その地名が世界遺産となっている、岩手県の世界遺産、平泉。
特に有名なのは中尊寺金色堂ですが、世界遺産として認定された背景には平泉がある思想を見事に具現化した場所であることが挙げられます。
その思想は仏教に基づくものではありますが、その根底にあるのは「平和への強い願い」なのです。
今回は、平泉が誕生するきっかけとなった、創健者の藤原清衡の波乱万丈の物語をご紹介します。これを読めば、平泉を訪れたときに優しい気持ちに満たされると思います!
1.【世界遺産】奥州の都:平泉の創健者、藤原清衡の出生
平泉の創健者、藤原清衡は陸奥国(現在の福島~岩手エリア)の豪族・藤原経清と、陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市から盛岡市あたり)を治めた安倍頼時の娘、有加一乃末陪の間の子として生まれました。
平安時代後期の1056年の生まれとなっています。
また、清衡には実衡という兄と家衡という弟がいました。
ですが、実衡というのは清衡の父、経清亡き後に母が嫁いだ清原武貞の嫡男であり、血は繋がっていません。弟の実衡も、母と武貞の間に生まれた子どものため、清衡とは父親が異なることになります。
なぜこのような複雑な関係になったのか、それは後ほどお話ししますが、この複雑な家の関係も、この後の清衡の人生に一大事をまき起こすことになるのです。
そして、現在の東北地方で生まれたことも清衡の人生に大きな影響を与えることになります。
順を追って見ていきましょう。
2.「みちのく」という”差別”
今では普通に使われている「みちのく」という言葉。もともと、「道の奥」という言葉から来ており、東北地方を指す時に使われる言葉です。
皆さんは「みちのく」という言葉にはどのような印象をお持ちでしょうか。「道の奥の神秘的な場所」というイメージをお持ちの方が多いと思います。
平安時代、岩手県は陸奥国と呼ばれていました。これも「陸の奥」ということで、みちのくと同様、どこか都会から遠く離れた僻地というニュアンスがあります。
平安時代の都といえば、京都。そこから東北というのは、はるかに遠い場所でした。
そして、京の都から遠く離れた陸奥国に住む人々は「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、都に住む人々からは「野蛮な人々」という差別が定着していました。
陸奥国で生まれた清衡もこの差別を目の当たりに受けたことでしょう。
日本史でよく出てくる言葉、「征夷大将軍」。
文字を見てピンと来られた方もいるかと思いますが、もともとこの役職は、奈良時代から平安時代前期にかけて、陸奥国の蝦夷の争いを官軍が平定したことから、当時の官軍を率いていた坂上田村麻呂に与えられた役職です。
まさに(蝦”夷”を”征”伐)から征夷大将軍と名付けられました。
これ以降、陸奥国は遠い都からは常に差別と警戒の目で見られることになったのです。
そして、ついに悲劇が起ります。それが、前九年の役です。
3.「みちのく」の差別が引き起こした「前九年の役」
清衡が生まれる少し前、1051年ごろ、陸奥国において、陸奥国奥六郡を治めていた豪族の安倍氏は、安定した勢力を保持していました。
清衡から見ると、母親のお父さんにあたるので、おじいちゃんになりますね。
この安倍氏の勢力拡大を恐れた国(当時の朝廷)が、口実を作り上げて(※諸説あり)その時の陸奥守(陸奥国(=蝦夷の地)を監視、監督する役職)であった藤原登任(ふじわらのなりとう)に征伐を命じました。
ですが、当時強い勢力を持っていた安倍氏(清衡のおじいちゃん)の前に藤原登任は敗れます。その後、源氏の源頼義が藤原登任の後を継いで陸奥守の座に就き、いったんこの事件は終息します。
しかし、この源頼義が陸奥守の任期を終えて都に戻る直前だった1056年、配下だった藤原光貞と元貞が何者かに夜襲を掛けられる事件が発生しました。
藤原光貞はこれを安倍頼時(清衡のおじいちゃん)の仕業であると源頼義に訴えました。
その理由は、「安倍頼時の嫡子の安倍貞任が以前、光貞の妹を嫁に迎えたいと申し出たのを、『野蛮な蝦夷の安倍に妹はやれない』といって断った腹いせだ!」というのです。
こちらも諸説ありますが、陸奥守の任期中に何の手柄も立てられず、焦った源頼義が仕組んだ作り話だったという説もあります。
いずれにせよ、ここでも「野蛮な蝦夷」という差別が行われていたのです。
光貞の話に激怒した源頼義と安倍氏(清衡のおじいちゃん)の間で、再び争いが勃発しました。
