世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】姫路城の特徴&マメ知識3選 -姫路城の楽しみ方を探ろう!-

2015年に平成の大改修を終え、生まれ変わった姿を見せてくれた姫路城。そのあまりの美しさは、ニュースでも数多く取りあげられ、当時の話題にもなりました。

そんな姫路城は、日本で初めての世界遺産であることはご存知でしょうか。今回は、そんな世界遺産の姫路城について、

・姫路城の歴史
・城郭建築の最高傑作
・姫路城の美的価値

をご紹介します!

【世界遺産】姫路城の特徴&豆知識 -楽しみ方-①歴史

姫路城の歴史

諸説ある姫路城の創生~赤松説と黒田説~

現在の通説では、姫路城の起こりは鎌倉時代(1333年)、赤松則村(あかまつのりむら)が護良親王の命を受け、京に兵を進める途中、姫山に縄張りをし、小寺頼秀に守らせたことが始まりとされています。

そして、1346年に次男の赤松貞範(あかまつさだのり)が今の姫路城のある姫山に築城を行い、貞範が姫路城の初代城主になったというわけです。

この説の根拠になっているのは、姫山にあった称名寺(しょうみょうじ)というお寺に残されている板碑(いたび)の碑文や伝承です。

一方、同じ称名寺に残る土地売券の記録を辿ると、1555年時点では山上に城は無く、6年後の1561年になって「構(かまえ)」の存在が確認されていることから、姫路城の起源はこの6年間の間にあるとする説もあります。

この説に立った場合、名前が挙がるのが黒田重隆(くろだしげたか)です。

黒田氏は1525年に商業の町、備前福岡(今の岡山市と備前市の中間エリア)から播磨(今の姫路エリア)にやって来たのですが、この当時の播磨は赤松氏、別所氏、小寺氏がけん制しあう不安定な情勢の中にありました。

黒田重隆は、赤松氏の下で5年ほど仕えた後、小寺氏にも使え、姫路城を任されることになりました。そこで息子の職隆(もとたか)とともに1561年(さきほどの土地売券の記録)に新城建設に取り掛かり、これが姫路城になり、黒田重隆が初代姫路城主になる、というわけです。

それぞれの根拠を考えると、碑文の記録よりは土地売券の方が信用力があるようにも思えますが、両者の説だと姫路城の始まりには200年以上の隔たりがあることになります。

200年もの間この地に何も「城」のようなものが存在していなかった、ということも確たる証拠が無いため、完全に赤松説を否定できるほど黒田説も決定的な説ではないため、いまだに両方の説が並立しているのが実情のようです。

戦国時代:羽柴秀吉による築城

その後、時は戦国時代の1580年、織田信長の令により播磨平定に赴いていた羽柴秀吉は、黒田孝高(くろだよしたか)、あの軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)から姫路城を献上されてこの城に入城することになります。

秀吉は早速改築に乗り出し、姫路城は三重天守を持つ城郭が完成するとともに、秀吉はこの地の活性化のため、町おこしをして姫路の町の発展にも寄与しました。

秀吉が改築した姫路城の天守最上階は南蛮風を取り入れ、西国では初めての望楼型(ぼうろうがた:後述します。)だったそうです。

江戸時代直前:池田輝政による現在の姫路城の完成

豊臣(とよとみ)の天下になって後、秀吉が亡くなった後に徳川家が勢力を拡大し、実質的に豊臣の世から徳川の世に変わったことが決定的となった関ヶ原の戦い。

その後、徳川家は大阪城に居城する豊臣秀頼をけん制するために、1600年、姫路城の城主に池田輝政(いけだてるまさ)を据えて、大掛かりな援助を行います。

当時の姫山周辺は、大雨になると町を流れる川が増水して度々氾濫していたこともあり、輝政は堤防を築いたり城下町に水が浸食してこないように整備するなど、城郭建築と合わせて城下町の整備も行いました。

