スリランカでも1,2を争う人気観光スポットのシーギリヤ・ロック。巨大な岩の上に、1,000年以上も前に造られた王都の遺跡が残されており、世界遺産にも登録されています。
巨大な岩の迫力や、頂上に残された遺跡、そしてそこからの絶景-。なぜここに王都が建設されたのか、シーギリヤ・ロックの驚くべき治水技術、そしてフレスコ画の謎とは!?
魅力満載のシーギリヤ・ロックをさらに楽しむためのマメ知識をご紹介します!
【世界遺産】シーギリヤ・ロックに王宮が造られた理由とは?
シーギリヤ・ロックとは?
近くで見れば、いかにその岩が巨大であるかがよく分かるシーギリヤ・ロック。高さは200メートルにも及び、岩上の王宮とシーギリヤ・ロックを取り囲む庭園は、477~495年、当時シンハラ王国の王であったカッサパによって創建されました。
シーギリヤとは「獅子の山」を意味する言葉ですが、その言葉の通り宮殿に上がる階段にはまるで王を守るかのように巨大な獅子が形どられた「獅子の門」があります。
残念ながら現在は、その獅子の足先だけしか残されていません。
なぜ、カッサパはこのような巨大な岩の上に王宮を建てたのでしょうか。ガイドブックなどで紹介されている定説と、それを覆すもう1つの説をご紹介しましょう。
ガイドブックで紹介される、定説
カッサパが王位を継承する前、王の座には父であるダートゥセナがいました。
ダートゥセナにはカッシャパのほかに、もう1人、モッガッラーナという息子がおり、カッサパが兄、モッガッラーナが弟になります。
この2人の息子は、母親を別にする異母兄弟でした。カッサパの母親は平民の女性、それに対してモッガッラーナの母親は由緒正しい王族の血を引く女性だったのです。
当時、血縁が重視されていたスリランカでは、カッサパよりも弟のモッガッラーナが正当な後継者であるとして、父親のダートゥセナはモッガッラーナに王位を譲るつもりでいました。これに対して、長兄であるカッサパは、自分こそが王位継承者であると主張し、父であるダートゥセナを生きたまま幽閉し、王位を奪取してしまうのです。
ダートゥセナはその後、カッサパによって殺されてしまいます。兄の凶行に身の危険を感じた弟のモッガッラーナは王都から逃亡し、再興の機が熟すまで身を隠します。
一方、望み通り王になることができたカッサパ。ですが彼の心は平穏ではありません。なぜなら、弟からの復讐を常に不安に感じ、恐れていたためです。
いつ何時弟の軍勢に攻め込まれるか分からない。そうした不安からカッサパは、鉄壁の守りと絶対の安全を求めて絶壁のシーギリヤ・ロックに王都を移し、その上に王宮を建てた-。
以上が、定説によるシーギリヤ・ロックの説明です。ここに王都を移したものの、結局カッサパはモッガッラーナ軍に攻め込まれ、最後は自害を選びました。
これが定説となっている理由は、これがマハーワンサと呼ばれる、スリランカの歴史書に記載されていることによります。
もう1つの新説
カッサパの話について、15世紀にアナンダという僧が石板に刻んだという碑文が後世に書物となり、翻訳されたものがあります。こちらの翻訳による説をご紹介しましょう。
王位を巡る思惑
当時王位にあったダートゥセナ(カッサパの父)はスリランカの王として、アジアにおける仏教の庇護者である、ブッディ・ラジャヤという位を名乗ることを渇望していました。
ところが、この位はすでにジャワ(インドネシアのジャワ島?)のスリ・クンジャ王が名乗っているものでした。
ダートゥセナは、ブッディ・ラジャヤは正当なスリランカ王が名乗るべきものであり、他の当主が名乗るべきものではない、と主張したものの、スリ・クンジャ王は一向にこの主張を認めません。困ったダートゥセナは高僧を呼び、ブッディ・ラジャヤよりも高い地位である、チャクラバルチという位があることを知ります。
しかしこの位は、昔のペルシャ王ですら獲得を諦めるぐらい、不可能な戒律を実践しなければならないものでした。
これも無理だと判断したダートゥセナは結局、儀式に基づいて、パルバタ・ラジャという皇帝の地位を名乗ることを目指します。この儀式によると、皇帝は巨岩の上に住まい、そこから指揮や統治を行うこととされていたのです。
そこで、ダートゥセナはシーギリヤ・ロックの上に王宮を建てる計画を立て始めました。
義理の兄弟との争いと王位継承の策略
皇帝即位が落ち着いたと思いきや、パルバタ・ラジャの地位を巡り、インドにいたダートゥセナの義理の兄弟、シハバルマンがダートゥセナに宣戦布告をし、争いが勃発しました。
