世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】京都・西本願寺、親鸞聖人と浄土真宗:その苦難と凄さが分かるマメ知識5選

「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている西本願寺。浄土真宗本願寺派の本山であり親鸞を宗祖としています。
京都の世界遺産には真言宗の東寺、天台宗の延暦寺がありますが、西本願寺はこれらのお寺とは明らかに違う道を歩んできました。
今回は世界遺産の西本願寺と浄土真宗について、その凄さと苦難の歴史をひも解いていきます!

日本で最も多くの仏教徒を抱える浄土真宗

皆さんは日本における宗教の宗派ごとの統計情報をご覧になったことがあるでしょうか。一言で仏教やキリスト教と言っても、それらがさらに多くの宗派や派閥に分かれており、日本には多くの宗教団体が存在しています。

上記は文化庁が公開している令和2年の「宗教年鑑」から、「文部科学大臣所轄包括宗教法人」の内、仏教派の一部を切り取ったものです。「宗教年鑑」によると信者数としては神道と仏教がそれぞれ48.6%、46.3%で二分している状況にあるのですが、仏教の中では上記の通り「浄土真宗本願寺派」と「真宗大谷派」という、浄土真宗の上位2つの宗派を合計しただけでも他の仏教宗派よりもはるかに多い仏教徒を抱えていることが分かります。

ちなみに、「浄土真宗本願寺派」を取りまとめているのが西本願寺、「真宗大谷派」を取りまとめているのが、西本願寺と同じ通りを東に少し行った場所にある東本願寺です。
どちらも親鸞聖人を宗祖としている点で同じ宗派なのですが、なぜ2つに分かれてしまったのかについては後ほどご説明します。

同じ浄土派である浄土宗の信者と合わせると、仏教の中で浄土派というのがどれだけ広く日本人の心に浸透しているかがお分かりいただけるかと思います。
皆さんも歴史の授業で一度は学んだことがあるかと思いますが、いわゆる「鎌倉仏教」と呼ばれる新派の浄土宗・禅宗・日蓮宗や時宗は、その分かりやすい教えが広く民衆の信仰を集めたことで爆発的な広がりを見せました。

このことが、現在に至っても浄土真宗を始めとする上記の信者数にも表れているのではないでしょうか。このことを踏まえると、浄土真宗は言わば「民衆の仏教」と言えるでしょう。
以下この記事をお読み頂く時に、浄土真宗が民衆の立場に立った仏教であることを思い出しながらお読みいただくと、浄土真宗がたどった歴史がより理解できるかと思います。

浄土真宗ってどんな教え?

浄土宗と浄土真宗

同じ浄土派の教えとして浄土宗と浄土真宗がありますが、二つの宗派の違いはどこにあるのでしょうか。結論から言えば、二つの宗派の根本は同じです。
というのも、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は浄土宗の開祖である法然上人に弟子入りを乞うて浄土宗の教えを学び、法然上人の死後も自身は法然の弟子の一人である、という立場を取っていたからです。

浄土真宗というのは実は、親鸞聖人が自らそのように命名して教えを広めたのではなく、親鸞聖人の死後、その教えをまとめ、引き継いだ弟子たちによって生まれた宗派なのです。

したがって、浄土真宗は浄土宗と同じ信仰を持ちながらも、その教義は親鸞聖人の教えに基づくもの、という点で浄土宗とは異なっています。

浄土真宗と浄土思想

浄土真宗や浄土宗、時宗などは広い意味で「専修念仏」と呼ばれることがあります。「専修念仏」というのは、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えて仏の救いによって極楽浄土への往生を信じること。

浄土宗などが広く民衆の心を掴んだ理由は、その分かりやすい教義にあると先ほどご紹介しましたが、もう一つの理由として、これらの新しい宗派が誕生した時代がいわゆる「末法思想」が蔓延していた時代だったということもあります。

「末法思想」というのは、お釈迦様の入滅後長い時(1,000年や1,500年)を過ぎるにつれて、やがて悟りを開き正しい教え(正法)を広める僧がいなくなり、正法が広がらなくなり世の中が荒廃する、という思想を言います。
平安末期というのはお釈迦様が入滅されて1,500年以上が過ぎていたこともあり、この末法思想が人々の心に不安の影を落としていたのです。

そんな中で現世に希望を持てない人々が死後の浄土に希望をつなぎ、そしてそれが念仏をひたすら唱えるだけで叶うという教えがあると知れば、その教えがたちまち人々の希望になり、心の拠り所になったことは想像できますよね。

なぜ念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できるの?