そして9年もの歳月をかけて五層七階(地上六階、地下一階)の美しい姿をした姫路城が誕生しました。

地方にある城にしてはあまりに豪華絢爛で大掛かりな姫路城は、もともと豊臣氏のけん制と、豊臣氏に懇意を寄せる西国の大名たちの動きを見張る、重要な拠点としての役割を持っていたのです。

これは江戸時代以降も変わらず、姫路城は西側諸藩の大名の徳川家に対する反乱がおこった場合にこれを食い止める要所でもありました。

江戸時代初期:千姫の居城

池田輝政の後姫路城の城主となったのが、本多忠政(ほんだただまさ)の嫡男であった本多忠刻(ほんだただとき)でした。

この忠刻の妻となったのが、あの有名な千姫です。
千姫は徳川2代将軍秀忠(ひでただ)と浅井三姉妹の三女、江の長女であり、元は豊臣秀頼の妻でもあった人物です。

本多家は、徳川幕府における重臣でもあり「徳川四天王」の一角として幕府の中で重要な政務に当たっていた由緒ある家柄であり、その嫡男に将軍の娘を嫁がせるわけですから、幕府としてもそれ相応の待遇を取らせる必要がありました。

本多忠政が姫路城入りをしたのは、それだけ徳川幕府にとって姫路という場所が重要な要所であったことを意味しています。

そして千姫が穏やかに過ごすために、千姫の持参金で造られたのが西の丸の化粧櫓(けしょうろ)になります。

ここに今私たちが見ている姫路城の全容がほぼ完成したのです。

日本で最多の城主を数える姫路城

関ケ原から幕末までの267年において、日本各地の城の城主が平均で約16名入れ替わったのに対して姫路城はその倍ほどの33人の城主が記録されており、これは日本国内で最多の人数です。

これほどまでに姫路城で頻繁に城主が変わったことにはいくつかの理由があります。

1つは、先ほどお話ししたように姫路城がある播磨・摂津地域というのは古来から西国の要所であり、秀吉にしても徳川にしても天下統一後に日本を統治する上で姫路城の城主が担う役割が非常に大きく、その成否が政権を揺るがしかねないものであったことです。

このため、これまでご紹介してきた通り黒田官兵衛、羽柴秀吉、池田輝政、本多家など、姫路城の歴代城主というのはそうそうたる重臣たちが名を連ねています。

江戸時代に入った後も、榊原家や酒井家など城主が入れ替わることになりますが、重要な要所だからこそ頻繁に城主を入れ替える必要があったと言えます。

2つ目は、重要な要所であったからこそ、「若い城主は不可」という暗黙のルールのようなものが姫路城にはあったと言われています。要衝を守るためにはある程度の戦闘経験とリーダーシップを兼ね備えた城主でなければならず、それは若い者には務まらないだろうというわけです。

このように幼少、年が若いという理由で強制的に他の地に転出させられた城主というのは8名にも上ると見られています。

石垣に見える姫路城の歴史

このように、姫路城は多くの武士、藩主により時代とともにその姿を変えてきました。

それを実感できるのが、姫路城に今も残されている多くの石垣です。

羽柴秀吉の時代、池田輝政の時代、そしてその後の時代で、石垣の積み方に違いが見られます。それをご紹介しましょう。

秀吉の時代:野面積み

三国堀北側の石垣は秀吉の時代のもの

この積み方は、自然の石をそのまま加工せずに積み上げていく石垣です。この石垣は、菱の門の外側の城壁や、三国堀の北側の石垣などに残されています。

輝政の時代:打込接ぎ

直方体の石を長辺と短辺を交互に積み立てている

打込接ぎとは、積み石の接合部分を加工し、互いに組み合わせる積み方で、隅角部には直方体の石の長辺と短辺を交互に積んでいく算木積みがほぼ完成。上に上がって行くほど反りあがる扇の勾配が出来上がります。