ちょうどその頃、次の王位に息子のモッガッラーナを充てようと思っていたダートゥセナは、同じく王位を狙っていたもう一人の息子、カッサパに、シハバルマンとの戦の先陣を任せることにしました。
そこには、わざと少数の兵力しか与えず、カッサパを争いで亡き者にしようとする意図があったのです。
一方、シハバルマン軍の先鋒に任されたミガラ将軍も、シハバルマンの策略で、わざと少数の兵しか与えず、わざと戦で戦死するよう仕向けられていました。ミガラ将軍が、キリスト教へと改宗したことに対する腹いせです。
こうして偶然にも同じ境遇になったカッサパとミガラ将軍は手を組み、カッサパがミガラ軍を撃破し、降参に追い込んだように見せかけました。父ダートゥセナの思惑を知っていたカッサパは、その上でミガラ軍と共に父ダートゥセナに反旗をひるがえしたのです。
慌てたダートゥセナはカッサパ・ミガラ軍を迎え撃つため、急いで軍基地の設営に取り掛かりますが、場所が運悪くカッサパ・ミガラ軍基地の後方だったため、急襲されて壊滅状態に陥りました。
負けを悟ったダートゥセナは、その場で自害。
ですが、ここに悲しい事実があります。実はカッサパは、敵は弟のモッガッラーナ率いる軍であると思い込んでいて、後にそれが父のダートゥセナであったことを知るのです。
父を不憫に思ったカッサパは、自害した場所に小さな供養塔を建てました。そしてこれにより、カッサパは当時王都があったアヌダーラプラに入り、王位を名乗ります。
弟との亀裂とシーギリヤ・ロック遷都
王となったカッサパは、弟のモッガッラーナとも友好な関係を築くべく、モッガッラーナに補佐役の地位を与えようとします。ですが、モッガッラーナはこの受け入れを拒否し、母親とともに国外に逃亡してしまいました。
このすれ違いが、後にモッガッラーナによるシーギリヤ襲撃へとつながることになります。
カッサパはその後、一筋の光が降り注ぐ場所を見つけます。なんとこれが、父ダートゥセナが存命中に建設を進めていたシーギリヤ・ロックの王宮だったのです。そしてカッサパは、父の意思を継いで、シーギリヤ・ロックに王都を移しました-。
いかがでしたでしょうか。定説ともう1つの新説では、カッサパの人物像も、シーギリヤ・ロックの上に王宮が造られた経緯も、全く違っています。
筆者個人は、狂気的で短絡的にしかカッサパが描かれていない定説より、新説の方が説得力があるように感じますが、皆さんはいかがでしょうか。
【世界遺産】シーギリヤ・ロックの驚くべき治水技術
シーギリヤ・ロックが世界遺産に選ばれた理由の1つとして、アジアの中でも、当時の王都跡の姿を良くとどめている、その保存状態の良さにあります。
つい、高さ200メートルの巨岩に目が行きがちですが、当時はこの岩の東と西にそれぞれ100ヘクタール、50ヘクタールほどの敷地を持ち、王都として栄えていました。この敷地内に残されている遺跡も合わせて観ると、5世紀後半に造られたこの王都が、いかに優れた技術を駆使していたかがよく分かります。
それをご紹介しましょう。
高度に駆使された治水技術
シーギリヤ・ロックで特筆すべきは、その緻密に計算された治水技術にあります。
そもそも、巨大な岩の上に王宮を建てることからこの地に王都を移したカッサパ王。このような平野のど真ん中に王都を営むうえで重要なのが、水の確保でしょう。
人工の貯水湖:シギリヤ・タンク
写真左側の湿原のようなエリアが、当時水を貯めるために人工的に造られたシーギリヤ・タンクです。ここに貯められた水は、その後水路を通じてシーギリヤ・ロックの周りの堀を巡ります。
このシーギリヤ・タンクは、王都を支えるうえでの生命線と言え、周囲を張り巡らされた堀は外敵からの防御だけでなく、都市全体に熱が溜まるのをクールダウンさせる効果も持っています。
Water Garden(水の庭園)
現在シーギリヤ・ロックへの入口となっているゲートをくぐると、そこからシーギリヤ・ロックまでの道の両端には水路や池などが置かれたWater Garden(水の庭園)があります。
その中でも、Water Gardenをぎゅっと小さくした、Micro Water Gardenが入口のすぐ右側に残されています。ここには、水路、プール、水上テラス(小屋)や庭があり、水を巧みに利用して見事な庭園を造っていたことが分かります。
Water Gardenを囲む水路は、小石やきれいに磨かれた石を積み上げて浅く造られていて、そこをゆっくりと水が流れるように出来ています。そして、これが庭園全体を冷やす仕掛けになっているのです。
