世界遺産の楽しみ方

夢窓疎石(国師)から知る京都の世界遺産・西芳寺(苔寺)と天龍寺の庭園

京都の世界遺産と言えば庭園も魅力の一つ。実はその中でも特に有名な天龍寺、西芳寺(通称:苔寺)の庭園は同じ人物によって手掛けられ、その人物はさらにあの金閣寺と銀閣寺にも影響を及ぼした偉人であることはご存じでしょうか。
その人物の名は夢窓疎石(国師)。今回はこの夢窓疎石を通して京都の世界遺産(天龍寺、西芳寺)をご紹介します!

夢窓疎石(国師)ってどんな人物?その生涯と禅

生い立ち

夢窓疎石(むそうそせき)。筆者はこの名前と文字を見たとき、どこか思想家のような、また堅物のようなイメージを持ちました。皆さんはいかがでしょうか。
ピンと来られた方もいるかもしれませんが、これは本名ではなく、夢窓疎石が禅の教えに目覚めた時のエピソードを元に自らに付けた名前です。

1275年、現在の三重県である伊勢国で生まれた夢窓疎石の人生は日本各地を転々とする流浪の人生であったといえます。もちろん、それは夢窓疎石が自らの意志でそうしたことですが、幼い時からそのような運命はすでに始まっていました。

4歳のころ、母親の一族間で争いが勃発し、これを避けるために夢窓疎石は家族とともに山梨県(甲斐国)に逃れます。
その後、幼いころから仏心に目覚めていた夢窓疎石は9歳で出家し、主に天台の教義を密教を学びました。そして18歳の時に奈良の東大寺に行き、登壇受戒を経て正式な僧となるのです。

この遍歴を見ても、夢窓疎石は幼くして天才の片りんを見せていたのだと感じますよね。そして、この頃までは夢窓疎石はどちらかと言えば天台の教義に傾倒していたと言えます。
そんな夢窓疎石の価値観をがらりと変えたのが僧となった翌年、19歳の時の出来事でした。

禅宗への目覚め

天台の教学を学んでいた夢窓疎石でしたが、講師の死に際が見苦しくみっともないものであったのを目の当たりにして、一気に幻滅してしまいました。
実際にどのような死に際だったのかは分かりませんが、崇高でそれこそ凡人には到底たどり着けない教えの境地に達しているはずの仏僧が、死ぬ時は凡人と同じように生きることに執着し、未練を残すような姿を見てしまうと、これまで一生懸命に信じてきた仏道は何だったのだろうと思ってしまうかもしれません。

これがきっかけとなり、夢窓疎石は単に言葉や文字だけで学ぶことの意義に疑問を抱くようになり、それらに頼らない禅宗に関心を寄せるようになったのです。

同じ年、夢窓疎石は道場に仏像を置いて100日間の瞑想に入り、自ら進むべき道への仏の教えを乞うことにしました。その97日目のこと、夢窓疎石は不思議な夢を見ます。

夢の中で夢窓疎石はとある人物に「疎山」と「石頭」という2つの寺に案内され、そこで長老から一幅の軸を譲り受けました。この軸には達磨の上半身が描かれていたと言います。
達磨と言えば禅宗の開祖ですが、この出来事も相まって夢窓疎石は名前に夢で出てきた2つのお寺から文字をとり、「礎石」と名乗るようになり、以後禅の道を探求していくことになるのです。

修行と流浪の日々

禅に目覚めてからの夢窓疎石は、ストイックに修行の日々を送り日本各地を転々としました。

まず徳照という僧から、「「禅を知りたければまず叢林(そうりん:禅宗の寺)に入り、規矩(きく:教え)を学んでから深い野山に分け入り、仏法を求めて修行をするのが良い」というアドバイスを受け、京都に向かいます。
難しい言葉ですが、禅宗(臨済宗や曹洞宗)の寺を総じて「叢林(そうりん)」と言い、禅宗におけるルール(教え)の事を「規矩(きく)」と言います。

