世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】日光山輪王寺:大猷院の見どころ徹底ガイド

日光の世界遺産と言えば、徳川家康を祀る日光東照宮があまりにも有名すぎて、同じく世界遺産に登録されている二荒山神社や輪王寺を訪れる方は少ないかもしれません。

今回は徳川三代将軍家光の霊廟である世界遺産、輪王寺:大猷院の見どころをご紹介します!

徳川家光と家康、大猷院の見どころガイド、東照宮との関連など、これを読めば世界遺産、輪王寺・大猷院が100倍楽しめます!

【世界遺産】輪王寺・大猷院を知る-徳川家光と家康

祖父・家康を慕っていた家光

徳川将軍の中でも、徳川家康の次に知名度が高い将軍と言っても過言ではない、三代将軍家光。

家康が江戸幕府を開き、二代将軍秀忠が武家諸法度の制定を行うなど徳川家の地位を盤石にした後、さらに徳川幕府による200年以上続く江戸時代の基盤を作ったのがこの三代将軍の家光です。

参勤交代や鎖国など、江戸時代の要とも言える政策を次々と打ち出した家光ですが、実は両親の秀忠と江は弟の国松を寵愛していたので、実は国松を跡継ぎにしたかったのでは、とも言われています。
弟の国松は自害という悲運の最期を遂げるわけですが、将軍の座を継ぐに当たって兄弟で少なからず確執があったことは否めません。

結局、家光が三代将軍となるわけですが、その背後には家康の存在があり、家康が家光を跡継ぎとして接していた様子が「徳川実紀」に記載されています。

このことがあったためか、家光は家康を心から慕っていたと言われています。それが分かるエピソードを2つご紹介しましょう。

家康を慕う家光のエピソード

東照宮の大改築

実は日光東照宮は、最初からあのような荘厳で豪華絢爛な姿だったわけではありません。
もともと家康の遺言としてこの地に家康の霊廟が築かれたわけですが、家康が遺した言葉は「日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」というもの。

そうです、家康はあくまでも「小さな堂」を希望しており、これに沿うように秀忠は日光に簡素な社殿を造営したわけですが、日光を参拝に訪れた家光が「寛永の大造替」と呼ばれる大規模な改築を行い、今の姿になったわけです。

家康を慕っていた家光からしてみれば、心から慕う祖父にはそれにふさわしい荘厳な社殿を用意しなければ、と思ったのでしょう。事実、この大造替は徳川家の財政を圧迫するほどの大規模なものだったのです。

東照権現像(霊夢像)

祖父の家康を慕っていた家光は、あまりにその思いが強すぎたのか、たびたび夢で枕元に家康が立つ姿を目にしたと言い、その姿を絵師に描かせていました。

日光の世界遺産、輪王寺にはこの絵(霊夢像)が八幅保管されています。

実は家光が夢で家康を見た時期には一定の傾向があり、霊夢像の多くは12月に描かれています。12月と言えば1年を締めくくる最後の月。その年を振り返り、反省する中で自然と慕っていた祖父・家康に思いを馳せることが多かったのでしょうか。

そんな中、二幅の絵については1643年の8月22日と9月29日に描かれており、12月ではない時期に描かれているという点で少し事情が異なるようです。
この理由として考えられるのは、祖父・家康も頼りにしており、日光東照宮を含め日光の霊場の再興に尽力した天台僧、天海の死です。ちょうどこの年の11月に天海は入滅されたのですが、その直前の8月と9月に、家光は天海を見舞っていることが分かっています。

家康亡きあと、天海に亡き祖父の姿を重ねていたと言われている家光。天海の最期が近いことを悟った家光は、身近な存在だった天海への思いが家康と重なり、夢に家康が出てきたのかもしれません。

世界遺産、輪王寺・大猷院を知る上で、家光と家康の関係はとても重要です。ここまでで家光と家康の関係が分かったところで、輪王寺・大猷院の見どころをご紹介しましょう。

【世界遺産】輪王寺・大猷院の見どころ

仁王門(重要文化財)

大猷院:仁王門

大猷院の入り口にあるのがこちらの仁王門です。両端にはたくましく厳しい形相の金剛力士像が置かれています。
この2体の金剛力士像、よく見ると一人は口を開け、一人は口を閉じています。その表情からそれぞれ「阿形」(あぎょう)と「吽形」(うんぎょう)と言われていますが、この言葉は「阿吽の呼吸」(あうんのこきゅう)の語源と言われています。

金剛力士像や狛犬など、お寺の入口の両端に置かれることが多いのですが、いずれも仏様や神様の守護神としての意味を持っています。両サイドということで2体セットになるわけですが、口を開けている・閉じているなど、微妙にその表情が異なっていることがほとんどです。
まさに「阿吽の呼吸」で、2体が同じように守っているよりも、息を合わせて守っていると考えた方がより守りが堅固なように感じるのは思い過ごしでしょうか。

