世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-を100倍楽しむためのマメ知識4選

2011年に世界遺産として登録された、岩手県平泉(正式名称:「平泉 -仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」)。
平安時代後期、藤原清衡がこの地に浄土思想に基づく理想都市を築き上げました。奥州の都が平泉に置かれた背景、世界遺産が意味するもの、世界遺産に登録された理由など、平泉の魅力をご紹介します!

1.【世界遺産】平泉の構成遺産

構成遺産の概要

世界遺産に登録された平泉。正式な世界遺産名称は「平泉 -仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」と言います。
何だか難しい表現ですよね。この言葉が何を表現しようとしているのかについては、この記事を読み進めて頂ければ自ずとご理解頂けるかと思います。

まず、世界遺産に登録されている平泉の構成資産を一通りご紹介しておきましょう。

中尊寺

国宝でもある金色堂で有名な中尊寺は、奥州藤原氏の初代、藤原清衡によって今のような立派なお寺に造営されました。
金色堂が完成したのは1124年。本尊は釈迦如来になります。

構成遺産に指定されているお寺と本尊に関しても重要な意味を持っていますので、こちらも頭の片隅に入れて頂けると幸いです。

毛越寺

藤原氏二代基衡が造営に着手し、三代秀衡の時に完成したお寺。当時の建造物は火災で焼失、平成元年に建立された本堂を始め一部のお堂があるのみで、今は広い庭園の真ん中に残された大きな池がとても大きく感じます。

唯一平安時代の遺構として残っている、池に水を引く「遣水」(やりみず)が有名。

本尊は薬師如来です。

無量光院跡

藤原氏三代秀衡が建立しましたが、今はその姿を見ることができません。宇治の平等院鳳凰堂を模して創建されたと言われており、当時の姿が残されていればとても荘厳な姿であったことでしょう。

本尊は平等院鳳凰堂と同じ、阿弥陀如来です。

観自在王院跡

毛越寺に隣接した場所に、藤原氏二代基衡の妻によって建立されたと伝えられていますが、今はその名残である池が残されているのみ。
元々は池の北側に阿弥陀堂が2つ建てられていたと言われています。

金鶏山

中尊寺、毛越寺、無量光院跡の中央に位置する山で、次のような言い伝えがあります。

「金鶏山は、藤原秀衡公が平泉鎮護のため、黄金で雌雄の鶏を造り、漆詰めにして埋め、富士の形に築き上げられた山である。」

この伝説を信じて金鶏山から金鶏を盗み出そうとした盗人がいたのですが、その際の発掘跡から経筒や壺といった埋葬品が見つかり、この山が経塚として信仰されていたことが分かっています。

そしてこのことが、実は世界遺産の平泉を表す上でなくてはならない重要な存在なんです。そのため構成遺産としても登録されているわけですが、その理由は後ほどご説明します。

世界遺産が意味するもの

以上が世界遺産、平泉の構成遺産になります。それでは世界遺産としての平泉は何を表しているのでしょうか。ここでもう一度世界遺産の正式名称を見てみましょう。

「平泉 -仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」

ここでいう仏国土とは、その後ろにかっこ書きがされているように、浄土の世界を意味します。藤原清衡が奥州平泉に一大勢力を築き上げた時代は12世紀のおおよそ100年、平安末期の頃です。

この時代には仏の力が衰退し、世の中が混乱するという「末法思想」が広がり、貴族を含めて人々は極楽の浄土に思いを馳せていました。

平泉は、そんな極楽浄土をこの世に表現した都市として世界遺産に登録され、構成遺産はそれを示すものというわけです。

ですが、構成遺産だけでなくこの「平泉」という地にも、初代奥州藤原氏の清衡の深い意図が隠されていることをご存じでしょうか。

2.【世界遺産】平泉という場所が持つ深い意味

平泉に奥州の都が築かれるまで

前九年の役(1051年-1063年)と後三年の役(1083年-1089年)を生き抜いた藤原清衡。この2つの争いにより、奥州を支配していた安部氏、清原氏は滅ぶことになります。

後三年の役の後、それまでの安部氏、清原氏が担っていた奥州六郡・山北三郡の俘因長(ふしゅうのちょう)を引継いだ清衡は、その後、京の藤原家との親密な関係を築き、着々と奥州での勢力を伸ばしていき、奥州の押領使(おうりょうし)に任命されます。