「念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できる」と言われて、皆さんはすぐにそれを信じることができますか?筆者はとてもじゃないですが、その言葉だけで心を入れ替えてひたすら「南無阿弥陀仏」を一心不乱に唱え続けることは難しいかもしれません。

もちろん、これは浄土真宗の教義をとてもシンプルに表現したものであって、そのような教義にもきちんとした根拠があります。

まず、浄土真宗で唱える「南無阿弥陀仏」という言葉に含まれているように、浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊としていますが、この阿弥陀如来をご本尊とすることが浄土真宗にとってとても重要なことなのです。

阿弥陀如来というのは、悟りを開いた仏様である多くの「如来」の中でも西方浄土にいらっしゃる仏様のこと。ですが、この仏様も最初から西方浄土におられたわけではなく、その昔には宝蔵菩薩という修行の時代がありました。

宝蔵菩薩でいらっしゃった修行時代に、菩薩様は「48の誓い(発願)」を立てられます。
発願というのは、悟りを求め人々を救いに導く心を意味するのですが、その中に一切衆生、つまりありとあらゆる生きとし生けるものを救いたい、という発願が含まれていたのです。

その後、修行を経て宝蔵菩薩から西方浄土に移り阿弥陀如来になられた仏様。阿弥陀如来になられた、ということは発願をすべて達成して悟りの境地に達したことを意味しています。
それがつまり、阿弥陀如来には一切衆生を救うお力がある、ということ。

浄土真宗の教えというのは、要するに阿弥陀如来様が本来持っている一切衆生を救ってくださるお力をひたすらに信じ続けよ、ということを意味しているのです。

浄土真宗、つまり親鸞聖人のこの教えは、浄土真宗の経典とされている仏教の書物に基づくものです。
浄土真宗の経典は「無量寿経」(大経)、観無量寿経、阿弥陀経の三つから成るのですが、「無量寿経」はこれまでお話しした阿弥陀如来と宝蔵菩薩のお話が、観無量寿経は極楽浄土に往生する方法、つまり実践本、そして阿弥陀経は極楽浄土の様子が紹介されています。

極楽浄土に往生する方法を記載した観無量寿経では、人々はそれぞれの行いによって9つの階層に分けられ、それぞれの階層ごとに往生する方法があるとされています。ですがさらに、善行ができない人のために、どんな人でも行うことができる「念仏往生」の方法が説かれています。

親鸞聖人は、この「念仏往生」こそが実は観無量寿経の最も本質の部分であり、重要な教えであるとして、念仏を唱えて往生する重要性を説いたというわけです。

「悪人正機」の意味

浄土真宗に関する書物に「歎異抄」(たんにしょう)というものがあります。これは、親鸞聖人が亡くなられた後もその教えを正しく世に伝えるため、まとめられたものなのですが、その中に下記のとても有名な一説があります。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

「善人でさえ往生できるのだから、悪人ならなおさら往生できないわけがない」

という意味ですが、私たちの一般的なイメージからいうと、「悪人でも往生できるのだから、善人は間違いない」という方が違和感が無いですよね。

ではなぜ「歎異抄」(親鸞)は上記のような言葉が記されているのでしょうか。

実はここに、「ひたすら念仏を唱えて仏様を信じる」ことの難しさも表れているのです。どういうことか。

浄土真宗では「ただひたすらに仏様の力を信じ、身を委ねること」が求められています。ですが、何の迷いもなく一心に何かを信じ、身と心を寄せる、というのは実は難しいことではないでしょうか。自分で何かをしよう、と思う人ならなおさらのことです。

また、ここで言う「善人」と「悪人」の意味にも注意が必要です。
「善人」というのは、自力で善行を積んで往生しようとする人を言うのですが、上記の浄土真宗の教えからすると、阿弥陀仏の本願力を信じて頼ろうとしていない、という点で好ましくないとされてます。
一方の「悪人」はどんなに頑張っても善行を行うことができない人の事を指し、犯罪など何か悪い行いをした人の意味ではありません。

つまり、「善人」と「悪人」を浄土真宗の教えから考えると、実は自力で何もできない「悪人」の方こそ、阿弥陀如来の救いが期待できると考えられるのです。

したがって、もし「善人」でも漏れなく阿弥陀如来により往生できるのであれば、「悪人」ならなおさらのことだ、というわけですね。

浄土真宗と親鸞聖人

親鸞聖人の人物像

先ほど少しお話ししましたが、「浄土真宗」という宗派が誕生したのは親鸞聖人が亡くなられた後、その教えを引き継いだ弟子たちによってです。
「弟子たち」と記載しましたが、親鸞聖人は生涯、自分は法然上人の弟子であるという立場を崩さなかっただけでなく、一つのお寺、一人の弟子も取っていません。

