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【世界遺産】興福寺の国宝、阿修羅像のひみつを徹底解説!

奈良の世界遺産、興福寺の中でもひと際人気を誇っているのが国宝にも指定されている阿修羅像。

名前を聞いてピンと来ない方も、写真を見ればおそらくどこかで一度は目にしているほど、日本で最も有名な彫刻の1つと言っても過言ではありません。

阿修羅のイメージとはかけ離れた表情と華奢な体はもちろん、観る人を魅了してやまない興福寺の阿修羅像を徹底解説し、その魅力のヒミツに迫ります!

【世界遺産】興福寺の阿修羅像を楽しむ上で知っておきたい基礎知識

興福寺:東金堂と五重塔

日本の仏教寺院の特徴

日本のお寺にはそれぞれ違った仏像が安置されていますが、その種類は実に多いです。仏教の教えの基本となるのは、お釈迦様の教えであり、いわゆる「仏様」と一言で言っても大日如来・釈迦如来・薬師如来などいくつかの種類があります。

ですが、お寺の中心である「本尊」として祀られているのは、この「如来」であることが多いです。「如来」というのは簡単に言えば、「悟りを開いた人」ということになります。
ちなみに、興福寺の寺院本尊は中金堂の「釈迦如来」です。

もともとインドから伝わった仏教は、日本では「神仏習合」と言われるように神様と融合して日本仏教というある意味独特の形を生み出しました。
日本のお寺では、よく中心に如来像が安置され、その四方に4つの像が配置されているお堂を目にすることがありますが、この周りに置かれた4つの像は如来像を守護する四天王であることが多いです。

このように、仏教では仏様を守護する存在として様々な神様が仏教に取り入れられていますが、この神様たちも仏教同様、インド神話の神が日本の神に名前を変えたものであることがほとんどで、オリジナルはインド神話にルーツがあると言えます。

阿修羅(アシュラ)ってどんな神様?

この記事で紹介するのは「阿修羅像」ですが、この「阿修羅」ももともとのルーツはインド神話に出てくる「アスラ」から来ています。

それではこの阿修羅とはどのような神様でしょうか。日本では「戦闘神」として、常に争いを求めている、何だか気性の荒いイメージのある神様として定着しています。

その由来となっているのが、その昔、この阿修羅が帝釈天に幾度となく闘いを挑んでは、ついには一度も勝利をすることなく終わってしまったというエピソードから来ています。
ちなみに帝釈天もそのルーツはインド神話に出てくる最高神の「インドラ」です。最高神に闘いを挑む神、ということで何だかかませ犬的な扱われ方になっていますが、その後阿修羅は仏教の守護神として「八部衆」の1つに数えられています。

また、仏教思想を表す言葉に「六道(りくどう)」という言葉があります。これは生命は永遠に繰り返す輪廻思想に基づいて、信じられている六つの世界を表していますが、その1つに「阿修羅道」というのがあります。
この世界では闘いが永遠と繰り返されているわけですが、これは先ほどご紹介した、永遠に帝釈天に勝利できない阿修羅のエピソードから来たものです。

阿修羅(アシュラ)像の特徴

阿修羅がどのような神様かお分かり頂けたかと思いますが、このように「闘いの神」である阿修羅像は、通常以下のような特徴で描かれることが多いです。

・憤怒(ふんぬ)・激しい怒りの表情
・3つの顔に4本、もしくは6本の手を持ち、手には弓矢などの武器を握っている
・顔は起こっているため、真っ赤に塗られている

【世界遺産】興福寺の阿修羅像の基本情報

再建された興福寺、中金堂

阿修羅像と西金堂の創建

世界遺産の興福寺については別の記事で詳しくご紹介していますので、ここでは阿修羅像に関する事項のみを簡単にご紹介します。

興福寺の前身は奈良の平城京に都が遷都された710年より以前に存在していましたが、今の場所に興福寺が創建されたのはこの平城京遷都とおなじ710年のことでした。
そして、阿修羅像が当初安置されていた西金堂が創建されたのはそれよりも約20年後の734年。光明皇后の発願により、母である橘三千代の菩提を弔うために創建されました。この橘三千代という人物は、興福寺を創建した藤原不比等の妻であった人です。

