「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産として2015年に世界遺産に登録された軍艦島。正式名称は端島(はしま)と言います。
多くの観光客が見学に訪れる軍艦島は、今では大正・昭和の「レガシー」となっていますが、当時はむしろ「未来都市」でもある存在でした。
今回は、そんな世界遺産・軍艦島を支えた技術とインフラをご紹介します!
【世界遺産】軍艦島はどんな島?
軍艦島が石炭産業の一大拠点になるまで
「明治日本の産業革命遺産」は、造船・鉄鋼・石炭という3つの分野で日本が短期間で急速に成長を遂げた「奇跡」が認められ、2015年に世界遺産に登録されました。
軍艦島はこのうち「石炭」に関連する構成遺産になります。
軍艦島の歴史をさかのぼると、1810年に当時の佐賀藩が軍艦島で石炭を発見し、その後この場所に眠る炭鉱の採掘を開始したことで軍艦島での石炭産業は始まりました。
ただ、この頃の採掘は地表に露出した石炭を取ったり、そこから人ひとりがやっと入れるぐらいの横穴を掘り進んで石炭を採掘する程度のものでした。
19世紀初期の江戸時代の頃はまだ産業化など無い時代ですので、人々の生活に燃料として使われる石炭を確保できれば問題なく、石炭の需要はそれほど大きくなかったのです。
ところが、明治に入り日本が西欧に倣って近代化を急速に推し進めると、産業化に伴い、機械や機関車などを稼働させるのに必要なエネルギー源として石炭の採掘と供給が急務となります。
ですが、石炭というのは途方もない時間をかけて植物などが炭化したもので、その後の地層の積み上がりにより地下深くに眠っていることが一般的です(石炭が眠っている場所を「炭田」(たんでん)と言います。)。
軍艦島で石炭が採れることから、付近の海底には豊富な炭田が眠っているのでは、ということは分かっていましたが、実際にそれを掘り当てるのには高い技術と莫大な資金、そしてある程度の時間を要します。
明治に入り、軍艦島での石炭の開発に多くの資金を投じ、度重なる失敗に見舞われながらも最初の竪坑(たてこう:人やモノの運搬や空気の循環のため、石炭を掘る坑内と地上をつなぐ垂直の坑道施設のこと。)が1887年に完成しました。
その後、1890年に当時の三菱社が軍艦島の土地と、この場所での石炭開発・操業の事業を買い取り、本格的に石炭の開発・採掘が始まったのです。
軍艦島に人が暮らし始めた(三菱社の社員として石炭事業に携わっていた人たち)のも1890年代ごろからとなります。
「黒いダイヤ」の石炭に関する基礎知識
軍艦島で採掘された石炭
先ほど、石炭は長い時をかけて植物が炭化したものだとお話ししましたが、一口に石炭といってもそれが生成された環境や時間によって品質は様々です。
日本でも各地に石炭が眠る炭田が存在しますが、その中でも軍艦島がある長崎県の東シナ海側の海域は「西彼炭田(せいひたんでん)」と呼ばれる良質な石炭が採掘される一大炭田地帯で、軍艦島はこの炭田に沿って各島に造られた炭鉱の中で最南端に位置する島です。
軍艦島で採掘された石炭は瀝青炭(れきせいたん)と呼ばれる種類の石炭でも火力が高い強粘結炭(きょうねんけったん)で、高品質なものでした。
瀝青炭は黒光りすることから、「黒いダイヤ」と呼ばれており、この異名からもいかに石炭が重要な存在だったかがお分かり頂けるかと思います。
石炭採掘のあれこれ
石炭が眠る炭田までたどり着くのも大変な技術と労力、資金を要しますが、そこから石炭を採掘して地上に運搬するのも同様に高度な技術力が求められました。
ここでは簡単に石炭採掘に関する言葉をご紹介しながら、そのプロセスをご説明します。
炭田(たんでん)
石炭が集中して地層に堆積しているエリアを言います。地中や海底深い地層の中で長い時をかけて炭化した部分のことです。
炭鉱(たんこう)
石炭を採掘するための拠点のことです。イメージとしては、炭田へと続く坑道が地表に出ている部分に設置された様々な施設(機械や倉庫など)を思い浮かべて頂ければと思います。
坑道(こうどう)