これは天台宗を伝えた最澄が興した延暦寺や、真言宗を伝えた空海が開いた金剛峯寺とは明らかに違う点です。それでも現在このように浄土真宗が一大宗派として広がったのは、親鸞聖人の実子からその後の世代が親鸞聖人の教えを引き継ぐ中で徐々に組織的な体制を取っていったからです。

また、親鸞聖人は正式に妻となる女性がいましたが、これも当時に厳しい戒律を守る仏僧のイメージからすると少し意外に思われるかもしれません。ですが、ここにも親鸞聖人の信念がありました。

親鸞聖人は自分の事を「愚禿」(ぐとく)と呼んでいました。「愚禿」というのは「愚かな僧」という感じで、自分のことを卑下するような表現ですが、そこには「自分は僧でも一般人の存在でもない」という思いを持っていたと考えられています。

当時の「僧」は今とは違い、鎮護国家の目的のもと、国のために仕えるという色合いがより濃い存在でした。親鸞聖人は、そのような「国」ありきの束縛に囚われることなく自由に仏心を求める立場を貫き(つまり「非僧」)、仏に仕える身として一般の人とも違う立場(つまり「非俗」)であることを「愚禿」という言葉で表現したのです。

親鸞聖人に妻となる女性がいたことも、この「愚禿」の思いから考えると自然なことかもしれません。

親鸞聖人は聖徳太子の導きで浄土宗に行き着いた!?

親鸞聖人の生涯には伝説とも言えるいくつかの有名なエピソードがありますが、その一つが聖徳太子からの「夢告」に関するエピソードです。

親鸞聖人は1173年にこの世に生まれましたが、当時はすでに聖徳太子信仰があったものと考えられており、親鸞聖人も聖徳太子に対する強い信仰心を有していたと言われています。
そのため、親鸞聖人は三度も夢で聖徳太子から霊告を受けたと伝えられており、一回目は9歳から修行のため籠っていた比叡山でちょうど10年目の節目に当たる年でした。

この時は「あと十年で転機が訪れるだろう」と告げられ、その十年後の29歳の時に再び夢で聖徳太子に会い、これをきっかけに親鸞聖人は比叡山を下りる決意をします。

その後、聖徳太子創建と言われている京都の六角堂で100日間参籠し、その95日目の明け方、親鸞は救世観音の姿で現れた聖徳太子から三度目の夢告を受けます。

「もし因縁によって女性と交わりたいと思うなら、私が妻になってあげよう。そして臨終を迎える時には浄土に導こう。」

この言葉を聞き、親鸞聖人はそれまで抱えていた迷いから解き放たれました。つまり、いくら修行をしても性欲などの煩悩から完全に逃れることはできず、仏の導きでしか浄土に往生することができない、という悟りに達したというわけです。

これはまさに、これまでお話ししてきた浄土真宗の教義の根本ですよね。

いかがでしょうか。親鸞聖人の人柄が伝わってくるエピソードをいくつかご紹介しましたが、皆さんはどのように感じましたか?

親鸞聖人が実践した専修念仏の境地

親鸞聖人の有名なエピソードとして、山伏弁円の伝説をご紹介します。

山伏、というのは山中で修業を行って不思議な力を身に付けた人のことを言い、古くから加持祈祷によって病や厄災を払う役目を担っていた人たちです。

ところが、親鸞聖人の教えが広まるにつれて、念仏を唱えることで極楽浄土へ往生する希望を見出した民衆が増えると、逆に山伏に加持祈祷を依頼する人たちが少なくなってしまいます。
山伏にとっては大事な商売のお客さんを取られた形になってしまい、ある時弁円という山伏が親鸞聖人の暗殺を計画しました。

弁円は暗殺計画を実行に移し、親鸞の滞在していた草庵を襲ったのですが、親鸞聖人は「阿弥陀仏に預けた命」として全く動じず、これに感服した弁円は逆に親鸞の弟子になったというのですから、いかに親鸞聖人の姿に心を打たれたかということでしょう。

「御仏に全てを委ねる」

親鸞聖人のこのエピソードは、まさに念仏仏教の境地にたどり着いた人の姿を表しているように思います。

浄土真宗はなぜ多くの信者を獲得できた?

