世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】興福寺を100倍楽しむためのマメ知識5選

古都奈良の世界遺産の1つ、興福寺。

壮大な五重塔が目につきますが、東大寺や春日大社といった同じ奈良の世界遺産に比べると、あまりインパクトが無く少し地味な印象を持っている方も多いと思います。

ですが、実は奈良の世界遺産の中でもこれほど多彩な面白みと人間らしさにあふれたお寺は他にありません。そんな世界遺産、興福寺の魅力をご紹介しましょう。

興福寺の歴史

興福寺の起源

興福寺は奈良七大寺の1つに数えられ、法相宗大本山の称号を持つ由緒あるお寺です。奈良の平城京に都が置かれた時代からこの場所に建てられているわけですから、その歴史は相当なものになります。

実は興福寺の起源としては奈良時代よりもさらに遡り、あの大化の改新で活躍した藤原鎌足が病に伏した際に、その妻であった鏡女王(かがみのおおきみ)が京都の山科に建立を発願した山階寺(やましなでら)に始まったとされています。

藤原鎌足と大化の改新と言えば、日本の歴史を学ぶ際に必ず出てくる人物や出来事ですよね。その人にゆかりのあるお寺が今も存在しているのは、想像してみただけでもワクワクしませんか?

山階寺はその後、壬申の乱を経て飛鳥に移転され厩坂寺(うまやさかでら)と名前を変えた後、奈良に平城京が置かれた際に今の場所に再度移転され、名前も興福寺となりました。

このように、興福寺は藤原氏によって創建されたお寺であり、特定の氏族によって造られたことから「氏寺」という位置づけになります。これに対し、時の天皇やその家系の発願で建てられたお寺を「官寺」と呼びます。

今でいう所の公営・国営と民間をイメージすると分かりやすいかと思いますが、東大寺や薬師寺といった天皇の指揮に基づいて創建されることが一般的だった奈良時代において、氏寺であり七大寺にも数えられている興福寺はまさに異色の存在だったと言えるでしょう。

 

奈良時代以後の興福寺

平安時代に入り都が京都に遷されると、それまで権力を有していた奈良の官寺は次第に力を失い落ちぶれていくことになります。もともと仏教偏重だった当時の日本を変えるという桓武天皇の思惑もあり、東大寺などは平安京に移管されずに奈良の場所に残されたのです。

一方で官寺であった興福寺は、藤原氏の権力がさらに拡大した平安時代には奈良の地にあっても南円堂が建てられるなど、むしろ勢いを増していくことになりました。

ですが、藤原氏の庇護を受けていたとはいえ現在に至るまでずっと安泰だったわけではありません。過去の歴史の中で、自然災害や戦に巻き込まれるなどして何度も焼失の憂き目にあい、その度に復興を繰り返してきました。

もう1つ、興福寺が存続の危機に瀕した時期がありました。それは江戸時代から明治時代に移る19世紀中盤の時期、日本全国に廃仏毀釈のうねりが起こったときです。

神仏習合と神仏分離

日本の歴史において、仏教がアジアから伝わって以降、「神仏習合」という信仰はずっと日本人の精神に根付いてきました。これはもともと自然信仰を持っていた日本人に仏教が融合することで、両者が一体化されて信仰されてきたことを意味しています。

その信仰が揺らいだのが、明治維新の時に発令された神仏分離令です。これは仏教と神を明確に分離し、神社から仏教の色を完全に排除する動きです。

当時の日本政府は神道国家を目指す方針を掲げ、神仏分離を推し進めたのです。

 

興福寺と春日大社

神仏分離令により、興福寺は廃寺同然にまで追い込まれることになります。

なぜ興福寺が大きな打撃を受けたのか。それは、興福寺と春日大社が一体化していた歴史にあります。

藤原氏の氏寺として建てられた興福寺と合わせて、平安時代以降、春日大社は藤原氏の氏神が祀られた神社として扱われるようになり、ここに興福寺と春日大社は一体化されたのです。

一体化は祭事にも表れており、例えば春日大社の若宮祭は興福寺の僧侶が行っています。

春日大社を取り込むことで後にその領地として莫大な荘園が大和国全域に展開され、藤原氏の勢力はさらに増大、安泰となったのですが、それが憂き目を見たのが神仏分離令でした。

神社と一体化していた興福寺は、特に廃仏毀釈の嵐が襲いかかったのです。

 

やがて、行き過ぎた廃仏毀釈が見直され、興福寺も復興が始まり現在の姿になりました。

藤原氏の氏寺として誕生した興福寺。続いて、その異色の存在に至った藤原氏との関係を見てみましょう。

 

興福寺と藤原氏

上図は、興福寺と藤原氏のつながりを示したものです。興福寺の前身でもある山階寺が藤原鎌足の妻であった鏡大王によって創建され、最終的に藤原不比等によって奈良の都に遷されたことはこれまででお話しした通りです。

なぜ興福寺が奈良の都で重要な寺院として位置づけられ、今も世界遺産としてその形を残しているのか-。その1つの理由として、藤原氏が皇族にも匹敵する大きな権力と財力を有していたからであることは間違いないでしょう。

