし、世界遺産の登録基準の考え方として「完全性」という概念があります。
これは世界遺産として「顕著な普遍的価値」を示すために必要十分な要素が全て完全に含まれていることを指していますが、上記の通り百舌鳥・古市古墳群を押さえておけばこの完全性も満たされると考えることができるのです。
一大事業!世界遺産、百舌鳥・古市古墳群の巨大な古墳はこうして造られた
世界三大墳墓の一つに数えられる大仙陵古墳。墳丘の長さは525メートルにも及びますが、もちろん古墳は人の手で造られたもの。
古墳の造営というのは、皆さんの想像をはるかに超える一大事業であり、当時の日本人が高度な技術を持っていた証でもあるのです。古墳がどのようにして出来上がったのかをお話ししながらそれをご紹介しましょう。
①古墳を造る場所の選定
後ほどご説明しますが、大仙陵古墳を始めとして巨大な古墳は高台の上に造られている傾向があります。
もちろんこれにも何らかの意図があったものと思いますが、古墳を造るに当たってはこの他、地盤が固くて安定している場所が選ばれています。
200メートルを超える巨大な古墳ともなると、その重さはもちろん、雨や気候変動により地盤が緩い場所だとすぐに地滑りで古墳がガタガタになってしまうからです。
大仙陵古墳は、三重に周濠(しゅうごう:濠(ほり)で周りを囲っていること)が張り巡らされていますが、その深さは内堀で4~6メートルにもなるそうです。
地盤が安定しているということは、地層が固いわけですが、それを4~6メートルも掘るというのは相当な労働量だったことが分かります。
②古墳を設計する
古墳の造営が始まる前には、当然そのデザイン設計から始まります。
巨大な古墳の多くが前方後円墳という傾向があるのですが、一言で前方後円墳と言ってもその幾何学的な形は同一ではありません。(中には同じ尺度で造られた古墳もあります。)
形のデザインが決まると、まず実寸大を一定の割合に縮小したミニチュア版の模型のようなものを、おそらく木版で作っていたのではないかと考えられています。
古墳というのはいくつかの層に分かれて段階的に積み上げが行われているため、精緻な設計に基づく古墳を造り上げるためには立体的な模型が必要だったと思います。
③実寸大の大きさを地面に平面上に作る
デザインと寸法が固まったら、それを実寸大に落とし込んでいくわけですが、まずはその平面状の形を地面に描いていきます。イメージとしてはグラウンドに白線を引いていく作業を思い浮かべて頂くと分かりやすいかもしれません。
もちろん当時は石灰のような便利なものはありませんので、杭を打ち込んで測量しながら木の棒などを等間隔に立てるなどして大枠を固めていったのでしょうか。
ここで、幾何学的に精緻なデザインを作り上げるには「尺度」と「幾何学」の技術が必要不可欠であり、当時は何らかの基準に従った尺度が存在していた事、また、それを元に等間隔・直角・円弧などを正確に描く技術が存在していたことが分かります。
④周濠を掘り、盛り土を積み上げていく
平面状の設計を地面に描くことができれば、後はそれに沿って周濠を掘り、土を積み上げていくだけですが、もちろんこれが最も労働力を必要とする作業になります。
まずは周濠を掘る作業からはじめ、堀った土は盛り土に使われたはずですが、もちろんそれだけでは盛り土は十分ではありませんので、他の場所から土を運んでくる必要もあります。
また、盛り土を積み上げていくのは簡単なように見えますが、実はそれを平らに仕上げるのは容易ではありません。ましてや大仙陵古墳のように巨大な平面をきれいな平にするためにはそれ相応の技術力が必要になります。
その技術力を日本人はどのようにして身に付けたのか。考えられるのは水面を利用することです。
弥生時代から日本の人々は稲作に必要な水を入手できる川の付近に村落を構えることが多く、村落が大きくなると周りを濠で囲った環濠集落が登場します。
稲作に川を利用していた日本人にとって、水面はどんな場所でも平面になることは実生活の中で知っていました。
水面に2本の木を立てて、水面に印を付けるとその印は同じ高さになり、平面を作る目安になるというわけです。
⑤葺石(ふきいし)を敷き、と土器(埴輪)(はにわ)を並べる
盛り土が完了すると、古墳の外観はとりあえず完成しますが、これで終わりではありません。