この西金堂の創建時に、八部衆像や十大弟子像も制作されたものと考えられており、八部衆像の1つである阿修羅像もこの時に誕生しました。

阿修羅像の大きさ

興福寺の阿修羅像の大きさは身長が153センチ、重さは15キロ。
実物を見なくても、この数字を見ただけで「なんだか小柄だな」という印象を持たれたのではないでしょうか。重さも15キロであれば、成人男性でも持ち運びができそうですよね。

戦闘神である阿修羅像を制作するのであれば、その憤怒や怒りの迫力が伝わりやすいように、もう少し大きめのサイズで造られても不思議ではありませんが、興福寺の阿修羅像はややコンパクトなサイズとなっています。

世界遺産である興福寺は、創建から現在に至るまで度重なる火災(なんと7度も!)を経験していますが、多くの災難を乗り越えて阿修羅像は奇跡的に今もその姿を私たちに見せてくれています。
サイズが小さく、持ち運びも容易であることから、火災などが発生してもいち早く避難させることができたのではないでしょうか。

阿修羅像の制作方法

興福寺の阿修羅像は、表面を麻布と漆で固めて内部を空洞にする「脱活乾漆像」という技法で造られています。
重さが15キロと軽いのも、中身が空洞であることがその理由の1つです。

この「脱活乾漆像」という技法での制作過程は、大きく以下の通りです。
① 胴体の大元となる心木で骨格となる形を組み立てて、縄を巻く
② 粗い粘土を張り付けて大まかな形を作る
③ 細かい粘土で細部の形を作っていく
④ 小麦粉糊に生漆を混ぜて布を貼るための接着剤(糊漆)を作る
⑤ 麻布に糊漆を付けて原型に貼り重ねる
⑥ 背中に穴をあけて、原型の粘土や心木もいったん抜き取る
⑦ 背中の穴を閉じて、木屎で形を整えていき、顔の表情など細かい部分を整形していく。
⑧ 砥の粉を水練りし、漆を混ぜた漆下地(サビ)を付ける
⑨ 漆下地を研いで表面を滑らかにする

【世界遺産】興福寺の阿修羅像、美しさのヒミツ

興福寺の阿修羅像をご覧になられたことがある方は、初めてその姿を目の当たりにした際、表情はもちろんですが、その全体的に調和のとれた美しさに魅了されたのではないでしょうか。まずはその美しさのヒミツをご紹介したいと思います。

美しさのヒミツ①:均整の取れたプロポーション

興福寺の阿修羅像は手足含めて、体型がスレンダーです。加えて、顔も小顔で端正な顔立ちになっており、まさに美男子と言えます。
「憤怒・怒り」の阿修羅像とは真逆で、モデル並みに均整の取れた美しいプロポーションというわけです。

美しさのヒミツ②:三面の作り

興福寺の阿修羅像は三面の顔で出来ていますが、よく見ていただくと首と頭部は1つ、また耳は4つで、顔が完全に3つに分かれているわけではありません。

このように、土台となる首を1つにすることで全体的なバランスに安定感が生まれていますし、頭部も1つにすることで、パッと全体を上から下まで見た時に、とても自然な外見になっています。
もし首も頭部も3つあったとしたら、それだけ全身に占める首より上部の割合も大きくなっていたでしょうし、どこかごちゃごちゃした印象になっていたかもしれません。

美しさのヒミツ②:細部に表現されている「動」

どうしても顔に目が向きがちな興福寺の阿修羅ぞうですが、目線を少し下に下げて腰回りを見てみましょう。腰巻が少し波打っていることがお分かりでしょうか。

よく見るとこのように細かい部分にまでこだわりをもって丁寧に作られており、腰巻だけでなく下半身の布巻きも、その柔らかい布生地の質感が伝わってくるかのように波打って表現されています。

このように「静」の仏像の中にもよく見ると「動」が表現されているのも面白いですよね。

また、他の八部衆像と比較して見ると、阿修羅像の着衣だけがひと際身軽に見えませんか?これもさきほどご紹介したきゃしゃなイメージを強調しているように思えてきます。

【世界遺産】興福寺の阿修羅像の特徴と謎

先ほど阿修羅像は激しい怒りの表情で描かれる「戦闘神」である、とご説明しましたが、そのイメージで興福寺の阿修羅像をご覧頂くと、あまりにイメージとかけ離れていることに驚かれるのではないでしょうか。