ここでは藤原氏の力がいかに強大であったか、そしてそれがどのように興福寺と関連しているのかをご紹介します。

興福寺と皇族のつながり

上記の図を見てお分かりのように、藤原氏と天皇家がいかに強い血縁関係で繋がっていたのかがよく分かるかと思います。

藤原不比等と妻の1人である賀茂比売との間に生まれた娘の宮子は文武天皇に嫁ぎ、後の聖武天皇の母となりました。また、別の妻である県犬養三千代との間に生まれた光明子は聖武天皇の后となり、光明皇后となります。

聖武天皇からすれば自分の祖父が藤原不比等となるわけですから、藤原氏が皇族と同等の権力を有していたのは当然かもしれません。

東金堂や北円堂などが皇族によって創建されたものこのような血縁関係によるものでしょう。ここに、興福寺は藤原氏だけでなく皇族からの庇護も受ける重要な寺院となったのです。

 

興福寺の名前の由来

一説によれば、興福寺という名前は飛鳥の地にあった弘福寺というお寺の名前から来ていると言われています。この飛鳥の弘福寺は官寺であり、藤原不比等は畏れ多くも官寺の名前を藤原氏の氏寺につけたことになります。

こんな事が許されたのも、藤原氏の地位が当時の皇族とも肩を並べるほどのものだったからでしょう。

 

興福寺の立地と広さ

猿沢池から望む興福寺五重塔

奈良のお寺の中でひときわ大きいのが東大寺ですが、東大寺が創建されるまでは興福寺が、氏寺にも関わらず官寺である大安寺や薬師寺よりも広大な土地を持った奈良の都随一のお寺だったのです。

またその立地も現在の近鉄奈良駅から程近い場所にあり、東向通りの東側、急斜面を登った高台に建てられています。

奈良を訪れた時、多くの人が奈良風景のシンボルでもある猿沢池を散策されたことがあるかと思いますが、夜は猿沢池の奥にライトアップされた興福寺の五重塔が浮かび上がり、幻想的な雰囲気に包まれた素敵なスポットですよね。

猿沢池から興福寺へ向かう時にも急斜面に造られた階段を登って行くことになりますが、ここからも興福寺が高台に建てられていることが実感できると思います。

今でこそ街並みに埋もれてしまっていますが、奈良時代当時では、高台に造られた興福寺の五重塔は平城京からもひと際目につく存在であったに違いありません。

東大寺の創建者と言えば聖武天皇。聖武天皇は藤原不比等を祖父に持ちながらも、皇族の権力を誇示するためにあえて興福寺よりも広大な土地を使って東大寺を創建したのかもしれません。もしくは、立地面では興福寺に劣ることから、広さだけでも皇族のメンツを保ちたかったのかもしれませんね。

このような背景が分かると、寺院の造り手の当時の思いが見えてきませんか。

 

興福寺の設立

最後に、興福寺の設立に関して、いかに藤原氏の権力が凄まじいものだったかが分かるエピソードを1つご紹介します。

当時、官寺を創建する場合、お寺を造る役職が設けられて、その役職が官寺の創建の指揮にあたっていました。

興福寺は藤原氏の氏寺ですのでこのような決まりは無いにも関わらず、興福寺の創建の際には「造仏殿司」という役職が設けられました。官寺でない寺院の創建にこのようなことが適用されるのは異例中の異例と言えるでしょう。

そこには、氏寺でありながらも官寺同等の取り扱いを求め、さらに自らの権力と地位を国中に知らしめて認めさせたいという藤原氏の思惑があったのではないでしょうか。

 

ココが面白い!興福寺

世界遺産の寺院と言えば、どことなく厳格な雰囲気や造りであり細部にわたって創建者の意思が込められているイメージを持たれるかもしれませんが、それに比べると興福寺は逆に人間味の溢れる寺院であると言えるかもしれません。

そんな興福寺のユニークな見どころをいくつかご紹介しましょう。

 

興福寺の伽藍配置図

 

 

上記は興福寺の伽藍配置図ですが、ぱっと見られてどのような印象を持ちますか?

同じ世界遺産の薬師寺や東大寺、法隆寺の伽藍配置図はどこか幾何学的できっちり設計されたという印象を受けるものですが、それに比べると興福寺の伽藍配置図はどこか雑然とした印象ではないでしょうか。

例えば、東金堂と五重塔には回廊が設けられていたのに対し、対となる西金堂には回廊がありません。また、五重塔の対となる場所には多重塔ではなく、南円堂が創建されています。

それもそのはず、前章でご紹介した「興福寺と藤原氏のつながり」の図に記載、興福寺の各伽藍はそれぞれ創建者や時代が異なっているのです。

簡単に創建者と創建年をまとめてみました。

いかがでしょうか。基本的には親族の冥福を祈っての建立ですが、その創建者と建てられた年によって形も大きさもそれぞれに異なります。

それぞれ違うからこそ、創建者の思いがそれぞれに形となった伽藍をぜひその目で堪能してください!

