世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】日光輪王寺、日光二荒山神社を100倍楽しむためのマメ知識5選

世界遺産に登録されている「日光の社寺」、その構成遺産は有名な日光東照宮の他に日光輪王寺と日光二荒山神社があります。
観光では日光東照宮が圧倒的に人気がありますが、古くから神聖な霊場として知られる日光の起源はむしろ、輪王寺と二荒山神社にあることをご存じでしょうか。
今回は、あまり知られていない日光輪王寺と日光二荒山神社の魅力を詳しくご紹介します!

【世界遺産】日光輪王寺・二荒山神社の創建と勝道上人

日光輪王寺:勝道上人像

日光を開いた勝道上人

日光山の歴史は非常に古く、日光輪王寺を開山したのは勝道上人とされています。この勝道上人が生まれたのは735年、奈良の平城京が都として栄えていた奈良時代のことなので、いかに日光の歴史が古いかがお分かり頂けるかと思います。

この勝道上人が仏門に入ったのは下野薬師寺でした。ご存じの方も多いかと思いますが、下野薬師寺と言えば奈良の世界遺産・東大寺、筑前観世音寺と並んで日本の三戒壇の1つに数えられている由緒あるお寺です。

「戒壇」というのは、言ってみれば正式な仏僧として認める「具足戒」を授けることができるお寺のこと。
詳細は世界遺産・唐招提寺の記事でご紹介していますが、奈良時代というのは日本において仏教の力で国を強くし、守る「鎮護国家」という考えが生まれた時代であり、本格的に日本に仏教が浸透するきっかけとなった時代でもあります。

この時代、まだ中国の見よう見まねで仏教の教えを広げていた日本では、仏教の教えを広める僧侶と言っても玉石混合で、中には素性や経験もはっきりせず、自らを「僧侶」と名乗る人たちがたくさんいたわけです。

それではきちんと仏教の教えが浸透しない、ということで、正しく仏僧を認める制度の確立が急務の課題であり、またそれを行うほど経験も実績も素晴らしい人を中国から招聘する必要がありました。
このために来日したのが、奈良の世界遺産、唐招提寺を創建した鑑真です。

鑑真の渡来により、日本にも正式な戒壇が造られ、下野薬師寺もその1つとなるわけですが、話を日光と勝道上人に戻しましょう。

勝道上人はこの下野薬師寺で27歳の時、鑑真和上の高弟子に当たる如意僧都から具足戒を受け、正式に僧になりました。
まだ具足戒が出来て間もない時代の中、このように具足戒を受けた勝道上人は当時でも数少ない高僧だったことが分かります。
また、勝道上人はあの鑑真の孫弟子になるわけで、同じ世界遺産の日光と奈良の間でこのような繋がりがあるのも面白いですよね。

勝道上人と日光開山(輪王寺)

日光輪王寺:逍遥園

正式な僧となった勝道上人はその後、日光に入るわけですが、今では日光国立公園として指定されているぐらいですので、当時は険しくうっそうとした自然とそびえ立つ日光の山々の姿を見て、ここに神聖な雰囲気を感じ取ったことは想像に難くありません。

勝道上人が日光山に入ったその後、766年に「四本龍寺」というお寺を建立します。これが日光山の発祥、そして輪王寺の起源になるわけですが、この名前の由来は、この地が「四」神相応の地でありその中心である「本」において東方の青「龍」に当たったことから、この地に寺を建てたことに由来すると言われています。
この「四本龍寺」もさらに元をたどると、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)という名前だったそうですが、この名前は東方に四色の雲がわき、その上に「紫雲」が立ち昇ったのを見て、この地に仏堂を草創した、とも言われています。

この後、810年に日光山に叡願が下り、正式な名称として輪王寺の旧称である「満願寺」び称号を朝廷から賜りました。

勝道上人と日光開山(二荒山神社)

日光二荒山神社

我々が「日光」と呼んでいる場所には、正式には「男体山」(なんたいさん)、「女峰山」(にょほうさん)、「太郎山」(たろうさん)と3つの山があるのですが、日光信仰においてはこの3つの山をそれぞれ神体山として祀っているのが二荒山神社になります。

また、男体山、女峰山、太郎山の標高はそれぞれ2,486メートル、2,483メートル、2,368メートルとなっており、いずれも2,000メートルを超える山々であることから、この中を分け入ることは決して簡単なことではなく、勝道上人も山々の頂の地を踏むまでには長い年月が必要でした。

四本龍寺を建立したさらに十数年後、782年、ついに勝道上には男体山の頂に到達しました。四方に山々があり、またその間には湖が広がっている姿をみて、勝道上人はここがまさに浄土の世界ではないか、そう思うほど美しい景観に圧倒され、この地に奥宮を創建したのです。

これが日光二荒山神社の奥宮になったわけですが、「二荒山」という名前にも勝道上人の開山に由来しています。

先ほど、男体山の頂の先に「浄土の世界」が広がっている、とお話ししましたが、中国では観音の浄土のことを「補陀落」(ふだらく)と言います。この「ふだらく」という発音が「二荒山」(ふたらさん)の由来ではないか、という説です。

