日本が世界に誇る世界遺産、法隆寺。
「世界最古の木造建築」と言われる法隆寺の金堂は建築学の観点から素晴らしいのは当然ですが、金堂内の壁に描かれた壁画も人類の至宝と言われるほど、国内外から高い評価を得ているのはご存知でしょうか。
今回は、過去の火災で一部焼失してしまうなど悲しい歴史も含め、法隆寺金堂内の壁画を分かりやすくご紹介します!
1.【世界遺産】法隆寺金堂の壁画はいつ製作されたもの?
法隆寺の金堂はいつ建てられた?
世界最古の木造建築であるがゆえに、今なお数多くの謎に包まれている法隆寺。
法隆寺が再建されたものか、今の姿が当初のままのものかという法隆寺の創建に関して一大学術論争が巻き起こったのに関連して、法隆寺の金堂がいつ創建されたものなのかについても科学技術が発達した近年まで不明な部分が多かったのです。
近年有力とされている法隆寺再建説をベースに考えると、法隆寺の金堂は7世紀の後半に建てられたものと考えられています。
(法隆寺がいつ創建されたのか、いわゆる法隆寺再建非再建論争についてはこちらの記事をご参照ください。)
皆さんも歴史の授業で習った日本書紀によると、法隆寺について下記のように記載されています。
607年:斑鳩寺建立
670年:斑鳩寺が焼失
もしこの記載が正しいとすると、今の法隆寺は670年に斑鳩寺が焼失した後に再建されたもの、ということになるのですが、先ほど金堂は7世紀後半に創建されたとお話ししました。
670年に焼失して、7世紀後半に金堂が創建される!?
焼失した後の金堂の創建がすごく早いと思いませんか?ある書籍では金堂の落慶は679年ではないか、という説が紹介されています。
もし本当に679年に金堂が完成したのであれば、斑鳩寺の焼失からわずか9年後のことです。技術が発達した現代ならまだしも、1300年以上の昔に、これだけ立派な建物をわずか9年で完成させたと思うと、驚きの他ありません。
ですが、このヒミツを解明するヒントでもあり、新たな謎が見つかっています。それは、金堂に使われている木材の年輪を調べたところ、伐採されたのが670年よりも前のものが見つかったということ。
日本書紀では670年に焼失したと記されているのに、それよりも前に伐採された木材で金堂が造られている-。
ここから、もともと火災で焼失する前から金堂の創建計画があったのではないか、と考えられています。そうであれば、火災後すぐに金堂が完成していることの説明も付きますよね。
法隆寺金堂の壁画も、金堂が創建された時期に製作されたと考えられています。
法隆寺の金堂内壁画は誰が製作した?
それでは法隆寺の金堂内に描かれた壁画は誰によって製作されたのでしょうか。
平安時代の書物「七大寺日記」によると、法隆寺の金堂内の壁画は鞍造部の鳥、別名を止利仏師という人物によって描かれたものと記載されています。
一方で、そのずっと後、明治28年に刊行された鳥居武平の「法隆寺伽藍諸堂巡拝記」には「伝曇徴筆」、つまり曇徴なる人物によって描かれたと紹介されています。
まず「七大寺日記」で紹介されている止利仏師は、同じく法隆寺の金堂のご本尊である釈迦三尊像を彫った人物です。この人物が壁画も描いたというわけです。
一方、「法隆寺伽藍諸堂巡拝記」の曇徴という人物は、610年に高句麗より来朝して法隆寺に住み、彩色技術や紙・墨を日本に伝えた人物と言われています。
この2人の人物、どちらが本当に法隆寺金堂内の壁画を製作したのでしょうか。
答えとしては、どちらも製作者ではありえない、ということになります。その理由として、先ほど金堂は7世紀後半の落慶とお伝えしましたが、この2人は7世紀の前半に活躍した人物であり、金堂が完成した7世紀後半と時期が大きくずれているためです。
したがって、法隆寺金堂の壁画の製作者は今もはっきり特定することはできません。
2.【世界遺産】法隆寺金堂の壁画の構図
それでは法隆寺の金堂内の壁画についてご紹介しましょう。
法隆寺を訪れた方は、西院伽藍の中にある金堂を目の当たりにしてどう感じられたでしょうか。筆者は荘厳で洗練された雰囲気が、ぎゅっとその意外と小さな建造物に凝縮されている気がしました。
この法隆寺の金堂内にある壁画は実は50面もの構成から成っていると聞くと、驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
