世界遺産の楽しみ方

なぜ『神宿る島』?世界遺産、宗像・沖ノ島と関連遺産群を知るマメ知識5選

2017年に世界遺産に登録された『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群。沖ノ島は神聖な場所として一般人の上陸が認められておらず、ちょっと敬遠してしまいそうな世界遺産ですが、古墳時代から脈々と大切に受け継がれてきた日本人の信仰を今に伝える貴重な証左として、この遺産が登録された意義は大きいです。
今回は、まず世界遺産の内容を分かりやすく解説します!

【世界遺産】『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群の概要

構成遺産について

世界遺産の沖ノ島は、沖ノ島以外の構成遺産も含めて合計8つの遺産で構成されており、その所在地で区分すると①沖ノ島、②大島、③宗像市と福津市となります。

簡単にそれぞれの構成遺産をご紹介しましょう。

① 沖ノ島エリア

大島からうっすらと見える沖ノ島

宗像大社沖津宮(むなかたたいしゃ おきつぐう)
小屋島(こやじま)
御門柱(みがどばしら)
天狗岩(てんぐいわ)

小屋島(約1.89ha)、御門柱(約0.15ha)、天狗岩(約0.19ha)は沖ノ島の南東1kmにある三つの付随する岩礁で、それぞれ別々の構成遺産ではあるものの、宗像大社沖津宮という神社の一部を構成しているものと考えられており、沖ノ島とは実質的に不可分な価値を有しています。

これら3つの構成遺産は神社の天然の鳥居としての役割を果たしており、今も島に向かう船は岩礁の間を通り港に入っていくそうです。

なお、沖ノ島は今も信仰が根付く神聖な場所とされていることから、一般人の上陸は認められていません。

② 大島エリア

宗像大社沖津宮遥拝所

宗像大社沖津宮遥拝所(むなかたたいしゃ おきつぐうようはいしょ)
宗像大社中津宮(むなかたたいしゃ なかつぐう)

昔から沖ノ島は『神宿る島』として人々の信仰を集めた神聖な場所であったこと、また九州本土からも離れた洋上の孤島だったことから容易に近づくこともかないません。

そこで人々は九州からほど近い大島に暮らし、そこから沖ノ島への祈りを捧げていました。

沖津宮遥拝所というのは、通常渡島出来ない沖ノ島を遠くから拝むために宗像大社の一部として設けられたもので、言わば拝殿というべきものになります。

③ 九州本土

宗像大社辺津宮

宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃ へつぐう)
新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)

福岡県の宗像市にあるのが宗像大社辺津宮です。宗像大社辺津宮には高宮祭場という場所があるのですが、宗像三女神が降臨されたとても神聖な場所とされています。

この世界遺産が伝える古代日本人の信仰の変遷の対象となったのが宗像三女神であり、まさに信仰の始まりの地と言えます。

もう1つの新原・奴山古墳群というのは、古代日本(弥生時代後期以降)からこの辺りで強い勢力を有していた宗像氏の墓と考えられています。

世界遺産の内容

世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は『神宿る島』という言葉が入っていることからもお分かり頂けるように、この地域で古代から続いてきた日本人の信仰の形を今に伝えるものです。

日本では古代から「八百万の神々」への信仰が存在していましたが、この地域では「宗像三女神」という神様が古くから祀られていました。

「三女神」という言葉の通り三柱の神様がいらっしゃるわけですが、それが沖ノ島の宗像大社沖津宮、大島の宗像大社中津宮、九州本土の宗像大社辺津宮に該当します。

このような信仰が行われていた証として、沖ノ島からは4世紀から9世紀頃のものと思われる祭祀(さいし:神様をまつる儀式)の跡が見つかっており、様々な出土品が発見されています。

まずは世界遺産の概要をご紹介しましたが、これだけではこの世界遺産の内容を実感するのは難しいかと思いますので、『神宿る島』の沖ノ島、宗像三女神、宗像氏についてご紹介しながらこの世界遺産の全体像をお伝えします。

【世界遺産】沖ノ島はなぜ『神宿る島』と呼ばれているの?