入口からシーギリヤ・ロックまでのWater Gardenも、このMicro Water Gardenと似た構成になっており、真ん中の道を挟んで左右対称に造られています。
今でも作動する噴水
Water Gardenの道に沿って造られた水路の先に、石に穴を開けて造られた噴水が今も残されています。雨がよく降る11月から2月ごろ、雨の後にこのように噴水から水が噴き出る様子を観ることができればラッキー。
それにしても、1,000年以上も前に造られた噴水が、今もなお機能しているというのは本当にすごいですね!
頂上の王宮にも豊富な水
世界遺産シーギリヤ・ロックの頂上には、王だけが使っていたプールまで完備されていました。このプールに入り、岩の上からの絶景を独り占めする-。
これ以上ない贅沢ですね。
シーギリヤ・ロックの頂上は、自然そのままのため、平な状態ではなく、ところどころに高低差があります。この頂上ほぼ全域を使って建てられた王宮は、この高低差を逆に巧みに利用することで、さらに豪華な造りへと変貌しました。
写真のように、いたるところに階段が数多く備えられていますね。そして、雨で降り注ぐ水が頂上で滞留して溢れることなく、岩の隙間を通って地上に流れ落ちるよう、雨水の排水までも考慮して造られているのです。
地上のWater Garden同様、頂上には噴水も造られ、地上から水を送るポンプまで完備されていました
といっても、電気も無いこの時代に、どのようにして地上から高さ200メートルもある頂上まで水を汲み上げていたのか、詳細は明らかになっていません。
汲み上げられた水はそこからシーギリヤロックの中を通って再び地上に降りるよう、循環する仕組みになっていて、この循環によりシーギリヤロック全体の熱を冷ます効果があったのだとか。
まさに究極のエコ・クーリングシステムと言えますが、5世紀後半にここまでの技術が駆使されていたのには驚くばかりです。
このような治水技術を知ると、シーギリヤ・ロックとそれを取り囲む地上の王都が、いかに一体として緻密に設計された都であったのかがよく分かるかと思います。
【世界遺産】フレスコ壁画「シーギリヤ・レディ」の謎
「シーギリヤ・レディ」女性のモデルを巡る様々な説
世界遺産シーギリヤ・ロックの最大の見どころの1つが、高さ100メートルほどの場所にある壁に描かれたフレスコ壁画、「シーギリヤ・レディ」です。
当初は500体もの女性が描かれていたと言われていますが、現在残されているのはわずか19体ほど。
実はこの壁画が誰によって作られ、またここに描かれた女性が誰なのかについて、いまだにはっきりとした結論は出ていません。いくつかの説をご紹介しましょう。
①カッサパ王の妻たち
1つ目の説が、カッサパ王の王宮で王とともに暮らしていた正妻や、その他の側室の女性たちを描いたものではないか、という説です。
莫大な財力と権力を握っていたカッサパ王は、自分の王宮に数多くの女性たちと共に住んでいました。まさにハーレムを作り出したカッサパ王が、自分の身近にいる女性をモデルにして、このフレスコ壁画を描いたのではないか、という説です。
②ニンフ
2つ目の説は、ニンフ、つまり、神話世界に出てくる精霊を描いたものではないか、という説です。
写真の壁画も、左側の女性が何か植物のようなものを持っている姿が描かれていますが、ニンフがカッシャパ王に対して花や作物を献上している姿を描いたのではないか、という説です。
③タラ女神
3つ目の説は、チベット仏教に登場するタラという女性を描いたものではないか、という説です。
もともとヒンドゥー教の神様として崇められていたタラが、チベット仏教に取入れられ、女性の菩薩として崇拝されます。
④風神と雷神
4つ目の説は、女性が「雲」と「雷」を象徴しているのではないか、という説です。
このフレスコ壁画の女性たちは、腰回りから上しか描かれておらず、そこから下は雲に隠れています。また、女性の顔や皮膚をよく見ると、黄金の顔をした女性と、やや暗めの皮膚を持つ女性の2種類が描かれています。
このことから、それぞれ「雲」と「雷」を司る女性ではないか、と考えられています。
様々な説がありますが、壁に描かれた女性の首にはすべて、3つ輪のタトゥーのようなものが描かれています。
これは、この女性たちがカッシャパ王に仕える身分であることを表す装飾品だそうです。つまり、女性のモデルが精霊やタラ女神だったとしたら、カッサパ王はそれ以上の身分、存在であることを誇示する壁画ということになります。
女性が描かれた理由とは?
