世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】小笠原諸島の歴史をひも解くマメ知識4選

日本の本州から遠く離れているからこそ、独特な自然形態が存在し、世界遺産にも登録されている小笠原諸島。今回はあまり知られていない小笠原諸島の歴史にスポットを当ててみます。
欧米諸国との関係、日本の開国、そして第二次世界大戦。自然だけでなく、日本の歴史の中でも特殊な道をたどった小笠原諸島の歴史をご紹介します!

1.【世界遺産】小笠原諸島が歴史の表舞台に登場するまで

小笠原家と小笠原諸島の命名伝説

小笠原諸島が日本の歴史に登場するのは1593年、現在の信州、長野県松本市に城を構えていた城主の小笠原長時(おがさわらながとき)のひ孫にあたるとされる人物、小笠原民部少輔貞頼(おがさわらみんぶのしょうさだより)によって最初に発見されたとされています。

それによると、この小笠原貞頼が伊豆諸島沖を探索する航海に出たことろ、その南東に3つの無人島を発見したとのこと。貞頼がこの無人島の発見を、帰還後に豊臣秀吉に島の地図や状況とともに報告し、またその後徳川家康からは島の名前に「小笠原」を冠する許可をもらったため、これをもって今でも「小笠原諸島」という名前が付けられています。

ですが、これは「巽無人島記」(たつみむにんしまき)という書物に記載された内容ですが、そもそもこの書物自体に実は信ぴょう性はあまりなく、史実とは考えられていません。小笠原家を名乗る一族が江戸時代に巻き起こしたちょっとした事件をご紹介しましょう。

歴史の珍事件!?小笠原一族による直談判

小笠原貞頼の発見とされる1593年から100年ほど時を経た江戸時代1675年のこと。後ほどご説明しますが、この時期にはすでに小笠原諸島の存在は江戸幕府の知るところとなっていました。
ですが、まだ発見・認知されて久しくはありません。そんな江戸から遠く離れた洋上の孤島に、調査船への派遣が議論されるのですが、そこに小笠原長直(おがさわらながなお)という人物が「自分もその調査船に同乗させてほしい。」と直訴にやって来ました。

長直の言い分としては、もともとこの無人島(小笠原諸島)は自分の祖先が最初に発見をした島であり、小笠原家の名が付けられていることから、自分たち一族の領地としたいこと。そして、そこで収穫された産物については定期的に本国に納め、商いとしたいというもの。

結局幕府は聞く耳を持たず、長直の願いは聞き入れられなかったのですが、事はこれだけでは終わりません。その子どもと称する小笠原長啓(おがさわらながのり)、さらにその子どもと称する貞任(さだとう)なる者も同様の直訴をしたのです。

貞任の直訴の時の将軍は八代将軍吉宗でした。ここにきてようやく渡航の許可が下り、貞任は甥の長晃(ながあき)に渡航を託したものの、長晃の乗った船は途中で嵐に会い、その後行方不明となってしまいました。

一方、このころ、幕府はこの小笠原家の家系調査に乗り出していたのですが、その結果、そもそもの事の発端である小笠原諸島を発見したとされる小笠原貞頼の親とされる人物には子どもがいなかったことが判明したのです。
これにより貞任は罪に問われるわけですが、この一連の訴訟の際に作成されたのが「巽無人島記」と言われています。

実際のところ、小笠原家の主張の信ぴょう性はかなり怪しいと言わざるを得ませんね。。この「巽無人島記」によると、小笠原諸島ではオットセイが見られる、という紹介もあり、北太平洋にいるはずのオットセイが小笠原にいるはずもなく、このことからも「巽無人島記」の内容は全くのでたらめ、と言う人もいるほどです。

小笠原諸島を最初に発見したのは・・・!?