この石垣が最も間近で見ることが出来るのが、菱の門を入って右側を進んだところにある、備前丸の城壁です。

本多氏の時代

西の丸の石垣

その後の本多氏の時代の石垣も、基本的には打込接ぎと同様の石垣が造られましたが、一部に積石を大きく加工して隙間を全くなくす、切込接ぎも見られます。

この石垣が見られるのは、西の丸のワの櫓近辺の城壁です。

奇跡的に不戦不燃の城

姫路城の価値は、何といっても現存する多くの城郭、遺構が当時の姿のまま良好な状態で残っていることでしょう。国宝にも指定されている大天守、小天守は現存する天守では最も大きな規模になります。

姫路城はこれまで3度、焼失もしくは取壊しの危機がありました。

戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いで幕府方として参戦した姫路藩に対し、新政府が追討の命令を出し、姫路城への出兵が行われたのです。

この攻撃に対し、姫路藩は直ちに開城したため、戦火による焼失を免れました。

明治維新

明治維新により廃藩置県が行われると、それに伴って全国の城も次々と取壊しが決まりました。

幸い、姫路城は国の管轄下として残す城の1つに選ばれ、取壊しはなされませんでした。

太平洋戦争

3つ目の危機が、太平洋戦争です。

戦時中は白塗りの美しい外観が敵軍の目に留まりやすいこともあり、姫路城の大天守の白壁は黒い擬装網が設置されたりしました。

戦争末期の1945年の6月、7月の二度に渡る空襲で、姫路の市街地は焦土となってしまいましたが、奇跡的に姫路城は生き残ったのです。

【世界遺産】姫路城の特徴&豆知識 -楽しみ方-②城郭建築の最高傑作

日本における城郭建築の歴史において、姫路城が建てられた戦国時代後期から江戸時代初期は、まさに最盛期として様々な技法や知恵が駆使されて城の建築が行われた時代でした。

日本の城郭建築の最高峰とも言われている姫路城の特徴をいくつかご紹介しましょう。

三重の堀に守られた鉄壁の城

出典:姫路城の基礎知識

姫路城の敷地は、実はかなり広大な範囲に及んで設計されており、現在のJR姫路駅のすぐ北側までその遺構を確認することができます。

この駅の北側から天守のある城まで、実に三重の堀(内曲輪、中曲輪、外曲輪)が左回りの螺旋状に取り囲んでいます。

このような広大な敷地と、螺旋状の堀を擁しているのは姫路城の他には江戸城しかありません。(江戸城は右回りの螺旋形)

姫路城に残された守りの仕掛け

姫路城が造られた江戸時代初期は、関ヶ原の戦いの直後であり、まだまだ戦の絶えない不安定な時代でもあったため、姫路城には外敵からの攻撃を防ぐ様々な仕掛けが残されています。

迷路のような天守への道

菱の門から天守まで歩いてみるとよく分かりますが、すぐ目の前に大きな天守がそびえ立っているのに、そこに辿りつくまでには意外と時間がかかります。

それもそのはず、天守に辿りつくまでにはいの門から始まり、ろの門、はの門、にの門、ほの門、水の門を通る必要があり、その道も90度に曲がったり、180度急カーブのような道があったり、登ったと思ったら下り坂になったり。