沖ノ島は周囲約4キロ、面積約68.38ヘクタール、最高地点の高さ243メートルというとても小さな島です。

Google Mapで表示してもあまりに小さすぎて、もし検索しないで探そうとすると、大まかな場所を知っていたとしても拡大表示しないと画面上に出てこないくらいです。

そんな小さな島がなぜ『神宿る島』として古くから人々の信仰の対象であり続けたのでしょうか。考えられる理由をいくつかご紹介しましょう。

地理から探る沖ノ島のヒミツ

© OpenStreetMap contributors

沖ノ島の場所を地図上で示したのが上記の地図です。これをご覧になっていくつかお気づきのことがあるかと思います。

宗像大社と朝鮮半島はほぼ直線距離で結ばれている

まず一点目が、九州本土にある宗像大社辺津宮から大島の中津宮、そして沖ノ島の沖津宮が一直線の位置関係にあるということ。

これをさらに伸ばしていくと朝鮮半島、今の釜山辺りにたどり着きます。

改めて日本地図を見ても、日本から朝鮮半島への距離が最も短くなるのがこのルートであることがお分かり頂けるかと思いますが、そうなると日本が朝鮮半島と交流を持ち始めてからお互いの場所を行き来する際に、沖ノ島というのはその航海ルートの中継地点であった可能性が高いと言えます。

対馬・壱岐島・九州本土・本州を囲むエリアを中心に沖ノ島がある

次に、沖ノ島を中心としてみると、宗像大社辺津宮までの距離は概ね壱岐島までの距離と同等です。さらに、対馬までの距離と福岡市までの距離も近似しており、下関市までの距離ともさほど変わりません。

これらの島や大陸を結ぶ中心に位置するということは、航海する時に偶然沖ノ島にたどり着く可能性が高いということでもあります。

 

先ほど、この世界遺産の内容として4世紀から9世紀頃とお伝えしましたが、4世紀というのは古墳時代に相当します。そして古墳時代にはすでに日本の大和政権と百済を始めとする朝鮮半島との間に交流があったことが分かっています。

4世紀からさらに数百年経った遣隋使・遣唐使の時代でさえ、中国への航海は危険と隣り合わせだったのですから、古墳時代に船で朝鮮半島に渡るというのが命がけでどれだけ犠牲をはらんだものか、容易に想像できますよね。

当然船が嵐にさらわれて漂流したり、難破してしまうことが多々あったでしょう。また悪天候になると、近場に島があることがどれだけ救いになるか。

そのような状況を踏まえると、沖ノ島というのは朝鮮半島への最短ルートの中継地点であるだけでなく、それ以外の航路で例えば遭難した時に漂流して偶然漂着することも多かったのではないかと思います。

そのような時、沖ノ島はまさに救いの島であり、命を繋ぎとめることが可能になる奇跡の島として人々の目に映ったのではないでしょうか。

形から探る沖ノ島のヒミツ

公式ページより説明用写真として利用

世界遺産、沖ノ島は先ほどご紹介した通り残念ながら一般人の上陸は認められていません。このため、その姿は天気の良い日に大島から遥拝する時に肉眼でうっすらと見ることができるぐらいです。

ですが、古代の日本人がそうであったように、最初に沖ノ島の姿を遠くからぼんやりとでも目の当たりにした時を想像してみてください。

遥か洋上に突然姿を見せた沖ノ島と、その均整のとれた笠のような形に何か神々しさを感じずにはいられません。

筆者は天候に恵まれて大島から沖ノ島を見ることが出来ましたが、昔の人のように、海上から近づくにつれてその姿が徐々にはっきりしていく様を眺めることが出来たなら、さらに違った印象を受けたのではないかと思います。

 