小笠原貞頼による小笠原諸島の発見が真実で無いとする場合、現在確認できる中で最も古い小笠原諸島の確認は日本ではなくヨーロッパのオランダによるものが初めてとなります。

なぜ日本はなく、オランダなのでしょうか。世界史と日本史に詳しい方ならピンとくるかもしれません。

先ほどの小笠原貞頼による発見は1593年、これは豊臣秀吉の天下の時代でした。ここから数十年後、江戸時代に入ると日本はその後200年以上も続く鎖国時代に突入するわけですが、鎖国政策に入るまで、秀吉や徳川家康はむしろ諸外国との貿易を朱印船貿易により積極的に展開しており、東南アジア諸国との貿易を行っています。

ですが、ヨーロッパのスペインやポルトガルはこれよりも100年近く先駆けて大航海時代を迎えています。この大航海時代、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見や、ヴァスコ・ダ・ガマによってポルトガルはアフリカ大陸を経由してインドにつながる航路を開拓しています。

ヨーロッパ諸国による太平洋貿易が確立すると、諸国が覇権を争うようになるわけですが、当然その貿易のターゲットには日本も含まれていました。
マルコ・ポーロが東方見聞録で日本を黄金の国「ジパング」として紹介したことは有名ですが、それ以降も日本やその近郊では金銀が豊富に産出する場所(島)がある、とのウワサは絶えませんでした。
日本近海をオランダやスペイン、ポルトガルといったヨーロッパ諸国が貿易の傍ら熱心に探索していた背景に、このような「金銀財宝」を探し求めるロマンがあったわけです。

そして1639年、オランダの有名な航海士、タスマンが副官として乗船したエンゲル号とフラハト号が、フィリピンのルソン島から北上する最中に現在の沖ノ鳥島から硫黄島、父島、母島を発見し、地図に記録として残したものが小笠原諸島の歴史の表舞台への最初の登場となりました。
ちなみに、この時これらのオランダ船は小笠原諸島には上陸していません。

小笠原諸島の先住民

小笠原諸島がオランダによって発見される17世紀時点では小笠原諸島は無人島でした。ですが、それまでずっと無人島だったのかというとそうではありません。

これまでの調査では北硫黄島や父島、そして母島に考古学的な遺物が散在しているエリアが発見されています。そこでの発掘調査等により見つかったのが、「丸ノミ形石斧」と呼ばれる石器なのですが、面白いのはこれと同様・同型の石器は日本の縄文時代、弥生時代の遺跡からは発見されていないということ。

つまり、小笠原諸島には先史時代に人が暮らしていた痕跡はあるものの、日本にいた祖先とは別の祖先であり、調査ではこの石器はマリアナ諸島(小笠原よりも南、グアムやフィリピン)で多く類似例が見つかっているそうです。

ここから考えられることは、先史時代に小笠原諸島にいた人類は、南のグアムやフィリピンといったマリアナ諸島から北上してこの地にたどり着き、さらにそこからまたどこかへ移住していったのではないか、ということです。

2.【世界遺産】小笠原諸島が日本の領地となるまで

日本での小笠原諸島の発見は偶然だった!?

それでは日本で初めて小笠原諸島が認識されたのはいつ頃でしょうか。それはオランダによる発見から遅れること約30年、1670年のことでした。

江戸幕府が誕生してから長い戦国時代は終わりを迎え、日本は平穏な時代に入ります。
江戸の町は栄え人口も増えると、幕府は安定した内政のために大量の食糧や原料を安定かつ大量に調達、供給する仕組みを整える必要に迫られました。
当時は今のように自動車も鉄道も無い時代。大量にモノを運ぶときに最も効率的だったのが船です。

そこから、主に江戸と地方を結ぶ物資の運搬路が整備され、船による運搬が活発になるわけですが、ある時紀伊のミカンを積んだ船が江戸に帰る途中、強烈な季節風にあおられて沖に流されてしまいました。
長らく沖を彷徨い続けた船が漂着したのがなんと小笠原の母島。紀伊半島から小笠原まではるばる流されたどり着いたことを考えるとものすごい偶然ですよね。もちろん命がけであったことは言うまでもありません。