816年、勝道上人は男体山(二荒山)に「三社大権現」を勧請し、これが日光二荒山神社の本社・本宮神社・滝尾神社となりました。

【世界遺産】日光輪王寺・日光二荒山神社に伝わる伝説

日光を訪れた?弘法大師・空海との関連

さて、勝道上人と日光開山のお話をご紹介しましたが、実は日光は日本の歴史上とても有名な人物たちとの関わりも残されています。

その1人が弘法大師・空海。空海が実際に日光を訪れたかどうかははっきりしません。ですが、空海が著した「性霊集」は勝道上人に関しての記載が見られることから、空海もこの地を訪れたのではないか、というわけです。

もう1つ、空海がこの地を訪れたとする伝説が残されています。それは、輪王寺の「児玉堂」と二荒山神社の滝尾神社にまつわるものですが、ご紹介しましょう。

820年、空海が日光を訪れた時、白糸の滝の辺りにあった八葉蓮華池の近くで仏眼金輪という密教の修法を17日間にわたって行いました。
すると、池の中から大小2つの白玉が出てきて、次のように話されたと言います。

「『私』は天補星であり、ここに「女体の霊神」がいる。」

これを受けて空海がこの地に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とするお堂を建て、これが児玉(小玉)堂となりました。

これは仏教からみた説話ですが、この「女体の霊神」こそ、女峰山の神として祀られている「田心姫命」(たごりひめのみこと)・瀧尾権現の示現と言われています。

ちなみに、大きい白玉は妙見菩薩であったとされ、中禅寺の妙見堂に祀られたとされています。

源頼朝と日光

輪王寺にある常行堂。これはかの慈覚大師円仁が定めたと言われている天台宗の厳しい修行を行うためのお堂で、1145年に建てられたものなのですが、別名「頼朝堂」という名前がついているのをご存じでしょうか。

「頼朝」というのは、そう、あの源頼朝のことです。
頼朝の名前が付いている理由は、頼朝が日光に深く帰依していたと言われており、もともと東照宮が造られる前に日光の中央部から銅の器が発見され、中に入っていた瑠璃色の壺(頼朝のものと思われる骨壺)と、鎌倉幕府三代将軍の実朝が寄進したとされる水晶の念珠が見つかりました。

実は頼朝の父、源義朝は日光の寺社を整備した功により下野国司に再任されたこともあり、頼朝は欧州征伐の途中、日光に立ち寄って戦勝祈願を行ったとも言われています。

【世界遺産】日光輪王寺・日光二荒山神社と神仏習合

山から中禅寺湖を眺める

日光と神仏習合

これまで日光がいかにして信仰を集める聖地となってきたかについてご紹介してきましたが、次に少し視点を変えて神仏習合から世界遺産、日光輪王寺と日光二荒山神社をご紹介したいと思います。

日本の世界遺産や信仰の歴史を考える上で、神仏習合はとても重要な信仰です。

神仏習合とは、簡単に言ってしまえば仏教の如来や菩薩とそれまで日本人が信仰していた神々が組み合わさり、仏を守護する立場として神様の存在を信じるようになったという信仰の形を言います。
さらに、その流れの中で本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)という信仰も登場します。これは、仏様が現世に現れる際に、神様の姿をして現れると信じられてきた考え方を言います。

これまでご紹介してきた通り、日光信仰の歴史を見たとき、そこに明確に仏教や神道の区分はありません。これはそれほど古くから神仏習合の信仰が日本人に根付いたことを表しているということでもあるのです。
今でこそ世界遺産では「日光の社寺」として二社一寺、と明確に名称が分かれていますが、これは明治維新の際に日本中に吹き荒れた神仏分離の流れにより、お寺と神社を明確に切り分ける命令が明治政府から下ったことによります。

ここでは神仏習合に沿って日光信仰をご紹介していきます。

日光輪王寺と日光二荒山神社の関係

先ほど、日光二荒山神社の創建で男体山、女峰山、太郎山をご紹介しましたが、日光信仰においてはこの3つの神様の存在がセットになっています。

ちなみに男体山、女峰山、太郎山の神様の名前はそれぞれ、大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、親子関係にあります。
つまり、男体山:大己貴命が父、女峰山:田心姫命が母、太郎山:味耜高彦根命が子、という関係です。

この三神と輪王寺の三仏堂に祀られている仏像が関係しており、三仏堂に祀られている千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が三神の本地仏とされています。つまり、これらの仏様の仮の姿が三神というわけです。

表にまとめると以下の通り。

神体山祭神関係本地仏標高
男体山
(二荒山)
大己貴命(おおなむちのみこと)千手観音2,486 m
女峰山田心姫命(たごりひめのみこと)阿弥陀如来2,464 m
太郎山味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)馬頭観音2,368 m

護摩堂の三天

現在の輪王寺・護摩堂には七福神が祀られていますが、かつては護法天堂というお堂で毘沙門天、大黒天、弁財天の三天が別に祀られていたことはご存じでしょうか。

これは先ほどご紹介した三神と三尊の関係とも紐づいてくるのですが、三仏堂の三尊がご利益をお願いしやすい福の神に姿を変えて「三天」となっているのです。このため、護法天堂は「内権現堂」とも呼ばれていました。