浄土真宗がなぜ多くの人々の心を掴んだのか。それはこれまでお話ししてきた通り、「分かりやすい教え」と「末法思想」にあることが大きいのですが、それ以外にも民衆に広がる仕組みがありました。それをご紹介しましょう。

説法のコミュニケーション

親鸞聖人の後、浄土真宗本願寺八世となったのが蓮如(れんにょ)でした。彼は積極的に各地を説法をして回ったのですが、浄土真宗の門徒の多くは農民を始めとする一般民衆であり、難しい言葉を並べてもなかなか伝わるものではありません。

そこで、蓮如は「御文」(おふみ)と呼ばれる手紙のようなやり取りを通じて、各地にいる門徒に対して、彼らの日常に即した分かりやすくて簡潔な文章で浄土真宗の教えを説いたのです。

「御文」という手紙に残すことで、門徒達はいつでもその教えを読み返すことができますし、それを他の仲間と共有することもできます。「文書」ならではの利点ですね。

門徒同士のコミュニティ

浄土真宗の門徒となった民衆たちにも、それまでの宗派にはない独特に繋がりがありました。

それまでどちらかというと貴族や公家とのつながりが強かった延暦寺を始めとする仏教宗派は、荘園の寄進を受けることが経済的な基盤となっていました。
ですが、「民衆の仏教」である浄土真宗には当然このような経済的基盤はありません。しかし、「念仏を唱えるだけ」の浄土真宗はある意味エコな宗派と言えます。

浄土真宗の門徒達は、特にお寺を作らなくても、一緒に集まって念仏を唱える場所さえあればその活動に何の支障もありませんでした。このため、門徒が集う道場の維持費はそれぞれが少しずつ持ち寄った予算でやりくりし、運営の決定も話し合いで決めるなど、平等で柔軟、そして「緩い」繋がりだったと言えます。

このような門徒同士の平等で緩い横の繋がりが、浄土真宗を通じたコミュニティを築きながら大きくする仕組みとして機能したのです。

「民衆の仏教」浄土真宗が歩んだ苦難の歴史

ここまでお読み頂き、浄土真宗が「民衆の仏教」とも言えることが伝わっていましたら嬉しいです。
ここからは、「民衆の仏教」だからこそ浄土真宗が歩んだ苦難の歴史もご紹介します。

「民衆」とくれば、その対立要素として挙がるのは「権力」ですよね。浄土真宗も例外なく、「民衆の仏教」だからこそ「権力」との戦いに巻き込まれていったのです。

比叡山と興福寺からの圧力

これは親鸞聖人がまだ法然上人の弟子として修行に励んでいた頃の出来事ですが、すでに浄土宗は民衆に広く浸透しつつありました。

これに危機感を持ったのが既存の宗派であり、その一つが延暦寺です。ご存じの方も多いかと思いますが、法然や親鸞をはじめ、鎌倉仏教の多くの宗祖たちが比叡山での修行を経験しています。

その勢力拡大を恐れた比叡山は、念仏弾圧に動くのですが、法然上人は「7か条の制誡(せいかい)」を立てて弟子たちを戒めることで何とか穏便に事なきを得ます。

ですが、その後興福寺が再び念仏仏教が勝手に「浄土宗」を標ぼうしているなど、「9か条の過失」を朝廷に訴えました。これにより、専修念仏は停止させられ、そのうえ法然上人と親鸞聖人を含む数名が流罪に、さらに数名は死刑という非常に重い罰を受けることになったのです(承元の念仏弾圧)。

当時は仏教の宗派を名乗る上でも国による厳しい管理下に置かれていたため、法然上人が「浄土宗」を興したことはある意味で正式なルールに則ったものではなく、したがって正式な宗派としては認められない、ということなのでしょう。
権力に依存しない浄土宗だからこそ受けた圧力だったと言えます。

ちなみに、これにより法然上人と親鸞聖人は別々の場所に流されましたが、その後二人が再会することは叶いませんでした。

加賀の一向一揆

こちらも必ず日本史の教科書に出てくる有名な出来事「加賀の一向一揆」、実はこれも浄土真宗の本願寺派の門徒たちが念仏宗教弾圧に対して決起したことがきっかけだったことはご存じでしょうか。

先ほどご紹介した本願寺八世の蓮如が、この地でも布教を行い本願寺の門徒が広がっていく中で、その勢いに不安を覚えた加賀国の守護、富樫政親(とがし まさちか)が弾圧を加えたことで門徒達が反乱を起こしたというわけです。