古墳はいくつかの層になっているとお話ししましたが、その層は傾斜になっており、そこには葺石(ふきいし)が敷き詰められていました。葺石というのは、土で盛った古墳が崩れないように斜面を敷き詰める時に使われた石の事です。
斜面を葺石で埋める一方、平面部分には埴輪を並べるため、大量の埴輪も前もって作っておく必要があります。
現在の古墳の写真を見ると、どれも木々が生い茂っていてまるで1つの森のようになっていますよね。
ですが、出来上がったばかりの古墳は葺石が綺麗に敷き詰められ、おびただしい数の埴輪が規則正しく並べられていたことから、どちらかというと祭殿のような外観でした。
さらに、遠くから見ると敷き詰められた葺石に光が反射して、キラキラと輝いて見えたのでは、とも言われています。そんな神々しい古墳の姿、一度は見てみたいですね。
⑥埋葬
前方後円墳の場合、埋葬は後ろの後円部分で行われます。後円部分の墳丘からご遺体を安置するスペースを掘り、そこに埋葬をするわけです。
大量の埴輪と立派に造られた前方後円墳は、時の権力者などを埋葬する際の儀式が行われる舞台だったとも言えるでしょう。
以上でようやく古墳が完成するわけですが、建設会社が出した試算によると、大仙陵古墳は2,000人もの労働者が16年かけないと完成しないほどの規模であるとされています。これだけでも古墳の造営が途方もない一大事業であることがお分かりいただけるかと思います。
【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群と古墳が語る歴史
世界遺産の百舌鳥・古市古墳群に限らず、日本では全国で今も古墳が比較的良好な状態で残されており、古墳を調べることで当時の様子を詳細に知ることが可能になります。
今回は、古墳から分かる当時の日本の様子をいくつかご紹介します。
百舌鳥・古市古墳群に巨大な古墳が密集している理由
これまでご紹介してきたように、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群はひときわ大きな古墳が密集しています。
ですが、古墳時代と呼ばれる3世紀後半から6世紀までの間で見ると、百舌鳥・古市古墳群と同時期、もしくは少し前は現在の奈良県にある大和古墳群や佐紀古墳群に見られるように、大和地域で活発に古墳が造られていたことが分かっています。
このことから、当時の日本を「大和政権」と呼んだりするわけですが、巨大な古墳が活発に造られているということは、その地域に強大な権力者がいたことを意味します。
ですが、古墳群が奈良の大和から百舌鳥・古市古墳群のある大阪・河内地域に移動していることについては、権力者の交代と考える説と、単に古墳の造営地が変わっただけとする説に二分されています。
いずれにしても、現在の奈良県・大阪府に権力の中心があったことは間違いありません。ではなぜこの地域で強大な権力者が現れたのでしょうか。
考えられる理由の1つが、当時の中国や朝鮮半島との関係です。
先ほど倭の五王のお話をした通り、実は古墳時代の日本は朝鮮半島や中国と積極的な交流がありました。
当時の日本は中国や朝鮮半島に比べるとまだまだ文化や技術で後れを取っており、馬具の生産技術や土木・建築、金属製法から漢字まであらゆる最先端の技術が朝鮮半島を伝って日本に伝来していたのです。
注目すべきはその「交易ルート」と「鉄」です。それぞれ見ていきましょう。
交易ルート
弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島との交流は地理的にも最も近かった九州北部から活発になっていったと考えるのが自然です。
そうすると、勢力の中心は九州になるわけですが、そこからさらに日本国内にモノの移動が生まれると、九州から瀬戸内海を通って畿内へのルートが生まれます。
交易ルートが出来上がってくると、交易の途中に立ち寄るハブとなる港町に人が盛んに行き来するようになり、やがて経済的にも活発になっていくわけですが、畿内においては堺港がその役目を持っていたと考えられています。
当時の大阪湾というのは現在よりももっと内陸部にあり、大仙陵古墳は大阪湾のすぐ目の前にあったと言われています。
先ほど、大和から大阪の河内エリアに古墳群が移動した、とお話ししましたが、可能性の一つとして堺港を起点とした交易が活発になったことが考えられるのです。
