静岡県下田市。
下田といえば、鎖国をしていた江戸時代の日本にペリーが来航し、日本で1番最初に開港した街です。これにより日本は200年以上続いた鎖国が終わり、開国します。
開国の街、下田。ペリー来航により、日本は大きく動揺したことは想像に難くありません。
今回は、そんな下田が人生を変えた歴史上の偉人たちの物語を紹介します!
1.【ペリーだけじゃない】下田で渡海に失敗した吉田松陰
吉田松陰の人物像
ペリーが初めて来航したのは1853年、その1年後に再度日本に来航し、日米和親条約を締結します。これにより下田が開港され、日本は200年続いた鎖国が終わり、開国の道を歩みます。
ベストセラーにもなった、「覚悟の磨き方」(サンクチュアリ出版)。これはこの時期の天才思想家、吉田松陰の言葉を現代にアレンジしたものになります。
現在の山口県出身の吉田松陰。若くして日本各地を遊学し、いろいろな見聞を身につけました。
そして、日本の状況に危機感を抱きます。それは、西洋各国の文明が、当時の日本よりもはるかに進んでいたことを身をもって知ったからです。
それを感じた吉田松陰は、渡海して海外に行くことを決心し、幾度となく渡海を試みました。
ですが、どれも失敗に終わってしまいます。
その、6度目の渡海に挑んだのが、ここ下田だったのです。
1854年にペリーが下田に寄港していることを知り、下田を訪れた吉田松陰。この場所で、ペリーへの接触を図ります。
「二度と花のお江戸を見ることは無い」
吉田松陰が渡海に向けてどれだけの覚悟を持っていたか、この言葉で読み取ることができます。
初めてアメリカ人を目の当たりにした日本。
吉田松陰が生きた時代はそんな時代です。
海の向こうに何があるのかもわからない。それでも日本より、はるかに時代の先を行っていた海の向こうの国に強い思いを馳せ、ペリーに直接直談判をして渡海する。
こんなことができる吉田松陰の度胸と行動力。今の時代にこれほどの人はいないでしょう。
運命の日
1854年3月27日の夜、吉田松陰は柿崎弁天社から舟を出し、ペリーがいると思われていたミシシッピー号を目指します。
この計画は失敗に終わってしまいましたが、その原因の1つは、この舟に櫓べそがついていなかったことにあります。
櫓べそとは、この図でいう櫓杭のこと。これが無ければ、櫓が安定せず舟をこぐことはできません。
このアクシデントに松陰は、ふんどしで櫓を固定して舟を漕ぎました。
ようやくの思いでミシシッピー号に辿りついたものの、ペリーがそこにいないことを知り、ペリーがいると言われたポーハタン号に向かいます。
やっとこれでペリーに会える!
ポーハタン号に到着したものの、船員がそばに着けるのを妨害したため、松陰は舟からタラップに飛び移りました。
これがもう1つの計画のミスとなります。
というのも、乗っていた舟に荷物を置いたままにしていたため、それが浜辺に打ち上げられて中身を調べられると、松陰の計画が明るみになってしまうからです。
密航は国に背く大きな大罪になる時代でした。
結局松陰は、通訳のウイリアムズと押問答の末、下田に戻されます。
下田に戻された松陰は自ら下田番所に自首して、江戸に送られて投獄されたのです。
自ら自首するところに、松陰の愚直すぎるほど真っ直ぐな性格が見えますね。
下田市にある郷土資料館の駐車場が、吉田松陰が一時下田で投獄されていた場所の跡地になっています。そして、その近くにある下田市役場には松陰の石碑が建てられています。
松陰がポーハタン号まで出向いたことはペリーの耳にも入っていたのでしょう。
ペリーは松陰の減刑を求めるよう参謀を下田に遣わしましたが、一足遅く松陰は江戸にその身を移された後でした。これが歴史の皮肉というものでしょうか。
かくすれば、かくなるものと知りながら、已むに已まれぬ大和魂
江戸に送られた松陰が、赤穂浪士に託した言葉です。
もし松陰の減刑がかなっていれば、歴史はまた違っていたかもしれません。
この5年後、吉田松陰は江戸で斬首の刑となり満29歳でその生涯を終えました。若すぎる生涯ですね。。
2.【ペリーだけじゃない】下田で羽ばたいた坂本龍馬
坂本龍馬の人物像
大河ドラマにもなった坂本龍馬。
土佐藩(高知県)出身の坂本龍馬と下田は、どのような繋がりがあるのでしょうか。
実は坂本龍馬は、下田で何かを為したわけではありません。ですが、下田で龍馬の人生を左右する出来事が起こっていたのです。
子どもの頃はいつまでたっても寝小便(おもらし)が直らない、塾に入ってもすぐに退塾になるなど、やんちゃであまり賢い子どもではなかった龍馬。
その後、江戸に遊学していた1853年にペリーが黒船を率いて来航。龍馬も品川の警備の役に就きます。
「もし戦争になれば、異国の兵の首をもって土佐に帰る。」
土佐を出発するときに龍馬はそのようなことを言っていたとされています。
ここから、龍馬は当初、尊王攘夷の思想を持っていたことがうかがえます。
ですが、のちに龍馬は開国派へと考えを改めます。
遊学など日本各地でいろいろな人と議論を交わし、影響を受けた龍馬。簡単に影響を受けやすく行動も変えてしまうその性格は、よく言えば柔軟、悪く言うと単純ですぐ変わり身が早い、と言えそうです。
尊王攘夷とは?開国派とは?