そう、興福寺の阿修羅像は全くそのようなイメージとはかけ離れた姿をしているのです。その理由は後ほどご紹介するとして、まずは興福寺の阿修羅像の特徴をいくつかお話ししたいと思います。
なお、これからご紹介する特徴は、言い方を変えると通常の阿修羅像には無いものばかりであり、なぜあえてそのような特徴を持たせて制作されたのか、疑問が残るものでもあります。

特徴①:表情

写真などでその表情を見れば一目瞭然ですが、興福寺の阿修羅像には憤怒・怒りの表情は全く見て取れません。むしろ「迷い」や「葛藤」とそれを抱えながらどこか割り切ろうとしている「決意の意志」のようなものが感じ取れますが、皆さんはいかがでしょうか。

分かりやすい表情ではないから、見る人によって訴えかけてくるものが違ってくるかもしれませんが、それがこのような仏教像を見る醍醐味でもあると思います。ぜひ素直な気持ちでこの阿修羅像と向き合ってみてください。

また、もう1つの特徴として、興福寺の阿修羅像は3面に描かれている表情がすべて異なっています。なかなか間近で、向きが異なるすべての表情を堪能するのは難しいですが、ぜひ3つの表情を比べてみてください。

特徴②:外観

世界遺産、興福寺の阿修羅像は3面に6本の手を持っています。
ですが、先ほどご紹介した一般的な阿修羅像との違いは先ほどご紹介した3面の表情の他、手にもあります。

それは、興福寺の阿修羅像は手に何も持っていないこと。先ほどご紹介したように、闘いの神である阿修羅像はその証として弓矢を手に握っている姿で造られることが一般的です。
ですが、興福寺の阿修羅像に関しては手には何も持っておらず、最新のCTスキャン等による技術調査でも、制作当初から手には何も身に付けていなかったことが分かっています。

そして、先ほどもご紹介した通り興福寺の阿修羅像の外観をパッと見ると、とても華奢(きゃしゃ)な体型をしていると思いませんか?6本の手もどこかか細く弱弱しい感じがしますし、全身もとてもほっそりとしたスレンダーな体型です。
これも「闘いの神」である阿修羅像を描いたのであれば、かなり違和感がありますよね。

いかがでしょうか。いかに興福寺の阿修羅像が、一般的な阿修羅像とはかけ離れた姿をしているかお分かり頂けたかと思います。
もちろん、このような姿で制作された裏には製作者やこの阿修羅像を発願した人物に何らかの「意図」があったはずです。

最期に、この「異質」な阿修羅像の誕生秘話をご紹介しましょう。

【世界遺産】興福寺の阿修羅像、その誕生秘話に迫る!

西金堂の仏像たちが示しているもの

世界遺産、興福寺の阿修羅像を知るためには、阿修羅像だけでなく西金堂に安置されていたその他の仏像の意味を理解する必要があります。

西金堂を発願した光明皇后。この西金堂は、「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう」という仏教の経典にある「夢見金鼓懺悔品(むけんこんくざんげぼん)」というエピソードを表現したものと考えられています。

この経典は、712年、当時の留学僧であった道慈が唐からもたらした最新の教えであり、光明皇后はこの経典を深く信仰していたとされています。「光明」という名前も、この「金光明最勝王経」に出てくる、釈迦の前世の女人の名前「福宝光明」から取ったと考えられていることからも納得です。

さて、西金堂の仏像がなぜ「夢見金鼓懺悔品」の場面を表現していると言われているか、それをご説明する前に、この場面を簡単にご紹介します。

昔、妙憧菩薩(みょうどうぼさつ:ぼさつとはざっくり、悟りを開く前の修行僧とお考え下さい。)がお釈迦様の素晴らしい説法に感激したその日、夢を見ました。

夢の中で、妙憧菩薩は金鼓(こんく:ドラのようなもの)と、それをたたく婆羅門(ばらもん)を目にします。婆羅門が金鼓をバチでたたくと、その美しい響きは、まるで懺悔を説く教えのように妙憧菩薩の心に語りかけてきました。

このエピソードのテーマとなっているのは、「仏教への帰依」と「懺悔の大切さ」の2つ。ここで登場する「金鼓」と「婆羅門」というのが、実は西金堂の中心に安置されていた釈迦如来像の前にセットで置かれていたと考えられている「華原磬(かげんけい)」と「婆羅門像」です。

残念ながら婆羅門像は今は確認することができません。が、この2体が並んで置かれていたことを踏まえると、西金堂が「夢見金鼓懺悔品」の場面を表現していたのは間違いないと思えます。