ここで、清衡の父親である藤原経清のお話をしておきましょう。
すでにこの頃には安倍氏の娘を嫁にしていた藤原経清、実は当初、源頼義の配下でした。
しかし、この争いが勃発したのち、経清は安倍氏側に寝返ります。
大事な奥さんを守るためか、安倍氏の娘を嫁に持つ自分の身に危機を感じたのか、いずれにしても安倍氏と源氏の両挟みにあった経清は、苦しい決断をしたことと思います。
4.父経清の死と安倍氏滅亡
さて、再び争いが勃発した安倍氏と陸奥守の源氏。
その後も強い勢力を持っていた安倍氏は源氏との戦いを優勢に進めていたものの、1062年、当時の出羽国(秋田県)の豪族清原氏が源頼義側についたことで、一気に形成は逆転しました。
なんと、清原氏が源氏に加勢してからわずか1か月で安倍氏は敗北。清衡の父経清と安倍頼時の嫡子貞任は処刑され、これにより安倍氏は滅亡しました。(清衡のおじいちゃん、頼時は戦時中に戦死しました。)
この時、清衡はわずか6歳。
蝦夷という立場から引き起こされた前九年の役によって、父親とおじいちゃんを亡くします。この後、清衡は清原氏側に引き取られることになりますが、本来は敗北した側の遺児ということで処刑されてもおかしくない状況。
清原氏参戦後わずか1ヶ月での終焉と、清衡が清原氏に引き取られた裏には、安倍氏・経清と清原氏の間に何らかの密約があったのではとも考えられています。
自分の妻と子を守るために戦った父経清。その意志が清衡の命を守ったことは確かです。そんな強い愛情を受けた清衡ですが、この後も彼の人生にはさらなる悲劇が待ち受けていました。
5.前九年の役のその後
安部氏が滅亡した前九年の役。
その頃わずか6歳だった清衡は、清原氏に武貞の嫡子として引き取られ、清衡の母は武貞の妻となります。
武貞にはもともと清衡の他にもう1人、真衡という嫡子がいました。さらに、その後清衡の母との間に子どもが産まれ、家衡と名づけます。
このように清衡は、母親は同じく異父弟の家衡と、血のつながらない異系兄の真衡と、三人兄弟として育てられました。
同族の共同体から惣領制へ
清衡の異父兄であった真衡は、次第に一族の中でも頭角を現すようになります。もともと、清原氏の本家を継いだ祖父の武則の直系の血筋ということもあり、自分が陸奥郡を収める清原氏の宗家であるとの自覚もあったのでしょう。
真衡はそれまでの一族全体のゆるい共同体から、宗家をピラミッドの頂点とする惣領制への移行を強引に推し進めるようになりました。
一族内の紛争のきっかけとなった事件
そんな中、真衡の養子であった成衡が常陸国から嫁を迎え入れることになりました。めでたいことなので、続々と清原一族の者たちが祝いの品を持参して真衡の屋敷に訪れます。
真衡の伯父の吉彦秀武も出羽国から祝いの砂金を持参し、それを頭上に掲げて真衡の屋敷で待機していました。ところが、真衡は奈良法師と大好きな囲碁に興じており、秀武が待っているのにそれを無視して囲碁を続けます。
「祝いの品を持参して待っているのに、なぜ真衡は出迎えない・・・!」
長時間にわたり、砂金を持って真衡の出迎えを待っていた秀武はとうとう我慢の限界を迎え、怒り爆発!砂金を庭先にぶちまけて自分の国に帰ってしまいました。
これを聞いた真衡は秀武の行いに激怒、直ちに秀武を成敗するために出羽国に兵を進めたのです。
この話から推測する限り、完全に真衡は逆ギレをしているようにしか見えませんね。。
日本史を勉強していると、このような言いがかりから大きな紛争に発展する事件が多くあるように思います。今の政治外交の駆け引きのようなものですね。いつの時代も変わりません。
これが後三年の役の始まりでした。このとき清衡は27歳。前九年の役から実に21年後のことでした。
6.一族の争いが引き起こした「後三年の役」
前半:真衡 vs. 清衡・家衡の争い
勇んで秀武の討伐に向かった真衡。
ですが、秀武は一足先に清衡・家衡を自陣に誘い込み、味方につけます。
真衡が屋敷を開けている間に清衡・家衡は真衡の地元に襲撃をかけ、真衡の屋敷にも迫る勢いでした。もともと清衡と家衡も真衡の振る舞いに不満を持っていたものと思われます。
これに焦った真衡。
「自身の屋敷を占領されると身動きが取れなくなってしまうばかりか、挟み撃ちに-。」
慌てた真衡は、急いで清衡と家衡の征伐に向かいます。
清衡と家衡は真衡がこちらに矛先を変えたことに驚き、いったん真衡の地元から身を引きます。戦わずして身を引いてしまったのですが、それだけ真衡の勢力が強力だったのでしょうか。
清衡と家衡の撤退を知った真衡は、再び秀武の討伐に向かい、当時陸奥国守の任命を受けていた源義家に協力を要請し、義家はこれに呼応します。
