2017年、『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』の構成遺産として世界遺産に登録された福岡県の沖ノ島。現在は一般人の上陸が認められておらず、なぜ世界遺産に登録されたのか、その価値を知る機会はあまり無いかもしれません。
古代日本人が大切にしてきた神への信仰の変遷や伊勢神宮とのつながりなど、知れば知るほどその価値とすごさを実感する沖ノ島の魅力をご紹介します!
【世界遺産】沖ノ島の概要
沖ノ島の歴史
福岡県・沖ノ島は周囲約4キロ、面積約68.38ヘクタール、最高地点243メートルというとても小さな島です。
そんな沖ノ島には古くから人々が住んでいた跡が遺されており、途中に空白の時期があるものの、縄文時代から人がこの島に住み着いていたそうです。
地図を見て頂ければお分かりになるかと思いますが、沖ノ島は周囲から孤立した海上の孤島とも言える島で、対馬とは約77キロ、壱岐島とも約59キロ、そして同じ世界遺産に登録されている宗像大社中津宮がある大島とも約49キロ離れています。
海の上に突然現れるこんな小さな島に縄文時代から人々が住んでいたというのも驚きですよね。一説ではこの辺りに生息していた日本アシカを主な食糧、生活源として生活していたのではないかということです。
世界遺産としての沖ノ島
沖ノ島が世界遺産に登録されたのは、沖ノ島に今も残されている祭祀跡から古代日本人から現代まで続く神への信仰の変遷を見ることができるためです。
沖ノ島の祭祀跡からは多くの出土品が見つかっており、その時代は4世紀後半から10世紀初頭にかけての約500年にも及ぶものになっています。
先ほど沖ノ島には縄文時代から人々が住んでいた形跡があるとお話ししましたが、世界遺産としての沖ノ島はそこから時代を下った古墳時代から奈良時代にかけて、ということになります。
沖ノ島でなぜ祭祀が行われたのか?「神宿る島」になった沖ノ島
縄文時代から世界遺産に登録された古墳時代まで、沖ノ島にずっと人々が住み続けていたわけではなさそうです。
また、古墳時代頃になぜ沖ノ島で祭祀が行われるようになったのでしょうか。これは言い換えれば、なぜ沖ノ島が「神宿る島」になったのか、ということでもあります。
これについては下記の記事で詳しくご紹介していますので、本記事では簡潔にご紹介します。
なぜ『神宿る島』?世界遺産、宗像・沖ノ島と関連遺産群を知るマメ知識5選
2017年に世界遺産に登録された『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群。沖ノ島は神聖な場所として一般人の上陸が認められておらず、ちょっと敬遠してしまいそうな世界遺産ですが、古墳時代から脈々と大切に受け継がれてきた日本人の信仰を今に伝える貴重な証左として、この遺産が登録された意義は大きいです。 今回は、まず世界遺産の内容を分かりやすく解説します!