地表から炭田に至るまでの道のことです。炭田は地下深くにあるため、地表からある程度垂直に降りた後、そこから石炭のある場所まで掘って造られた地下空洞の道のようなもののことです。
人や石炭の運搬だけでなく、空気の循環を行う上でも坑道の確保と設計が非常に重要です。
竪坑(たてこう)
地表と地下の坑道を結び、垂直に掘られた昇降用のスペースです。
人や石炭はケージと呼ばれるエレベーターのような機械に乗って地下と地上を昇降していました。ちなみに、620メートルの深さまで降りるのに約3分ほどかかったそうです。
命がけの探掘
炭田が見つかった後は、まず竪坑となる垂直の穴を掘り進めて炭田付近までの道を確保した後、坑道を横に掘っていきながら石炭の採掘を行います。
採掘された石炭は始めは人力で地表まで運ばれましたが、技術が進歩すると軍艦島でもベルトコンベヤーを用いた自動化に切り替わっていきました。
概要だけ記載すると伝わりにくいのですが、当時石炭を採掘するための鉱員の方たちは、竪坑からケージに乗って地下600メートル以上まで降りましたが、当然そこは暗闇の世界。
石炭を採掘しながら坑道を掘り進めて行くと言っても、有毒ガスの噴出や地盤の崩れなど、それは死と隣り合わせの作業だったのです。
また、いくら換気に気を配っていたとしても、採掘で空気中には細かい炭塵(炭の細かい粒子)が舞っており、それは当然人体には悪影響を及ぼすものです。
鉱員たちの日給は、当時の日本の平均賃金に比べると格段に良かったと言われていますが、それと引き換えに命に関わるリスクを負っていたことは知っておいてください。
軍艦島は人工島として大きくなった!?
軍艦島は、南北480m、東西160m、周囲1.2kmの人工島です。
人工島というのは、軍艦島が石炭事業の一大拠点として、人の手によって拡張工事が行われて大きくなってきたことを意味しています。
もともとの軍艦島は南北320m、東西約120mの岩礁と周囲に点在する瀬からなる小さな島でしたが、その後、炭鉱の開発と共に人口地盤による拡張工事が進められ、約3倍の面積となる現在の姿になったというわけです。
ちなみに、島の南西部約40%は石炭の搬出や坑道等、石炭事業用の鉱場としてのスペースであり、島民の生活は残り60%部分に過ぎません。
軍艦島の閉山
明治から大正、昭和を経て軍艦島は日本の近代化のみならず重工業産業に必要不可欠な良質の石炭を探掘する場所として、日本の経済を支え続けました。
終戦間近にはいろいろな物資が不足していたと言われていますが、軍艦島では1945年に「報国寮」という鉄筋コンクリートのアパート棟が完成しています。
これだけ考えても、いかに石炭を産出する軍艦島が当時の日本において厚遇されていたかお分かり頂けるかと思います。
ですが、そんな軍艦島も歴史のうねりとともに1974年に閉山を迎えることになりました。
なぜ閉山したかと言えば、石炭に対する需要が減退したためです。
1973年にオイルショックが世界を騒がせたことはご存じかと思いますが、この頃には石油の流通も一般的になり、国内に豊富な炭田があるとはいえ、国としては国内で石炭を産出し続けるより、海外から石油を輸入する方針に転換しました。
これにより軍艦島での石炭開発も中止を余儀なくされ、もともと会社の所有地でもあったため、事業の中止に伴い島の住民たちは島を出て行かなければならなかったのです。
現在は軍艦島の中を自由に散策することはできませんが、住民たちが住んでいたアパートは家電や家具が置き去りにされ、当時の生活の跡がそのまま残されています。
これは自分たちが出ていった後、誰もこの場所に住まないことが分かっていたから、わざわざ重い荷物を運び出さなかったというわけです。
戸建てに住まわれている方だとそのような経験があるかもしれませんが、引っ越した後、その場所に誰も住まないことが分かっているというのは、どこか寂しい気持ちになりますね。
【世界遺産】軍艦島の特徴
軍艦島での人々の暮らしをご紹介する前に、まず軍艦島が置かれた特殊な環境をご紹介します。この環境がこの島で暮らす人々の社会生活にも影響を及ぼしていました。
世界一の人口密度だった!?