これに勢いづいた真衡でしたが、不運なことにこの争いの中で真衡は病死してしまいます。
これでいったん一族内の争いは終結したかに見えました。
後半:清衡 vs. 家衡の争い
真衡亡き後、陸奥守の源義家は、陸奥六郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えました。ですが、一見公平な扱いに見えたこの土地の分配が、さらなる紛争の火種を生むことになります。
陸奥北三郡を分け与えられた家衡は、この扱いに不満を持ちます。というのも、北三郡は南三郡と比べると、生産性が低い土地だったのです。
もう一度清原氏の系譜を見てみましょう。
家衡は当時、真衡・清衡の三兄弟の中で清原氏の正当な血筋を受け継いだ唯一の存在でした。
(真衡は嫡子だったので、清原氏の血筋は引いていません。)
その思いもあったのでしょう。なぜ正当な血筋を受け継いだ自分がこのような不当な扱いを受けなければならないのか-。と。
そしてついに家衡はこれを行動に移します。清衡の宿所を襲い、清衡の妻子を殺害してしまったのです。
間一髪でこの難を逃れた清衡は、義家の元に駆け込み、義家・清衡 vs. 家衡の争いへと発展します。
源氏 vs. 清原氏の争い、そして清原氏の滅亡。
ここで義家がなぜ清衡と手を組んだのかは分かりません。ですが、清衡の父は正当な藤原氏の出であり、清衡も藤原の血を持っていることになります。
この藤原の家系が一因になったのかは分かりません。ですが、これまでお話ししてきたように蝦夷への根深い差別と家柄が重視される時代では、考えられないこともありません。
最終的に家衡はこの争いに敗れ、これによって清原氏は滅亡します。そして、清衡は父の姓を受け継ぎ、ここに奥州藤原氏が誕生したのです。
7.後三年の役のその後
源氏の台頭
ところで、この争いで功績をあげたかった源義家ですが、都の朝廷よりこの戦いは私戦、つまり義家が勝手に始めた戦であるとみなされ、報奨は一切もらうことができませんでした。
ちなみに前九年の役では安部氏と源氏の戦いは公戦であると認められています。
私戦とみなされてしまった義家の落胆ぶりは想像に難くありません。ですが、ここが義家のすごいところ。報奨が無くても、この戦で戦ってくれた武士の労をねぎらうため、自分の持っていた土地や財産を分け与えたのです。
これに武士たちはひどく感銘を受け、義家を慕って続々と義家の元に集結します。そして、源氏は東国で「武士の棟梁」と呼ばれるほど勢いをつけることになりました。
もともと朝廷が公戦と認めなかった背景には、源氏がこれ以上力をつけるのを抑えたかったという思惑があると思いますが、それがかえって源氏の勢いを加速させてしまうことにつながるのです。
奥州の都、平泉の誕生
後三年の役の後、藤原に姓を戻した清衡はここ平泉を奥州の中心と位置づけ、一大都市を築きます。
これまでの2度の争いで、父と妻子を失った清衡が望んだもの。それは「争いの無い平和な場所」に他なりません。
ではどうやって争いの無い平和な世界を創ればよいのか。
清衡は武力ではなく、仏、つまり仏教に救いを求めたのです。
もともと奥州蝦夷と呼ばれ、差別を目の当たりにして育った清衡にとって、
「この差別が争いの元になる。なぜ差別が生まれてしまうのだろう。」
と悩んだことでしょう。
武力を持ったところで差別は解決しません。そればかりか、余計に対立や争いを大きくしてしまいます。そこで、清衡が目をつけたのが文化・仏教の力。
「都から遠く離れていても、ここには素晴らしい仏教の世界がある。それを知ってもらえれば、蝦夷の差別も争いも無くなるのではないか-。」
こうして清衡は平泉に仏教による理想郷の都市を創り上げることに邁進します。
世界遺産となった平泉
こうして築かれた平泉は、浄土思想を見事にこの世に創り出した平和の都市として100年の長きにわたって繁栄の時代を築き、2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産に登録されました。
藤原清衡がその思いを胸に創り上げ、世界遺産に登録された平泉は、どのような都だったのでしょうか。世界遺産としての平泉の魅力についてまとめた記事も合わせてご覧ください!
【世界遺産】平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-を100倍楽しむためのマメ知識4選
(参考:「平泉 浄土をめざしたみちのくの都」 大矢邦宣 河出書房新社)