世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】東寺(教王護国寺)を100倍楽しむためのマメ知識3選

「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている京都の東寺(教王護国寺)。

教王護国寺とも呼ばれ、JR京都駅からも徒歩圏内にあること、また京都市街からぽっかりと顔を出す五重塔は京都のシンボルでもあり、京都の人々にも親しまれています。

今回は弘法大師、空海のお寺としても有名な東寺の知られざる魅力をたっぷりご紹介します!

1.【世界遺産】東寺の歴史

東寺:五重塔(国宝)

東寺の創建

東寺が創建されたのは796年、時は平安時代の頃です。

「ナクヨ(794)うぐいす平安京」という語呂合わせがまだ頭に残っている方も多いのではないでしょうか。
平安京の遷都が794年だったので、東寺は都が京都に移ってからすぐに創建されたことになります。もちろんこれには理由があります。

それは、東寺は羅城門を挟んで西側にあった西寺と並んで官寺(=国によって認められた公的なお寺)として創建されたことにあります。

平安京において官寺として創建が認められたのは、世界遺産の東寺と今は無い西寺の2つのみ。日本の歴史にお詳しい方なら、一つ前の奈良時代に多くの官寺が建立されたのに比べて、この数は少ない、と気づかれたかもしれません。

そもそも都を遷すということは、国家の一大プロジェクトなわけですが、それを行うには様々な理由が考えられます。その一つが、何か従来のしきたりや社会の在り方からの脱却、簡単に言ってしまえばリセットして新しい国造りを行うためです。
奈良時代は仏教が日本に本格的に広まり、国教として発展した時代。ですが一方で、これが行き過ぎた仏教偏重の風潮を作ってしまいました。そこで、その時の天皇であった桓武天皇は、遷都に伴ってこの風潮からの脱却を図ります。

奈良時代の平城京には、平城京への遷都に際していくつかの寺院も平城京に遷されましたが、平安京への遷都の際には寺院の移転は認められませんでした。この歴史的な出来事が、東大寺を始めとする南都奈良の寺院のその後の存続に大きな影響を与えることになったのです。

官寺として創建された東寺は、律令国家において国家鎮護の役割を果たすことを目的とした寺院として生まれました。
このため、東寺の本尊は現世利益を司る薬師如来です。

日本で初めての密教寺院へ

東寺:食堂

官寺として出発した東寺は、その後823年に転換期を迎えます。それは、時の天皇嵯峨天皇が東寺を弘法大師、空海に託されたこと。これによって、日本で初めての密教寺院が誕生しました。
東寺を本格的な密教寺院とすべく、空海は伽藍の整備という大事業に乗り出します。今我々が観ている東寺は、はるか1,000年以上も前に空海がデザインされたものということになります。

日本で初めての密教寺院が誕生したことは当時としてはとても画期的な出来事でした。
それまでの奈良の南都寺院は仏教を学ぶための学問の場として機能していましたが、一口に仏教と言っても単一の教えではなく、「南都六宗」と呼ばれているように様々な宗派を学ぶ言わば総合大学のような場所でした。
一方で東寺は、密教の真言僧のみが入寺を許されたお寺なのです。先ほどの総合大学と対比すると専門大学のようなイメージでしょうか。

ちなみに、東寺は教王護国寺とも呼ばれていますが、これは密教寺院として嵯峨天皇から空海が譲り受けた際に、鎮護国家・万民豊楽を祈る仁王護国経が修せられたことに由来しています。また、正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と、とても長い名前がついています。

衰退を辿った平安時代後期~鎌倉時代

官寺として創建された世界遺産、東寺。その権威と天皇による後ろ盾で、弘法大師、空海に密教寺院として託された後も順風満帆かと思いきや、その先には苦難が待ち受けていました。