ここで、俘因長と押領使について簡単にご説明しますと、
・俘因長:朝廷の政権に従って、蝦夷(えみし)の取りまとめを行うリーダーのようなポジション
・押領使:国府の隋兵を従えて、国内の治安や年貢の取りまとめ、運搬までにも携わるに役職(ここでの「国」は、奥州のこと。)

平泉に都を置いた地理的な理由

現在の平泉駅前

さて、押領使に任命された清衡は、奥州の都の造営に乗り出します。その場所に選んだのが、ここ平泉でした。

実は平泉を都の場所として選んだ背景には、いくつかの深い理由があったのです。

奥州の「中心」

© OpenStreetMap contributors

地図で平泉の位置を確認してみると、面白いことに気が付きます。

清衡の時代、陸奥国は、関所が置かれた白河の関から以北とされていました。そこで、白河と青森県の外ヶ浜、その間にある平泉を繋いでみると・・・

なんと、平泉は白河と外ヶ浜のほぼ中心地に当たることが分かります。その距離も、約230kmとほぼ一致する、とても正確な場所です。

それもそのはず、清衡は奥州の整備に際して、白河の関を通じて東国へと続く奥大道を、北は外ヶ浜まで整備しました。その際、一町(106メートル)ごとに笠卒塔婆を建て、その表に金色の阿弥陀如来を図絵したと言われています。

そして、この道のちょうど真ん中に中尊寺の建立を計画したのです。

北緯39度とシルクロード

ちなみに、平泉は北緯39度に位置しますが、同じ緯度で西に目を向けると五台山・敦煌・カシュガル・サマルカンド・イスタンブールを経てローマが見えてきます。
そう、シルクロードです。

シルクロードを伝って中国から日本に伝来された仏教の最東端が平泉というわけです。
ここにも清衡の意図があったと考えるのは考えすぎでしょうか。

四神具足の地

平泉は、古代中国から伝わった風水の考えからも、とても縁起の良い場所であるとされていました。その理由が、「四神具足の地」と考えられていたからです。

四神とは、青龍・白虎・朱雀・玄武を指しますが、それぞれの霊獣が特定の方角を司っていると考えられています。つまり、

青龍=東、白虎=西、朱雀=南、玄武=北

です。

ちなみに、平城京跡の朱雀門も、平城京の「南」の正門であることから、南を司る朱雀の名前が入っています。

© OpenStreetMap contributors

さて、平泉の上空図を見てみましょう。地図真ん中が現在の平泉町になります。

風水では、東に流水、西に大道、南に池、北に岳がある場所が望ましいとされていました。

地図と照らし合わせてみると、東に北上川、西には昔、大奥道という東国への道が清衡によって整備されていました。そして、南には低湿地帯があり、北には関山(中尊寺の山号)があり、まさに風水上の条件と一致していることが分かります。

平泉造営に見える、清衡の意思

平泉駅

「平泉」という場所が持っている重要な意味について、2つご紹介してきましたが、ここで改めて当時の清衡の状況を考えてみます。

先ほど記載した通り、清衡は後三年の役の後、奥六郡・山北三郡の俘因長と陸奥国の押領使に任命されます。この、「奥六郡・山北三郡」というのは、平泉の少し北にある衣川から北の領域(現在の秋田、青森県まで)でした。

中尊寺がある山号は「関山」と名づけられましたが、ここには当時奥六郡との境である関所があったことから、「関山」と名付けられたと言われています。

俘因長が蝦夷を取りまとめる役割だったとお話ししましたが、当時、奥六郡・山北三郡は蝦夷の地と考えられ、根強い差別の対象となっていました。

また、これを踏まえると、当時の清衡には、奥六郡の管轄外である平泉を治める権限は有していないことになります。

それではなぜ、清衡は敢えて自分の管轄外である平泉に、都の造営をこだわったのでしょうか。

蝦夷という「差別」との戦い

【世界遺産】平泉の都に託した平和への願い~藤原清衡の生涯~

この記事でもご紹介してきた通り、清衡はそれまでの人生で「蝦夷」という差別を何度も目の当たりにし、それによって争いが引き起こされてきたことも身を持って経験してきました。