可能であれば金堂の中に入り、360度見える場所からご本尊とそれを囲む壁画を観ることができればどれだけ圧巻か、お堂の外側から覗くことしかできないのが残念なのですが、50面もの多くの壁画からできている金堂の壁画の構造からお話ししたいと思います。
まず、金堂の中は外陣と内陣の2つに区分されていますが、外陣はさらに4面の外陣大壁と8面の外陣小壁に区分することができます。
次に内陣には、飛天と呼ばれる諸仏の周りを飛行遊泳している天人が20面描かれています。
さらに金堂内の壁の上方には、18面の禅定比丘が描かれています。比丘(びく)とは簡単に言ってしまうと修行僧を意味します。禅定とは座禅を組んで瞑想を行うことを言います。つまり、禅定比丘とは座禅を組んで瞑想に励んでいる修行僧を描いたものということです。
法隆寺金堂内に18面にも描かれた禅定比丘の壁画には、合計27名の修行僧が描かれていました。この27という数字、覚えておいてください。
以上、外陣大壁4面、外陣小壁8面、飛天20面及び禅定比丘18面で計50面になります。
皆さんは同じく世界遺産に登録されている京都、宇治市の平等院鳳凰堂を訪れたことはありますか?こちらは毎日一定人数と限定ですが、鳳凰堂の中を見学することができます。
一部の仏像は同じ敷地内のミュージアムにて保管されていますが、こちらもお堂内には壁画が描かれており、ある意味法隆寺の金堂と同じと言えるでしょう。
はるか昔、白鳳時代にすでにこのような壁画で囲まれた金堂を創建したことを考えると、その技術に驚くばかりです。
白鳳文化の影響
法隆寺金堂内の壁画には白鳳文化の特徴がよく出ていると言われていますが、特にインドの影響を受けていると考えられています。
壁画に描かれた題材は中国の敦煌にある壁画との類似性が指摘されていますが、身体に密着した衣服が描かれているなど、インドの影響が敦煌を渡って日本に伝えられたと言われています。
法隆寺金堂壁画:外陣大壁に残された謎
法隆寺金堂内の壁画の構図についてお分かり頂けたかと思いますが、実はこの中で外陣大壁と外陣小壁に描かれた題材(=それぞれにどの仏様、菩薩が描かれているか)に関しては一部を除いて、長い間論争が繰り広げられていました。
外陣大壁には浄土が描かれているのですが、仏教で方角は重要な意味を持っており、それぞれの方角を司っている仏様がいらっしゃいます。(これを四方四仏と言います)
上の図を見て頂きたいのですが、法隆寺の金堂は南向きに建てられており、南面には大壁が描かれておらず、東側と西側に1面、北側に2面描かれています。
4面の外陣大壁はもちろん、東西南北の4つの浄土が描かれているわけですが、問題はどの位置(上の図で言うと赤字の①⑥⑨⑩)の壁画がどの方角の浄土を描いているのかということ。方角が分かればおのずと描かれている仏様も特定できるというわけです。
ちなみに、ここでの四方四仏とは;
東方薬師仏
南方釈迦仏
西方阿弥陀仏
北方弥勒仏
を言います。
また、このうち西側の大壁(⑥)に関しては描かれている中尊の印相や、その両脇に観音菩薩・勢至菩薩が描かれていることから、西方の阿弥陀浄土が描かれていることで異論は出ていません。
これまでの定説
これまでは、実際の方角に合わせて外壁の浄土も描かれていると考えられてきました。つまり、
東面に描かれている①が東(=薬師仏)、西面の⑥が西(=阿弥陀仏)、⑨と⑩がそれぞれ南(=釈迦仏)と北(=弥勒仏)と言うわけです。
近年の定説
これまでの定説では、実際の方角に縛られての考えが主流でしたが、その後、方角ではなく壁画に描かれた題材を重要視する考えが主流になりつつあります。
近年の研究で、上の図の⑩の壁画に描かれた中尊の右掌に丸い玉が乗せられていることが分かりました。この丸い玉は宝珠であると考えられているのですが、このことから、⑩の題材は薬師仏浄土ではないかという考えが浮上しました。
薬師仏と言えば左手に薬壺をお持ちになっている姿は有名ですが、他の時代等に描かれた薬師仏で右手に宝珠を持たれている姿が描かれているものがあるためです。
とすれば、⑩は東の浄土(=薬師浄土)を題材としていることになります。⑥が西方浄土(=阿弥陀浄土)で異論がないことを考えると、①は南方浄土(=釈迦浄土)、⑨は北方浄土(=弥勒浄土)を表していることになります。
法隆寺金堂壁画:外陣小壁の題材
仏と菩薩の違いは?