平安時代以後、荘園制が広まると、貴族や皇族とつながりのある醍醐寺、仁和寺といった同じ京都の世界遺産には荘園が寄進される一方でもともと官寺としてスタートした東寺は衰退の一途をたどります。
平安時代と言えば藤原氏が天皇に勝るとも劣らない実権を握った時代。そして、その後の鎌倉時代からは武士の世となり、朝廷の力が衰退していくことになります。官寺として朝廷の後ろ盾が支えであった東寺と西寺はこの影響を大きく受けたのです。そして、西寺は鎌倉時代の1233年の五重塔焼失から、復興されることなく歴史から姿を消しました。

一方の東寺は、鎌倉時代に入ると息を吹き返しました。そのきっかけが、鎌倉時代になって弘法大師信仰が高まりを見せたこと。これによって皇族から庶民にいたるまで広く信仰を集めることになりますが、特に深い信仰と影響力を持っていたのが、後白河法皇の皇女であった宣陽門院でした。彼女は東寺に莫大な荘園を寄進し、これにより東寺は再興を果たします。

同じ官寺として出発した東寺と西寺が、このように明暗を分ける結果となったのも歴史の面白いところですが、世界遺産として東寺が今も生き続けているのは、弘法大師、空海のお力によるということになります。

戦乱と災難の室町時代~戦国時代

東寺:開かずの門

鎌倉時代以降、他の京都の寺院と同様、東寺も度重なる戦乱に巻き込まれていきます。

東寺には「開かずの門」と呼ばれる門があることをご存じでしょうか。この門は、南北朝時代に東寺を拠点とした足利尊氏軍に対し、新田義貞率いる軍勢が東寺に攻め入った際、尊氏が門を閉ざして防戦したと言われています。
門には今も、当時の弓矢の跡が残されており、その時から現代まで一度も開かれることがなかったため、このような名前が付きました。ですが、2010年、平成の大修理の際に647年ぶりに開門されています。

そして、東寺がもっとも荒廃したのが戦国時代に起こった火災でした。1486年の火災で金堂を始めとする伽藍が焼失してしまいます。五重塔含め、土一揆による破壊、落雷や火災による焼失、地震による損害と数多くの災難を経験しましたが、その度に復興されて今に至ります。

ちなみに、金堂は1603年、豊臣秀頼公のお力添えで復興されたもの、五重塔は1644年、江戸幕府第三代将軍徳川家光により再建されたものです。

東寺なのに京都の西にある!?

京都の街と平安京(©OpenStreetMap)

世界遺産、東寺はJR京都駅の西側にあるため、今の感覚からすると
「なんで京都の西側にあるのに『東寺』なの?」
と思われるかもしれません。

ですが、もともと京の都平安京は今のJR京都駅よりも西側にありました。上の図をご覧いただくと分かりやすいかと思いますが、平安京があったころ、羅生門から朱雀門、大内裏へと続く平安京の中心は東寺よりも西側にあり、これを中心として西側に「西寺」、東側に「東寺」が建てられたのです。

2.【世界遺産】東寺に秘められた壮大な密教思想

弘法大師、空海が伝えた両界曼荼羅とは?

皆さん、曼荼羅はご存知でしょうか。大きな平面にたくさんの仏様や菩薩様などが幾何学的に配置された模様のようなものです。
弘法大師の空海が伝えた曼荼羅は「両界曼荼羅」と呼ばれているもので、2つの曼荼羅がセットになっていて、このスタイルは日本オリジナルと考えられています。

世界遺産、東寺は「曼荼羅のお寺」とも言われているほど多くの曼荼羅が残されており、特に宝物館に保管されている両界曼荼羅(伝真言院曼荼羅)は日本最古の曼荼羅としてとても貴重なもので、国宝にも指定されています。

曼荼羅は簡単に言ってしまえば、密教の教えを絵に描いたもの。ただでさえ伝承が難しい密教の思想や教えを分かりやすく、また多くの人に知ってもらうために絵に表したということです。
両界曼荼羅は「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の2つを指し、「胎蔵界」は言わば形ある世界、「金剛界」は精神世界を表します。形ある世界と形のない精神世界、この2つが合わさって宇宙を形成していて、その中心には真理そのものである大日如来がいらっしゃる-。そのような事を教えてくれています。