世界遺産シーギリヤ・ロックは、実はスリランカでは珍しいある特徴を持っています。それは、宗教的な建築物が造られていないこと。
同じスリランカの世界遺産であるアヌラーダプラやポロンナルワには、ストゥーパや仏像がたくさん残されていますが、ここシーギリヤ・ロックにはありません。なぜでしょうか。
この記事の冒頭にお話しした通り、カッサパの父であったダートゥセナは、仏教に深く帰依した王でした。その王を殺してしまったカッサパは、仏教上、絶対に許されない過ちを犯したことになります。また、多くの仏教僧からも嫌われる存在となってしまいました。
いったんは王都があったアヌダーラプラに入ったカッサパが、シーギリヤに王都を遷都したのは、居心地の悪さがあったのかもしれません。
そのため、カッサパはシーギリヤを、宗教に基づかない王都にすることに意欲を燃やし、そこに自分オリジナルの神聖観を作り出すことにしたのです。
手本としたアラカマンダ
カッサパがシーギリヤを造営するうえで参考にしたと考えられているのが、仏教上の話に登場する、アラカマンダという架空の都です。
アラカマンダは、この上ないほどに美しい、雲に囲まれた都であると考えられています。
これに倣って、カッサパはシーギリヤロックの壁面を雲のように描くことで、王宮がまるで雲の上に建つ神聖な場所であるようにしたのです。
ですが、真っ白な雲だけでは下や外からの外観があまりに目立たず、地味なものに終わってしまうため、その雲に女性を描き足したのではないか-。
当初は500体も描かれていた女性の壁画。これを下や遠くから眺めた時の姿は、華麗でどれほど美しかったことか。その姿を今は観ることができないのが残念です。
シーギリヤ・ロックが世界遺産に登録された理由
最後に、シーギリヤ・ロックが世界遺産に登録された理由(正式な世界遺産名は「シーギリヤの古代都市」)を簡単にご紹介しておきます。
今回ご紹介した高度な治水技術やシーギリヤ・レディのフレスコ画は、このシーギリヤ・ロックにおいて独特の思想や技術、文化があったことを示すものです。
さらに、一時的とはいえこの場所に王都があったことから、この地が当時のシンハラ王国の中心地として栄え、様々な交流の起点になったことも世界遺産に登録された理由として考えられます。
諸説あるもののこの巨大な絶壁の上に王宮が造られ、それを利用した建築・治水技術や宗教的な思想が生まれたことは世界遺産に登録するにふさわしい価値あるものですよね。
いかがでしたでしょうか。
想像以上に優れた治水技術、独特の世界観、そしてまだまだ紹介しきれていない、贅沢を極めたカッサパ王の暮らしぶりが分かるシーギリヤ・ロック。
こんな王都を築きあげ、贅沢に暮らしていたカッサパ王が、短絡的に父親を殺し、弟の復讐に怯えていた、ということに筆者は違和感を感じずにはいられません。
いずれにしても、知れば知るほどその凄さが分かるスリランカの世界遺産シーギリヤ・ロック、皆さんもぜひ一度訪れてみてください!
(参考:「Sigiriya」Sm Print & Publishers Nittambuwa, 「The Pleasure Gardens of Sigiriya」 Godage International Publishers Osmund Bopearachchi)