母島に流れ着き、その後に大破した船を改修し、また命がけで1,000キロ近い航海を経て小笠原から江戸への生還を果たしたことで、初めて江戸幕府は小笠原諸島の存在を認識したのです。まさにロビンソン・クルーソーの世界ですね。。

江戸幕府による小笠原探索

初めて小笠原諸島の存在が明らかになった17世紀後半、江戸幕府は早速小笠原諸島の探索に乗り出しました。
1675年4月5日、江戸幕府の命を受けた長崎の船頭であった嶋谷市左衛門ら一行38名が、末次船で下田から小笠原諸島に向けて出発しました。

もちろん当時、ヨーロッパ諸国に比べて日本の航海技術は遅れていたでしょうし、頼りになるのは偶然に小笠原諸島に漂流し、そこから八丈島を経て江戸に生還したミカン船の船員からの口頭での報告だけ。当然一筋縄では小笠原諸島には行けないものの、何とか八丈島を経て小笠原諸島に到着し、この時初めて正式に小笠原の島々を測量し、父島や母島といった名前が命名されました。
そして、これらの島々を総じて「無人島」(ぶにんしま)と名付けたのです。

さらにこの時、調査船は父島に上陸し、ここが日本の領地であることを示す「此島大日本之内也」という記念碑を建てました。

この調査船の期間後、先ほどご紹介した小笠原貞任の事件につながるわけですが、その後幕末までしばらく日本の歴史から小笠原諸島はまた身を隠すことになります。

ヨーロッパに知られた「Bonin Islands」(ボニン・アイランド)

小笠原諸島がヨーロッパにおいて広く認知されるきっかけになったのが、日本に2年ほど滞在していたドイツ人医師のケンペルが本国]に帰国後著した「日本誌」です。
この「日本誌」の中でケンペルは小笠原諸島を「Buneshima」(ブネシマ)と記載していますが、おそらく日本語の「ぶにんしま」がケンペルには「ブネシマ」のように聞こえたのでしょう。さらにそこから、ヨーロッパでは「Bonin Islands」(ボニン・アイランド)と呼ばれるようになります。

「日本誌」と合わせてヨーロッパに広く小笠原諸島が知られたのが、江戸時代後期の評論家、林子平が記した「三国通覧図説」です。ここでいう「三国」とは朝鮮・琉球・蝦夷、つまり朝鮮半島と沖縄、北海道ですね。
「三国通覧図説」ではこれらの地域の特産品や気候などを紹介しているのですが、この書物の中で小笠原諸島が紹介されています。

先ほどご紹介した小笠原家のお話で出てきた「巽無人島記」を林子平も読んだのでしょう。

「小笠原原島いう島だが、今ではみな無人島と呼んでいるのでここでは無人島という名前で記す」

という出だしから小笠原諸島の紹介をしています。

この三国通覧図説がどのような経緯を経たのか、ヨーロッパに流れ、フランス語などんで翻訳して世に出されたのです。

小笠原諸島初の定住者は日本人ではなく・・・

ヨーロッパに広く知られるようになった小笠原諸島は、18世紀から19世紀にかけてイギリス人などが上陸を果たしたものの定住にまでは至りませんでした。

初めて小笠原諸島に定住者が現れたのは、1830年のこと。ハワイからはるばる小笠原諸島に定住のため、総勢23名ほどが小笠原諸島にやって来ました。
主な移住者をご紹介すると、イタリア出身のイギリス人マテオ・マザロ、アメリカ・マサチューセッツ州出身のナサニエル・セーボレー、デンマーク系イギリス人リチャード・ミリチャンプ、チャールズ・ジョンソン、そしてアメリカ人のオルディン・チャピンです。

現在小笠原諸島の父島と母島には2,500人余りの人たちが生活をしていますが、最初に定住したこれらの5名の家系から多くの子孫が誕生し、今の小笠原の人々の生活につながっていることは知っておくべきでしょう。