続いて、8面ある外陣小壁について見て行きましょう。
外陣小壁の題材は菩薩になります。8面にはそれぞれ菩薩が描かれているわけですが、皆さん、仏と菩薩の違いはお分かりでしょうか。
簡単に言ってしまうと、仏とは悟りを拓いた存在を言います。つまり、この世界の真理を突き止め、幸せとは何ぞやという永遠のテーマの答えを見つけた存在と言えるでしょう。
一方の菩薩とは、仏の存在になる手前の段階で、悟りを探求している存在を指します。こう考えると、仏と菩薩、どちらが偉い存在かはっきりしますね。
そうです。仏の方が偉い存在というわけです。
外陣小壁に描かれた菩薩
外陣大壁の題材についてはご紹介した通り、これまでいろいろな論争が繰り広げられてきましたが、8面の外陣小壁については一部諸説があるものの、大方描かれている菩薩は明確にされています。それを一気にご紹介します。
以下、先ほど見て頂いた構図の番号と題材となっている菩薩の一覧です。
③:観音菩薩
宝冠に化仏をつけていることから、観音菩薩と判明。人々の悩みや苦しみを聞いてくださり、救いを示してくださる菩薩。
④:勢至菩薩
宝冠に水瓶を持たれていることから、勢至菩薩と判明。智慧の光であらゆるものを照らし、人々を救いの道へと導く菩薩。観音菩薩と共に、阿弥陀如来の脇に位置し、三尊と呼ばれる。
⑦:聖観音、⑫十一面観音
どちらもは、観音菩薩が変身された姿を言います。聖観音はより人間に近い姿をされており、十一面観音はその名の通り、頭に十一の顔を持つ菩薩。
⑧:文殊菩薩、⑪普賢菩薩
どちらも特徴があり、文殊菩薩はその姿態お左手指の印相が、普賢菩薩は白象に乗っている姿が特徴的。これらの菩薩は釈迦如来の両脇を固め、三尊と呼ばれる。
②:日光菩薩、⑤月光菩薩
こちらの二体はそれぞれ対称となる同じポーズを取っており、考えにふける思惟のポーズで描かれています。二体がセットであることに疑いはないですが、描かれている菩薩は諸説があります。
3.【世界遺産】法隆寺金堂の壁画が表す意味とは?
さて、ここまでで法隆寺金堂内の壁画に描かれている題材は何となく分かっていただけたかと思います。
それではこの壁画を描いた人物は、この壁画によって何を表現したかったのでしょうか。
外陣大壁は浄土図ではなく、説法図だった!?
ここでもう一度外陣大壁に戻ってみましょう。
実は4面の外陣大壁には単に仏様が描かれているわけではなく、その周りには三尊に数えられる菩薩も数多く描かれています。
もし単に浄土の姿を描くだけなら、ここに菩薩がこれほどたくさん描かれているのは少し違和感があります。
最近ではこの4面の大壁は浄土図というよりは、むしろ説法図を描いているのでは無いか、と考えられています。
50面の壁画が描く、壮大な物語
それでは、金堂内の360度に渡って描かれた壁画は何を表しているのでしょうか。
その手がかりとなる1つの発見が近年明らかになりました。それは、阿弥陀浄土図に描かれた菩薩の数がこれまで25体と考えられていたのが、新たに2体が見つかり、27体だったということが分かったのです。
この数を聞いて、ピンと来ませんか?そう、18面の山中羅漢図に描かれた比丘の人数と同じなんです。
これは偶然の一致でしょうか。こうは考えられませんか?
悟りを求める菩薩がついに悟りを拓き、仏となる。仏様はさらにその姿を変えて人間界に降り立ち、修行僧の身で再び悟りを求める-。
まさに人間の生死を超えた仏の世界との輪廻、それがこの壁画のテーマなのではないでしょうか。
金堂が示す聖徳太子信仰
釈迦三尊像と壁画
もう1つ忘れてはならないのが、聖徳太子との関係です。
金堂のご本尊である釈迦三尊像は、聖徳太子への深い信仰から、その等身大の姿に造られていると考えられています。
そして、この仏像と同じくらいの高さの壁には20面の飛天が描かれています。
それはまるで飛天が聖徳太子を浄土へと導いているかのようです。
聖徳太子の教えと壁画
もう1つ、聖徳太子と言えば「三宝」の教えを説いたことでも有名です。
三宝とは、仏・法・僧のこと。
外陣大壁には「仏」が描かれ、さらにその題材は説「法」図です。さらに18面の山中羅漢図には修行「僧」である比丘が描かれています。まさに三宝が壁画によって表されているのではないでしょうか。
4.【世界遺産】法隆寺金堂の壁画と火災
時は1949年1月26日。ちょうど昭和の大修理が掲げられ、金堂もいったん解体作業が行われていた時、金堂から火の手が上がります。
昭和に入り法隆寺の文化財保護の機運が高まり、防火設備がある程度整備されていたこともあり、完全焼失は免れたものの、金堂内の壁画は大きく損傷し、山中羅漢図にいたっては断片が残るのみとなってしまいました。
この火災により、残念ながら私たちは金堂に描かれていた壁画の当時の姿を目の当たりにすることは出来ません。
ですが、江戸時代に浄財を集めるため、金堂が開帳されて以来、多くの人々が金堂の壁画に魅了され、その模写が数多くの有名な芸術家の手によって生まれました。
岡倉天心やアメリカのフェロノサなど、そうそうたる偉人たちが法隆寺金堂内の壁画に深い感動を覚えたのです。
いかがでしたでしょうか。国内最古の木造建築を有する法隆寺。その金堂内に残された壁画は、私たちが観ることができる数少ない遠い昔の日本の姿の一端を見せてくれるものです。
ぜひ法隆寺に訪れた際には金堂もじっくりとご堪能ください!