講堂に秘められた壮大な仕掛け

東寺:講堂

先ほど、東寺のご本尊は薬師如来とお話ししましたがこちらはもちろん金堂に供えられています。ですが、東寺を訪れてみるとよく分かりますが、伽藍の中心にあるのは金堂ではなく講堂なんです。

この講堂は、東寺を嵯峨天皇から託された空海が自ら創建されたものなんですが、これをお寺の中心にあえて建てられたということは、そこに空海の強い意思があったということです。
この講堂には何があるのでしょうか。

講堂内には全部で21の仏像が供えられており、その中心には大日如来像を中心とした五智如来像が配置されています。
この東側には慈悲を表す五大菩薩が、西側には怒りを持って導く五大明王が、さらに壇両端と四隅には悟りの世界を守護する梵天像・帝釈天像と四天王像が置かれている構図になっています。

この構図を見てピンと来られた方もいらっしゃるかもしれません。
そう、これは実は曼荼羅の世界を具現化したものなんです。言ってみれば3Dの曼荼羅ということ。
平安時代の初期に密教の教えを曼荼羅の平面世界から、このような立体世界まで一気に発展させた空海の偉大さには驚くばかりです。

そして、五大明王像のうち、不動明王像は日本で一番最初に造られたものと言われており、しかも弘法大師の空海が自ら創作されたと伝わっています。この五大明王像を含む十六尊が国宝に指定されていることからも、いかにこの講堂が日本の歴史上、宗教上貴重なものかお分かり頂けると思います。

東寺の伽藍に秘められた壮大な仕掛け

東寺:金堂(国宝)

先ほど講堂に秘められた弘法大師、空海の壮大な意思についてお話ししましたが、実は講堂だけでなく東寺の伽藍全体にも同じような空海の思想が現れています。

1つ目が、一直線に配置された伽藍です。
東寺は南から金堂・講堂・食堂(じきどう)の順に直線状に伽藍が並べられています。京都の他の世界遺産寺院には見られない特徴であり、これはどちらかというと奈良の寺院に近いものと言えます。
それもそのはず、平安時代初期に創建されたことや、日本で最初の密教寺院として密教の実践を学ぶ場として機能していたことを考えると納得です。

2つ目は金堂・講堂・食堂の順に並んでいること。
先ほど、講堂が東寺の中心的な伽藍であることはお伝えしましたが、それ以外にもこの順で伽藍が並べられている理由があります。
金堂はご本尊の「仏」様が安置されている伽藍、講堂は密教の教え、つまり「法」を具現化した空間、そして食堂は「僧」侶が日々の生活の拠点とする場所。
そう、伽藍の並びはそのまま「仏・法・僧」を表しているのです。

さらに、直線状に配置された伽藍と四方に設けられた門はまるで幾何学的な意味を持っているようにも見えます。そして、その中心には講堂の大日如来像が置かれている-。
東寺そのものが大きな曼荼羅として造られたように見えてきませんか?

東寺を造られた弘法大師、空海の思想は到底量り知れませんが、このような意図が込められていても全く不思議ではないですよね。

3.【世界遺産】東寺と京都の文化

最後に、世界遺産東寺とゆかりのある京都の文化をご紹介します。

弘法市(東寺縁日)

世界遺産の東寺のシンボルが毎月開催される弘法市(東寺縁日)です。

弘法大師空海がご入定されたのは旧暦の3月21日、今の4月21日でした。その後、東寺の御影堂では毎月21日に御影供という法要が行われるようになったのですが、この法要はやがて多くの方がお参りに訪れるようになりました。
そこで、お参りされる方のために「一銭一服」の茶屋が南大門に出されたのですが、それが700年も続いている今の弘法市の始まりと言われています。