このように、最終的には日本の領土になる小笠原ですが、定住者はアメリカやヨーロッパ人が最初であり、これが後に小笠原で暮らす人々の試練の1つにも関係してくるのですが、それは後ほどご紹介します。

ペリー来航と日本の開国、そして日本の領地へ

小笠原諸島が再び、日本や欧米を巻き込む歴史の表舞台に慌ただしく登場してくるのは幕末のころです。
開国が目の前に迫っていた日本ですが、イギリスやフランス、アメリカといった列強の国々がアジア諸国に迫りその包囲網を徐々に狭めていた時でした。

当時、ヨーロッパ諸国やアメリカが海に出る大きな理由の1つが捕鯨船でした。クジラを捕獲する目的は食料ではなく、その脂肪から取れる鯨油。ローソクやランプ用、軟膏から、イギリスで産業革命が起こってからは紡績器械の潤滑油としても需要が急増したのです。
ヨーロッパやアメリカは鯨を追い求めて日本の近海までやってくるわけですが、日本でも有数のホエールウォッチング場所である小笠原諸島近海にも捕鯨船が頻繁に訪れるようになります。

そんな幕末の時に、ヨーロッパやアメリカが日本や中国(当時は清の時代)に支配を広げるために欠かせなかったのが、船の中継地点です。ヨーロッパやアメリカから日本や中国といったアジアに船で航海するのに1か月以上もかかる船旅です。食糧や水分の補給場所の確保が死活問題になりますが、当時の日本は鎖国中で海外との交易は基本的には断絶。
そうなると、当時まだ領地がはっきりしておらず豊かな資源に恵まれた小笠原諸島はアメリカやイギリスなどから、有望な補給地として注目され、日本にアクセスする上でも琉球と並んで絶好の中継地点になるわけです。

これに慌てた江戸幕府は急いで1862年、咸臨丸を父島に派遣し、父島に住んでいた人々に小笠原諸島が日本国の領土であることに同意させました。咸臨丸といえば日米修好通商条約締結のためにアメリカに渡り、あの福沢諭吉も乗船した有名な船ですが、アメリカから帰国して間もなく小笠原へも渡っていたことはご存じでしょうか。

そして、国際的にも1876年、小笠原諸島は正式に日本の領土として認められることになります。

欧米が狙っていた小笠原諸島が欧米のものにならず、日本の領土になったことは日本のその後の歴史に大きく影響するものと言えるでしょう。でもなぜ日本のものにすることができたのでしょうか。一つには、小笠原諸島を舞台として欧米の列強間で戦争にまで発展するリスクを考えると、互いにけん制をかけるためにも、当時欧米に比べて弱国であった日本のものとしておくのがヨーロッパやアメリカにとっても都合が良かったのかもしれません。

ちなみに、江戸幕府ももともと小笠原諸島が日本の領土として認識していたことを当然にアピールするわけですが、そのアピールにあたって名前が「無人島」のような名無しの名前ではみっともありません。そこで、小笠原家の伝承を利用して「小笠原諸島」と大々的にアピールしたのです。

これが今日まで続いているわけですが、小笠原家の人々はこれを見てどう思うでしょうか。

歴史上の有名人と小笠原諸島

先ほど、小笠原諸島にはあの咸臨丸も運航していた話をしましたが、実は歴史上の有名人とも関連の深い小笠原諸島。その有名人を2人ご紹介しましょう。

ジョン・万次郎

ジョン・万次郎と言えば、漂流の末に単身アメリカに渡米し、英語をマスター。その後日本でも大活躍する有名人ですが、実は咸臨丸で小笠原諸島に赴き、小笠原が日本の領土であることを説明し、島民に同意させる時にジョン万次郎が通訳をしたおかげでコミュニケーションがスムーズに進み、大きなトラブルにもならなかったと言われています。