そもそも「蝦夷」という差別は、当時の都、教徒から遠く離れた「みちのく」の地では、まともな文化も浸透しておらず、野蛮な人々が暮らしている、という偏見が生み出したものです。

清衡は、そんな偏見や差別に対抗するため、京の都にも負けない、立派な都をここ平泉に造ろうと考えました。そして、その拠り所としたのが、仏教という文化の力だったのです。

「力では争いを生むだけで、何も解決しない。人々が心の拠り所としている、仏教の力を体現した、京の都にも引けを取らない都を造れば、人々の見る目も変わり、差別も無くなるのではないか-。」

そんな思いを抱いていたのかもしれません。

清衡が、奥六郡からわずかに衣川を超えて平泉に都を造った理由。それは、まず「蝦夷の地」から一歩を踏み出すことだったのです。

物理的な距離はそれほど大きくありません。ですが、それが持つ意味は、当時の日本の状況を知ると、とても重要なことだったと分かります。

3.【世界遺産】平泉に創られた仏土(浄土)の世界

毛越寺:大泉が池

中尊寺に見る藤原清衡の信仰

平泉に奥州の都を築いた藤原清衡は、1105年、もともとこの地で開山されていた中尊寺に多宝堂と呼ばれるお堂を建て、今に繋がる伽藍の増築に取り掛かりました。

清衡が中尊寺に奉納した願文には、中尊寺が誰でも分け隔てなく平等に苦悩を取り払い、救いを手を差し伸べるとともに、これまで戦で散っていった多くの命が極楽浄土へ往生することを願うための希望と鎮魂の場であることを切に願った清衡の思いが込められています。

この願文には「普皆平等」(ふかいびょうどう)という言葉がありますが、清衡は「誰もが等しく救われる」という平等の精神を強く持っていたのです。
多宝堂という名前は、法華経に出てくる「多宝如来」にゆかりの名前ですが、法華経の中で釈迦が「平等」の精神を現世に生きる人々に広く説き、救済に努められたというエピソードがあります。清衡が法華経を厚く信仰した理由もここにあると考えられます。

また、中尊寺の本尊は釈迦如来ですが、これも法華経信仰に由来するものでしょう。そして釈迦如来は現世、または過去を司る如来です。

前九年の役、後三年の役と度重なる戦で父親や妻子を殺された清衡。「蝦夷」と呼ばれ、京の都から遠い遠方の地というだけで受けた差別や一族での争いを経験した清衡にとって、「平等」と「平和」がどれだけ尊いものか、痛いほど伝わってきませんか。

そんな清衡の根底にある平等と平和への願いが、中尊寺には込められているのです。

毛越寺・観自在王院・ 無量光院・金鶏山で完成された浄土の世界

清衡のこの思いは、その後を継いだ息子(基衡)と孫(秀衡)にしっかりと受け継がれていました。

息子の基衡が建立した毛越寺、孫の秀衡が建立した無量光院はいずれも浄土式庭園を有するお寺であり、末法思想の当時にあって浄土への信仰がより一層強いものだったことが分かります。

一方、毛越寺の本尊は薬師如来ですが、薬師如来は現世を司る如来です。末法の世の中にあっても、清衡同様、息子の秀衡もあえて現在の世に救いを差し伸べることにこだわっていたことが分かります。

そして孫の秀衡により完成された無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂に倣って創建されたと言われていますが、当時は宇治の平等院鳳凰堂をもしのぐほどの荘厳な姿であったそうです。その姿を今私たちが目にすることができないのが本当に残念ですよね。

無量光院の本尊は阿弥陀如来。来世、つまり浄土を司る如来です。そう、秀衡の無量光院によって、中尊寺の釈迦如来、毛越寺の薬師如来に阿弥陀如来が加わり、これで過去・現世・来世を司る如来がそろったのです。

ちなみに、無量光院は平等院鳳凰堂そっくりの姿だったと言われていますが、この本堂は東向きに建てられており、ちょうど太陽が沈む時には本堂の後ろに太陽が沈んでいくように設計されていました。
「西」というのは極楽浄土がある方角と信じられていたからです。

