世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】比叡山延暦寺を100倍楽しむためのマメ知識5選

京都と滋賀県にまたがる世界遺産、比叡山延暦寺。
伝教大師の最澄が開いたお寺として、「日本仏教の母山」とも呼ばれ、日本の歴史の中でも仏教と言う枠を超えて数々の影響を与えてきた存在としてあまりにも有名です。
今回はそんな世界遺産の延暦寺について、知っているようで知らない伝教大師最澄の人生、天台宗の教えや、弘法大師空海とは違う魅力をご紹介します!

1.【世界遺産】比叡山延暦寺を開いた最澄ってどんな人?

比叡山からの眺望

若き天才、最澄

比叡山延暦寺を開いた最澄は、現在の滋賀県大津市の生まれと言われています。生まれたのは8世紀中旬、766年もしくは767年とされており、父親は三津首百枝(みつのおびとももえ)という豪族であり、もともとは身分の高い地位の出身だったことが分かります。

よく弘法大師空海と並んで天才と称される最澄は、若くして仏教の才に恵まれて頭角を現し、なんと17歳という若さで正式な僧侶であることを証明する度縁の交付を受けて一人前の僧侶となりました。さらにその2年後、19歳で東大寺において具足戒を受けて、正式な出家僧の身分となります。

具足戒とは、仏教を布教する僧として守るべき戒律(ルール)を定めたもので、当時はこれを受けることで正式な僧侶として認められました。
ちなみに、この具足戒はあの鑑真によって日本にもたらされたものであり、これにより日本で仏教が広がるきっかけとなりました。詳しく知りたい方はこちらの記事をご参照ください!

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延暦寺の創建

比叡山延暦寺:根本中堂(国宝)

最澄が比叡山に入り延暦寺を創建したのは、まだ19歳という若さの時でした。
当時は南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、俱舎宗、華厳宗、律宗)を奈良の寺院で学ぶのが一般的で、具足戒を受けたわずか2年後に奈良を離れてこのような行動に出ることは異例中の異例だったと言えます。

最澄がこのような行為をするに至った1つの理由が、当時都が置かれていた奈良での仏教の腐敗でした。天皇に取り入り、政権を握ろうとした銅鏡という僧が起こしたスキャンダルは有名です。

そんな仏教と政治の腐敗を目の当たりにした最澄は奈良に嫌気がさし、やがて奈良を離れる決意をしました。そして、いつしかたどり着いたのが比叡山だったのです。

比叡山は滋賀の大津市で生まれた最澄にとっては生まれ故郷であるわけですが、それだけでは無い深い繋がりがありました。
最澄が生まれる前、父であった百枝と母の藤子は自分たちに子宝が恵まれない事を案じて、比叡山に分け入り、庵を結んで神仏に必死に願をかけ、7日間の参籠を決意しました。すると、4日目に霊夢を見た藤子が身ごもり、最澄が生まれたとされています。

このように、比叡山は最澄にとっては自分の存在を作り出した場所でもあるわけです。そんな比叡山に最澄が戻り、延暦寺を創建したことはまさに人の業を超えた縁にあったのではないでしょうか。

桓武天皇との出会い

最澄が奈良に嫌気がさし、離れた後、時の桓武天皇は都の遷都に踏み切りました。その理由は最澄と同じく、奈良の都と仏教の腐敗を断ち切るためだったと考えられています。

都の遷都は多難を極め、長岡京を経て最終的に平安京に遷都がされたわけですが、奈良の都と同じように、平安京が選ばれたのも四神具足の地であったからと言われています。

ですが、平安遷都まで数々の事件や不吉な出来事に悩まされた桓武天皇は、四神具足の都においても鬼門とされる北東の方角が気がかりでなりませんでした。

そんな鬼門の方角にあったのが比叡山だったのです。比叡山延暦寺の存在を知った桓武天皇は、最澄を重用することになり、これが還学生として最澄が唐に渡るきっかけとなります。

比叡山に入り、一人で延暦寺を創建した最澄がほどなく天皇と繋がりを持つことができたのは、運命というより他なりません。
そんな運命の子、最澄が唐に渡った目的は天台宗の教義を学ぶためでした。そして、天台宗はまさに最澄が人生を懸けて布教に務めた教えでもありました。

それでは天台宗とはどのような教えなのでしょうか?

2.【世界遺産】比叡山延暦寺と天台宗

最澄の人生を懸けた教えとは?