ペリー

日本に日米和親条約を締結させ、開国を促したペリーも実は小笠原諸島に立ち寄っています。その理由は先ほどご紹介した、捕鯨船などの中継地として小笠原に立ち寄り、物資等の補給基盤を作るためです。

ペリーは父島に立ち寄り、あのセーボレー家と契約を結び、父島にアメリカ用の石炭や物資の補給基地の設置を行いました。

3.【世界遺産】第二次世界大戦に巻き込まれた小笠原諸島

戦争に翻弄された小笠原の人々

明治維新を経て開国した日本は、西欧列強に追い付け追い越せで必死に近代化を突き進みます。開国までの怒涛の混乱期からの近代化への流れは、わずか半世紀ほどの間の出来事ですが、この時の日本は活気と熱量が爆発していた時期とも言えるでしょう。

富国強兵政策によって、日本が欧米と肩を並べるほどの強国にのし上がり、世界は戦争の時代へと突入します。

東京から遠く離れているとはいえ、小笠原諸島も戦争の渦に例外なく巻き込まれていきました。いえ、むしろ太平洋上の島だったからこそ、硫黄島含めてその試練はより一層過酷なものだったように思います。

戦時中、強制的に本国に送還させられる

まず一番の試練が、第二次世界大戦の真っただ中、1944年に小笠原諸島の島民全員が本土(本州)に強制疎開をさせらたことです。実は小笠原諸島の人口は戦前には6,600人ほどにまで増加しており、この人数を何度かの運航により全員本土に強制疎開させたのですから、驚きです。

もちろん、本土まで数日かかるその道中も決して楽なものではなかったことは言わずもがなです。

いわれのない差別と偏見

先ほど、小笠原諸島の最初の定住者はハワイから来たヨーロッパとアメリカの人々だったとお話ししました。彼らは子孫を増やしながら小笠原で暮らしていたわけですから、小笠原で暮らす人々の中にはその外見が日本人よりも欧米人に近い方も少なくありません。

ただでさえ戦争中に殺気立っている日本国内で、このような外見でいわれのない差別や中傷を受けることも多く、住み慣れたのんびりした故郷の島から離れて慣れない土地での生活にも苦労が多い中、小笠原の人々の戦時中の暮らしが苦労の連続だったであろうことは、想像するだけでも胸が痛みます。

敗戦、そしてアメリカの領土となった小笠原

1945年、日本が完全降伏により第二次世界大戦が終結した後も、小笠原の人々にはまだ苦難が待ち受けていました。それは、日本の敗戦によって小笠原諸島がアメリカの支配下に置かれたこと。

この点で小笠原諸島は沖縄本島と同じ境遇になるわけですが、沖縄と異なるのは、戦時中小笠原諸島は完全に無人化した島になっていたこと。そして戦争が終わりを迎えたからと言って、全員が小笠原諸島に帰還することは叶いませんでした。

当時は今のようにパスポートもない時代。終戦後に小笠原諸島に帰還が許された人々は、ヨーロッパやアメリカからの移民の家系だけだったのです。小笠原からの強制疎開で故郷から引き離された後、またここで小笠原の人々はまたその家系によって引き裂かれることになるなど、戦争とその勝者・敗者の定めの残酷な命運としか言いようがありません。

その後、1972年に小笠原諸島が日本に返還されるまで、20年以上に渡り小笠原はアメリカの領地となりました。

4.【世界遺産】小笠原に暮らす人々の幸せと苦しみ

小笠原の人々の歩み

これまで小笠原諸島の歴史を簡単にご紹介してきましたが、小笠原諸島は以下のような特異な歴史を歩んだ場所でした。

・ハワイからきたヨーロッパ、アメリカ人移住者による定住と開拓の始まり
・明治維新と開国による日本領土への組み込み
・第二次世界大戦中の強制疎開による無人化
・終戦後のアメリカ支配
・1972年の日本への領土返還

今では日本の領土でありながら、その定住のルーツはハワイにあり、さらに第二次世界大戦後はアメリカ支配の影響を大きく受けた小笠原。そこに暮らす人々の生活を少し覗いてみましょう。