続きを見る
古墳時代に入ると、日本国内では権力や勢力の差によってヒエラルキーが生まれ、権力者が人々を統一する構図ができ始めます。この時代に最も巨大な勢力を有していたとされるのが、今の奈良県・和歌山県を中心とした大和政権です。
そして、この頃にはすでに朝鮮半島との交流が行われていたことが分かっています。
朝鮮半島との交流は、当時まだ日本にはなかった鉄を朝鮮から輸入するなど朝鮮の技術や文化を日本国内に取り入れるために行われました。そして、当然日本から人々が朝鮮に渡っていたわけです。
日本から朝鮮半島に渡る最短のルートを地図で見ると、福岡県の宗像市辺りから現在の韓国・釜山に渡るのがほぼ直線距離で最短ということになるのですが、このルート上にあるのが沖ノ島なのです。
東シナ海は晴天の日でも風が強く、波が比較的高い海で、この海を1700年ほど前の人たちは、当時の航海術を頼りに決死の覚悟で朝鮮半島に渡っていました。
そんな人々にとって、海上に突如ぽつんと現れる沖ノ島を目にした時は、多少なりとも不安が和らぎ、また遭難した船が沖ノ島に漂着して一命をとりとめたということもあったでしょう。それはまさに「神の御導き」だったのかもしれません。
この頃から、沖ノ島は「神様がいらっしゃって私たちの航海を安全に導いてくださっている」という信仰が芽生えたのです。
世界遺産に登録されている沖ノ島、大島と九州本土には宗像大社沖津宮、中津宮、辺津宮が創建され、この三社で宗像三女神(田心姫命(たごりひめのかみ)、湍津姫命(たぎつひめのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのかみ))が祀られています。
また、「日本書紀」や「古事記」によると宗像三女神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命により現在の宗像大社辺津宮の高宮祭場に降臨され、そこから朝鮮半島に向かう海上にて人々を導く「道の神」としての役目を担われていると記載されています。
このように沖ノ島が「神宿る島」になったことで、沖ノ島や大島、宗像大社辺津宮では古くから祭祀が執り行われてきたのです。
それでは沖ノ島ではどのような祭祀が行われていたのでしょうか。その姿に迫ります。
【世界遺産】沖ノ島の祭祀の変遷を追う!
貴重な出土品が多く眠る沖ノ島
後ほど詳しくお話ししますが、沖ノ島からは約8万点もの出土品が見つかっており、なんとこれらがまとめて国宝として登録されています。
沖ノ島から出土された出土品の価値がいかに高いか、これだけでもお分かり頂けるかと思いますが、このように数多くの出土品があることから沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。
なぜ沖ノ島の祭祀遺跡は良好な形で今も残されており、数多くの遺品が当時と変わらない姿で発掘されるのか。
その理由は最初にご紹介した通り、沖ノ島全体が古くから信仰の島とされ、その上陸が厳しく取り締まられてきたためです。また、洋上の孤島でありアクセスが容易では無いことも挙げられます。
また、沖ノ島の祭祀遺跡は実は島の中のある部分に集中して残されており、500年に渡って行われ続けた祭祀ではありますが、その形は少しずつ変化すれど、場所はほとんど変わらなかったことが分かっています。
4世紀後半から5世紀:岩上祭祀
それでは沖ノ島に残された祭祀遺跡の詳細を時代ごとに見ていきましょう。まず4世紀後半から5世紀にかけて、祭祀が行われ始めた時期です。
この頃の祭祀遺跡の特徴は、巨岩の上に祭祀スペースが設けられていることで、「岩上祭祀(がんじょうさいし)」と呼ばれています。
そしてこの岩上祭祀遺跡からは大量の鏡や鉄剣、そして鉄の板のような鉄鋌(てってい)や勾玉といった玉類が見つかっています。
さて、これらの出土品からはどんなことが分かるでしょうか。
鉄製品が含まれている!
まず、鉄剣や鉄鋌といった鉄製品が含まれていることに注目です。
先ほどお話しした通り、古墳時代初期に日本国内で鉄を精製する技術は無くもっぱら朝鮮半島にあった百済などから輸入をしていたと考えられています。
つまり、出土品に鉄製品が含まれていることは朝鮮半島との交流があったこと、そして日本で作れないことから考えると鉄は貴重な資源であり、その鉄を祭祀の際に惜しげもなく使用いることからも、沖ノ島の祭祀が当時の日本にとってとても重要な位置づけであったことを示しています。
出土品に三種の神器がある!
次に、鉄剣・鏡・勾玉と聞いてぴんと来た方もおられるでしょう。
そうです、剣・鏡・勾玉と言えば三種の神器であり、古代王朝のシンボルでもある貴重な組み合わせです。
この三種の神器が祭祀遺跡に供えられていたことを考えても、この祭祀が神への祈りを捧げるものであるのと同時に、当時の日本で権力者が関わっていたことが想像できます。
大和政権(やまとせいけん)・古墳との関連性あり!?