「鉄」をおさえる
当時日本にはまだ製鉄技術はなく、鉄は朝鮮半島から輸入をしていました。
鉄の登場により、稲作にしても戦にしても状況が一変するわけで、当時の日本において「鉄」をコントロールすることは強大な権力を手中に収めることにも直結したと考えられます。
では、どんな人物が強大な権力を手にすることが出来たか。それは、日本国内で製鉄の技術を確立した人でしょう。
それまで輸入に頼っていた鉄を自国で生産できるようになれば、間違いなく権力争いを塗り替えることができたと思います。
百舌鳥・古市古墳群に巨大な古墳があり、そこに強大な権力があったということは、この地において製鉄をコントロールする権力者がいたのではないか、と考えられるのです。
古墳の埋葬品が語ること
古墳には、埋葬者と共に多くの副葬品も埋葬されます。この副葬品は古墳が築かれた時代によって、異なる傾向が見られます。
初期の古墳には鏡や腕輪型石器などが副葬品として主流だったのですが、中盤以降は鉄製の武具や武器、馬具の他に銀製品や金銅製の馬具などが数多く出土しています。
これは先ほどお話しした通り、朝鮮半島から鉄が伝わり、それがやがて日本国内で生産できるようになると一気に流通が広がったことによるものと考えられています。
また、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群からは数多くの鉄製の武具や武器が出土している一方、関東の千葉県などにある古墳からは鉄製の副葬品はほとんど出土されていません。
このことからも、「鉄」は当時の権力の象徴でもあったことが分かります。
ちなみに、副葬品に鉄製の武器や武具が多く含まれていることは、必ずしも当時の日本において統率された軍隊があったことを示しているわけではなく、実戦ではなく儀式的な装飾のためと考える説もあり、はっきりしたことは分かっていません。
次にお話しする通り、当時の日本国内は緩やかな首長連合のような支配体制にあったことから、戦国時代のように戦に明け暮れていたわけではなく、また、当時は朝鮮半島で高句麗が勢力を強め、当時倭国と同盟関係にあった百済に攻め込むなど、倭国全体の安全が脅かされていたこともあり、むしろ倭国としては一団となっていた可能性もあるためです。
多様で数多い古墳が語るもの
古墳時代には16万基以上もの古墳が造られたと言われています。
この記事の最初にご紹介したように、世界を見てみると秦の始皇帝陵やピラミッドなど、大きな墳墓は世界各地で見られるものの、これほどまでに数多く作られた例は他に類を見ません。
なぜ日本の古墳時代にはこれほどまでに多くの、そして多様な古墳が生まれたのでしょうか。
その理由として考えられているのが、当時の日本国内での勢力のあり方です。
縄文時代から弥生時代を経て、日本国内では定住生活が根付き、血縁関係による集落が各地で生まれます。そして、集落の規模は大きなものになり、近隣の集落との争いも経ながら徐々に頭角を現すリーダー格となる人物も出現します。
その一人が、皆さんがよくご存じの卑弥呼です。卑弥呼は呪術や祭術により人々を掌握し、日本国内で一定の勢力を持つ国を形成しました。
ですが、倭の五王でお話ししたように、朝鮮半島との交流が生まれるにつれ、卑弥呼の祭術では倭国の統一が難しくなったと考えられます。
卑弥呼亡き後の日本を考えてみると、今のように「国家」は誕生していないものの、国内で緩やかな首長連合のような体制は成立していたものと考えられています。
この首長連合は、独裁的なトップが存在するわけではなく、権力の大小はあるにしてもその支配が緩やかに広がっている体制を言います。
つまり、首長の中でトップの権力を握る人物がいたにしても、その権力が国内隅々まで行きわたるわけではなく、ある程度地方の支配は地方の首長に委ねられていたということです。
そう考えると、古墳が日本国内の各地でサイズや形状に一定のルールを持った中で一斉に造営されたことも説明が付きます。ルールというのはもちろん、権力の大きな首長ほど大きな古墳を造る資格があるというものです。
さらに、巨大な古墳のほとんどが前方後円墳である一方、全体の古墳の多くは方墳や円墳が占めていることは、地位によって古墳の形状が決められていたという考え方もできそうですよね。
なぜ百舌鳥・古市古墳群に見られる巨大な古墳が造られたのか?