さらに、この無量光院で太陽が沈んだ西の先にあるのが金鶏山なんです。実は当時、浄土の地ははるか遠くの山中にあると信じられていました。当時の人々が無量光院のその先にある金鶏山に太陽が沈んでいく姿を見ながら阿弥陀如来を拝んだ姿が想像できますが、まさに金鶏山の山中、もしくはその彼方にある浄土を祈っていたのでしょう。

いかがでしょうか。
中尊寺と毛越寺で過去、そして現世を生きる人々に救いのご加護を祈り、無量光院で金鶏山に眠る浄土の地に思いをはせながら阿弥陀如来を拝む。
平泉全体が仏土(浄土)である、という意味がお分かり頂けたのではないでしょうか。

これだけでも感嘆せざるを得ないのですが、実は清衡の信仰はこれにとどまらず、さらに壮大なものだったのです。その手がかりが中尊寺金色堂にあります。

清衡の仕掛けた壮大な信仰世界とは?

中尊寺金色堂の須弥壇の下には、藤原清衡を始め、基衡、秀衡、そして四代目の泰衡の亡骸が金の棺に入れられて今も安置されています。
この点で中尊寺金色堂は藤原氏の霊廟とも言えるわけですが、平安時代後期でも埋葬方法としては火葬が一般的だったのに対し、藤原四代に関しては火葬ではなくそのまま棺に埋葬されており、この理由ははっきり分かっていません。

ですが、ここで1つの仮説をご紹介しましょう。

この記事の最初に構成遺産の1つ、金鶏山は経塚として信仰されていたとご紹介しましたが、経塚というのは、末法思想の世で仏の教えが衰えた時代において、56億7千万年後に弥勒菩薩が下生してこの世の中を救済してくださる時まで、大事に経典を保管しておくタイムカプセルのようなものです。

金鶏山は、当時の平泉においても確かに末法思想が蔓延し、未来仏である弥勒信仰があったことを示しています。

これとこれまでのお話をまとめて考えてみると、次のような清衡の思惑が見えてきませんか。

清衡は金色堂で黄金に守られながら、間違いなく極楽浄土への往生を願って眠りにつき、はるか遠い未来に弥勒菩薩が下生する時を静かに待つ。
無量光院に見事なお堂を築き、その西側に金鶏山を望むことで、極楽浄土を金鶏山という現世に造り上げ、そこに経典を埋葬することで、間違いなく末法の世が終わり、弥勒菩薩が下生される時に金鶏山に降り立つ準備を整える。
その時には、極楽浄土に往生している清衡自らが弥勒菩薩となって再びこの世に舞い戻り、その時に真の平和で平等な世の中を創り出す-。

だから、肉体を焼失する火葬ではなく、埋葬されることを望んだ。

いかがでしょうか。ちょっと考えられない話に聞こえますか?でも、平泉の地に浄土を築こうとしていた清衡ならば、あながち全くの空想とも言えませんよね。

4.平泉が世界遺産に登録された理由

ここまでお話を進めてこれば、もう平泉が世界遺産に登録された理由もお分かりかと思います。

「平泉 -仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」という名称の通り、奥州藤原氏が築き上げた平泉という都は、まさに浄土信仰をこの世に具現化した都市だったと言えるでしょう。
つまり、末法思想が広がった平安時代後期の日本、という時代背景と日本で神仏習合として独自の仏教信仰から生まれた寺院建築や庭園様式が唯一無二の貴重な文化遺産として認められたということです。

今はほとんど形をとどめていない無量光院跡など、当時の姿が残っていればどれほど素晴らしかったか、という思いはありますが、形がないからこそ、想像力を働かせて当時の姿に思いを馳せて楽しむことができます。

また、このような世界遺産が生まれた背景には、藤原清衡の壮絶な人生とそれを生き抜いた清衡が切に願った差別のない、平等で平和な世界への願いがあることは忘れてはいけません。

新型コロナウイルス(COVID-19)やテロ、国際紛争など世界で様々な問題が起こっている現代、世界遺産の平泉を訪れてぜひ清衡の思いを体感してみてください!

 

(参考:「平泉 -浄土をめざしたみちのくの都」大矢邦宣 河出書房新社)

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