考えてみると、九州の遥か海の上にある孤島から当時としては貴重な鉄や、権力の象徴でもある三種の神器が見つかるというのはちょっと違和感があるかもしれません。
岩上祭祀が行われていた時代は古墳時代中頃と思われますが、実は岩上祭祀の出土品というのは古墳に埋葬された副葬品と共通していることが分かっています。
さらに、岩上遺跡から数多く見つかっている鏡も、畿内で発掘された鏡と同型、もしくは類似していることも分かっています。
これらのことから、沖ノ島の祭祀には当時国内で最も強大な権力を有していた大和政権とのつながりがあったのでは、と考えられるわけです。
また、古墳というのは一定以上の権力者を埋葬するために造られたものであることからも、古墳の埋葬品と共通した出土品を有する沖ノ島の祭祀というのは、この地域だけでなく当時の日本にとって重要な存在であったことは間違いないのです。
6世紀から7世紀:岩陰祭祀
岩上祭祀から100年ほど経過すると、それまで岩上で行われた祭祀は岩陰へと移っていきました。
「岩陰祭祀(いわかげさいし)」と呼ばれるこの頃の祭祀は、巨岩の下の薄暗いスペースに祭祀場を設けて祈りを捧げていたことが特徴です。また、現在発掘されている沖ノ島の祭祀遺跡の中でこの岩陰祭祀が過半数を占めていることも注目です。
祭祀の行われ方だけでなく、出土品も岩上祭祀の頃から変化が見られます。早速見ていきましょう。
まずこの頃から新たに出土したものとして、黄金製指輪、金銅性馬具類、鉄製馬具類、鋳造鉄斧などが挙げられます。黄金製指輪は特に有名で宗像大社辺津宮の神宝館にも展示されていますので、訪れた際にはぜひチェックしてみてください。
これらの豪華な物品の多くは、古新羅(こ・しらぎ)時代の古墳から出土する物と非常に似ていることから、新羅からの舶載品(はくさいひん:輸入して運んできたもの)と考えられています。
さらに、ササン朝ペルシアで製造されたと推測されるカットグラスの破片も見つかっており、朝鮮半島含めて海外との交流が活発に行われていたことが分かります。
特に注目!金属製の雛形品(ひながたひん)とは?
岩陰祭祀から多く出土されているものに、金属製の雛形品(ひながたひん)があります。
雛形品というのはミニチュアのようなもの。
今で考えると、子ども向けのかわいらしいおもちゃのようなイメージがありますが、当時の人々にとって雛形品というのは神様にお供えするために造られていたものだそうです。
そのため、実物よりも雛形品の方が当時の人々にとってはより高価で貴重なものだったのだそう。
それでは何の雛形品(ミニチュア)が発掘されたかというと、紡績関係品、つまり衣服や布を織る器械です。機織機(はたおりき)などの雛形品が発掘されたことは、当時の暮らしの中で機織りが行われるようになっており、「布」が人々の生活に重要なものであったことが分かります。
6世紀から7世紀は古墳時代が終焉し、律令国家として「国」の形が出来上がってくる時代ということも覚えておきましょう。
7世紀後半から8世紀前半:半岩陰・半露天祭祀
岩陰祭祀から少し時代が進むと、祭祀スペースは徐々に日の当たる露天のスペースに移動するようになります。
7世紀後半から8世紀前半にかけては、岩陰から露天スペースへの移行期とも言える「半岩陰・半露天祭祀」(はんいわかげ・はんろてんさいし)の形態が取られていました。
この半岩陰・半露天祭祀からの出土品として有名なのが、「金銅製龍頭(こんどうせい-りゅうとう)」と「金銅製雛形五弦琴(こんどうせいひながた-ごげんきん)」です。その他、金属製雛形品の他に、土器の出土が増えたのも特徴です。
金銅製龍頭は日本ではなく六世紀ごろ、東魏で製作されたものと考えられており、龍というのは中国においては皇帝を象徴するものとして好まれていました。
中国からの舶載品が見つかっていることから、この時代には引き続き中国や朝鮮半島との交流が行われていたことを示しています。
儀礼的な祭祀の形態の始まり?