古墳は権力者の墓であることは十分お分かり頂けたかと思いますが、それではなぜ世界遺産の百舌鳥・古市古墳群に見られるような巨大な古墳が競うようにして数多く造られたのでしょうか。
古墳が巨大化した理由についても、これという明確な説はまだ確立しておらず、いくつかの説が唱えられています。
①外交上の理由で対外的に日本の力を誇示する必要があった
先ほど少しお話ししましたが、古墳時代の大阪湾は現在よりももっと内陸部にあり、大仙陵古墳は海からほど近い場所に見えていたとされています。
それはどういうことか。考えられるのは、海を通って外から港に入ってきた外来人に古墳の大きさを見せつけることで、日本の強大な力を誇示する目的があったということです。
この説の裏付けとして、大仙陵古墳は海岸線に平行に、そして高台の上に造られていることが挙げられます。このような造りは、海から眺めた際により巨大に見える視覚的な効果があるからです。
2つ目の裏付けとして、当時の朝鮮半島では高句麗が勢力を南に伸ばし、日本と同盟関係にあった百済を脅かしていたことも挙げられます。当時の日本はすでに朝鮮半島という外交戦略を積極的に進めていたのです。
②国内での勢力争いでより強大な力をアピールする
2つ目の説は、逆に国内での権力の誇示を目的としたとする説です。
先ほど、当時の日本は首長連合のような支配体制だったので、激しい争いは起こりにくかったのではという話をしましたが、権力の象徴とされる「鉄」の生産が可能になると、鉄を持つことによるアドバンテージは一気に弱くなってしまいます。
そこで、鉄を大量に生産できるパワーなど、「質」ではなく「量」が権力を見せつける基準になり、その一つが古墳の大きさだったと考えられるわけです。
もう一つの説として、百舌鳥と古市古墳群はそれぞれ対立する勢力による古墳群ではないか、という説があります。これは、百舌鳥の大仙陵古墳が陵墓とされる仁徳天皇と、誉田御廟山古墳が陵墓とされる応神天皇が、当時天皇の系列の中でも対立する勢力だったことによるものです。
百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された理由
最後に、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された理由をいくつかご紹介します。
この記事の最初にご紹介した通り、世界遺産に登録された理由を考える時、世界の墳墓における日本の古墳の特殊性に着目することがポイントです。
①首長連合という独特の支配体制の存在を示す遺産であること
これは先ほどご紹介したため省略します。
世界では秦の始皇帝陵やピラミッドのように、当時の絶対権力者による少数の巨大墳墓が一般的であるのに対し、日本の古墳は緩やかな首長連合体制により、大小多くの古墳が造られたこと。これは日本にしか見られない特徴です。
さらに、ピラミッドはせいぜいマスタバ墓と2種類しかないのに対し、古墳は前方後円墳の他、円墳や方墳など種類が豊富にあることも日本にしか見られない特徴です。
②特定の期間の後、一気に姿を消したこと
16万基以上も造られた古墳も、7世紀以降はぱったりと姿を消します。
7世紀といえば日本に仏教が伝来し、8世紀になると聖徳太子が活躍しますよね。
古墳が消えた理由の一つとして考えられるのは、そもそも巨大な権力を示す必要が無くなった事。これを可能にしたのが仏教の伝来と、天皇制の確立です。