母の弔いに込められた思い

さて、光明皇后が母親である橘三千代の菩提を弔うために西金堂を発願したことは前述しましたが、つまりこの西金堂は母親への祈りのために建てられたものと言えます。

このことと、先ほどご紹介した2つのキーワード、「仏教への帰依」と「懺悔の大切さ」を合わせて考えれば、光明皇后は母親が現世での行いをきちんと懺悔することで、無事に極楽浄土に行けるように、と願ったのではないでしょうか。

そう考えると、西金堂の中心に「釈迦如来」が安置されているのも、極楽浄土におられる「阿弥陀如来」ではなく、現世での懺悔という行いに重きを置いたから、と考えることもできます。

阿修羅像が「怒り」の表情をしていない理由

話が少し長くなりましたが、ここまでの話から阿修羅像に戻ってみましょう。

西金堂が「仏教への帰依」と「懺悔」という場面を表しているとすれば、それは阿修羅像にしてみれば、
「これまで闘いを挑んでいた行いを懺悔し、仏教に改心する」
ことに他なりません。

つまり、興福寺西金堂の阿修羅像は、まさに自分の行いを懺悔して仏教に帰依する、その様子を表現しているのです。
そう考えると、阿修羅像から怒りの表情が消えていること、また持っているはずの武器を持っていないことも説明がつきますよね。

さらに、阿修羅像の三面の表情をじっくり見てください。見え方は人それぞれですが、筆者は次のように感じました。

正面:どこか切なく、葛藤を抱えながらも前に進もうとする「決意」の表情
左側:正面の表情に比べて、まだ少し残されている「怒り」や「反発」の表情
右側:口をきっと固く結び、今にも泣きだしそうな表情

この三面を見て、筆者には正面から見えない左右の表情は、正面の「決意」の裏側にあるまだ少しの怒りと悲しみ、悔しさを表しているのではないか-。と感じました。
それはまさに、心にいろいろなモノを抱えながらも仏教に帰依しようとする、現在進行形の姿と言えます。

阿修羅像の「耳」に注目!

ここでもう1つ注目していただきたいのが、阿修羅像の「耳」です。
先ほど、モデル並みの小顔で端正な顔立ちをしているとお話ししましたが、小顔だからこそ耳の存在感が他の仏像に比べて大きく感じませんか?

これも「夢見金鼓懺悔品」の場面を思い出していただければ、「金鼓の音を聞いて教えが心に響いてきた」ことと関係があることにピンと来た方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうです。ここで重要なのは、仏教への帰依が「音」、つまり「耳」から始まったということ。
阿修羅像の耳の大きさは、それを表現しようとしているのではないでしょうか。

阿修羅像が華奢(きゃしゃ)で幼い理由

最期に、阿修羅像が華奢(きゃしゃ)でどこか幼い印象を受ける、その理由をお話しします。

光明皇后の母である橘三千代には、生後1年で亡くなってしまった「基王」という子どもがいました。この基王が亡くなったのが728年、西金堂の創建が734年。もし基王が生きていれば、6歳になっていた年と言えます。

この阿修羅像は、そんな基王の面影を偲んで制作されたのでは、と言われているのです。確かにこれだけではやや説得力に欠けるのですが、橘三千代にとって幼くして亡くなった基王がいかに大きな存在だったか、それをうかがい知れる手がかりがもう1つあります。

それは、この西金堂に安置されている「羅睺羅像(らごらぞう)」です。
この「羅睺羅」というのはお釈迦様の実子とされる人物であり、「十大弟子」にも含まれています。

ですが、興福寺の西金堂には「八部衆像」、「十大弟子」とは別に「羅睺羅像」という像が安置されていたことが分かっています。しかも、その配置場所は中央の釈迦如来坐像に寄り添うかのようにその脇に。

このことを考えると、橘三千代の基王への特別な思いが反映されていると考えてもおかしくはないでしょう。
また、娘の光明皇后は天皇家に嫁ぎ、その母親として天皇家でも存在が大きかった橘三千代の立場と、この興福寺が藤原氏一族のお寺であることを考えるとなおさらです。

 

いかがでしたでしょうか。
知れば知るほど魅了される世界遺産、興福寺の阿修羅像。ぜひ一度は写真ではなく実物を観て楽しんでください!

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(参考:「阿修羅像のひみつ」興福寺監修 朝日新聞出版、「もっと知りたい興福寺の仏たち」金子啓明 東京美術)

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