先ほど軍艦島は最盛期で5千人を超える人々が暮らしていた、とお話ししましたが、一方で軍艦島というのはわずか0.063キロ平方メートルしかありません。
東京ドームが0.047キロ平方メートルなので、軍艦島の内、生活スペースが島の60%とすると、東京ドームよりも小さいスペースに5千人を超える人々が暮らしていたことになります。
ちなみに、人口5千人、面積0.063キロ平方メートルとしたときの人口密度は79,365人/平方キロメートルとなりますが、これは現在最も人口密度の高いモナコ(19,150人)の4倍以上という驚くべき値です。
この高い人口密度の都市を生み出したのが、軍艦島のあの要塞のような外観を生み出している鉄筋コンクリートの重厚なマンションたちです。
限られたスペースに多くの人々が暮らせるように発展した日本におけるマンション建築の先駆けだったと言えるでしょう。
海上の孤島
言わずもがな、軍艦島は洋上に浮かぶ孤島で長崎湾から約4キロメートルの場所に位置します。
日本には大小たくさんの島があり、もちろん有人島も多くあるわけですが、島での暮らしが成り立つためには安定的なインフラが整っていなければなりません。
軍艦島には最盛期で5千人を超える人々が暮らしていたと言われていますが、それだけの人々を支えるインフラは最初から整備されていたわけではなく、徐々に整備が進みました。
軍艦島は、後述する、当時の日本初となる技術をいくつも生み出した場所になったのですが、その背景には生活インフラの整備が急がれたことがあったのです。
軍艦島は会社の所有地
先ほどご紹介した通り、軍艦島での石炭開発・探掘事業は全面的に三菱社によって運営されていました。
これはつまり、軍艦島は三菱社の所有地であり、島民が暮らしていたのは三菱社の社宅だったということです。
島にはお店などの商業施設や病院、学校といった公共施設もありましたが、島全体が一つの会社によって所有されていたのですから、誰でも島に移り住むことが出来たわけではなく、基本的に島民のほとんどが三菱社の職員や鉱員でした。
世界遺産・軍艦島は三菱社が運営する石炭事業で成り立った島であり、一つの会社の所有地の中に一つの街と社会が成立していた。軍艦島がとてもユニークな場所だったことは、島民の方たちの暮らしを知る上でとても重要です。
【世界遺産】軍艦島は日本の未来都市だった
軍艦島は1974年に閉山するまで100年近くに渡って石炭事業が行われた島でしたが、石炭事業だけではなく、そこでの人々の暮らしもまた日本の未来への挑戦に満ちたものであり、新しいものが次々と生まれました。
そんな「未来都市」としての軍艦島が生み出したものをご紹介します。
日本最古・最高層鉄筋コンクリート造の建築
先ほど、軍艦島は世界一の人口密度の島だったことをご紹介しました。
限られたスペースで多くの人が生活をするために生み出されたのが、高層階建ての鉄筋コンクリート造の建物群です。
今では東京の都心に何十階建てという超高層マンションやビルが乱立していますが、1916年、軍艦島で日本初の鉄筋コンクリート造のアパートである30号棟が完成しました。
30号棟は7階建てのアパートですが、そのわずか2年後、日給社宅と呼ばれる集合棟が完成し、後に9階建てに増築されました。これは当時の日本で最高層の鉄筋住宅でした。
(「日給社宅」というのは、日給をもらっていた鉱員たちが住んでいたアパートだったことに由来しています。)
住宅建築だけではありません。
高島町立端島小中学校は、当時国内最高層の7階建ての巨大学校として運営されていました。その構造は1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、そして6階が体育館や図書館というもの。