地元の人から「弘法さん」として親しまれている東寺の弘法市は、毎回1,000店近い露店が出されて多くの人で賑わっています。

弘法市と正御影供について、下記の記事で詳しくご紹介していますのでぜひこちらもご一読ください。

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東寺と五山の送り火

京都の夏の風物詩と言えば、五山の送り火。この五山の送り火ですが、いつ、誰によって始められたものか実ははっきりしたことは分かっていません。
五山の送り火の始まりや意味するものにはいろいろな説が、ありますが、その中の1つに弘法大師、空海が創始者として「大」の文字を作られた説もあります。今回はその説の由来や詳細をご紹介しましょう。

密教と護摩供

五山の送り火はその名の通り火を用いた法要ですが、もともと密教にも護摩供と言う火を使った法要があります。
密教では火は、如来の大智の光であると説かれており、この光によって人間の持つ様々な煩悩を焼き払うという信仰の元、厄除けや祈祷の法要で用いられてきました。

密教の護摩供は当然屋外で行われる法要です。五山の送り火は壮大な火を焚く法要であることから、密教の信仰がその起源にあると考えることは自然でしょう。

五山の送り火が意味するものとは?

五山の送り火が密教の法要であると考えた時、それぞれの文字は何を意味しているのでしょうか。

五山の送り火は2つの「大」、「妙」、「法」、「舟形」と「鳥居」の5つから成りますが、これらは護摩供祭壇の方式を表したものではないかと考えられています。
そうすると、2つの「大」は密教の中心真理である「大日如来」、「妙」と「法」は法典である法華経を、そして「舟形」は舟、つまり水を表していることから「水天」を、「鳥居」は「火天」と、文字と護摩供祭壇の法要はぴたりと整合します。
ちなみに「大」が2つある理由はここまでお読み頂ければ分かる方もいらっしゃると思いますが、両界曼荼羅の2つの世界を表しているのです。

また、「火天」と「水天」はあまり聞いたことがないかもしれません。こちらはもともとインド発祥の12天と呼ばれる護神に含まれる神様で、それぞれが方角を司っています。火天は東南、水天は西の方角を司っており、特に火天は曼荼羅にも描かれるなど、密教とも深いつながりがあります。

五山の送り火は京都を舞台とした壮大な護摩供!?

以上を踏まえて五山の送り火の場所を良く見てみると、一つのイメージが浮かび上がってきました。
それは、東寺の弘法大師空海が、京都御所を護摩壇として京都全体に大きな護摩供の法要を行っている姿。

あまりに壮大なスケールのため、にわかには信じがたいですが、全く根拠のないでたらめというわけでもありません。

これまでお話ししてきたように、官寺として出発した東寺は当然朝廷と深いつながりを持っていました。
例えば、東寺でも最も重要な法要の1つである「後七日御修法」はもともと正月に2回、1月1日~7日及び8日~14日に宮中で行われていた密教の修法のうち、後半の法要に基づくものです。
そしてこの修法は、五穀豊穣だけでなく万民豊楽や、天皇の主体安穏を祈願して行われたと言われており、国家行事というスケールの法要と言えるでしょう。

このように当初から空海は宮中で修法、法要を行っていたこと、また先ほどの東寺の伽藍に秘められた空海の思いを考えてみても、京都御所を中心として壮大な護摩供を空海が計画していたとしても不思議ではありません。

そのような空海の思いを感じながら五山の送り火を体感してみてはいかがでしょうか。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
弘法大師空海が築き上げた世界遺産、東寺の魅力や価値、そして現代に生きる我々のくらしとのつながりも知っていただけたことで、より身近に感じて頂けたのではないでしょうか。

ぜひ京都を訪れた際は、一度東寺に足を運んでみてください!

 

(参考:「大師のみてら 東寺」東寺(教王護国寺)、「東寺 行こう」竹内のぶ緒 星雲社)

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