さて、比叡山延暦寺の誕生は、最澄が比叡山に登り建てた「草庵一乗止観院」が始まりとされており、これが今では国宝とされている根本中堂の前身と言われています。

始まりは小さな草庵だった比叡山の延暦寺で、最澄が生涯を懸けて成し遂げたかったこと。それが、天台宗の布教です。

天台宗は中国の智顗(ちぎ)が開祖とされる大乗仏教の宗派です。天台宗は法華経を拠り所とする教えですが、最澄は奈良の寺院で法華経と天台宗の教えを知り、その可能性に確信を持ち、日本での布教を決意します。

大乗仏教とは簡単に言ってしまえば、「誰でも仏様になれる存在である」という考えの元、仏教の力であまねく大衆を救済することを目的とする教義で、それまでの限られた立場の僧だけが悟りの境地に辿りつけるとする、小乗仏教(今では一部差別的な表現と見なされ、一般的には使われません。)から独立した考えです。

大乗仏教では、他人のために、という「利他の精神」と、悟りを開くために修行を行う存在を「菩薩」と呼び、平等に考えることが特徴です。

天台宗の教え

大乗仏教の1つである天台宗のベースとなっている「法華経」とは、全ての人々が仏になることができるとし、すべての人が悟りの境地に達するための教えを包括的にまとめた教義であると言えます。

天台宗が法華経を最も大切な教義と考えている理由は、法華経によって、「一切皆成仏」という仏陀の真実の教えが初めて明かされたものと考えているからです。

そんな天台宗の最大の特徴が、「円」、「密」、「禅」、「戒」の4つを融和して捉える言わば「総合仏教」というべきものという点にあります。それぞれ簡単に表すとするならば、下記の通りです。

円:天台宗の教えのベースとなる法華経(顕教)
密:密教
禅:円の実践
戒:守るべき戒律やルール

一般的に仏教は、その教えが文字などで明らかになっている顕教と、言葉で表せない実践を含む密教に大別されますが、天台宗はそのどちらも取り込んでいるのが特徴と言えるでしょう。

ちなみに、密教一筋で布教に務めたのがあの弘法大師空海です。

 

ここまで読まれて、何となく天台宗のイメージをつかんでいただけていたら幸いです。
どうも天台宗の目指すものは、「皆が平等に救われる」ために、「総合的に仏教の教えの取り込んだもの」であり、その点で理想主義であり、なんだかいろいろ詰め込んだもの、という感覚を持っていただけたかと思います。

ですが、その理想の追求ゆえに、最澄には様々な試練が待ち受けていました。
唐から天台宗の教義を受け継いで持ち帰った最澄は苦難の連続が待ち受けています。それを見て行きましょう。

3.【世界遺産】比叡山延暦寺:最澄が乗り越えた苦難

①天台宗を南都六宗に並ぶ宗派に

唐から帰国した最澄は、まず天台宗を南都六宗と同じ地位にまで高めることに全力を注ぎました。それは、南都六宗と同じように天台宗を国に正式な仏教の宗派として認めらもらうことです。

最澄の熱心な働きかけにより、806年、天台宗は2名の年度分者(国に正式に認められた僧侶)の認可が下りました。この2名というのは、天台教学と密教にそれぞれ1名を割り当てる算段で決められたものです。

ちなみに806年は桓武天皇が崩御された年でもあります。最澄にとって大きな支え役となっていた桓武天皇が崩御されたことで、天台宗は大きな後ろ盾を失い、その後さらに苦難の道を歩むことになります。

②弘法大師空海を師と仰ぎ、密教の灌頂を受ける

先ほどご紹介したように、天台宗を完成させるうえで密教の教えをマスターすることは必須でした。最澄が唐に渡っていた期間は2年にも満たない短期間ですが、そのほとんどを天台宗の取得に費やしながらも、帰国の直前に少し密教の教義も学んでいたのです。

ですが、ほどなくして空海が唐から密教の教えを持ち帰ると、密教に対する知見のレベルの違いは明確でした。

自分の力だけでは密教を十分に会得していないと痛感していた最澄は、何と空海を師と仰いで密教に関する書物を取り寄せたりその教えを乞い、最終的に正式な密教の承継者とする灌頂を受けたのです。

このように、最澄と空海はそれなりに繋がりがあったのですが、最終的に二人は決別して別の道を歩むことになります。その話はまた後ほどご紹介します。

最澄には当時、泰範という一番弟子がおり、泰範にも密教の教えを学ばせるために空海の元に遣わしたのですが、この泰範は最終的に密教の教えに感化され、その後比叡山に戻ってくることはありませんでした。一番弟子を失った最澄にとってはつらく、苦い経験となったことでしょう。