『神宿る島』と呼ばれる所以の三つ目が、日本の神話(「日本書紀」の「神代」)の話との関連性にあるのですが、それについては宗像三女神の話を一緒にご紹介します。

【世界遺産】宗像・沖ノ島と宗像三女神

宗像大社辺津宮 第二宮と第三宮

宗像三女神

先ほど沖ノ島の宗像大社沖津宮、大島の宗像大社中津宮、九州本土の宗像大社辺津宮にはそれぞれ神様が祀られているとお話ししましたが、祀られている神様は下記の通りです。

宗像大社沖津宮:田心姫命(たごりひめのかみ)
宗像大社中津宮:湍津姫命(たぎつひめのかみ)
宗像大社辺津宮:市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)

この三女神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚(スサノオ)の誓約(うけい)から生まれた神様です。

その昔、高天原(たかあまはら)を治めていたアマテラスの元をスサノオが訪ねたところ、アマテラスはスサノオが自分の地を奪いに来たと警戒します。

スサノオは誤解を晴らすために持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を天の真名井(あまのまない)ですすぎ、口で嚙み砕いてキリとして吐き出しました。

このキリから生まれたのが宗像三女神です。

宗像三女神は「道しるべ」の神

スサノオとの誓約によって生まれた宗像三女神に対して、アマテラスは「地上に降りて私の血筋である歴代天皇の治世を助けよ」という命令を出しました。

また「日本書紀」には下記の記載があります。

アマテラスがお生みになった三女神は、葦原の中つ国の宇佐嶋というところに降らせたが、いまは「海北道中」にいて「道主貴」と名乗っている。(「日本書紀」の「神代上」第六段「一書」の第三)

それでは「海北道中」というのはどこでしょうか。

この文字から察するに、「北へ向かう海の途中」ということですが、これはつまり日本から朝鮮半島への航路を表しています。そして、ここに出てくる宇佐嶋というのが沖ノ島ではないか、と考える説もあります。

さらにこの記載にもあるように、宗像三女神は別名「道主貴(みちぬしのむち)」という名前がついているのですが、これはあらゆる「道」の最高神という意味です。

ちなみに、貴(むち)という名前を持っている神様は実は三柱しかおられません。宗像三女神の他、伊勢神宮に祀られている天照大神(大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ))と出雲大社に祀られている大国主大神(オオクニヌシノカミ)(大己貴命(おおなむち-))です。

これだけでも、宗像三女神が位の高い神様であると同時に、伊勢神宮・出雲大社と並んで古くから信仰されてきた神様であることがお分かり頂けるかと思います。

ここまでお読み頂ければ、宗像三女神を「道」の神様として、古代日本人が朝鮮半島へ渡る際に無事や安全を祈願してこの神様に祈りを捧げたことはもうお分かりですよね。

【世界遺産】宗像・沖ノ島と宗像氏

新原・奴山古墳群

宗像氏ってどんな一族?

世界遺産の宗像大社と宗像市というのは、古くからこの地域で勢力と権力を有していた宗像氏という一族に由来しています。

宗像氏の出自(しゅつじ)がいつから始まったのかは定かではありませんが、歴史書に初めて名前が登場したのが「日本書紀」の「胸形君徳善」(むなかたのきみとくぜん)という表記です。

漢字が「胸形」となっていますが、これが時代を経て「宗像」に変わっていったものと考えられています。

なぜ日本書紀でこの名前が出てきたかというと、その妹である尼子妹が大海人皇子(後の天武天皇)に召されたためです。尼子妹は後に天武天皇との間に高市皇子を生みました。

そしてこの頃から宗像氏は宗像神社の神主を司るとともに郡司も兼任し、祭祀においても政治においても権力を有して繁栄の道を歩むことになるのです。

世界遺産:宗像・沖ノ島と宗像氏とのつながり

それでは宗像氏とこの世界遺産、宗像大社と沖ノ島がどのように関係しているのでしょうか。

先ほどは「日本書紀」から宗像氏をご紹介しましたが、この一族の出自はそれよりももっと前の時代に遡ると「海人族」になるのではないかと考えられています。

「海人族」というのはその名の通り、海に生活基盤を置いて暮らしていた一族のこと。海を知り尽くしていたと考えられ、当然航海術にも長けていたことでしょう。

弥生時代に稲作が日本に伝わりますが、稲作は西側の九州から近畿・関東へと広がっていきます。つまり、日本でも宗像は早くから稲作が盛んになった地域であり、宗像氏は稲作によって海だけでなく地上でも勢力を拡大するきっかけを作ったと考えられています。