天皇制によって、天皇が神聖な存在になり基本的にその血縁が絶対視されるようになると、不可侵なものとして古墳を造るまでもなく、権力の象徴になりました。
そして、仏教の力で国を護り治める、いわゆる護国仏教が日本に定着すると、権力を示すことよりも仏教の偉大な力が国を治める源になるとの信仰から、こぞって寺社が建てられるようになるのです。
③儀式の舞台としての古墳
日本の古墳とピラミッドを比較した時、どちらも墳墓であるという共通点があるものの、一方で明確な違いが見られます。
それは、ピラミッドでは埋葬した後にピラミッドを積み上げていくのに対し、日本の古墳はまず古墳を造ってから埋葬を行うことから、埋葬の順序が異なることです。
これは、日本の古墳がお墓だけでなく、死者を黄泉の国に送り出す儀式の場として捉えられていたことを意味しています。
このような思想は古墳に並べられた埴輪に見ることができます。
前方後円墳を例にすると、埋葬者は後円部分に埋葬されますが、その真上の平面部分には多くの埴輪が並べられました。
埴輪は中心に家形の埴輪が置かれ、その外側に建物を護る盾や太刀、甲冑などの武器・武具が置かれました。さらにそれらを包み込むように円筒埴輪や朝顔形埴輪が何重にも置かれ、これらの埴輪は食べ物や飲み物を満たす壺や高杯を意味するものです。
これを象徴的に見ると、埋葬者の上には堅固な守りの家が建てられ、たくさんの食べ物や飲み物で満たされています。
つまり、埋葬された人の魂が死後の世界に旅立つための豪華な送り出しの儀式の舞台が仕立てられているのです。そして、肉体は地下に還る-。
このように考えると、死者を送り出すための舞台を途方もない労働力で準備する日本人の思想には驚かされるばかりです。
ちなみに、大仙陵古墳に見られる周濠も、周囲と古墳を明確に切り離すことで死後の世界を表現しようとしたのではないか、と考える説もあります。
④現在も多く残されている古墳
考えてみると、1700年近く前に造られた古墳が、今は森のように木々が生い茂る状態ながらも現在まで残されているのは奇跡と言えます。
日本においては信仰から保存の対象とされたお寺や神社でさえ、災害や戦、明治時代の廃仏毀釈などで多くが失われている一方、意図した保存の対象とはなりにくい古墳が今に残っていることは素晴らしいことです。
今に至るまで古墳が残されている理由の一つとして、古墳がその周囲に住む住民たちと共生していたことが言われています。
例えば古墳の周囲を巡る周濠は稲作の環濠用水や生活用水として利用され、古墳に生い茂った木々は生活の材料として伐採されてきたと考えられています。
いかがでしたでしょうか。
自由に見学もできず、京都や奈良に比べると少し印象の薄い世界遺産ですが、百舌鳥・古市古墳群を知ることで日本の古墳時代の面白さや、日本人の思想、そして日本の歴史において古墳時代がいかに重要な時代であったかを知ることができます。
未だに解明されていないことも多いからこそ、ロマンもある世界遺産の百舌鳥・古市古墳群。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
(参考:「古墳文化の煌めき」 五十嵐 敬喜, 岩槻 邦男、西村 幸夫、松浦 晃一郎 編著 株式会社ブックエンド、「仁徳天皇陵と巨大古墳の謎」 水谷 千秋 宝島社、「巨大古墳」森 浩一 草思社、「日本の古墳はなぜ巨大なのか」国立歴史民俗博物館、松木武彦 福永伸哉 佐々木憲一、吉川弘文館、「倭王の軍団」西川 寿勝 田中 晋作 新泉社)