③三乗一乗論争で他の宗派を否定

先ほどご紹介した通り、法華経により仏陀の真実の教えが明らかになったと考えるのが天台宗であり、それ以外の宗派は真実の教えに辿りつくまでの方便であると考えていました。
この考えが、やがて南都六宗など他の宗派との間に溝を生むことになります。

中国では南都六宗の教えより前に天台宗の布教が始まっていましたが、日本では逆に南都六宗が先駆けていたため、天台宗は言わば新手の宗派ということになります。そんなぽっと出の宗派に急に否定されたのでは、それぞれの宗派の立場が無くなってしまいます。

もっとも長期にわたり、論争が続いたのが法相宗の徳一との論争であり、これを三乗一乗論争と呼んでいます。

三乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の3つを表しています。「乗」とは乗物を意味しており、簡単に言えば悟りを開くためには主に3つの方法がありますよ、という考えです。
これは徳一が主張する法相宗に基づく考えであり、「現実の人間の能力に応じて、それぞれの目標に導く教えこそが真実である」とする、言ってみれば現実的な考えです。

これに真っ向から批判したのが最澄率いる天台宗です。天台宗は、先ほどもご紹介した通り、「すべての人々に仏陀の悟りが約束されていて、その能力を導くためにそれぞれの方便としていろいろな教えが説かれたが、その根本となっている教えは法華経ただ1つである。」というたった1つの乗り物、一乗の立場を取りました。

この論争は正直なところ優劣が簡単に付くものではありません。ですが、他の宗派を批判することも自派の正当性の主張へとつなげる、それが天台宗の特徴と言えるでしょう。

④最澄の悲願、大乗戒壇の設立

ようやく1つの宗派として正式に認められた天台宗でしたが、そこにはクリアしなければならない大きな課題が1つ残っていました。

冒頭でもお話しした通り、当時は授戒を受けた者しか正式な僧侶として認められることが許されておらず、いわゆる天下の三戒壇である東大寺、太宰府の観世音寺、栃木県の薬師寺での授戒が必要でした。そのため、延暦寺で修行を行ったとしても、授戒を行うために東大寺へ一時的に身を寄せる必要があったのです。

そもそも他の宗派を批判し、さらにそんな宗派に自身の僧を派遣して帰ってこない可能性もあるとなれば、天台宗の布教に大きな足かせとなってしまいます。
これを解決するため、最澄は延暦寺独自で正式な僧を生み出す「大乗戒壇」の設置を国に求めます。
残念ながら大乗戒壇は最澄が生きている間には実現しなかったものの、最澄はじめ、延暦寺の働きかけにより最澄の没後、7日目に国より設置の許可を受けることになりました。

ですが、もちろん正式な僧侶を生み出すには誰もが認める質を備え、納得させる必要があります。そのために延暦寺が独自に定めたのが、「十二年籠山行」など、とてつもなく厳しい修行の数々だったのです。

 

このように、最澄の人生は様々な試練の連続であり、決して平たんなものではありませんでした。その後、866年に最澄は日本で初めて、清和天皇より「伝教大師」という大師の称号を付与されました。ちなみに空海が「弘法大師」という大師の称号を授かったのは、これよりもずっと後の921年でした。

ここで、よく対で話に上がる最澄と空海について簡単に2人の運命の関係をご紹介しておきましょう。

4.【世界遺産】比叡山延暦寺:最澄と空海

共通点①:詳細が不明な流浪の期間

最澄は奈良の都から比叡山に延暦寺を開くまでの約3年間、詳細な消息は不明ですがいろいろな場所を流浪していたと考えられています。
一方の空海も、京の都の大学をわずか2年で飛び出した後、留学僧として唐に渡るまでの間、約7年間の間の細かな消息ははっきり分かっていません。ですが、いろいろな場所を転々としながら、大日経や密教の考えに出会い、それが唐への密教を学ぶための留学に繋がっているということは言えるでしょう。

空白の流浪の期間に何を考え、どのように過ごしてきたのか。それがその後の大きな数々の歴史上の功績に繋がっていることは確かです。

共通点②:同じタイミングで遣唐船で唐へ

最澄は還学生として、空海は留学僧としてそれぞれ唐に渡りました。還学生は国から認められた留学生ようなもので、期間も1~2年と短期間である一方、留学僧は10年~20年と長期に及ぶのが一般的でした。
ですが、空海もわずか2年ほどで唐から日本に帰国しています。