そのアドバイスに従い夢窓疎石が向かったのが京都の建仁寺。ここで無穏円範(むいんえんぱん)の下で修業に励みましたが、翌年には鎌倉青龍寺東勝寺の無及徳詮(むきゅうとくせん)さらには建長寺の葦航道然(いこうどうねん)、円覚寺の(東渓徳悟:とうけいとくご)の元で修業するなど、場所を転々と変えていきます。

ちなみに上記のお寺はすべて大覚派の禅寺になります。

このように場所を変えて禅の道を追求した夢窓疎石でしたが、この時に特に教えを乞う相手として熱望していたのが一山一寧という元からの渡来僧でした。
この一山一寧の元にも参じたのですが、最初の訪問では運悪く会うことが叶わず、その後再び会って教えを乞ようとした際にも、結局断られてしまいます。

皆さんもよく聞く「禅問答」という言葉があるように、禅における問答等は教義的なものではなく、その道の人の力量とアドリブが問われるもの。たずねて行ったからと言って、簡単に教えを乞うことができるというものでもないのです。また、元からの渡来人であった一山一寧からすると、言葉の壁もあったのかもしれません。

禅の悟りを開く

夢窓疎石はその後、後嵯峨天皇の皇子であった高峰顕日の元に行き、ここでの問答で自らの未熟さを痛感。修行をし直すため、奥州の山奥に籠って修行の日々を過ごしました。

そんな修行でのある日のこと、夜まで瞑想にふけっていた夢窓疎石は庵に戻ったのですが、周りは暗くて何も見えません。その庵の中で、そこにあるものと思っていた壁に寄りかかろうとして、そのまま地面にこけてしまいます。

この何でもない、ちょっと間抜けな所作で夢窓疎石は開眼したのです。
「自分はこれまで多くの年月を費やして禅の道を極めんとしてきたが、あるはずと思っていた壁は実は自分の中で勝手に生み出していたものだったのだ。自分は自らが植え付けてきた壁の前で悩んでいたに過ぎない。」
と。

ある意味壁を突破した夢窓疎石はその後、再び高峰顕日の元に行き問答を行い、高峰顕日から印可(禅の教えに関して師が弟子を正当な後継者として正式に認めること。)を受けました。31歳の出来事です。

修行と隠居の日々

これまでの道のりを見ても、夢窓疎石は鎌倉と京都、そして奥州を行き来しているわけですが、電車や自動車もない当時にこれだけ離れた場所を行き来するというのは、どれだけ大変なことだったかと思います。
(もちろん禅の道に入った夢窓疎石からすれば、場所やどれだけ離れているかなど、まったく意に介さなかったことでしょう。)

禅の道を「マスター」した夢窓疎石はその後も変わらず各地を転々して修行の日々を送りますが、すでにその名前も知れ渡っていた夢窓疎石の元には多くの弟子たちが集まってきます。
夢窓疎石はそうした多くの弟子たちに自分が教えを施す煩わしさも相まって、場所を変えては修行に専念できる地を探しました。

このような日々は31歳で印可を受けてから、実に50歳近くになるまで続くことになります。

それでも、徐々に政治の表舞台からのお声もかかり、夢窓疎石の人生の後半はどちらかというと教えを施すことで衆生救済の道だったと言えるでしょう。
隠居の日々から表舞台に出た夢窓疎石。その時の心情とその後の足取りを、当時の歴史背景と合わせて追っていきましょう。

夢窓疎石が生きた時代

天下動乱の時代

夢窓疎石の生涯の後半をご紹介する前に、夢窓疎石が生きた時代をご説明しておきます。簡単に言えば、夢窓疎石が生きた時代というのは日本史においてもメガ級の出来事が目白押しの、波乱に満ちた時代でした。