二天門(重要文化財)

大猷院:二天門

こちらは大猷院の二天門。日光山内では最大の門となり、迫力がありますね。

この門は入口正面と裏面にそれぞれ2体、計4体の像が置かれていますが、正面に置かれているのが増長天と持国天です。この2体の神様がいらっしゃることから、「二天」門というわけです。

裏面には風神と雷神が置かれていますが、この2体はもともと陽明門の守護神として東照宮に置かれていたものが大猷院に移されたため、このように門の裏手に置かれている形となっています。
東照宮から大猷院に移されたきっかけとなったのが、明治維新の頃に日本全国に吹き荒れた神仏分離令。

もともと日光山も他の地と同じように、日本古来から人々の信仰が根付いていた神仏習合の聖地であり、お寺と神社が一体となって初めて意味を聖地だったわけですが、それが神仏分離令の影響を受けて「二社一寺」と呼ばれるようになりました。

石の灯篭

二天門からさらに夜叉門へと続く階段からは、たくさんの石の灯篭が置かれた一画を観ることができます。この灯篭は各大名から奉納されたもので、10万石未満の大名は夜叉門から先への立ち入りは認められなかったと言われています。
このことから、この風景はまるで「天上界から下界(人の住む世界)を見おろしたよう」、と例えられているのです。

家光の霊廟に続く道、このことを知っていると少し厳かな気持ちになってきますね。

夜叉門(重要文化財)

大猷院:夜叉門

さらに急な階段を上がった場所にあるのが夜叉門です。その名の通り、四人の夜叉が祀られていることからこの名前が付けられています。

四人の夜叉の名前はそれぞれ、「阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、犍陀羅(けんだら)」といいますが、あまり聞いたことがないかもしれません。「夜叉」と聞くと何か怖いもののようなイメージがありますが、こちらも仏さまを守護する神様であり、法華経で仏教を守護する存在として出てくることが由来となっています。

また、こちらの夜叉門には牡丹(ぼたん)の花が彫刻されているので、「牡丹門」とも呼ばれています。

日本で唯一の烏摩勒伽(うまろきゃ)の独立像

烏摩勒伽(うまろきゃ)

特にご注目頂きたいのが、四体のうちの青い像、烏摩勒伽(うまろきゃ)の像です。烏摩勒伽(うまろきゃ)の独立像としては、ここ大猷院の夜叉門に存在するのが日本唯一のものとなっています。
また、烏摩勒伽(うまろきゃ)をよく観ると左手に何かを握っていることがお分かり頂けるかと思いますが、こちらは破魔矢で、烏摩勒伽(うまろきゃ)が破魔矢の発祥とされています。

唐門(重要文化財)

大猷院:唐門

大猷院の拝殿・本殿への入口となるのがこちらの唐門です。東照宮と同じように、唐門はそれまでの門とは異なり、両サイドに塀が伸びており奥の拝殿・本殿を囲むように作られています。

それまでの夜叉門や二天門など、カラフルな色合いが印象的でしたが、ここからは金・白・黒・赤の少し荘厳で落ち着いた印象に変わっていきます。

唐門で特に目を引くのが、入り口上に飾られた龍の彫刻。龍は家光の干支を表したものです。東照宮でも同様に、唐門から拝殿へと続く門には家光、父・秀忠、そして祖父・家康の干支である龍、ウサギ、寅の彫刻が彫られています。

百間態の群

拝殿・本殿を取り囲むように作られている両側の袖塀にも注目ポイントが1つあります。それは数多く彫られた鳩の彫刻。

これでもかというばかりに鳩が羽目に彫られているのですが、その姿や表情はよく観ると1体ずつ異なっており、このことから「百間百態の群鳩」と呼ばれています。

ではなぜこれほどまでに「鳩」が強調されているのでしょうか。

はっきりした理由は定かではありませんが、鳩は「祖父母が孫を育てる」との言い伝えがあると言います。これはまさに家光と家康の関係と同じですよね。
祖父・家康を心から慕っていた家光は、家康が自分を育ててくれた、という思いを抱いていたのかもしれません。

拝殿・相の間・本殿(国宝)

大猷院:拝殿・相の間・本殿

唐門をくぐった先には拝殿・相の間・本殿がありますが、残念ながら本殿に入ることはできず、建物の横にある参拝路から眺める他ありません。

大猷院の本殿と拝殿は、相の間という中間のスペースで繋がっており、このような建築様式を権現造りと呼びます。これは東照宮も同じです。

また、写真をご覧頂くと良く分かりますが、金色がとても目立ちますよね。さすがに三代将軍・家光の霊廟というだけあり、多くの金彩が使われているので、別名「金閣殿(きんかくでん)」とも呼ばれています。