そして古墳時代に入り、日本で最大の権力を有したとされる大和政権は当時は国内に生産技術を持っていなかった鉄を朝鮮半島に求めるようになります。

ヤマト政権は近畿、今の大阪から奈良にかけて勢力を有していたと考えられているため、おそらく航海術は持っていなかったでしょう。

そうなると、朝鮮半島に最短距離で九州から航海するには、優れた航海術を持っていた宗像氏の力が必要不可欠だったのです。

この話に関しては同じく世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の記事でもご紹介していますので、より詳しく知りたい方は下記の記事も合わせてお楽しみください。

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【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群と日本の古墳時代を100倍楽しむマメ知識6選

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宗像・沖ノ島が世界遺産に登録された経緯

宗像大社辺津宮 高宮祭場

世界遺産が沖ノ島単独の登録になっていた可能性

ここまでお読み頂ければ、世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」がどのような世界遺産かイメージを持って頂けたかと思います。

最後に、世界遺産委員会で世界遺産に採択されるまでの経緯を一つご紹介します。

世界遺産として登録されるまでには、世界遺産委員会での採択の前に、文化遺産であればICOMOSという評価機関から事前評価を受ける必要があるのですが、この評価が世界遺産委員会での決議にも大きな影響を及ぼします。

そして、ICOMOSによる事前評価では8つの構成資産の内、沖ノ島に関連する4つの構成遺産のみに対して「登録」勧告がなされ、他の4つの構成遺産は対象から外すことが推奨されました。

このような評価を受けた理由としては、8つの構成資産の中でも特に沖ノ島からは4世紀から9世紀にかけての長期間に渡る祭祀跡と出土品が見つかっており、その変遷を伝えるものとして貴重であること、そして海外から見るとこれまでお話ししてきた一連の信仰形成の理解が難しいことが考えられます。

ですが、日本は世界遺産委員会の場でも改めて8つの構成遺産全てでの登録とその価値を強調し、無事にその主張通り8つ全てが世界遺産として認められることになりました。

8つの構成遺産として登録されていることの意味

もしかすると世界遺産は沖ノ島だけになっていたかもしれない-。

確かに8つの構成遺産の中でも沖ノ島は女人禁制を始めとして特に神聖視されていた場所であり、古代日本において祭祀が盛んに行われていたことからも、中心的な存在と言えるかもしれません。

ですが、ここまでお読み頂ければこの世界遺産が8つで登録されていること、そして8つである必要があることの意味もお分かり頂けていることと思います。

日本人に昔から根付いている八百万の神々への信仰が朝鮮半島との交流と結びつき、宗像三女神への信仰が生まれ宗像大社によって九州本土から大島、沖ノ島へと結ばれる道は信仰の道となりました。

そしてその信仰の形と言える祭祀は、当時勢力を拡大していた宗像氏と宗像氏の有する航海術を必要とする中央政権が手を組むことで盛んになり、そして形を変えながら発展していきます。

宗像三女神への信仰と、その信仰を祭祀という形で具現化した宗像氏がこの世界遺産の価値を伝えるには必要不可欠であり、それは沖ノ島単独だけでは伝えることはできません。

宗像三社と宗像氏の墓とされる新原・奴山古墳群が含まれて初めて実証されるのです。

 

いかがでしたでしょうか。

今回は世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の内容をご紹介しましたが、実はこの世界遺産の本当の価値である「祭祀」にはあえて触れていません。

次回は「祭祀」にスポットライトを当てて、この世界遺産の本当の価値とすごさ、魅力をお伝えします!

 

(参考:「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木 晃 ,NHKブックス、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会、「神宿る沖ノ島」堀田はりい, 右文書院)

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