まず夢窓疎石が生まれる前年に元寇が起こりました。その7年後に2回目の元寇があり、ピンチを乗り切った当時の鎌倉幕府でしたが、急速に衰退していくことになります。

その後何が起こったか。日本史を学ばれた方ならお分かりかと思いますが、1324年、正中の変で後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を企てるも失敗。ですが、その後1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政、南北朝時代と混乱の時期が続きました。

この南北朝時代が室町幕府、足利義満により終焉したことでそれまでの天皇制の権力は一気に地に堕ちるとともに、武家が完全に政治経済を仕切り、下剋上で実力主義の時代へと進んでいくことになります。

夢窓疎石が生きた時代というのは、まさに歴史が大きく動いていた時代なのです。

表舞台に出た夢窓疎石

話を夢窓疎石に戻しましょう。禅において高峰顕日より正当な開祖の称号を受けた夢窓疎石には、時の権力者たちも自ら進んで弟子の門戸を開きに来ました。
特に夢窓疎石を招聘するなど、関係があったのが北条高塒、後醍醐天皇、そして足利尊氏です。いずれも時の実権を握ったトップぞろいですね。特に後醍醐天皇と足利尊氏は夢窓疎石と子弟の関係まで結んでいることから、いかに彼らが心酔していたかがお分かりいただけるかと思います。

政治の権力者からも熱い視線を注がれていた夢窓疎石ですが、その招聘を容易く受け入れたわけではなく、むしろ再三にわたってこれを拒み続けています。
その理由は定かではありません。これまで見てきた通り、隠居と修行の身を貫きたかったのか、疎石なりに時代の流れを感じ取り、安易に誰かの保護を受けるべきではないと思ったか-。
ですが、結果的にこのような夢窓疎石の立ち振る舞いは功を奏したと言えるでしょう。

夢窓疎石の足取りを追っていくと、まず1325年、51歳の時に一度断るも後醍醐天皇からの招聘により南禅寺に住を移します。ですが、その翌年には京都を離れ、熊野に参拝。
さらに55歳のころ、一度招聘を断ったものの、北条高時からの招聘により円覚寺へ。

還暦を過ぎたころには鎌倉幕府の崩壊、建武の新政から後醍醐天皇の崩御まで立て続けに出来事が起こり、これに心を痛めた夢窓疎石は、足利尊氏に戦没者を弔うために全国に安国寺と利生塔の設置を進言しました。

このように京都と鎌倉を行き来して布教にも携わった夢窓疎石が京都の世界遺産、苔寺で知られる西芳寺の中興開山となったのは65歳、天龍寺の開山で法堂開きを行ったのが71歳のこと。そしてそのわずか6年後、77歳で入滅されました。

生涯の多くを流浪と修行に費やした一方、最後の20年弱では安国寺と利生塔の設置や西芳寺、天龍寺の開山などにも注力した夢窓疎石はなんと歴代7人の天皇から国師の号を授かり、「七朝帝師」とも呼ばれています。

夢窓疎石はなぜ庭園を作り上げたのか?

夢窓疎石の言葉から見る庭園の意味

夢窓疎石が西芳寺、そして天龍寺の庭園を設計をしたのは人生が熟した60歳中盤から70歳にかけての事でした。そのような時期に、庭園を造り上げる夢窓礎石のパワーにも驚かされるのですが、夢窓疎石が手掛けた庭園はなぜこれほどまでに素晴らしいのでしょうか。

これまでお読みいただければ薄々感じられるかと思いますが、夢窓疎石が庭園を造る理由は何も趣味や興のためではなく、あくまでも禅の教えの一環であることをまず知っていただきたいと思います。
その生涯の大半を山野の奥地での修行に費やした夢窓疎石ですが、なぜ人里離れた自然の奥地に修行の地を求めたのでしょうか。