限られたスペースしかない島だからこそ生まれた公共施設と言えますね。
厳しい自然環境との戦いを制する仕組み
護岸と擁壁(ようへき)
洋上の孤島である軍艦島での石炭事業、そして人々の生活の大きな脅威となったのが猛威を振るう自然でした。
ひとたび台風が発生すると軍艦島は高波に襲われることになり、軍艦島は台風や時化(しけ)から島民を護るための仕組みがいくつもありました。
それが島を囲む護岸と擁壁(ようへき)です。
護岸というのは高波や台風の猛威から島を護るために島の周囲に築かれた石垣やコンクリート造の壁のこと。
周りを護岸で固められているため、軍艦島には海岸がなく、これもまた軍艦島の外観を独特なものにしています。
擁壁というのは、もともと軍艦島を構成していた岩礁(がんしょう:海面にところどころ出ている岩)の崩落を防いだり、急な斜面でも建物が建てられるよう、平坦な場所を造るために築く壁状の造りを言います。
ちなみに、世界遺産としての軍艦島を見た場合、軍艦島に残された建物は世界遺産の対象に含まれておらず、護岸の中でも石積みで造られた旧護岸が世界遺産の対象となっています。世界遺産はあくまでも「明治日本」として、明治時代に造られた部分に限定されているからです。
護岸には四角い穴が多くありますが、これは島内に入った海水の排水口として作られたものです。
防潮棟
先ほどご紹介した鉄筋コンクリートの高層アパートは、島を襲う高波や暴風雨に対して、「壁」としての役割を持つ防潮棟でもありました。
例えば31号棟や48号棟は島の西の外側に建てられ、高波や防風を和らげるとともに、日給社宅棟には「防潮階」と呼ばれる、島に流れ込んだ海水のはけ口となる階が設けられています。
生活インフラの整備
島への上陸
島の周りを護岸で取り囲むと、面倒になるのが島への上陸です。
当初島への上陸には連絡船から小型舟に乗り換えて、跳ね上げ式の桟橋から島の中に入っていました。
ですがここでも厳しい自然環境が問題となります。
海が荒れていると、跳ね上げ式の桟橋を下すことが出来ず、代わりに縄の梯子(はしご)を上って島内に入っていたとか。
大人ならまだしも、子どもや女性が荒れた海上から不安定な縄の梯子を上ることは簡単なことではありません。
そこで生まれたのが、国内初となるドルフィン桟橋です。ドルフィン桟橋というのは、岸から離れた場所に設置された係留施設のこと。
軍艦島の観光ツアーで島に上陸する時にも使われる現役ですが、現在のドルフィン桟橋は三代目になります。
初代と二代目はそれぞれ数年、一年で流出してしまい、ようやく三代目で頑丈なものが出来上がったのです。いかに軍艦島を取り巻く海の環境が厳しいか、よく分かりますね。
水の確保
洋上の孤島である軍艦島では水や食料といった生活インフラを完全に自給自足することが出来ず、全て九州本土に頼っていました。
特に水に関しては島民の命を支えるものなので、1957年に約6.5キロにも及ぶ海底水道が設置され、水の問題が完全に解消されるまでは島民の節水意識はかなり高かったようです。
この海底水道ももちろん、当時の日本では初めて誕生したものです。
海底水道ができるまではどのように水を得ていたかというと、2つの方法がありました。
一つ目は、島を操業していた三菱社がボイラーで使用した海水から塩を精製する過程で出来る蒸留水を飲料水として配給する方式です。
この方法だと供給できる水の量が少ないため、生活雑用水は海水や雨水が使われ、また水量が厳しい時は「水券」を配って会社が水の配給を管理していました。