このように半岩陰・半露天祭祀の時代においても引き続き沖ノ島の祭祀は当時の日本において権力者の関与があったと思われるのと同時に、五弦琴のような楽器の雛形や土器が多く出土されたことは、それまでどちらかというと実用品の雛形が多かったことに比べるとより儀式としての祭祀の色合いが強くなったことを思わせます。
8世紀前半と言えば奈良時代、平城京が誕生した時代でもあることも合わせて頭に入れておくとよいでしょう。
露天祭祀(8世紀後半から10世紀初頭)
沖ノ島での祭祀遺跡の終焉を物語るのが、8世紀から10世紀初頭頃のものと思われる露天祭祀(ろてんさいし)です。
この頃には祭祀を行う場所が完全に露天に移行し、平地に四角形(方形)の祭壇施設を設けて祭祀を行う形態になりました。
露天祭祀からの出土品としては、杯・鉢・壺・甕(かめ)といった須恵器(すえき:土器)の他に、奈良三彩の壺や皇朝銭が確認されています。
これらの出土品の特徴として、それまで出土品の多くを占めていた海外からの舶載品が見られなくなり、国産品ばかりが出土されていることが挙げられます。
祭祀と出土品の変遷まとめ
以上ざっとご紹介してきましたが、まとめると上記の通りです。
祭祀は岩の上から岩陰に移り、最終的には岩を必要としない露天祭祀へと移行しました。
出土品は三種の神器から金属製のミニチュアである雛形品を経て、やがて土器や皇朝銭に変わり、朝鮮半島や中国大陸からの舶載品から最後には完全に国内品へと移行していきます。
このような祭祀の形態と出土品の変遷というのは、当時の日本人が持っていた神への信仰のあり方が変わっていったことを意味しています。
それでは沖ノ島のこれらの祭祀、出土品の変遷は日本人の信仰がどのように変わっていったことを示しているのでしょうか。
【世界遺産】沖ノ島の祭祀に見る古代日本人の信仰の変遷
岩上祭祀は神様をお招きする儀式だった!?
さて、沖ノ島で最初に見られた祭祀の形態は岩上祭祀でした。
これは巨岩の上に祭祀スペースを作って儀式を行う形式ですが、沖ノ島の岩上祭祀跡(21号遺跡)には確かに巨岩の上に割石(わりいし)が方形状に並べられ、その中央に大きな石が敷かれていた跡が残されています。
現代のわれわれの感覚からすると、巨岩の上でこのような祭祀を行うイメージはほとんどありません。なぜわざわざ巨岩の上で行う必要があったのでしょうか。
神様と太陽の信仰
考えられるのは、巨岩の上ということは遮るものが無く見晴らしが良い、ということです。
遮るものが無い空間を確保することが重要だったということは、つまり太陽を見ていたのではないでしょうか。
沖ノ島の祭祀遺跡というのは実は一貫して南東の方角に向けて設置されていることが分かっています。この「南東」には2つの意味が込められています。
1つ目は、沖ノ島から大島、そして九州本土の宗像大社辺津宮は南東の方角にあるということ。南東に向けて祭祀を行ったということは、宗像大社に向かって行っていたということになります。
そして2点目が、南東の方角から太陽が昇ってくるタイミングというのが「冬至」の時期であるということです。
皆さんは神社の年間行事にある「新嘗祭(にいなめさい)」という言葉を聞いたことはありますでしょうか。
新嘗祭は神社の年中行事の中でも最も重要な行事の1つに位置付けられているものですが、新嘗祭というのはもともと旧暦の11月、つまり冬至の頃に行われていた祭祀になります。
なぜ冬至に行われていたかというと、一年の中で冬至が最も太陽が低く、昼間の時間が短い日だからです。それはつまり、太陽のエネルギーが最も弱くなっていることを意味します。
この冬至の日に祈りを捧げることで、太陽が新しく生まれ変わって復活し、エネルギーに満ち溢れることを祈願したわけです。