乗った船こそ違えど、2人が同じタイミングで唐に渡ったことはもはや運命としか言いようがない、有名なエピソードです。

決別の道へ

そんな共通点も多い最澄と空海の2人ですが、最終的には決別することになります。

先ほど天台宗の中に密教の教えが含まれることをご紹介しましたが、最澄にとって密教はあくまでも天台宗を構成する1つの要素に過ぎません。
一方の空海も、「密勝顕劣」と、真言密教こそが法身である大日如来がその悟りをそのまま説いたものであり、それ以外の顕教は聴く者に合わせて釈迦牟尼仏がさまざまに教えを説いたものに過ぎない、という立場をとっており、密教こそが真の教えであるとしています。
さらに、空海は「十往心論」や「秘蔵宝鑰」で明確に密教とたの仏教宗派に序列をつけて、密教の優位性を示しています。

最澄と空海はいずれも信じた思想が生涯揺らぐことが無かった点において似ていると言えますが、「この根本的な考えの違いから、2人が別々の道を歩んだのは避けられない結末だったのではないかと言えます。

天台宗と真言宗の違い

現在日本でもよく知られている浄土宗や浄土真宗、禅宗である臨済宗や日蓮宗、これらの宗派を開いた開祖は全員、延暦寺に一時期身を置き、修行を行ったことはご存知でしょうか。

その意味で、真言宗以外の宗派はほとんどが天台宗から派生したことになります。これが延暦寺が「日本仏教の母山」と言われる所以ですが、なぜ天台宗からは様々な宗派が誕生したのに、真言宗ではそのようなことが起こらなかったのでしょうか。

いくつか考えられる理由をご紹介しましょう。

①真言宗はすでに完成された教義だった

真言宗がすでに確立された教義であったのに対し、天台宗は言わば最澄が日本仏教としてブレンドして築き上げた教義であったと言えます。それゆえに未完成の教義とも言えるでしょう。

例えば、天台宗の教えの中でも密教は、真言密教に大きな後れをとっていたのを、最澄の後、円仁が唐に渡って密教を持ち帰ったことで、真言宗と双頭をなすまで発展させることができました。

このように、未完成であったことから様々な教義を生み出す地盤があったと言えるかもしれません。

②他の宗派に批判的な天台宗、寛容的な真言宗

天台宗は先ほども述べた通り、他の宗派を批判的に見ることで発展してきた歴史があります。その思想があったからこそ、同じ天台宗の中から浄土宗や日蓮宗と言った違った教義が生まれ、独立していったのも当然の成り行きかもしれません。

一方で真言宗は他の宗派を否定することもなく、どちらかと言えば寛容的だったと考えられています。そもそも密教であり、ある意味門外不出であることから、様々な実践や流派がその内部で生まれることはあっても、完全に独立することはありませんでした。

5.比叡山延暦寺が世界遺産に登録された理由

「日本仏教の母山」であることだけでも、比叡山延暦寺が世界遺産に選ばれるに十分な理由だと思います。ですが、延暦寺が世界遺産に選ばれた最も大きな理由は、1,200年以上も続く数々の伝統が今も続いているからです。

大乗戒壇という独自の戒壇を設け、質の高い高僧を輩出するために、延暦寺には多くの厳しい修行が存在します。

その一例をご紹介しましょう。

十二年籠山行:十二年間は何があっても絶対に山から下りず、その間も「掃除地獄」「回峰地獄」と呼ばれている厳しい所業を行う。

四種三昧行:例えば、「常座三昧」は90日間、食事・便所・散歩を除くすべての時間、坐禅を行う。

これだけでも到底達成することも出来そうにない想像を絶する厳しさが伝わるのではないでしょうか。

考えてみると、大乗仏教は「誰でも仏の境地に達することができる」というある意味理想的で、有難い教えではあります。ですが、口だけでそれを説いても何の説得力もありません。延暦寺の僧がこれほどまでに厳しい修行を堪えて行うのは、その高い理想を掲げて口に出すのにふさわしいぐらいに、自らも高める必要があるという想いがあるからではないかと筆者は思っています。
そう意味ではとてもストイックな教義だと思いませんか。そして、それがそのまま最澄その人の人生にも表れている気がしてなりません。

2人の天才である最澄と空海。空海がモーツアルトとすれば、最澄はベートーベンでしょう。その波乱の人生とともに、自らの理想を追求し、それが後世の発展へと繋がっていく-。

ある意味でとても人間くさい最澄が創建した世界遺産延暦寺。ぜひ一度訪れてみてください!

(参考:「比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか」島田 裕巳 KKベストセラーズ、「比叡山延暦寺」渡辺 守順 弘文館、「伝教大師最澄の寺を行く」比叡山延暦寺 JTBパブリッシング)

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