内部には、狩野探幽(かのうたんゆう)の描いた唐獅子、天井には140枚の龍の絵、そして家光が着用した鎧が飾られています。

皇嘉門(重要文化財)

大猷院:皇嘉門

本殿の隣にひっそりと建っているのがこちらの皇嘉門です。この先が家光の墓所となるのですが、残念ながらこの扉は常時閉じています。

この門の形はこれまでご紹介した門とは少し雰囲気が異なりますよね。このような形式を竜宮造りと呼んでいます。

【世界遺産】輪王寺・大猷院と東照宮の関係

さて、一通り世界遺産・輪王寺の大猷院をご紹介してきましたが、最後に大猷院と東照宮の関係についてもいくつかご紹介しましょう。

彫刻と色合い

東照宮を参拝したあとに大猷院を観ると、正直なところ東照宮のような手の込んだ造りや装飾とまでは及ばず、比較をすると大猷院は地味な感じがしませんか?

もちろん人による感じ方や好みの違いはあるものの、これはもともと家光の希望でもあったのです。

祖父・家康を心から尊敬し、慕っていた家光は先ほどご紹介した通り、「寛永の大造替」により東照宮を見違えるほど立派なものにしました。そんな家光が、自分の霊廟を祖父・家康よりも壮大で立派なものに、と思うはずがありません。

「東照宮を超えてはならぬ。」

家光は自分が亡き後に建つ霊廟について、このような注文を付けたと言います。
このため、彫刻の数も装飾も大猷院は東照宮に比べると抑えられ、色合いも落ち着いたトーンになっています。

東照宮はカラフルな極彩色に、唐門から本殿までは金と白、そして黒を基調としたとても荘厳で神々しい印象を与えてくれます。一方の大猷院は、東照宮に比べると使われている色もそれほど派手ではありません。先ほどご紹介した唐門から拝殿・相の間・本殿へは、東照宮と同じように金と黒をベースとしながらも、赤色が多用されていることで少し落ち着き、また和らいだ雰囲気を与えています。

この色の対比から来る建物全体の印象にもぜひ注目してみてください。

位置関係

皆さんは大猷院の本殿がどちらを向いているかご存じでしょうか。

方角としては北東になるのですが、実は寺院において北東という方角は鬼門に当たり、本殿をこの鬼門に向けて建てるということはまずありません。

それではなぜ大猷院の本殿は北東を向いているのでしょうか。

それは、その方向に東照宮があるからです。
そうです、家光は死してもなお、崇拝する祖父・家康のおそばに、という憧れを抱いていたのでしょう。本殿に鎮座する家光座像も北東を向いています。

寺院建築において本殿は通常、南向きに建てられますが、大猷院はこの慣習を全く無視していたのかというと、実はそうでは無いのです。

本殿奥壁の裏にもう1つ部屋が設けられており、そこに掲げられた「釈迦三尊」の掛け軸は北東とは真逆の南西を向いています。

こうすることで、家光のご遺志を実現する一方で寺院建築の慣習も守ったということです。よく考えられていますよね。

お寺か、神社か

この記事ではずっと大猷院の前に世界遺産・輪王寺、という言葉を付けているように、大猷院はあくまでも輪王寺を構成している建物になります。ということはお寺、ですよね。

一方で東照宮は「日光の二社一寺」に表れている通り神社、ということになります。

ここで少し疑問が出てきます。

大猷院はお寺で東照宮は神社ですが、大猷院には神社にある拝殿と本殿があり、神社のような権現造りとなっていますよね。そうなると大猷院も神社なのでは?と思えてきます。大猷院がお寺であることの根拠はどこから来るのでしょうか。

東照宮が神社であるのは、家光を東照大権現という神様として祀っているからです。一方の「大猷院」という名前、こちらも家光に与えられた名前ではあるのですが、これは家光が没した後に朝廷(後光明天皇)より、下賜された「法号(死後の名前)」としての位置づけです。

ちなみに意味としては「大きい道を創り出した人」ということで、家光がその後の江戸幕府の盤石な体制を築いた功績を示しているものと考えられています。

このように、大猷院はあくまでもお寺に造られた大きな「墓所」ということになります。

 

いかがでしたでしょうか。

もちろんその美しくて荘厳な外観だけでも観る価値は十分にありますが、今回ご紹介したように祖父・家康や東照宮との対比で見てみるとより世界遺産、輪王寺の大猷院は楽しむことができるのではないでしょうか。
ぜひ日光を訪れた際には大猷院にも足を運んでみてください!

(参考:「聖地日光」下野新聞社編集局 下野新聞社、「古寺巡礼 東国2」山本健吉 淡交社、「日光山 輪王寺 宝ものがたり」日光輪王寺 東京美術)

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