沖ノ島に話を戻すと、祭祀遺跡が南東の方角に向けられていたということは冬至と関係している可能性があり、まさに新嘗祭の先駆けとも言える祭祀が行われていたのではないかと考えられるのです。
また、岩上祭祀の出土品を思い出してください。
三種の神器には鏡が含まれていましたが、三角縁神獣鏡でも有名な鏡というのはその丸い形から太陽のシンボルとも言われています。さらに、三角縁神獣鏡のような丸い鏡が数多く造られたのは、三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)から来ているとも。
八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮のご神体と言われており、伊勢神宮と言えば天照大御神をお祀りする神社です。
このように、天照大神、鏡、太陽というのは一連つながりがあるものとして、古代の日本人が太陽に向かってお祈りを捧げていたと考えられます。
「古事記」「日本書紀」に見る神様の時代
岩上祭祀が行われたもう1つの理由を、古事記や日本書紀の記述に見ることができます。
日本書紀の神代上には下記のような記述がみられます。
吾は天津神籬及び転身磐境を起し樹てて、当に吾孫の為に斎ひ奉らむ。
これは高皇産霊尊(タカミムスヒ)という神様の言葉なのですが、天照大神がその子孫である天皇を地上に遣わされた際に祭祀を執り行った神様です。
何を仰られているかというと、「高い巨岩の台を祭場を造って」子孫である天皇のためにお祈りしよう、とのこと。
つまり、神様が執り行った祭祀は巨岩の上で執り行われていたということになります。
沖ノ島での岩上祭祀は、まさにこの神様の儀式を再現したものと考えられるのです。
巨岩の上で神様をお招きする
このように、岩上祭祀というのは冬至の日に神様の象徴である太陽に向かって、神様と同じように祭祀を執り行うことで神様を地上にお招きする儀式だったのではないかと考えられています。
古墳時代の前、弥生時代の後期に頭角を現したのは皆様もご存じの卑弥呼です。
卑弥呼は呪術や祈祷により、「神の代弁者」となることで権力を握るようになるのですが、岩上祭祀もまさに神様をお招きし、祭祀を司る者に神様を降臨させようとしたのではないでしょうか。
岩陰祭祀で、岩は演出に利用された!?
岩上祭祀から岩陰祭祀に形態が移ると、人々の信仰にはどのような変化があったのでしょうか。
まず、岩陰という場所に注目して見ましょう。それまで巨岩の上で行われていた祭祀が、巨岩の下の薄暗いスペースで行われるようになったということは、そこに何かしら神聖な雰囲気を感じたからと考えられます。
また、岩上祭祀では太陽が重要であり、太陽に向かって遮るものが無いことが重要視されていたことを考えると、岩陰祭祀では太陽そのものと直接つながる必要は無くなっていたと考えられます。
引き続き太陽が神聖視されていたことも合わせて考えると、岩上祭祀のように太陽と直接つながって「人」に神様が降臨するのを期待する形式から、「人」ではなく「岩」で造られた神聖なスペースに神様が降臨することを期待したのではないでしょうか。
実はここには人々の信仰観に大きな違いがあるんです。
それは、それまで神様と人を一体化していた信仰から、神様を明確に人と違う存在として崇めるようになったということ。
このため、神様をお迎えする神聖な場所として巨岩が神聖なものであり、その巨岩で覆われた薄暗いスペースが祭場として最適だと考えたわけです。
岩陰祭祀の出土品の特徴として、金属製の雛形品が出土されたことを思い出してください。これは神様をお迎えするため、神様用に造られたものであり、同時に人と神様を区別して考えているということの表れでもあります。
半岩陰・半露天祭祀で祭祀はより儀礼化したものに進化!?