この結果、加賀国は一揆に倒れ、以後なんと百年にも渡って百姓たちが国を治めた「百姓の持ちたる国」と呼ばれたことはあまりにも有名です。

ですが、蓮如は百姓たちに一揆をけしかけたわけではなく、むしろ諫めようとしていたと言われています。この辺りから、徐々に本願寺の門徒たちの勢力が強大になり、本願寺もそれをコントロールすることができず、むしろ守護大名や戦国大名から目を付けられて政治の表舞台に巻き込まれていくことになるのです。

信長・秀吉・家康と本願寺

信長との衝突

戦国時代に入ると、多くの門徒を抱える本願寺は戦国大名からも一目置かれる存在となり、同時に危険分子としても見なされるようになりました。

本願寺は決して好んでこのような権力や政治に身を投じていったわけではなく、どちらかというと平和的な解決を望んでいたと思います。そして、それが避けられなくなったのが信長による本願寺の侵攻です。

当時大阪の石山にあった本願寺は、多くの門徒を抱えていたことからその周辺に寺内町が形成されており、一大経済圏が形成されていました。
ですが、天下統一を狙う信長にとって大阪は京の都に向かう交通の要でもあり、また本願寺の勢力を危険分子とみなしていたこともあり、これを叩くことは当時の状況を考えると当然に行き着いた決断だったと言えます。

何とか争いを避けたい本願寺でしたが、寺内町の自治を奪われることだけは譲ることができません。ですが、信長は寺内町についても明け渡すことを要求し、ついに交渉は決裂、信長と本願寺の争いの火ぶたが切って落とされました。

この争い、さすがの信長でも本願寺の一大勢力には手を焼き、決着がつくまでなんと11年の月日がかかっています。最終的には兵糧攻めにした信長の粘り勝ち、と言えますがこれで戦国大名に屈した本願寺は、さらに秀吉、家康に翻弄されていくことになります。

秀吉の巧みな骨抜き

信長がその後、本能寺の変で倒れると、変わって秀吉があっという間に勢力を伸ばして天下統一を達成します。

信長と本願寺の戦いを見た秀吉も、当然本願寺の勢力をうまく自分のコントロール下に置くため、巧みな支配をつづけたのです。その1つ目が、天満への本願寺の移転を認めたこと。
天満と言えば大阪城のすぐ足元です。自分の足元に置くことで、本願寺に常に目を光らせておくだけでなく、当時天満は、淀川の支流が大きく曲流し、洪水の被害を受けやすい場所だったため、この地に寺内町として整備させることも図っていたのではないか、とも言われています。

その後、秀吉は秀頼の誕生とともに京都との行き来が増えたことから、突如本願寺の京都への移転を命じます。これには、寺内町と本願寺を分断させることで、その経済力を削ぐ目的があったと考えられています。
そして、これが現在の西本願寺です。

また、秀吉の支配下に置かれた本願寺ではいつの間にか、その跡継ぎを決めるに当たって秀吉にお伺いを立てるようになっていました。

家康による本願寺の分断

実は信長との11年の争いにより、最終的に本願寺は降伏を選んだのですが、当時本願寺を継いでいた顕如上人が降伏を決断した一方、息子の教如上人は最後まで信長と戦うことを譲らず、両者の関係は決裂します。
これが後々の本願寺の跡継ぎ争いへと繋がっていきました。

教如上人はその後も本願寺の正当な跡継ぎに認められることはなく、裏方の存在であり続けたのですが、秀吉の亡き後家康が実権を握ると、教如上人は家康に近づいて、京都烏丸七条に寺地を建てる許可を得、ここに別の本願寺を建てたのです。

これが現在の東本願寺となるのですが、家康が教如にこのようなことを許可した理由として、本願寺の勢力を二分する目的があったのでは、と考えられています。

 

いかがでしたでしょうか。
西本願寺、浄土真宗と親鸞聖人のお話を駆け足でご紹介しましたが、権力の後ろ盾を持たず、一人の弟子、一つの寺も残さなかった親鸞聖人の教えとして広まった浄土真宗がやがて「民衆の仏教」として広まり、その後はその勢力を恐れた権力に取り込まれながらも今では日本最大の仏教宗派となっている事を考えると、民衆のパワーを感じられずにはいられません。

皆さんも京都駅からほど近い場所にある世界遺産、西本願寺を訪れた際には親鸞聖人と本願寺、そして浄土真宗がこれまで歩んできた苦難とその凄さを感じながらお参りされると、より特別な場所として感じられると思います!

(参考:「東西本願寺」高崎円遵 教育新潮社、「あなたの知らない親鸞と浄土真宗」 山折哲雄 祥泉社、「本願寺はなぜ東西に分裂したのか」武田 鏡村 扶桑社新書)

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