夢窓疎石が残した有名な言葉を2つご紹介しましょう。

大円覚を以て我が伽藍とす

ある時、弟子が夢窓疎石に質問をしました。なぜそんなに頻繁に修行の場所を変えるのでしょうか、と。

これに対しての夢窓疎石の回答が、「大円覚を以て我が伽藍とす」ということでした。簡単に言えば、
「私は常に仏の広大な仏智の中に身を置いている。だから東へ行こうが西へ行こうが、場所そのものは何の意味もない。」
という意味です。
場所に囚われず、自己の中に確固たる信念と仏心があればどこにいようとそこが修行の場所となる、ということなのでしょう。

表面的なものに囚われず、実質を見る、禅の教えらしい答えです。

「山水」の例

夢窓疎石は「山水」、今でいう庭園に対して次のような言葉を残しています。

「庭園を一生懸命造る人がいるが、その目的は全く異なる。他人を気にして、自らの佇まいを風流に見せるために庭園を造る者、私財を使って世の珍しい奇石や植物を集める者。いずれも世俗に囚われた愚かな行為である。また、庭園を仏道修行の助けとする者もいるが、そのような者も庭園と仏道修行を別々に捉えている時点で不十分と言わざるを得ない。真に庭園を愛する者というのは、その自然の中に自己の本分があるものとわきまえ、その四季の移ろいや自然の動きの中に様々な感情や自己の中の変化があることを見出すことができる人だ。」

 

なんとも難しく、分かるような分からないような、、という感じではないでしょうか。ですが、夢窓疎石が景勝地と言われる見事な自然の中での禅の修行を好んだ理由はこの言葉に表れているのではないでしょうか。
夢窓疎石自身も長い間自然の中に身を置き、そしてそこである種の「気づき」を得たことで禅の開祖の一員に身を置くわけですが、そこには自然の中にこそ自分を含め、あらゆるものの本分が現れているのだとする夢窓疎石の一種の信条があるように思います。

禅における庭園

夢窓疎石が庭園を造り上げる理由は、紛れもなく庭園を通して禅の教え、そして自分の本分をしっかりと見つめ、物事の本質に気づきを得ることにあると思います。

「庭園はあくまでも人の手が加わったもので、自然とは違うじゃないか」

そう思われる方もいるかもしれません。ですが、禅の考え方からすれば、人工であろうが自然であろうが、そのこと自体が本質的では無いと言えるでしょう。あくまでも庭園は禅の教えを得る1つの手段でしかありません。そして、その手段が庭園である必要もないのです。

筆者は禅を理解しているわけではありませんが、禅の教え、つまり真実は揺るぎのないものでしょう。ですが、そこにたどり着く手段は様々にあり、それは違う道を歩んできた人によっても違うのでしょう。
そうした中で、庭園というのは自然の移ろいを見せてくれるものとして、禅の教えを知る手段としては最適なものなのではないでしょうか。

夢窓疎石が庭園を造った理由は純粋な禅と衆生救済の目的ではありますが、自然の中に身を置いてきた夢窓疎石だからこそ、彼が造り上げた庭園は禅の意味を超えて普遍的な美しさもあるのではないかと思います。

夢窓疎石と京都の世界遺産(西芳寺と天龍寺)

最後に、夢窓疎石が手掛けたとされる京都の世界遺産、西芳寺(通称:苔寺)と天龍寺をご紹介します。

世界遺産:西芳寺(苔寺)

西芳寺は金閣寺や銀閣寺をはじめとして、その後多くの寺院庭園に影響を及ぼした、日本庭園の元祖とも言える場所です。そんな西芳寺の庭園は通称苔寺、と呼ばれている通り鬱蒼とした深緑の苔に覆われた庭園が特徴ですが、夢窓疎石が造り上げた当初からこのような姿だったのかは定かではありません。

そしてもう1つの特徴がもともと西芳寺の前身をルーツとする上下二段の構成になっていること。上段が厭離穢土寺を前身とし、洪隠山の麓に造られた枯山水式の庭園、下段が西「方」寺を前身とし、浄土式庭園の名残を残す庭園になっています。