さらに時代が進んだ半岩陰・半露天祭祀の時代になると、神様への祭祀は良くも悪くも洗練されたものに変わっていったと言えます。
つまり、神様への祈祷やお祈りの方法が徐々に画一化、制度化されてきたということでもあるのですが、それはこの時代を考えるとよく分かります。
半岩陰・半露天祭祀の時代は律令制国家が形成されてから奈良時代に至るまでの時代です。
それまでの古墳時代というのは、大和政権が出現したにしても日本にはまだ「国」と呼べるものはありませんでした。それが7世紀に入り、大化の改新等を経て律令制が整備されたことで初めて「国」が誕生したのです。
律令制というのは、日本はそれを統べる天皇のものであり、庶民は天皇が定めたルールに従って生活を行う、という体制です。
このように中央政権(国)によるルールが定められていく中で、祭祀のあり方や方法も徐々にルールが決まっていったのではないでしょうか。
この頃の出土品に見られる土器は、次の露天祭祀には定着しており、祭祀のありかたもまた金属製の雛形といった「神様をお迎えするための装飾品」から「神様に献上するためのお供え物」といった性格に変わったことを意味しています。
露天祭祀で儀式として定着
沖ノ島の最終形態である露天祭祀。この時代には祭祀はすっかり定型化された儀式として定着していたものと思われます。
それはつまり、祭祀が持つ神秘性というものが失われていったということでもあるのです。
それまで当時の重要な物品が出土していたのに対し、露天祭祀で出土された須恵器や奈良三彩というのは国産品であり一般に流通していたものと言えます。
つまり、「質」から「量」へ変わったことも、祭祀の神秘性が普遍的なものになったことの表れと言えるのです。
このように時代を経て日本における国家体制が築かれるのと合わせて、沖ノ島での祭祀の形態も最終形態に落ち着くことになるのですが、露天祭祀の時代は奈良時代から平安時代にかけての時代であり、遣唐使が廃止された時期とも重なります。
沖ノ島の祭祀が露天祭祀を最終形態としているのは、遣唐使が廃止されたことで朝鮮半島や中国大陸との交流の重要性が低くなったこと、また時代を経るにつれて航海技術も向上し、それまでのように航海の安全祈願に重きが置かれなくなったことも合わせてあるのではないかと思います。
【世界遺産】沖ノ島と伊勢神宮のつながり
伊勢神宮で用いられる祭祀具
岩上祭祀が天照大御神や太陽と関わりのあるものだった、というお話しからご想像できるように、天照大御神を祭神として祀る神社の総本山である伊勢神宮と沖ノ島にはいくつかのつながりが見られます。
その一つが、祭祀具です。
伊勢神宮の祭祀に用いられる祭祀具が、沖ノ島の岩陰祭祀や半岩陰・半露天祭祀遺跡から発見された祭祀具(紡織具や武具、楽器など)と多くの共通点を有していることが分かっています。
これは何度も申し上げてきた通り、沖ノ島で行われた祭祀が当時の日本国内でも重要な儀式として位置づけられていたことを意味するだけでなく、伊勢神宮や沖ノ島から日本における神々への信仰の歴史をひも解く重要な手がかりにもなります。
伊勢神宮の式年遷宮は冬至がきっかけだった!?