 

興福寺には塀が無い!?

公道からそのまま境内に入る

興福寺を散策していると、少し不思議な気分になります。

広大な境内の中にはところどころに木々が植えられ、また南円堂の近くには自販機やちょっとした休憩スペース。そして南円堂をさらに進むとそのまま公道に。

寺院には良くある立派な門や出入り口、そして塀が無いので境内と外の公道の境目が分かりづらいのです。そして境内にある自販機はまるで公園の一角であるかのよう。

何気無く境内を参拝して、この違和感に気づく方はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。

このような造りになっているのにも当然理由があり、「興福寺の歴史」でご紹介した明治時代初期の廃仏毀釈の動きの名残なのです。

廃仏毀釈の流れによって興福寺は解体され、築地塀なども撤去されて荒廃の極みを辿ります。史実かは確かでありませんが、あの五重塔も競売に出されたという有名なエピソードがあることからも、興福寺は徹底的に解体されたと言えるでしょう。

お寺としての機能を失った興福寺は、やがて公園としての整備が進められ、境内にも木々が植えられることとなりました。現在の興福寺は、公園であった姿の名残なのです。

完全な解体は免れ、時代の変化とともに復興の道を歩んできたものの、興福寺は日本の近世の歴史にも翻弄され続けた寺院と言えます。

興福寺を散策される際には、このような時代背景を知っておくと一味違った情緒を味わえることと思います。

 

興福寺と阿修羅像

興福寺:北円堂

興福寺は世界遺産に名を連ねているだけあり、数多くの国宝が状態よく残されている事でも有名です。数ある興福寺の国宝の中でも最も有名なものの1つが、阿修羅像です。

今回は興福寺の阿修羅像をほんの少しかいつまんでご紹介しましょう。

興福寺の阿修羅像の特徴

阿修羅(アシュラ)と聞いて皆さんはどのような姿をイメージするでしょうか。多くの方が、怒りや険しい表情をした彫刻を思い浮かべるのではないでしょうか。

それもそのはず、阿修羅とはもともとインド神話に起源をもつ神でありその性格は好戦的とされているからです。このため、阿修羅像と言えば険しい表情をして、手には弓矢といった武器を持っている姿の像が一般的。

興福寺の阿修羅像は、このようなイメージとは全く相容れない姿をしています。

実物を観て頂くのが一番分かりやすいのですが、表情は険しいどころか、どちらかと言えば迷いの中にある種の決意を見出ているかのような、何とも言えないもので、その顔は少年そのもの。

また全身も華奢に造られていることからも、仰々しい大人の神というよりは子どもの姿をした神と呼ぶのがぴったり当てはまるでしょう。

なぜ興福寺の阿修羅像はこのような姿をしているのでしょうか。

 

興福寺の阿修羅像に込められた思い

興福寺の阿修羅像は、もともと西金堂に納められていました。西金堂は光明皇后が母である三千代の冥福を祈って創建したものであることはすでにお話しした通りです。

光明皇后は仏教の教えをとても熱心に学ばれた方と言われているのですが、その光明皇后はとても悲しく辛い出来事を経験されました。それは、長子であった基王という子どもの早すぎる死です。

皇太子として生まれた基王は727年の生まれとされていますが、翌年に幼くして亡くなりました。

待望の皇太子の早すぎる死に、光明皇后はどれだけ心を痛めたか、想像するに余りあります。

そしてその6年後の734年、光明皇后は西金堂を創建するわけですが、もし基王が生きていたとしたら7歳ほどの子どもの姿になっていたはずです。

母である三千代の冥福を祈って建てたとされる西金堂ですが、少年のような顔をした阿修羅像は、光明皇后が早くして亡くした皇太子への思いが込められていたのではないでしょうか。

何とも言えない表情をしたこの阿修羅像は観る人それぞれに違った表情、思いを伝えてくれているようで、今でも多くの人を魅了しています。そこには阿修羅像に秘められた光明皇后の思いが宿っていることは確かです。

 

2019年落慶、興福寺中金堂

2019年春に落慶された、興福寺の中金堂。興福寺のど真ん中に見事な姿が復元されました。

五重塔や東金堂の歴史ある雰囲気の外観に比べると、その真新しい外観が少し不釣り合いな気もしますが、こちらの中金堂は興福寺の創建者でもある藤原不比等が建立した、興福寺伽藍の中心となる存在ですので、ぜひ一度足を運んでその姿を堪能してください。

拝観料として500円がかかります。

2019年3月に訪れた際には中金堂の建物だけでしたが、建物の周りには回廊がめぐらされていたようで、こちらも復元されるのか、今後の姿が楽しみです。

 

いかがでしたでしょうか。知れば知るほどその魅力を感じる興福寺。

ぜひ皆さんも一度興福寺を訪れ、阿修羅像はもちろん、藤原氏や皇族たちの思いを感じ取ってください!

 

(参考:「興福寺のすべて」多川俊映, 金子啓明 小学館、興福寺公式ホームページ)

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