最初の定住からの開拓

最初に小笠原諸島に定住をした人々が、土地を開墾し、安定した食糧と水、そして住む家、衣食住を整えるまでの苦労は、実際に体験はしていない人でも想像に難くないのではないでしょうか。

まず小笠原の気候に合う農作物を見つけ、それを一から作物として育て、農作物として安定した収穫にこぎつけるまでには何年とかかるでしょう。
さらに定住して間もないころは、先ほどご紹介した通り捕鯨船や難破船の存在は、彼らへの食糧や水の供給と、その代わりとしての物資の調達も生活を支えるうえでの大きな存在でした。一方で中には海賊のように悪工や略奪などに走る船もあったため、身の危険は常にあったと言えるでしょう。
そして、最初の移住者の中でもリーダーを決めて村社会として統率と規制を築きあげるまでにはいざこざや禍根を残すこともあったようです。

日本の領地になってから戦争まで

明治維新後に正式に日本の領土になってからは小笠原の人口も増え、島での暮らしは不便なことがありながらも島民にとっては幸せなものだったに違いありません。
欧米のルーツを持つ移民と日本からの移民で外見に多少の違いはあれど、島民にとってはそれが大きな差別につながることもなく、むしろい同じ小笠原に暮らす者としての結束のほうが強かったのです。

終戦後のアメリカによる支配と日本への返還

終戦後、小笠原に帰還が許された人々はアメリカによる支配の中での暮らしとなり、生活は少なからず変化します。その大きな要因の1つが英語による教育です。

アメリカによる支配下にあるわけですから、学校での教育言語は当然英語であり、その教育スタイルもアメリカ式でした。この影響は教育を受けた子どもたちの年齢やそれぞれの子どもによっても異なってくるでしょうが、アメリカ軍は島民の生活基盤を整えるサポートをしたり、また島民との交流(イースターやハロウィンなど)を行うなど、決してマイナスな影響だけだったわけではないようです。

アメリカによる統治が20年以上も続いたわけですから、小笠原に暮らす人にとってもすっかりその生活スタイルは馴染んでいたのでしょう。このため、日本への返還が決まり、アメリカ軍が小笠原から撤退し、急に言語が日本語に切り替わるなど、小笠原の人々にはむしろ戸惑いのほうが強かったようです。

小笠原諸島の人々にとってのアイデンティティー

これまでご紹介してきたことから、小笠原諸島の人々にとってのアイデンティティーは複雑な背景があることがお分かりいただけたのではないでしょうか。

戦時中は同じ日本国民でありながら、強制疎開先の本土での差別や偏見、そして終戦後に小笠原諸島に帰還できた人々と許されなかった人々、さらにアメリカによる支配下で育った人々、そして日本による返還で大きな影響を受けた人々-。

小笠原諸島に暮らす一人ひとりによってもその人生の中で味わった体験や境遇が千差万別である中、小笠原の人々は「自分はいったい何者なんだろう?」という問いに悩み、自問自答し続けた人が多かったようです。

日本人か、アメリカ人か-。

そんな簡単に割り切ることのできない事情が、小笠原諸島に暮らす人々にはあり、日本に返還が決まった後も、小笠原諸島に残る人、日本の本土に移る人、グアムやアメリカに渡る人、それぞれが新たな人生へと一歩を踏み出したのです。

 

いかがでしたでしょうか。世界遺産の登録には直接関連はないものの、その特異な歴史を知ることは小笠原諸島やそこで暮らす人々を知ることにもつながります。なかなか旅で訪れる機会を作るのが難しい小笠原諸島ですが、もし現地を訪れた時はこの歴史も思い返してみてください!

 

(参考:「小笠原を発掘する」小田 静夫  ニューサイエンス社、「小笠原諸島をめぐる世界史」松尾 龍之介 弦書房、「小笠原クロニクル」山口 遼子 中公新書」)

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