これはまるで迷路ですよね。

このように天守への道を複雑にすることで、攻め手の不安と混乱をあおり、また一度に大軍が押し込むことができないようになっています。

石落し

城壁の角に造られた石落し

多く設けられた門や櫓(弓矢などの武器を保管する場所であり、攻撃の場所でもある。)には、外敵を攻撃するための仕掛けがたくさん残されています。

石落しというのは、門や櫓の板を取り外し、そこから下を通る外敵に落石などによる攻撃ができる仕掛けを言います。

菱の門や天守内、城壁の角など、多くの場所に石落しが造られています。

ほとんどの部屋に石落しが設けられている

石落しは姫路城の多くの部屋で確認することが出来ますが、部屋の中から見るとこのように細長い板を開閉して使用することが分かります。

敵が襲ってきた場合、この石落しを空けて下にいる敵兵に向かって石を落として攻撃する、という仕掛けです。

狭間

将軍坂の壁に造られた狭間

狭間とは、壁に開けられた△や〇の形をした穴のことで、この穴から弓矢や鉄砲を撃ち、外敵を攻撃できる仕掛けです。

姫路城ではろの門からはの門へ向かう坂道(将軍坂)が極端に狭くなっており、そこに狭間が仕掛けられています。

狭い道に溜まった外敵を狭間から一気に攻撃できる、というわけです。

狭間は外側が狭く、内側が大きく造られている。

こちらも良く見て頂くと分かるのですが、狭間は内側(城内)から外側(敵側)にかけて穴が小さくなっていることが分かります。

これは、内側からはこの狭間を使って弓矢や銃で攻撃をするため、それらの武器を構えて撃ちやすくするために大きくしている一方で外側からの反撃を受けないようにするためです。

先ほどの石落し同様、この狭間も姫路城の多くの壁面に設けられており、それだけ姫路城の築城の際には防御と反撃の機能に徹底してこだわっていたことが伺えます。

姫路城に唯一現存する「暗がり門」(にの門)

暗がり門(にの門)

にの門を通る際には、天井が低くなった薄暗い石壁に囲まれた空間を直角に曲がる必要があります。

この場所を外敵が通ると、低い天井から敵をめがけて多くの槍や鉄砲が打ち込まれる、という仕掛けです。

これを「暗がり門」と呼びますが、これを観ることができるのはこの姫路城だけです。暗がり門を通る際には、ぜひ櫓の天井を確認してみてください。多くの槍砲の跡を観ることができます。

天守内の仕掛け

さて、ようやく天守に辿りつくことができました。

が、この天守内にも外敵を防ぐ様々な仕掛けがなされています。

分かりにくい天守の構造

出典:姫路城の基礎知識

天守は外観は5重となっていますが、内部は地上6階、地下1階の7階建てになっています。

ちょうど、外から見て四重目(上から2番目)が、実は4階と5階の2つに分かれているのです。外からの外観と中の造りが違って見えるのも、姫路城の建築技術の高さの表れでしょう。

これによって外から攻めてきた敵たちは、外側からの見かけの造りと中に入った時の造りが異なるので混乱したり戸惑ったりするわけですね。ここにも防御の城としての巧妙な仕掛けが隠されているのです。

さらに、最上階へ上がるには合計109段の階段を上る必要がありますが、階段は上に行くほど急こう配に造られており、簡単に上がれないようになっています。

皆さんもぜひ姫路城を訪れてみてください。実際に天守内を見学して登ってみると、予想以上に急な階段に驚かれることと思います。

薄暗い天守内

外を石垣で囲まれているため、天守内は薄暗く見通しが悪くなっています。

これももちろん外敵の足を止めるためであり、また天守内には武器を保管しておく武具掛けや狭間、石落しも設置されています。

武者隠し

地上3階に上がると、武者隠しや内室と呼ばれる、兵士が隠れる場所が設けられており、外敵に不意討ちを行うことができるようになっています。

 

いかがでしょうか。これほどまで緻密に、細部にわたって有事の際への対応を考慮した構造を持った城は他にはありません。

まさに姫路城が、城郭建築の最高傑作と言われる所以です。

【世界遺産】姫路城の特徴&豆知識 -楽しみ方-③美的価値

これまでは、姫路城の実用的な価値についてご紹介してきましたが、ここでは姫路城の美的価値についてもご紹介したいと思います。

白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)