「尊王攘夷」とは「尊王」と「攘夷」が組み合わさった言葉です。
「尊王」=王を尊ぶこと。ここでいう「王」は天皇を指します。
「攘夷」=簡単に言ってしまうと、外からの敵などをすべて排除しようとする考えです。
ここから尊王攘夷とは、天皇を守り外国からの接近をすべて排除しようとする考えを意味します。
天皇を守る方法として、徳川幕府と天皇がタッグを組む「公武合体」という考えもあれば、幕府はあてにならないから倒幕して新体制を築こうとする討幕派も現れるなど、尊王攘夷と言っても一枚岩ではなかったようです。
早くからペリーなどと接触して、海外の文化や技術が日本よりはるかに先を進んでいると感じた江戸幕府は、開国へ舵を切り始めます。
同じ開国派の思想を持っていた当時の偉人といえば勝海舟。
海舟との出会いで龍馬は開国派へと考えを改め、海舟の門下に入ることになります。
下田と海舟、龍馬
海舟の門下となった龍馬。実はその前に、龍馬は土佐藩を脱藩していました。
「脱藩」というのは許可なく藩を抜け出すこと。
今でいうと、パスポートやビザを持たずに海外に行ってしまうこと。これは犯罪になり、罪に問われます。
龍馬が脱藩を決意した背景には、当時同じように土佐藩からの脱藩を計画していた同志の説得を受けたことや、土佐藩が尊王攘夷派へ傾いていたことが考えられます。
そんな龍馬を門下に迎い入れた海舟は、神戸から江戸への帰り道で下田に寄港します。
そして、偶然同じタイミングで、前土佐藩主の山内容堂の乗っていた大鵬丸も下田に停泊していることを聞きつけました。
それを知った海舟は、容堂が滞在している宿舎を訪ね、龍馬の脱藩の赦免を求めたのです。
海舟が実際に容堂と顔を合わせた場所が、下田市の宝福寺に残されています。
ここでの逸話として、容堂は海舟の話を聞く前に、まずひょうたんに入った酒を飲むよう求めます。酒を飲めないやつとは話はできない、ということでしょうか。
実は酒に弱く、ほとんど酒を飲まなかった海舟。ですが、容堂の求めに応じて躊躇することなく、ひょうたんに入った酒を飲み干します。
これに気を良くした容堂は、龍馬の脱藩を赦免して許したのです。
この出来事で、脱藩というペナルティが無くなった龍馬。
ここから、海舟が進めてたいた神戸海軍操練所設立に奔走、さらに後には龍馬が持っていた航海術に対して薩摩藩が出資し、後の海援隊の前身となる亀山社中の設立など、大きく羽ばたいていくことになります。
いかがでしたか?ペリーの来航によって日本中が大きく動いていた江戸末期から明治初期。その舞台となった下田には、この歴史の動きに果敢に挑戦する者たちの姿がありました。
次回は、下田で起こったもう2つのストーリー。開国によって人生を翻弄された一人の女性、「唐人お吉」で有名なお吉の物語と、江戸時代に起こった悲劇の実話をご紹介します!
(参考「ふるさと文学館 第二十六巻」藤沢 全 ㈱ぎょうせい)
(参考「天翔る龍 - 坂本龍馬伝」山村竜也 NHK出版)