伊勢神宮では20年に一度、式年遷宮が行われているのですが、なぜ式年遷宮が始まったのか、その理由ははっきりしていません。
様々な説があるのですが、その一つに冬至を挙げる説があります。
最初の式年遷宮は690年に行われたのですが、その前年が朔旦冬至(さくたんとうじ:11月1日が冬至に当たる年のこと)だったと言われており、これが式年遷宮のきっかけになったのではというわけです。
朔旦冬至は概ね19年~20年に一度訪れることからも、式年遷宮が20年に一度行われることとぴったり一致します。
沖ノ島の岩上祭祀から、冬至を一つのキーワードとしてご紹介しましたが、これが伊勢神宮の式年遷宮とも関連性があるというのは面白いですよね。
沖ノ島の価値と世界遺産に登録された理由
いかがでしたでしょうか。ここまでお読み頂ければ、沖ノ島がいかにスゴイ価値を有しているか、そしてなぜ世界遺産に登録されたのか、その理由もお分かり頂けたのではないかとおもいます。
これまでご紹介してきた通り、沖ノ島の祭祀遺跡というのは岩上祭祀→岩陰祭祀→半岩陰・半露天祭祀→露天祭祀という祭祀の形態を明確に今に伝えてくれています。
これは信仰の島として上陸が長らく厳しく取り締まられ、遺跡が当時と変わらない良好な状態で残されていることもあるのですが、そういったことも含めて日本人の古くからの信仰がどのように変遷し、また変わらずに今に受け継がれているかを教えてくれているのです。
岩上祭祀の特徴として「古墳の埋葬品と共通している」という点を挙げましたが、ここで少し違和感を感じませんか?
古墳というのは「お墓」です。お墓の埋葬品と、神様への祭祀で使用され、お供えされた物が同じというのはちょっと不吉な感じすらしますよね。
ここから当時の日本人の死生観が見えてきます。当時の日本人にとって、神様への祭祀と葬送というのは区別されていなかったのではないか、ということです。
これを「葬祭未分化」と呼んでいます。
古墳の埋葬品の意味については下記の記事でご紹介していますが、古墳を作ることで「死者を盛大に黄泉の国に送り出すこと」も「神様をこの世に降臨させること」も「一大イベント」として同じように考えており、「死」というものを深く考えていなかったのではないかということです。
【世界遺産】百舌鳥・古市古墳群と日本の古墳時代を100倍楽しむマメ知識6選
2019年に世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」。 登録された当時は日本の歴史の中で最も古い時代(古墳時代)の遺産であり、京都や奈良に比べると少し馴染みも薄い古墳。 ですが、古墳時代は知れば知るほど面白く、日本の歴史上の重要な転換期でもありました。今回は百舌鳥・古市古墳群と古墳時代を詳しくご紹介します!
続きを見る
それがやがて「葬祭分化」に変わっていくのは岩陰祭祀以降のことですが、このような日本人の信仰の変遷をはっきりと伝えてくれるのは沖ノ島で数百年にも及ぶ祭祀の跡が遺されているからに他なりません。
また、日本史に興味がある方なら、これまでご説明したお話しで弥生時代から古墳時代を経て、律令時代、そして護国仏教が導入された奈良時代までの日本人の信仰観がよりはっきりイメージできるようになったのではないでしょうか。
共同体としての生活を送っていた弥生時代に自然信仰から始まった祭祀はやがて古墳時代に入ると、勢力を伸ばした首長連合という緩やかな連合体制の中で、政治力と軍事力を有する象徴としての祭祀のあり方に変わり(祭政一致)、さらに時代を経て律令国家が誕生すると祭祀は律令体制の中で定型化された儀式へと姿を変えていく-。
このような祭祀の変遷と日本人の信仰、社会と祭祀の関連が変わっていく様を、沖ノ島の祭祀遺跡は全て見せてくれています。
沖ノ島がいかに貴重で世界遺産に登録されるにふさわしい場所か、その魅力と価値が少しでも実感頂けたら幸いです。
(参考:「伊勢神宮と三種の神器」新谷尚紀 講談社選書メチエ、「神宿る沖ノ島」堀田はりい 右文書院、「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木 晃 NHKブックス
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会)