その真っ白な外観が特徴の世界遺産・姫路城。

この白さのヒミツが、白漆喰総塗籠造と呼ばれる姫路城の建築手法にあります。

天守の外壁は土壁ですが、姫路城の白壁は、土壁の表面に漆喰を塗って仕上げたもので、塗籠(ぬりごめ)と呼ばれており、建物全体を塗籠めたものを総塗籠といいます。

天守内の上層部に上った際、窓から屋根を間近に見てみてください。瓦の上に漆喰を固めて半円形に盛った部分が見えると思います。

天守の造り

日本の天守の構造は、大きく望楼型と層塔型の2つに分けることができます。

望楼型とは、1~2層の櫓の上に単層の望楼を乗せる構造で、関ヶ原の戦いがあった1600年までの城はほとんどこちらのタイプです。

一方、層塔型とは、四方へ葺きおろす屋根を積み重ねた、多重塔のような外観になり、江戸時代以降はこちらが主流となりました。

姫路城は、じつはこのどちらのタイプでもなく、望楼型から層塔型への移行期に造られた城になります。

ベースは望楼型ですが、下部の櫓と上部の望楼とでデザインが異なる望楼型ではなく、下層部と上層部のデザインが統一され、上に行くほど形が逓減されています。

言わば望楼型と層塔型のハイブリッドでしょうか。貴重な天守の外観にも注目です。

連立式天守

大天守と小天守が渡り櫓で繋がっている

また、姫路城は大天守の他に3つの小天守が設けられており、大天守と小天守が櫓で連結された、連立型天守と呼ばれています。

この連立型天守は姫路城にしか見られないものです。

細部に施された数々の装飾

五重の天守の外観は、あまりの美しさについつい見とれてしまうほどですが、その美しさはもちろん、細部にまで計算されたデザインの緻密さの表れにあります。

それだけではなく、その外観を美しく飾っている装飾にも注目してみましょう。

破風(はふ)

 

破風とは、日本建築の屋根の形式として最も高級とされる入母屋造で生じる、三角形の垂直な壁面のことを言います。

簡単に言ってしまえば、姫路城の4面の外壁にある三角形の形を探してみましょう。その部分が破風です。

そして、姫路城には入母屋破風、千鳥破風、軒唐破風の3種類の破風が、巧みな配置でその美しさを演出しています。

懸魚(げぎょ)

三花鏑懸魚(みつばなかぶら・げぎょ)

破風の中央先端に垂れ下がった部分は懸魚と呼ばれます。

姫路城には、蕪懸魚(かぶらげぎょ)、三花蕪懸魚(みつばなかぶらげぎょ)、梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)など、様々な懸魚が飾り付けられています。

瓦(かわら)

姫路城の瓦は、平瓦と丸瓦を交互に組み合わせた本瓦葺です。

そして、屋根の先端には鯱(しゃちほこ)や鬼瓦など、様々な形をした瓦を見ることができます。

特に鯱は、大天守だけで11もありますが、このように数多くの鯱が飾り付けられているのは珍しいです。

また、多くの城主を持った姫路城は、丸瓦にもいろいろな紋章が刻まれています。ぜひ丸瓦の紋章にも注目してみてください。

 

いかがでしたでしょうか。

信長が初めて天守を持つ城を作ってから約100年、姫路城は城郭建築が最高潮に達した時に造られたお城です。

まさに日本の木造建築と城郭建築の極みが結集したといっても過言ではない姫路城。

同じく日本で始めての世界遺産となった法隆寺が現存する最古の木造建築であり、日本の建築の始まりとすれば、姫路城はその建築技術の最高峰が具現化され、日本独自の城郭建築の神髄を極めた、現存する日本の建築物と言えるわけです。

姫路城が日本で最初に世界遺産に選ばれた理由がこれでご理解いただけたことと思います。

ぜひ一度は姫路城を訪れ、その素晴らしい外観と技術の結晶をその目でご覧になってください!

 

(参考:「姫路城の基礎知識」姫路市城郭研究室、「姫路城を歩く」中川秀昭 神戸新聞総合出版センター、「世界遺産 姫路城 公式ガイドブック」姫路市教育委員会)

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