 

いかがでしょうか。
日光の歴史や信仰を考えると、神仏分離の影響が大きかったとはいえ、世界遺産の日光輪王寺と日光二荒山神社を別々に捉えてしまうと、その歴史や信仰を正しく理解することはできません。
今回の記事で日光輪王寺と日光二荒山神社をセットで取り扱った趣旨につき、ご理解頂けると嬉しいです。

【世界遺産】日光の地名に残された伝説

ここで、日光の有名な観光名所の名前にまつわる伝説をいくつかご紹介しておきます。ここにも日光信仰と神仏習合が表れていることがお分かり頂けるかと思います。

神橋

神橋

勝道上人が日光に入る際に大谷川を渡る必要があったのですが、この川が激流でどうしても渡ることができませんでした。そこで、一心に神仏に祈ったところ、深沙大王が現れ、赤青の二匹の蛇を投げたところ、瞬く間に虹のように橋となったそうです。

これが神橋の由来ですが、現在私たちが見ている神橋のように橋が朱色塗りになったのは1636年、寛永の大造替の時です。

この伝説から、川の北岸に深沙大王を祀る「深沙王堂」が建てられました。

華厳の滝

華厳の滝

華厳の滝の名前の由来には諸説あるのですが、それをご紹介します。

①日光山の由来が華厳経に説かれている補陀洛山のため、滝もこの経典に由来する名前が付けられた。
②弘法大師が820年に中禅寺に登り、滝の近くに華厳寺というお寺を建立したことによる。
③天台宗では釈迦の説法に華厳時、阿含時、方等時、般若時、涅槃時の五時があるとの教えがあり、日光山にはその五時の名前が付けられた滝がそろっているため。

どれも最もらしく聞こえますね。

戦場ヶ原

戦場ヶ原

日光から奥日光の湯元に続く道の途中に「戦場ヶ原」という名所があります。名前を聞く限り、歴史上の合戦の舞台となった場所かと思われるかもしれませんが、実はこの名前、神様同士の戦い、神戦の伝説が由来となっている地名なんです。

その神様というのが、上州赤城のムカデと野洲二荒山のヘビの戦いというもの。何ともユニークな戦いです。

この戦いで二荒山の女神は、小野猿麻呂という弓の名人の援助で敵のムカデの大将の左目を射抜き、この戦いに勝利したとされています。
ちなみにこの小野猿麻呂、もしくは小野猿丸という人物が馬頭御前(太郎山権現)のその子では無いか、とも言われています。

中禅寺

中禅寺湖

中禅寺湖のほとりに立つ中禅寺も最初にご紹介した勝道上人の創建によるもので、784年の創建となります。
中禅寺湖の湖上にいらっしゃった時、観音様の示現を拝してその場で木から千手観音を手彫りした、と言われておりこの千手観音を本尊として祀ったのが中禅寺の創建と言われています。

日光輪王寺と日光二荒山神社が世界遺産に登録された理由

いかがでしたでしょうか。
日光信仰とその歴史と合わせて世界遺産日光輪王寺、日光二荒山神社の魅力を感じて頂けたら幸いです。

最後に、日光輪王寺と日光二荒山神社が世界遺産に登録された理由をご紹介しておきましょう。

日光輪王寺・日光二荒山神社に残された建築物群

冒頭でご紹介した通り、日光輪王寺と日光二荒山神社の歴史は奈良時代まで遡ることになります。それほど古くから現代にいたるまで、日光ではその信仰に基づいて多くの建造物が造られてきました。

もちろん、今私たちが見ている姿が創建当時のもの、というのは僅かで多くは再建等されたものではありますが、日本の古来からの歴史や信仰に基づく建造物が数多く残っていることに変わりなく、その点で世界遺産としての価値が認められたことになります。

構成遺産に含まれる「遺跡」(文化的景観)

実は日光の社寺として世界遺産に登録されているのは、東照宮、日光輪王寺、日光二荒山神社だけでなく、これらを取り巻く日光の遺跡も含まれています。

どういうことでしょうか。
先ほどご紹介した建築、建造物としての素晴らしさであれば東照宮、日光輪王寺、日光二荒山神社だけということになりますが、日光の自然が日本人の信仰と密接に関連して形成されてきたことも、世界遺産の登録の際に評価された、ということです。

それはつまり、この記事でご紹介してきた歴史や信仰、そしてそれにまつわる伝説も含めて日光の自然が日本人の信仰と結びつき、他にはない信仰の形を造った、ということなんです。

 

いかがでしたでしょうか。
日光を訪れた際にはぜひ日光輪王寺、日光二荒山神社もじっくり観光して、日光東照宮にも勝るとも劣らない魅力を感じてみてください!

 

(参考:「日光 その歴史と宗教」菅原 信海、田邉 三郎助、春秋社、「日光山 輪王寺 宝ものがたり」日光山輪王寺 東京美術、「古寺巡礼 東国2」山本 健吉 淡交社)

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