二つ目は、九州から飲料水を運ぶ方式。1932年から給水船「三島丸」が進水し、1日1回、島に飲料水を運搬していました。
ですが、ここでも問題となったのがやはり自然の脅威です。ひとたび海が大しけになると、給水船から水をくみ上げることができません。
島の中には水を貯めておく貯水槽がありましたが、それでもせいぜい3~4日分ほどの水量です。長い時には1週間以上給水船が途絶えたこともあったそうで、島民の暮らしには不便も多かったようです。
「緑なき島」の取り組み
軍艦島は人工島であるため、「緑なき島」とも呼ばれていました。
島が閉山してから40年以上経過した今では、コンクリートの中からたくましい緑が生い茂る島になっていることは皮肉ですが、当時は鉄とコンクリートで造られた島に緑は存在していませんでした。
そんな軍艦島で日本初の取り組みとして行われたのが「青空農園」でした。これは日給社宅の屋上スペースに農場を造ろうという大胆なものです。
緑に乏しい軍艦島で育った子どもたちは、野菜や植物がどのように育つのかを観察することができません。青空農園は、緑を知らない子どもたちのために取り組まれた教育プログラムとして始まったものでした。
青空農園は実際に土をアパートの屋上に島民たちが運んで造られましたが、屋上は防水構造でもなかったため、下のフロアへの水漏れが起こり、残念ながら屋上農園は最終的には閉鎖されます。
スペースが限られた島で、建物の屋上というのは青空農園に限らず、様々な目的に有効活用されました。屋上遊園地も造られたりデートスポットになったり、はたまた服などの干場など、屋上は住民憩いの場でもあったのです。
日本一「新・三種の神器」が早く普及した
先ほどご紹介したように、軍艦島は三菱社の所有地であり、そこで暮らす多くの島民は三菱の社員でした。
社員たちが暮らす鉄筋コンクリートのアパート群ももちろん三菱社の社宅です。つまり、島で暮らす人々は家賃の心配をする必要が無く、毎月食料費と水道光熱費を払っていれば十分に生活を送ることができていました。
その上、鉱員たちはもちろん、社員も当時の日本の平均賃金よりも厚遇されていたため、島の人々の懐事情というのはどちらかというと豊かな方だったのでしょう。
その証拠に、1950年代に日本にテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「新・三種の神器」が登場してから、軍艦島はいち早くその普及率が100%近くにまで達したと言われています。
ちなみに、当時の国内の普及率はわずか10%程度。これらの家電製品が日本人の平均月収よりも高価だった時代、一般的な収入ではなかなか手の届かないこれらの家電の普及率が軍艦島では100%に近かったというのは、驚きですよね。
いかがでしたでしょうか。
今では日本の明治から昭和にかけての近代化、そして高度成長期の遺産とも言える軍艦島が、当時は未来都市のモデルになり得る存在だったことがお分かり頂けたかと思います。
近代化がいち早く進んだ部分がある一方、島であることから付きつけられた不便さや、一つの会社の所有地で成り立っていた独特な社会と暮らしが世界遺産・軍艦島にはあったはずです。
次回は、世界遺産・軍艦島で生活をしていた人々の暮らしに目を向けてみたいと思います。
(参考:「軍艦島 池島 長崎世界遺産の旅」黒沢 永紀 筑摩書房、「軍艦島 入門」黒沢 永紀 実業之日本社、「軍艦島 奇跡の産業遺産」黒沢 永紀 じっぴコンパクト新書、「軍艦島の生活」NPO西山 夘三記念すまい・まちづくり文庫、創元社、「軍艦島離島40年 人びとの記憶とこれから」 坂本 道徳 実業之日本社)