この庭園を通じて夢窓疎石は何を伝えているのでしょうか。そのヒントになり得るのが、庭園の各所に名付けられた名前の由来となっている「碧巌録第18則 『忠国師無縫塔』」という唐の故事にあります。

唐の皇帝だった粛宗はそれまで教えを乞いていた禅僧の慧忠に、何か恩返しがしたいがどうすれば良いかを聞きました。すると、慧忠はただ一言「無縫塔(継ぎ目のない塔)が欲しい」とだけ言い残します。
忠国師(慧忠)の言葉の意味が分からない粛宗は、その真意を知るために弟子に無縫塔の意味を問いただすのですが、端的に言ってしまえば「そのようなモノを欲しているのではない。言葉とモノに囚われるな」ということかと思います。

時はちょうど南北朝時代。2つ朝廷がお互いの覇権を争っていた時代ですが、そこに上下二段構成の西芳寺に通ずるものがあるのかもしれません。
西芳寺が見せてくれる厭離穢土のごつごつとした枯山水と、浄土式の命溢れる苔寺。一見正反対の世界を一体として表現することで、生と死が一体であり、身近な存在であること。だからこそ、北朝と南朝に分かれて一時の覇権を争うことの無意味さを示したかったのかもしれません。

世界遺産:天龍寺

世界遺産・天龍寺に行かれたことのある方なら、その見事な庭園の中に長時間いてもまったく退屈せず、むしろ名残惜しさすら感じたのではないでしょうか。

それほど素晴らしい庭園を持つ天龍寺ですが、もともとはこれまでもその名前を挙げた後醍醐天皇の弔いのために創建されました。庭園の背景にある亀山は、後醍醐天皇が住まわれていた亀山離宮があった場所でもあり、その場所に後醍醐天皇を弔う寺院を建てたというわけです。

そう考えると、天龍寺庭園で方丈の目の前に広がる曹源池(そうげんち)は後醍醐天皇の冥福を祈る浄土を表しているようにも思います。
曹源池と豊かな自然に目を向けがちですが、天龍寺庭園で最も重要な構成の1つとなっているのが、池の中央奥地に造られた龍門瀑(りゅうもんばく)と呼ばれる石組みのエリアです。

この龍門瀑は、鯉が激しい滝を登りきることで龍に姿を変えるという故事を表したものですが、ほぼ垂直に立った大きな石組みが険しい瀧の姿を表しているようです。

天龍寺において、夢窓疎石は「天龍寺十境」と呼ばれる天龍寺を味わう名所10か所と、そこから読んだ詩を残しています。今でこそ天龍寺は嵐山の一画にありますが、当初は嵐山を含めて今の100倍近い境内を有していたと言われており、その中に10か所の「チェックポイント」を定めたのでしょう。
ちなみに、テレビでもよく見る渡月橋もその1つです。

天龍寺十境で、夢窓疎石はまさに自然の縮図を表現したと言えるでしょう。自然のあらゆる要素を含み、それらが混然一体となって美しい景観を生み出している。これまでお話ししてきた通り、自然の中にこそ自分の本分があると考えた夢窓疎石にとって、天龍寺庭園はまさに集大成と言える存在だったのではないでしょうか。
その中に身を置き、物事の本質と向き合うこと。そして、あらゆるものが調和して美しい自然を生み出していること。そこから、人の世における戦や権力争いの虚しさを伝えようとしたのではないでしょうか。

いかがでしたでしょうか。
もちろん純粋にその美しさを楽しむことも良いですが、ぜひ世界遺産西芳寺や天龍寺の庭園を訪れた際には、それを造った夢窓疎石の心にも触れてみてください!

 

(参考:「夢窓疎石」熊倉 功夫 竹貫 元勝 春秋社, 「夢窓国師」佐々木 容道 春秋社)

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